Ⅳ
『おはよう、新夜君』
朝になると十歌は清々しい声で挨拶をよこした。
寝不足のせいで判然としない頭で昨日の罪悪感を返せと、ただ思った。
「平気なのか?」
なるべく心配を悟られぬよう平然とそう訊いた。
『ん? 平気だけど。……あ、それにしても酷いよ、私が苦手って分かってて、昨日はホラー映画見たんでしょ』
「そんな気分だったんだよ」
時計を見た、午前八時。
『嘘つき。意地悪。でも、もういいもんね』
「いいてっ?」
今日も講義は二コマ目からだ。時間的にはまだまだ余裕がある
『昨日、私いなくなっちゃったでしょ? 気付いた?』
「ああ、いなくなったと安心したのに」
『……もう。たぶんあれ、恐怖で気絶しちゃったんだけど。そのおかげで意識を引っ込めることができるようになったの』
「つまり?」
『体との感覚を切り離すことができるようになったの。引っ込んでる間は見えないし、聴こえないし、感じない』
「へえ、ちょっとやってみて」
『うん』
昨夜と同じ奇妙な感覚。頭から何かがすっといなくなるのが自分でも分かった。これが引っ込んでいる状態なのだろう。
静かになったところで、
「さあ、二度寝、二度寝」
再びベッドに横になった。寝過ごさないように目覚ましもセットした。
目を閉じるとすぐにまどろみ、すぐに寝つけそうだった。
『あれ?』
しかし、その惰眠は頭に響く声によって遮られた。
「……」
『ねえ、真っ暗だよ? 何やってるの』
二度寝だよ、頼むから静かにしてくれ。寝ぼけたままそう呟いたつもりだったが、どうやら十歌には届いていないようだ。
『せっかく一回起きたんだから、そのまま起きていようよぅ』
「うるさいな……、昨日はあんま寝てないんだよ……」
そのあとも十歌は眠りを妨げようと話しかけてきたが、眠気が勝りそのまま眠りに落ちた。だけどこのとき、いつもと違う妙な感覚があった。
目が覚めた。しかし、この時の目覚めはいつものそれとは違っていた。
まず、初めに目に入り込んできたのはいつもの見慣れた天井ではなかった。見慣れた景色には違いないが目に移るのは一階のリビングだった。そして右手にはコーヒーの入ったマグカップが握られている。
目が覚めた瞬間にその状況だったものだからマグカップを落としそうになり、中のコーヒーが少し零れてズボンにかかった。
「熱っ!」
今の服装にしてもそうだ。Tシャツ、短パンでベッドに入っていたはずが、今の自分は外着の服を身につけている。
どういうことだ?
取りあえず落ち着こう。そう思いいつの間にか手にあった珈琲を一杯すすった。
着替えた覚えはない。間違いなくベッドに寝ていた。夢遊病? いやいや。
「十歌!」
思わず叫んだ。家の中に自分の声が響いた。幸い母親はもう出かけていたようだ。
「いるんだろ? わかってるんだぞ」
十歌の存在がいるかいないか、いや、起きているか寝ているかといった方がいいかもしれない――それが今やわかるようになっていた。
『はい……』
先生に怒られた小学生の表に萎れた声が頭に響いた。
「お前か?」
何が、などと細かいことは訊かなかった。
『なんの、こと?』
「お前だな?」
『だから、な、なんのこと?』
力ず良く、壊す勢いで机をたたいた。
『ひっ……、そんな怒らないでよ』
「そりゃあ、怒るさ」
勝手に中に入り込んできて、今度は勝手に体まで動かすときた。
『悪いとは思ったよ、でも……新夜君が眠った後、急になんか、ぽっかり空いた場所があってそこに引き込まれるように入っていくと感覚が全て制御できるようになって……、久々だったからつい舞いあがっちゃって』
全くどうなってんだ、この体は。
大きくため息をついた。
『ごめんなさい。悪いとは思ったけど、だけど……。ごめんなさい』
「はあ……、もういいよ」
本当に反省したような声についそう言ってしまった。「でも、もう勝手にするなよ」
『うん、ごめんなさい』
時計に目を移すとそろそろ家を出ないと危ない時間になっていた。部屋に戻り、鞄を手にするとすぐに家を出た。
目を覚ますと既に準備が整っている。ちょっと楽だな、なんて不謹慎にも思ってしまった。
きつく叱ったせいもあってか、学校にいる間、十歌は静かにしていた。
期末テストまで一月を切り、講義中に居眠りする学生は少なくなっていた。そろそろテストのことも考えなくてはならない、しかし講義の内容などまったく頭に入ってこない。しかたないだろう? こんな状況なんだから。
どうしたものか。
家で飼えないと分かっていながら捨て猫を拾った子供はこんな気持ちなんだろうか、とぼんやり思ううちに午前中の講義が終わった。
「よし、食堂行こうぜ」
「え? ああ……、いや、あんま食欲ないからいいわ」
「そうか? じゃあな」
友人の誘いを断ってのろのろと教室を出た。
食欲がないのは本当だった。それでも何か腹にいれなければと購買で菓子パンを一つだけ買った。
人気のない校内のベンチに座りパンを頬張った。
「今日は静かだな」
『うん』
数時間ぶりに聴いた声はそれだけで、後には何も続かなかった。
……気まずい。なんで一人でいるのに気まずさを感じなくてはいけなんだ。
「あー、もう怒ってないから」
『ホント?』
「ほんとほんと」
『もう、しないから……』
声に覇気はなく、まだ落ち込んでいるのが容易にわかった。
「あー、たまになら別にいいから。勝手に困るけど」
『ホント?』
急にテンションが上がった声が響いた。
なんてことを言ってしまったんだと、言葉にした後で気づいた。
「なあ、今の状態のお前は味覚とかも分かるのか?」
甘くて胸やけしそうな菓子パンをかじりながらふと思った。
『ううん、視覚と聴覚だけかな』
「ふーん、じゃあ味覚とか嗅覚とかはないのか」
『そうだね、視覚とかに比べたら感覚として弱いからかもしれない。だから今朝、珈琲を飲んだ時は久々の味ってものに感動した』
たかがインスタントコーヒーで大げさだな。なんて思ったが、長い間味覚を感じなかったらどうだ? もしかしたら水道水すらうまいと思うかもな。
「食べる?」
まだ七割ほど残った菓子パンを指差して言った。
『いいの?』
「ああ、もう食べたくないし、捨てるのももったいないし」
そう言って目を閉じた。思ったより簡単に意識は離れ、そして十歌に席を譲った。
次に感じたのは景色。それは確かに自分の目で見ているはずなのに何処かが違う。テレビを見ているように何かが隔てられていた。聴こえる音も少し違って聞こえた。
「ありがとう」
自分の声もいつも聴いている自分の声とは違う。録音した声を聴いているような……、ああ、本当の声を聴いているのか。
自分は――十歌は菓子パンに勢いよくかぶりつき、一分もたたないうちに全てを胃に納めてしまった。
『食欲、なかったはずなんだけどな』
内から初めて話しかけた。声にならないのに言葉が届いたことがわかる。妙な気分だ、まったく。
「気分の問題だよ」
『そうかもな』
「ありがとう。おいしかった、返すね」
視界が消えた。
暗闇の中で席を入れ替わり、次に目を開けるといつもの自分だった。
それにしても、自分の声と会話をするのはなんだか気持ち悪い。