手鏡
母の形見だった。
それはさほど大切にされていたわけではない。いつも鏡台の上に置かれていた。
一週間に一、二度、妻が磨く。だがそれも実用的な必要性にかられてのことだ。
私が死にたいと思い始めて二百五十八日目の朝であった。
何の気なしにその母の形見の手鏡をとりあげた。
のぞきこんだ。
砂漠が広がっていた。
命の影はどこにもなかった。
私は深い溜息をついて、手鏡を鏡台の上に伏せた。
耳の奥で地蟲がチリチリと鳴いた。
何かがおかしい。
私は回りを見回した。
いつもの寝室に変わりない。
ダブルベッドの脇に鏡台が置いてある。
首をひねった。
三面鏡になっている鏡台の鏡には誰もいない部屋がうつっていた。
私はさらに近づいてのぞきこんだ。
やはり私の姿はうつらない。
驚きはしなかった。
それならそれでかまわないと思った。
もう一度手鏡を取り上げた。
覗き込んでみた。
無精髭を生やした中年男がこちらをみつめていた。
私は気味の悪さに手鏡を放り投げた。
どこか遠くでガラスの割れる音がした。
ゆっくりと目を開けた。
蜘蛛の巣のようにひび割れた三面鏡に無数の手鏡がうつっていた。
部屋中を探したが私が放り投げた手鏡はどこにもなかった。