困った奴等
◆ジルはそれほど困っていなかった。
ジルは擦り切れた服に身を包んで、一人街道を歩いていた。
その肩から首にかけて一匹の蛇猫が纏わり付いていた。
「あー、最後に飯食ったのいつだっけ?」
ふと思い付いた様にジルが呟いた。
「…七百年位前じゃないかな?」
蛇猫の角から声が発せられた。
ジルは灰色の空を見上げてそろそろ何か食いたいなあと暢気に呟いた。
◆遺跡探索班骨拾いの五人は、女神跡と呼ばれる遺跡を探索しながら、それなりに困っていた。
「ここどこだろうねぇ」
リーダーであるカヤは余り困った様子を見せずにそう言った。
植物の根で形成された暗い穴の中を、灯光管の発する明かりが弱々しく照らしていた。
「遺跡の中ですね」
緑色の中折れ帽の位置を修正しながら、サックは軽薄な声でそう言った。
「…」
無表情な少女ジル=カカのそんな当たり前の事は言わなくても分かると言う発言はサックにしか聞き取れず、サックはその発言を聞かなかった事にした。
カヤの忠実な下僕であるクダは何も言わずにカヤの三歩後ろを歩いていた。
ふらふらと最後尾を歩いていたツインテールが、ルーと呼ばれる女が何かに誘い込まれる様に横穴へと消えて行った事には、誰も気が付いていなかった。
◆広域傭兵管理組合東ナユ地域統括支部長ルドラドルラは困っていた。
何せ一月にも満たない間に遺跡探索班三チームと特級傭兵一人と上級傭兵一人が遺跡に呑まれたのだ。
最初に呑まれた穿孔はまだいい。あの程度のチームはどこにでもいるからだ。
次に呑まれた針蛇は少し惜しい。とは言え所詮遺跡管理協会所属の人材なので広域傭兵管理組合に害は無い。
面倒事製造機こと骨拾いはどうでもいい。
しかし、短期間に三チームも呑まれたとあっては、事態を放置する事は出来ない。
女神跡は主要な街道からそう遠くは無い位置にあり、その地下部分は街道の真下まで広がっている可能性が高いのだ。
元々その地下部分の範囲を測定するのが穿孔に課せられた任務だった。
調査が未完と言うのは安全保障上容認出来ない。
だからと言って只で働くのは愚策だと、ルドラドルラはそう考えた。
そしてもう後には引けないだろう遺跡管理協会から資金を出させる事にした。
遺跡管理協会を突いて有利な条件で契約を取り付けたまでは良かったのだ。
満を持して送り込んだグスラとバルサが未だに帰って来ないのは完全な誤算であった。
ルドラドルラの予想では一週間も掛からないだろうと踏んでいたのだから。
「ああ、困った」
遺跡の調査と呑まれた人員の救助。
この条件に適う人材として、グスラとバルサを越える者は、何度考えても思い浮かばなかった。
◆暗闇の中で明かりを灯さずとも、グスラとバルサは全く困っていなかった。
「ふむ、また糸が切られましたね」
黒い外套に身を包んだ長身痩躯のグスラが、風も無い地下で風に吹かれた様に揺れた。
八つの目がバラバラに辺りを伺いながら、その内の三つが細められた。
「面倒だから壊さねぇか?壁ぶち抜けば風通し良くなるだろ?」
ぼろぼろのマントと自身の身長と同じくらいの長さの大剣を担いだ少年が偉そうな態度でごつごつとした壁にもたれ掛っていた。
「一応調査も依頼の内ですからね?」
グスラは彷徨様に歩き始め、バルサはその後を退屈そうに着いて行った。
◆遺跡探索班穿孔のメンバーは困る事が出来無くなっていた。
何故なら全員生きてはいないのだから。
◆遺跡探索班針蛇の生き残りは本気で困っていた。
もうすぐ困る事も出来なくなるのだから、困っていた。
それは恐怖とも言えた。
◆ルーは困るのだろうか?
通称ルー、本名はルーセンドドルスボアキランドルランドルズーズルファンムムムルグヤヤンコヒ。
ぎっしり詰まった胸とスカスカの頭を飾るツインテールが愛らしい人物である。
本名は余りに長いので、本人を含む骨拾いの面々からはルーと呼ばれている。
些か省略し過ぎなのではないかとはジル=カカの弁であるが、サックがそれを黙殺した為ルーを含む誰もがそれに異を唱えてはいない。
ジル=カカの声を聞く事が出来たとしても、ルーがルーと呼ばれる事は変わらなかっただろう。
ルー自身本名を暗記していないのだから、その略称は都合が良いのだ。
仲間から離脱して地下を彷徨うルーの右手には金属製の筒が握られていた。
それは市販されている灯光管では無く、ルー手製の灯光管である。
じじじじと羽虫がのたうつ様な音を垂れ流しながら青白い光を放っていた。
左手には片刃のナイフが逆手で握られている。
印象の稀薄な眼光を放つ双眸は、遥か先を見据える様であり同時に何も見ていない様でもあった。
実際の所ルーは意識して何かを見てはいなかったし、向かう先に感じるモノを意識している訳でも無かった。
ルーの感覚は何かが女神跡に巣食っている事をぼんやりと捉えているだけであり、そこに論理的な思考は無い。
ふらふらと歩いているルーの足元はごつごつとした植物の根で覆われている。
それは足元に限った事では無く、女神跡の地下空間は全方位そんな状態なのだ。
その為どこを歩いていてもどこを歩いているのか判然とせず、骨拾いは出口を見失った。
しかし、ルーは出口を見失った事に直感的な疑問を抱いていた。
その疑問もまた論理的な思考としては纏まらず、ただ何かが変だと言う事しか明文化出来ないのだが、実際の所骨拾いの中ではルーが一番初めにその事に気が付いたのだ。
しかし気が付いたことに気が付かないルーはそれを仲間に伝える事は出来ず、もやもやとした気持ちを抱えながら歩いている内に、女神跡に巣食う何かに無意識下で気が付いて、発作的に道を逸れたのだ。
そうやって仲間からはぐれてから距離にして数キロ程歩いた所で、ルーは立ち止まる。
立ち止まったルーは辺りを見回して、見回した所で見た目ではどこも差が無いのだが取り敢えず見回して。
「…ここどこだろう?」
カヤもクダもサックもジル=カカも居ない事に気が付いた。
今更である。おまけに発言と思考が微妙に噛み合っていない。
「道に迷ったかな」
この発言もまた今更な発言なのだが、正しい意味で言い換えるのなら皆が私とはぐれてしまったなと言う意味である。
やはり発言と思考が噛み合っていない。
「うん、探そう」
何に納得したのか力強く頷いてそう言ったルーは先程までと変わらない歩調で再び歩き始めた。
どうやって探すのか具体的な手法は思考の片隅にも存在しないし、そう思った経緯は思考の奥深くにも存在しない。
そもそも何を探すのかを本人が厳密に設定してはいない。
ルーは唐突にナイフを振るった。
刃が壁を構成する根を数本まとめて切断し、青々しい香りが微かに漂った。
その行為に意味は無い。
樹の枝を拾った子供が歩きながら適当な物にぶつけて行く様な、そんな意味の無い行為だったが、歩きながら次々に根を切断して行くと、やがて一つの変化が表れ始めた。
最初ルーはそれが気のせいだと思った。
確信したのはそれがはっきりと知覚出来る様になってからだ。
地下道全体が微かに顫動していた。
なんだろうと呟きながらも、ルーには不安も興味も無い。
が、それは唐突に始まった。
ルーは反射的に屈むと前方へ砲弾の様に飛び出した。
転びそうな前傾姿勢で足場の悪さを物ともせずに走っていた。
鉄板を仕込んだ靴裏で床面の根を砕きながら踏み締めて、驚異的な速度でルーは走っていた。
最初にルーが居た場所には四方から発射された弾丸が降り注いでいた。
それは固い殻に覆われた植物の種だったが、ルーがそれを確認する事は無い。
疾駆するルーの速度は、踏み締められて砕かれる根ですらその位置を追い切れない程であり、その本能に基づいた走りは既に意味を見失っている。
地下道を構成する根はルーの排除を諦める。
だが、ルーは止まらない。
ただ走りながら一つの事を思うのだ。いや、それは何も思っていないのと同義なのかもしれないが。
ルーの中で明文化されていない稀薄で微弱な思考を明文化するのであれば、それはきっとこうなるのであろう。
何で走っているのだろうか?
きっとその思考を把握した者が存在すればこう言ったのだろう。
知った事か、と。
かくしてルーは早々にこの地下道の脅威から逃れる事に成功していた。
本人の自覚はさておき、ルーの行動は生存すると言う点に限って全く間違っていないばかりか最短で最善の一手を選択していた。
ルーが立ち止まるのはそれからかなり先の事である。