Ⅱ
講義中は静かだ。
ただ、皆が皆、まじめに講義に集中しているわけではない。寝ているものもいれば、携帯端末をいじくっているものもいる。というより七割がそうだった。それでも最低限のルールがある。音を立てない、他人に迷惑をかけないということだ。それさえ守っていれば何をしていようが講師はめったに口をはさまない。
しかし、静寂が支配するこの教室の中、騒がしいやつが一人、頭の中にいた。
『ねえ、これなんの授業? さっぱりわからない』
『この教室広いね。大学ってこんなところで授業するんだ』
『これって何処座ってもいいの?』
……うるさいなあ。
頭の中のコイツは言葉を覚えたての子供のように次々と話しかけてきた。
頭の中で話しかけることは、耳元で話しかけるほどに響く。だから声が響いている間はもちろん他の音は聴こえづらい。そして今のコイツはやたらテンションが高い声色をしていて、その時の感情に影響されるのか最初に聴いた声よりかなり音量がでかい。
授業が聴こえないので非常に迷惑だ。
『ねえ、数えてみたら十二人も寝てるけど先生は注意しないの?』
我慢しきれなくなり、そっと席を立った。
「どうした?」と友人。
「……トイレ」
「またか、下痢か?」
「いや……、まあそんなとこ」
体を低くして教室を横切り、そっと扉を開いて外に出た。そして再度トイレに駆け込む。
『どうしたの?』
「どうしたのじゃねえ! うるさいんだよ。授業が聞こえないだろ」
『大学ってとこは初めてだからつい。そんな怒んなくてもいいじゃない』
その声に悪びれた様子は全くなかった。
「そりゃあ怒るだろ。変なプログラム――お前のせいで朝から頭は痛い、体は重いわで最悪だよ。加えて得体のしれない幻聴が話しかけてきて……」
『幻聴じゃないって。十歌』
「わかった。それはわかった。だから、もう話しかけるな」
『えー……』
駄々をこねる子供のような声が響いた。
「……せめて授業中には話しかけるな」
『……ふう』
仕方ないなあ、とでも言いたげなため息が聴こえた。声だけじゃなくため息も忠実に聴こえたことに少し驚いた。
「どうしてこっちが譲歩されたみたいになってんだよ……」
やり切れない思いのままトイレを後にし、教室に戻った。
席に座るとどっと疲れが押し寄せてきた。
「早かったな……ってどうした? 顔青いぞ」
「ちょっと朝から体調が悪くてな」
「そうか、変なウィルスも流行ってるってニュースでやってたから気をつけろよ」
「ああ……」
忠告はありがたいが、もう遅かった。もしかしたら、ウィルスより病原菌より性質の悪いものに感染したかもしれない。
言い聞かせた通り、アイツは講義中に話しかけてくることはなかった。
講義が終わるとぞろぞろと学生たちが扉から出ていく。前と後ろにある扉の周りは大混雑だ。混雑が少し引いたところで腰をあげて扉に向かった。
今日の講義はこれで終わりだ。大人しく家に帰ってレポートでも仕上げることにしよう。
駐輪所から自転車を取り出し、のろのろと漕ぎ始めた。
もうすぐ家に着くというところ気付いた。そういえばアイツが話しかけてこないなと。
やはり一時的な幻聴だったか……。
そう思って安心しかけたが、胸をなでおろすことは叶わなかった。
『だから幻聴じゃないって』
「あー……いたのか」
頭に響くその声を聴いて顔が曇った。そして今のやり取りを思い返しさらに顔を曇らせた。
「おい、もしかして心が読めるのかよ?」
恐る恐る、そう問いかけた。
『ううん。ただ話しかけるように心で思ったことは分かるよ。だから、あまり意識的に変なことは考えない方がいいよ』
「なんだよそれ」
思考が筒抜けってことか?
『別にそういうわけじゃないよ』
「分かってんじゃねえか!」
『だから、意識的に心でつぶやくようにしたら分かるってこと。普通に何かを考える分には分からないよ。これは私も同じ条件なんだから』
「加減がわかんねえよ……」
それに何が同じ条件だ。そっちはむしろ意識しかないじゃないか。アイツに伝わらない程度に心中でそう思った。
『あ、危ない!』
頭に警報に似た声が響いた。
はっとなって意識を前に向けるとすぐ面前に歩いている人が迫っていた。咄嗟になってハンドルを操作しなんとか衝突は避けられた。
『もう、ちゃんと前見ててよ』
「ああ悪い……って、お前見えるのか?」
『何いってるの今さら。大学でも周りの様子とか話してたでしょ』
「そういえば……」
教室が広いとか何とか言っていたような……、いや、それにしても、
「俺が見えていなかったのにどうしてお前は見えたんだよ?」
『見えていなかったんじゃなくて、意識が向いていなかっただけ』
つまり視界を共有していてもその視界の中で意識を何処に向けているかは互いに違う。
「そういうことか?」
『え? 何?』
どうやら今心でおもったことは伝わっていないらしい。なんとなく加減が分かった。
「視界は同じでも意識はそれぞれってことか?」
『そういうこと、たぶん。ただ、私の視界は受動的で勝手にみたい方向見れないし、新夜君が瞼を閉じれば私の視界も真っ暗になるの。だから気をつけてね』
「はい?」
気を付けろ? 何を?
『私は視界の中で意識を新夜君とは別に向けることはできるけど、新夜君が目を開けている間は視界をゼロにすることができないの。つまり私には瞼がないの』
「……だから?」
『ホラーとか苦手だからそんな映画とかは見ないでね』
「……」
なんて勝手な奴だ。
勝手に頭の中に入ってきただけでもずうずうしいくせに、勝手に視界を共有して、そして、見るものまで制限するなんてなんなんだコイツは。何を見ようが何を聴こうがどうこう文句を言われる筋合いなどない。
家に着き、いらいらしながら自室への階段を上がった。
『なんか怒ってる?』
「おいおい、今度は感情まで読めるっていうのか?」
『ううん、なんとなく……』
少し怒気を込めた声でいうと、何処かしょげたような声でコイツはいった。
そんな声を出されるとなぜかこっちが悪い様な気がしてくる。いや、こっちは悪くない。正当な怒りだ。
パソコンを立ち上げた。
もう何も起こるなよ。そう思いながら恐る恐るブレインインターフェースを装着した。
例のメモリーカードはソケットに入れっぱなしになっていた。変わりなく『PVB』というフォルダがあり、その中身は訳のわからないファイルで満たされていた。
「あれ……」
頭痛に始まり、数々の元凶たるあのプログラム――『10songs.exe』が見つからなかった。念のため検索をかけてみてもやはり見つからなかった。
「おい、あのプログラムは何処にいった?」
頭の中のアイツに問いかけた。
『此処にいるじゃない』
「……此処か?」
右手で銃の形を作り、それをこめかみのあたりに突きつけた。ディスプレイに反射して自分のその姿がはっきりと見えた。いつ自殺してもおかしくないぐらい酷い顔をしている。
『そうそう』
踊るようなその声にいらつき、人差し指で見えない引鉄をひいた。
『何やってるの?』
しかし弾丸は外れたようだ。頭の中のそいつはぴんぴんしている。
「はあ……」
大きな溜め息を一つついてから気持ちを入れ替え、ディスプレイに向き直った。
ブラウザを開き、「幻聴 治療」と検索した。
『ねえちょっと、何調べてるの?』
「ふうむ、統合失調症、分裂病か……」
『厳格じゃないってば』
無視して検索を続けた。どうもネットに挙げられている情報は今の自分の状況とは違うみたいだ。それじゃあ、
「脳……、うーん」
なんと検索して調べればいいのだろうか。『脳 侵入』とかか?
『変なこと調べないでよぉ……』
「何々……、フォーラーネグリア」
フォーラーネグリアという名のアメーバは神経線維を辿り、頭蓋骨を通り抜けて脳にまで達するらしい。吐き気、頭痛などを引き起こしやがて昏倒し死に至る……。
急いで近所の大きな病院を探した。
『止めてって!』
「黙れアメーバ」
『アメーバじゃない!』
一番近くの総合病院のホームページを開こうとしたところで急にブラウザが閉じられた。
「処理落ちか?」
再度ブラウザを立ち上げ、先ほどの履歴を読みこんだ。
『止めて!』
その声が響いたのと同時にまたもブラウザは閉じられた。
まさか……、
「お前が操作したのか?」
『……』
アイツは押し黙ったまま答えない。その無言はもはや肯定だった。
また、ブラウザを立ち上げ、病院のホームページを読み込むも、またしても消える。
パソコンの操作はブレインインターフェースを使い行っている。すなわち微弱な脳波によって操作しているわけである。頭の中にいるであろうアイツが勝手に脳波を発し、ブレインインターフェースを通してパソコンを操作しているのだと仮定した。
「それなら」
ブレインインターフェースを外せばいい。これで頭の中のアイツとパソコンは断絶される。
次に、面倒くさいなあと思いながらも机の引き出しの中からマウスとキーボードを取り出した。ブレインインターフェースを購入する以前に使っていたものだ。
それらを使い操作すると案の定、何の問題もなくホームページは開かれた。
『ちょっと、卑怯だよ』
「何が卑怯だ。勝手に人の頭に居座って」
『それは……』
「精神科、いや、脳外科かな。いや、しかしどう考えてもアメーバではないよなあ。それでも一回ちゃんと診てもらった方がいいな、うん」
『ねえ、止めて! 病院行っても何にもならないよ』
うるさいなあ。
無視していると、
『止めて! 止めて! 止めて!』
その声は徐々にボリュームを上げていく。
『止めて! ねえ、言うこときくから。止めてったら!』
やがて頭痛を覚えるぐらいにその声は大きくなった。そして耐えきれなくなり、
「わかった。分かったから黙れ!」
そう言ってブラウザを閉じた。
そこでようやく声は止み、静寂が訪れた。
元々、本気で病院に行こうなどとは考えていなかった。病院に行ったところで向こうの先生を困らせるだけだろう。メモリーカードから変なものが頭に入ってきました、なんて言っても、それこそおかしくなったやつと見なされて精神科を薦められるだけだろう。
「なあ、何なんだよお前」
叫び疲れたのか、大人しくなったアイツに問いかけた。
『私は、十歌』
アイツ――十歌はおずおずとそう言った。
「わかったよ。十歌」
取りあえず、現状を、十歌を受け入れることにした。




