婚約破棄された黒魔術師、元婚約者と勇者の秘密を暴いて国ごとざまぁする
勇者の栄光も、聖女の奇跡も、全部俺の屍の上に立っていた。
王都から届いた純白の招待状は、俺の指にこびりついた呪煤をあざ笑うみたいに眩しかった。
封を切る前から、誰の婚礼かはわかっていた。
金の箔押し。
王家の紋章。
そして差出人の欄に並ぶ名前。
勇者リオン・アークライト。
聖女エレナ・フィオール。
三か月前まで、エレナの隣に記されるはずだったのは俺の名だった。
黒魔術師ノクト・ヴェルナー。
今ではもう、王都でその名を口にする者も少ないだろう。
禁呪研究と国家反逆の疑いで追放された、穢れた術師。
そういうことになっている。
招待状の中には、いかにもあの連中らしい一文が添えられていた。
『罪状再審の余地を与える。勇者と聖女の婚礼に列席し、これまでの非礼を悔い改めるならば、国は寛大な処置を検討する』
寛大。
思わず笑ってしまった。
三か月前、王都の大広間で俺から婚約指輪を叩き返し、
「あなたといると、私まで穢れるの」
と、民衆の前で言い放った女と。
その肩を抱き、
「陰にこもるだけの黒魔術師に、エレナはふさわしくない」
と、英雄然と微笑んだ男が。
今さら俺に寛大さを語るらしい。
俺は招待状を机に置き、その横に積んでいた書類の束へ視線を落とした。
受領印つきの上申書。
四十七通。
王宮魔術局宛。
神殿庁宛。
宰相府宛。
王太子補佐官宛。
宮廷記録院宛。
どれも、俺が何度も何度も提出したものだ。
『王都大結界の維持構造は“聖光”ではなく“呪詛転換”に依存している』
『勇者の聖剣は反動を黒魔術で肩代わりしなければ安定しない』
『神殿の大規模浄化は、事前に黒魔術師が穢れを引き受けていることを公表すべき』
『現行運用は限界を超えており、いずれ王都中枢から破綻する』
そのたびに返ってきたのは、同じだった。
黙殺。
棚上げ。
封印。
あるいは、こうだ。
『黒魔術師が不安を煽っている』
『国是に反する』
『民衆に余計なことを知らせるな』
俺は一度も黙って従ったわけじゃない。
何度も言った。
何度も訴えた。
何度も証拠を添えた。
それでも、握りつぶされた。
都合が悪かったからだ。
“聖なる王国”が、実のところ黒魔術師の屍を積み上げて成り立っているなんて、王家にも神殿にも認められるはずがなかった。
だから俺は黙らされた。
使うだけ使われて、最後は捨てられた。
だったら今度は、こっちが返す番だ。
婚礼には行く。
祝福のためじゃない。
あいつらが一番高い場所に立った瞬間、そこからまとめて落とすために。
俺は生まれた時から、黒魔術師だった。
正確には、そういう血を引いていた。
呪いを取り込み、穢れを変換し、他人が背負うはずの反動を自分に移す。
世間では“死を扱う忌まわしい術”と呼ばれるが、実際には逆だ。
誰かが飲み込まなければ広がる毒を、自分の内側でせき止める術だ。
英雄が光るための、影の技術。
聖女が奇跡を見せるための、裏の始末。
王都の結界を保つための、見えない土台。
けれど、表で喝采を浴びることはない。
黒魔術師は昔から、役に立つ時だけ使われ、終われば嫌われる。
子どもの頃からずっとそうだった。
俺が育ったのは、王都外縁の病区画だ。
流行り病と呪毒で親を失った孤児が集められる、薄暗い施設だった。
エレナもそこにいた。
高熱にうなされ、咳と一緒に黒い血を吐いていた小さな女の子。
神官見習いですら匙を投げたその呪いを、俺は無我夢中で引き受けた。
胸の中に焼けた釘を打ち込まれたみたいな痛みを、今でも覚えている。
助かったあと、エレナは泣きながら俺の手を握って言った。
「ありがとう、ノクト」
「俺、怖くない?」
「全然」
「みんなは気味悪いって言う」
「だってノクトは、私を助けてくれたもん」
あの時の声を、長い間、信じていた。
神殿で治癒の才を見いだされたエレナは、王都の養成院へ。
俺は王宮魔術局の地下部門へ回された。
配属先の名前は立派だった。
王都結界保全部第二封呪課。
実際にやることは、もっと単純で、もっと陰惨だった。
街に溜まった穢れを夜のうちに回収する。
疫病の呪詛を封じる。
大規模浄化の前に、神官が耐えられない毒を抜く。
結界核に溜まる魔性の残滓を俺の肉へ移し、翌朝には平然とした顔で“聖なる守りは今日も健在です”と神殿が宣言する。
誰にも知られず。
誰にも褒められず。
ただ、必要だからやる。
それでも、エレナがいたから耐えられた。
数年ぶりに再会した彼女は、白い法衣を着る見習い治癒術師になっていた。
病区画で震えていた少女は、驚くほど綺麗になっていた。
「ノクト、すぐわかった」
そう言って笑う顔だけは、昔と同じに見えた。
俺たちは少しずつ距離を戻し、やがて婚約した。
金も地位もなかったが、いつか静かな町へ移って、小さな診療所と呪術工房を開こうと話し合った。
表では嫌われる仕事でも、必要としてくれる人のために生きられればいい。
本気でそう思っていた。
その頃の俺は、まだ甘かった。
勇者リオンが王都へ来たのは、一年前だ。
魔王軍の侵攻が本格化し、王国中が“本物の英雄”を求めていた時期だった。
光属性の適性、抜きん出た剣技、見栄えのいい容姿、よく通る声。
何もかもが、民衆の願う勇者像そのものだった。
リオンは最初から、俺のことをよく理解していた。
つまり、どういうふうに使えばいいかを。
「君がノクトか。噂は聞いてるよ」
初対面であいつは、気さくそうに手を差し出してきた。
「黒魔術師って、もっと陰気でじめじめしてると思ってた」
「期待を裏切って悪かったな」
「いや、便利そうで助かるよ。聖剣の調整は君が担当なんだろ?」
便利。
その言葉が、妙に引っかかったのを覚えている。
勇者の聖剣アルクレイスは、ただの聖遺物じゃない。
強すぎる光は、持ち手の神経も骨も焼く。
しかも魔族を斬るたび、穢れと反動が剣に蓄積する。
あれを英雄然と振るうためには、誰かがその裏側を処理しなければならない。
その役目が、俺だった。
剣に溜まった反動。
リオンの身体に返るはずの侵食。
戦場で発生する呪詛の余波。
全部、俺が引き受ける。
戦闘後、地下工房へ戻るたび、俺は何度も血を吐いた。
腕の内側には黒い亀裂みたいな痣が広がり、夜には指先の感覚がなくなることもあった。
それでも翌日になれば、表ではリオンが聖剣を高々と掲げ、民衆が歓声を上げる。
その隣に、エレナが立つようになった。
最初は“治癒担当の同席”だった。
次は“神殿からの公式支援”。
その次には“勇者を導く聖女候補”として、彼女はいつもリオンの横にいた。
白い法衣。
祝福の花。
眩しい舞台。
そして俺は、地下にいた。
最初は仕方ないと思っていた。
戦争中だ。配置も役割も変わる。
エレナだって忙しいのだろう、と。
けれど、少しずつ何かが変わっていった。
会う約束をしても、彼女は来なくなる。
届く手紙は短くなる。
俺の工房を訪れても、長居せず、どこか上の空だ。
ある夜、勇者塔の回廊で、俺は偶然見てしまった。
リオンの私室の扉が開き、エレナが中から出てきた。
深夜だった。
彼女は法衣の上に勇者隊の外套を羽織っていて、頬がほんのり赤かった。
俺と目が合った瞬間、彼女は一拍だけ止まり、それから眉をひそめた。
「……まだ起きてたの?」
「それはこっちの台詞だ」
「勇者様の治療をしていただけよ」
「真夜中に?」
「前線帰りだったの。怪我も疲労も溜まってたから」
その言い方が、ひどく刺さった。
勇者様。
いつの間にか、呼び方まで変わっていた。
彼女の胸元には、俺が贈った黒銀の婚約指輪がなかった。
代わりに、白金の細い鎖がかかっていて、その先に勇者の紋章を象った小さな護符が揺れていた。
「指輪は」
「ああ、これ?」
エレナはわざとらしく胸元へ指をやった。
「浄化儀式の時に邪魔なの。失くしたくないから外してるだけ」
「……そうか」
「疑ってるの?」
「そうじゃない」
「なら、そういう顔しないで」
その直後、室内からリオンの声がした。
「エレナ、まだか?」
「今行きます」
彼女はもう俺を見なかった。
すれ違いざま、勇者用の香油の匂いがした。
俺の知らない匂いだった。
嫌な予感は、その後も外れなかった。
リオンは俺の作った術式を当然のように使い、エレナは俺が組んだ浄化手順を“神殿式の改良案”として彼に説明していた。
俺が夜を潰して調整した聖剣安定化陣を、昼にはエレナが「勇者様に合わせて考えたんです」と微笑みながら差し出していたこともある。
最初は見間違いかと思った。
だが、工房から消えた設計写しが、そのまま勇者隊の机に置かれていた時、もう誤魔化せなくなった。
「エレナ、あれを渡したのか」
問い詰めると、彼女はあからさまに面倒くさそうな顔をした。
「別にいいじゃない。あなた一人で抱えてても意味ないでしょ」
「俺の未承認術式だ。危険性の説明も必要だった」
「でも役に立ったわ」
「そういう問題じゃない」
「じゃあ何?」
彼女はため息をついた。
「ノクト、あなた最近細かすぎるの。何でも自分がいないと駄目みたいに言うけど、そんなの周りから見たらただの嫉妬よ」
「嫉妬?」
「勇者様が中心になるのは当たり前でしょう。国を救うんだから」
国を救う。
その言葉に、笑いそうになった。
誰がその反動を飲んでいると思ってる。
誰が結界核の腐食を抑えて、神殿の浄化前に毒を抜いて、勇者の剣が折れないよう夜ごと血を吐いていると思ってる。
俺はその全部を、報告書にした。
証拠も添えた。
聖剣と俺のあいだを結ぶ負荷転換の魔力波形。
浄化前後の穢れの数値差。
王都結界核の実測値。
魔術局の上官は受領印を押した。
その翌日には、記録ごと消えていた。
神殿庁の高位神官は言った。
「民は奇跡を求めている。汚らしい裏側の話など不要だ」
宰相は笑った。
「君は自分を過大評価しすぎだ、ノクト。替えはいくらでもいる」
替えはいなかった。
そんなこと、あいつらも本当はわかっていた。
わかっているからこそ、認めなかった。
俺はあきらめず、また上申した。
証拠を増やして、別ルートでも出した。
宮廷記録院にも複写を残した。
全部、握りつぶされた。
四十七通目を提出した夜、俺は勇者塔の裏庭で、また聞いてしまった。
低い笑い声。
リオンとエレナだった。
木陰に立ち止まるつもりはなかった。
けれど、ちょうどエレナの声が聞こえた。
「ノクトはしつこいけど、大丈夫」
「ずいぶん言うな」
「だってあの人、何度握りつぶされてもまた書くんだもの。真面目で、馬鹿で……便利」
胸の奥が、すっと冷えた。
リオンが鼻で笑う。
「婚約者にそこまで言われるとはな」
「もうすぐ違うわ」
「切るのか?」
「ええ。魔王討伐が終わったら、正式に。黒魔術師の婚約者なんて、正直ずっと恥ずかしかったし」
「……」
「勇者様の隣にいる方が、みんなちゃんと見てくれるもの」
そのあと、衣擦れの音がした。
見なくてもわかった。
俺はそこから動けなかった。
足の感覚が消えたみたいだった。
しばらくして二人が別れ、エレナが通り過ぎていった。
彼女は俺に気づかなかった。
月明かりの下で、白い首筋に赤い痕がひとつだけ見えた。
昔、病で苦しんでいた彼女の背をさすった手が、ふと思い出された。
吐き気がした。
魔王討伐の最終戦は、王国史に残る“光の勝利”として語られている。
実際にあったことは、ずっとみっともない。
魔王城の深部は、聖属性と相性が最悪だった。
濃すぎる呪気が光を飽和させ、聖剣は抜くたびに持ち手を壊しかける。
神官の浄化はほとんど役に立たない。
だから事前に俺が通路の穢れを飲み、罠の呪詛を引き受け、リオンの反動を肩代わりし続けた。
最後の玉座の間で、魔王が放った“王呪核”は、本来なら勇者隊ごと消し飛ばす威力だった。
俺はそれを黒鎖で拘束し、自分の胸へ押し込んだ。
視界が真っ黒になり、骨の奥まで何かが食い込んでくる感覚だけがあった。
その隙に、リオンが聖剣を振り下ろした。
魔王は倒れた。
リオンは英雄になった。
エレナは泣きながらその腕にすがった。
床に倒れた俺には、誰も近づかなかった。
王都へ帰還した凱旋式の日、俺はまだ王呪核の侵食でまともに立てなかった。
それでも報告だけはしなければならないと、大広間へ出た。
そこで待っていたのが、断罪だった。
祭壇の上には王と宰相、神殿長、勇者リオン、そして白い衣装に身を包んだエレナ。
民衆も貴族も記録官も揃っていた。
宰相が読み上げた罪状は、今でも耳に焼きついている。
「黒魔術師ノクト・ヴェルナーは、禁呪研究により魔王の力を私物化しようとし、勇者一行を危険に晒した疑いがある」
「また、王都結界の機密を外部へ漏らそうとした反逆の証拠も確認された」
証拠として出されたのは、俺の工房から押収されたという禁呪触媒と、切り貼りされた報告書だった。
俺の筆跡に似せた偽文書まで添えられていた。
「冗談じゃない」
そう言った俺の声は、掠れていた。
「その報告は、全部正式に」
「見苦しい」
リオンが前へ出て、俺を見下ろした。
「敗れた腹いせに、国の士気を落とすつもりか」
「敗れた?」
「エレナのことだよ」
会場の空気が甘く粘ついた。
その場で、エレナが俺の前に歩み出た。
そして胸元から、俺が贈った婚約指輪を取り出した。
「返すね」
乾いた声だった。
「ずっと言えなかったけど……重かったの、これ」
「エレナ」
「あなたは私を助けてくれた。昔は感謝してた。今でもそこは否定しない」
一瞬だけ、希望を持ちかけた自分を今でも殴りたい。
次の言葉で、全部砕かれた。
「でも、あなたといると、私まで穢れるの」
「……」
「黒魔術師の婚約者ってだけで、神殿ではずっと陰で笑われてた。勇者様の隣に立って、やっと息ができた」
「それで、俺を売ったのか」
「売ったんじゃない。選んだだけ」
そう言って、彼女はリオンの腕に自然に手を回した。
その手つきの馴染み方で、どれくらい前からそうしていたのかがわかった。
「ああ、そうだ」
リオンがわざとらしく笑った。
「もう一つ報告があったな。エレナは今後、俺の婚約者として王家の後援を受けることになる」
ざわめきと拍手が起きた。
俺の足元に、エレナが落とした指輪だけが転がっていた。
その瞬間、何かが綺麗に死んだ。
怒りというより、諦めに近い冷たさだった。
ああ、もう守る必要はないのだと、そこでやっと理解した。
俺は王都を追放された。
追放後、最初の一週間はほとんど寝たきりだった。
王呪核の侵食で身体の内側が腐っているみたいに熱かった。
爪は黒ずみ、胸の奥では何かが脈打ち続けていた。
それでも生き延びられたのは、死ぬ前にやることがあったからだ。
俺には癖があった。
報告書は必ず複写を残す。
受領印の押された台帳番号も控える。
重要な会話は、魔力記録石に音を落とす。
地下部門の人間は、忘れられることに慣れている。
だからせめて、証拠だけは消されないようにしてきた。
追放先の辺境で、俺はそれを一つずつ洗い直した。
四十七通の上申書。
魔術局の受領記録。
神殿庁の封印指示。
宰相府の保留印。
そして、宮廷記録院の古い索引。
そこから辿った先で、俺は王国のもっと汚い根を見つけた。
王都大結界の基礎式は、建国時の“聖約”ではなかった。
原型は、初代王が黒魔術師集団に作らせた《大呪詛転換陣》だった。
外から来る厄災を、特定の術者群に流し込んで都市を守る仕組み。
つまり、都市を守るかわりに、誰かを壊し続ける装置だ。
しかも王家と神殿は、その“誰か”をずっと黒魔術師に限定してきた。
使い潰し、死ねば“穢れに堕ちたため処分”と記録を改竄し、地下納骨堂へ積んでいく。
俺の師匠も、その一人だった。
失踪したと聞かされていた老人の名前が、納骨記録に残っていた。
夜通し読み続けて、朝方、俺は初めて吐きながら笑った。
勇者の栄光も。
聖女の奇跡も。
王都の加護も。
全部、俺たちの屍の上に立っていた。
そしてその最終的な中継核に選ばれていたのが、今の俺だ。
王呪核を押し込まれた俺の身体は、もはや人間一人分の器じゃない。
王国は、俺を“禁呪に触れて堕ちた黒魔術師”として処分し、そのまま結界の生贄にするつもりだったのだろう。
事実、俺は上申書で何度もそれを訴えていた。
『現行式では術者一名への負荷集中が限界値を超える』
『このままでは結界中枢が一人の術者を食い潰す』
『分散式への切り替えと公的管理が必要』
全部、受領印つきで握りつぶされていた。
そこで、決めた。
婚礼の日に終わらせる。
ただ暴くだけじゃない。
返すべきものを、正しい場所へ返す。
俺がずっと受け止めていたものを。
俺たち黒魔術師が死ぬまで支えさせられたものを。
王家へ。
神殿へ。
勇者へ。
聖女へ。
“恩返し”をしてやる。
婚礼当日、王都は祝祭の色で満ちていた。
白い花。
金の旗。
鐘の音。
通りでは子どもたちが勇者の紋章入りの菓子を振り回し、大人たちは聖女の奇跡を称えていた。
滑稽だった。
この都市の足元には、黒魔術師の骨が何層にも埋まっている。
その上で、誰もが“聖なる国”を祝っている。
王城前の大聖堂へ着くと、衛兵がすぐに俺を見つけた。
黒い外套、呪煤の染み、追放者の顔。
忘れる方が難しい。
「止まれ」
「招待されている」
俺が見せた婚礼状に、衛兵は露骨に顔をしかめた。
それでも王家の紋章がある以上、完全には拒めない。
「あくまで末席だ。余計な真似をしたら、その場で」
「わかってる」
余計な真似なんてしない。
必要なことをするだけだ。
大聖堂の内部は、吐き気がするほど華やかだった。
高い天井。
色硝子から落ちる光。
王侯貴族、神官、騎士、宮廷魔術師、記録官、各国の使節まで揃っている。
祭壇の前にはリオンが立っていた。
純白に金を織り込んだ礼装。
腰には聖剣。
まるで絵画の中の英雄だった。
その隣に、エレナ。
白い婚礼衣装は、神殿の聖布で仕立てられた特別製らしかった。
首元には勇者の紋章を模した首飾り。
俺がかつて贈った黒銀の意匠を、より高価でより清廉に作り直したみたいな細工だった。
趣味まで奪っていくのか、と妙に感心した。
彼女は会場を見渡し、俺を見つけるとほんの一瞬だけ顔を強張らせた。
だが、すぐに戻る。
勝者の顔に。
もう全部終わったと思っている人間の顔に。
司祭が祝詞を唱え、国王が立ち上がる。
「勇者リオン、聖女エレナ。この二人の結びつきは、王国の未来そのものである――」
その時、俺は前へ出た。
「異議がある」
鐘の余韻すら切り裂くほど、よく通った声だった。
ざわめき。
衛兵が動く。
神官たちが顔をしかめる。
リオンがあからさまに眉をひそめた。
「……まだ懲りないのか」
「懲りる?」
俺は笑った。
「四十七回も訴えて、四十七回握りつぶされたんだ。今さら一回増えたところで変わらないだろ」
会場がざわつく。
数字は強い。
聞いた者の耳に残る。
国王が冷えた声で言った。
「追放者に発言を許した覚えはない」
「なら、これは記録院への正式異議申立てとして処理してもらおう」
俺は外套の内から、束ねた書類を掲げた。
「全部、あんたたちが受領した書類だ。印も台帳番号もある」
最前列にいた老記録官が、思わず立ち上がる。
彼は宮廷記録院の院長補佐だった。
昔、一度だけ俺の上申書を見て、何か言いたげにしていた男だ。
「受領印……本物だ」
「当然だ。俺は何度も言ったからな。王都結界の維持構造。聖剣の負荷転換。神殿の浄化の実態。術者一名への過負荷。全部」
宰相が怒鳴る。
「戯言を! 取り押さえろ!」
「その前に、もう一つ」
俺は記録石を起動した。
光の膜が大聖堂上空へ広がり、音声が響く。
『ノクトはしつこいけど、大丈夫』
エレナの声だった。
『何度握りつぶされてもまた書くんだもの。真面目で、馬鹿で……便利』
会場の空気が凍る。
続けて、リオンの笑い声。
『婚約者にそこまで言われるとはな』
『もうすぐ違うわ。黒魔術師の婚約者なんて、正直ずっと恥ずかしかったし』
『勇者様の隣にいる方が、みんなちゃんと見てくれるもの』
エレナの顔から血の気が引いた。
「ち、違う……」
「違わない」
俺は二つ目の記録石を掲げる。
「婚約破棄の前から、あんたたちはそういう関係だった」
光の幕に映るのは、勇者塔の回廊。
深夜、リオンの私室から出てくるエレナ。
胸元の勇者紋の護符。
俺の婚約指輪を外した指。
そして、扉の隙間から彼女の手を引くリオン。
直接的なものは何一つ映っていない。
それでも十分すぎた。
貴族たちのざわめきが濁る。
神官たちの顔が青ざめる。
各国使節が露骨に目を細めた。
リオンが叫ぶ。
「捏造だ!」
「なら、魔力署名を照合しろ」
老記録官が震える手で前へ出る。
記録石に触れ、青白い術式を走らせる。
そして、絞り出すように言った。
「改竄なし……発話者の魔力波形も一致しています」
リオンの顔から余裕が消えた。
エレナが俺を見た。
その目には、怯えと、怒りと、ほんの少しの後悔が混ざっていた。
「ノクト、お願い、やめて」
「何を」
「こんなの、公の場で……」
「公の場で婚約を破ったのはお前だろ」
言葉を失う彼女から視線を切り、俺は最後の書類束を掲げた。
「そして、ここからが本題だ」
今度は記録じゃない。
受領印つきの上申書。
図面。
結界核の実測値。
納骨記録。
「王都大結界は、“聖なる光”で維持されているんじゃない。黒魔術師が呪詛を引き受けることで保っている」
「馬鹿げたことを」
神殿長が唾を飛ばす。
「民を惑わすな!」
「なら、これは何だ」
俺は床へ黒い杭を突き立て、起動式を唱えた。
大聖堂の石床に魔法陣が走る。
地下深くまで届く、封呪課の主任権限式。
直後、祭壇の背後の床が鈍く震えた。
悲鳴が上がる。
石の隙間から、黒い靄が滲み出す。
それは汚泥じゃない。
王都結界の中枢に溜まり続けた穢れだ。
本来なら夜ごと俺が引き受けていたもの。
今日だけは、引き受けていない。
「この三か月、俺は王都の外から最低限の民間区画だけを守る補助式を繋いでいた」
ざわめきが一段深くなる。
「だから平民街は落ちない。けど、王城と大聖堂の中枢は別だ。あんたたちが俺の上申を四十七回握りつぶした結果が、今そこに出てる」
国王が立ち上がる。
「衛兵! この男を」
「まだだ」
俺は左手の手袋を外した。
肘まで這い上がった黒い亀裂が露わになる。
王呪核を押し込んだ痕だ。
会場のあちこちで息を呑む音がした。
「勇者の聖剣が壊れなかったのは、俺が反動を受けていたからだ」
リオンが一歩引く。
「聖女の奇跡が破綻しなかったのは、俺が穢れを抜いていたからだ」
エレナの唇が震える。
「王都の結界が保ったのは、俺たち黒魔術師が死ぬまで飲み込み続けたからだ」
俺は、笑った。
「勇者の栄光も、聖女の奇跡も、全部俺の屍の上に立っていた」
そして、詠唱する。
「返せ」
それは黒魔術師の間で、ずっと禁じられてきた術だ。
受け続けたものを、元の場所へ戻す。
返礼。
「俺が引き受けていた、お前たちの分だ」
最初に崩れたのは、リオンだった。
腰の聖剣が甲高く鳴り、光が一瞬で濁る。
反動が一気に持ち手へ戻ったのだ。
「が、ぁ……っ!」
リオンは膝をつき、右腕を押さえて呻いた。
骨が軋み、血の気が引き、頬に黒い筋が走る。
今まで“英雄の疲労”程度で済んでいた侵食が、本来の量で返っただけだ。
「な、何をした……!」
「何もしてない。お前のものを返しただけだ」
次にエレナが悲鳴を上げた。
「っ、あ……いや……!」
彼女は両手を見つめ、青ざめて後ずさる。
指先が震え、癒やしの光がまともに灯らない。
治癒術の反動は、術者の神経と睡眠を削る。
それを俺が事前に抜いていたから、彼女は“聖女”でいられた。
「ノクト、やめて……指が、感覚が……っ」
「お前の奇跡の値段だ」
「私、治せない……」
「だろうな。最初から、お前一人じゃ抱えきれてなかった」
祭壇裏から滲んでいた黒い靄が、今度は天井高く立ちのぼった。
色硝子を曇らせ、鐘の音を濁らせる。
神殿長が震える声で叫ぶ。
「浄化を! 早く浄化を!」
神官たちが一斉に詠唱する。
だが光は薄く散るだけで、靄は消えない。
当たり前だ。
事前の呪詛抜きがなければ、あの規模の穢れに神殿式浄化は通らない。
会場の者たちが、ようやく理解し始める。
ああ、本当に黒魔術師が土台だったのだ、と。
俺は最後の記録を空へ映した。
王都地下納骨堂。
並ぶ棺。
刻まれた名。
建国から現在まで、処分・隔離・失踪扱いにされた黒魔術師たちの記録。
「見ろ」
俺の声が、大聖堂に反響する。
「これがあんたたちの“聖なる国”の基礎だ」
棺の数を見て、誰かが吐いた。
貴族の女が顔を覆う。
各国使節はもはや隠しもしない軽蔑を向けていた。
宰相が、今になって喚く。
「でたらめだ! 全部この男の」
「台帳番号、一三七二から一四四九」
老記録官が震える声で叫んだ。
「記録院地下封庫に……ある。封印指定で、王命閲覧制限が」
「黙れ!」
「私は、見たことがある……!」
その一言で終わった。
国王の顔色が変わる。
神殿長が何か言い逃れようとして、言葉にならない。
会場の空気が、完全に反転した。
さっきまで祝福だったものが、今は全部断罪へ変わっていく。
リオンはなおも立ち上がろうとした。
「ノクト……てめえ……!」
聖剣を抜こうとする。
だが抜けない。
腕が震えて、力が入らない。
黒い侵食が肩まで広がり、呼吸まで乱れている。
俺は見下ろした。
「それがお前の本来の重さだ、勇者」
「俺は……俺は本物だ……!」
「剣を振ったのは事実だ。だが、そのたび誰が死にかけてたと思う?」
「……」
「お前は英雄役を演じただけだ。裏方を生贄にしてな」
エレナが床に崩れ、俺の外套の裾へ縋ろうとした。
「ノクト……お願い……私、怖いの……」
「知ってる」
「ごめんなさい……でも、私……あの時、もう戻れなくて……」
「だろうな」
「勇者様の隣にいれば、認めてもらえるって思ったの。神殿でも、みんな私を見るって……」
「それで、俺を穢れ扱いした」
「……っ」
「上申書も渡したな」
彼女の肩が跳ねる。
「神殿へ回すって言って、リオンに見せた」
「……」
「お前の筆跡、残ってたぞ。『これを黙らせれば綺麗にまとまります』って」
その言葉で、エレナの顔から最後の色が消えた。
俺は外套の内から、小さな黒銀の指輪を取り出した。
婚約破棄の日、足元から拾ったものだ。
ずっと捨てられなかった。
捨てるほど軽くなかったから。
それを彼女の前に落とす。
「返す」
「……」
「重かったんだろ。もう持たなくていい」
エレナは泣きながら指輪へ手を伸ばしたが、震える指では掴めなかった。
白い手袋が黒い靄に汚れていく。
その横で、リオンが彼女へ怒鳴った。
「全部お前が余計なこと喋ったせいだろ!」
「私……?」
「上申書の件も、記録石も、お前が甘いから残ったんだ!」
「な……」
「泣けば許されると思うな!」
会場の何人かが、露骨に顔をしかめた。
エレナはそこでようやく、気づいたのだろう。
自分が選んだ“光”が、自分のことも道具としか見ていなかったことに。
遅すぎる。
近衛騎士団が動いたのは、その直後だった。
各国使節が目撃している以上、もう揉み消せない。
老記録官が記録院への緊急照会を命じ、別室へ走る。
王太子付きの法務官が前へ出て、国王へ低く進言した。
神殿の若い司祭たちの中にも、明らかに動揺している者がいる。
最初に口を開いたのは、意外にも第一王子だった。
これまで空気のように脇に立っていた男が、冷えた声で言った。
「父上。ここでまだ隠すのは悪手です」
「貴様」
「各国使節の前です。今、切るべきは証拠ではなく責任者でしょう」
王子はそのまま、近衛へ視線を向けた。
「勇者リオン、神殿長ラザール、宰相ベルグ、ならびに聖女候補エレナを、王都結界不正運用、記録隠蔽、冤罪工作の嫌疑で一時拘束せよ」
「待て!」
国王が吠える。
「勇者を縛る気か!」
「勇者なら、なおさら説明責任があるでしょう」
近衛が一斉に動いた。
リオンは抵抗しようとしたが、聖剣すらまともに握れず、あっけなく取り押さえられた。
エレナはその場で泣き崩れ、神殿長は見苦しく喚き、宰相は最後まで「国家のためだった」と繰り返していた。
その“国家”が、誰の死の上に乗っていたかを暴かれた直後に。
大聖堂の外では、ざわめきが津波みたいに広がっていた。
祝祭の鐘が鳴り止み、人々の顔色が変わっていく。
聖女の花を売っていた露店の女が、花を取り落とすのが見えた。
王都は今日を境に、もう元には戻らない。
聖なる国という看板は剥がれた。
勇者神話も、聖女の奇跡も、黒魔術師差別を前提にした偽装だと知られた。
各国は必ず監査を入れる。
神殿は分裂する。
王家は責任を問われる。
国ごと、終わりだ。
だが、俺は民衆そのものを地獄へ落としたかったわけじゃない。
だからすでに、外縁区と市街民区には仮設の薄暮結界を張ってある。
数日は持つ。
その間に、封呪課の残党と、辺境へ追いやられていた黒魔術師たちを呼び戻せばいい。
支配層だけが、腐れた土台ごと沈めばいい。
俺はそれだけを望んだ。
大聖堂を出る時、老記録官が俺を呼び止めた。
「ノクト殿」
振り返ると、彼は深く頭を下げた。
「……見て見ぬふりをしていた。すまない」
「今さらだな」
「本当にそうだ」
「でも、頭を下げた分だけ、まだましだ」
彼は苦く笑って、書類束を抱え直した。
「記録は残す。今度こそ、握りつぶさせない」
「頼む」
それだけ言って、俺は歩き出した。
大聖堂の階段を下りると、広場の喧騒が波みたいに押し寄せる。
さっきまで祝福一色だった場所で、人々が怒鳴り、泣き、呆然と立ち尽くしていた。
その端で、白い影がふらつきながらこちらへ来た。
エレナだった。
拘束の隙に抜け出したのか、裾は汚れ、髪も乱れている。
さっきまで祭壇で輝いていた女には見えなかった。
「ノクト……」
掠れた声だった。
俺は立ち止まったが、近づかなかった。
「……何しに来た」
「一つだけ、聞いて」
「聞くだけなら」
「昔のことまで、全部嘘だったわけじゃないの」
「知ってる」
エレナの目が揺れる。
「じゃあ、少しは……」
「だから余計に最悪なんだよ」
彼女は息を呑んだ。
「お前は最初から冷たい女だったわけじゃない。俺を助けてくれたことも、本当に笑ってくれたこともあった。だから俺は信じた」
「……」
「でもお前は、その本当だったものを、見栄と承認欲しさで売った」
「私……怖かったの」
「俺だって怖かった」
「……」
「嫌われ者の黒魔術師のまま生きるのも、何度訴えても握りつぶされるのも、お前が他の男の隣で笑ってるのを見るのも」
言いながら、自分で驚くほど声が静かだった。
「それでも俺は、最後まで国を壊さない方法を探してた。お前は?」
エレナは答えられない。
ただ、ぽろぽろ泣くだけだ。
昔なら、その涙に手を伸ばしていたかもしれない。
今はもう、何も湧かない。
「好きだったよ」
彼女が顔を上げる。
期待と絶望が一緒になったみたいな目だった。
俺はそのまま続けた。
「だからもう、二度と拾わない」
エレナの膝から力が抜けた。
彼女は広場の石畳に座り込み、声を殺して泣いた。
俺は振り返らなかった。
その後の王国がどうなったかは、想像に難くない。
一か月で宰相は失脚した。
神殿長は地下納骨堂の件で完全に終わった。
国王は病を理由に退き、第一王子が暫定統治を引き受けたが、各国の監査と国内の暴露で相当苦しむことになるだろう。
リオンは生きている。
生きているが、もう以前のようには剣を振れない。
反動と侵食で右腕の神経は潰れ、英雄の顔に残った黒い筋は消えないらしい。
それでも死なないところが、あいつらしいとも思う。
生きて、喝采の消えた後を味わい続ければいい。
エレナも生きている。
治癒術は以前のようには使えず、指先の震えも残ったそうだ。
神殿はもう彼女を聖女とは呼ばない。
勇者の隣に立てば見てもらえると思っていた女は、今では王都で最も“見たくないもの”の一つになった。
ざまぁみろ、と笑えれば綺麗だったのだろう。
けれど本当は、そんなに綺麗じゃない。
夜になると、たまに思い出す。
病区画の薄い毛布の中で、幼いエレナが俺の手を握ってくれたこと。
婚約した日の、不器用な笑い方。
小さな診療所の夢を語った夜。
全部、汚れたわけじゃない。
だからこそ胸糞が悪い。
本物だったものまで、最後には利用された気がして。
それでも、前へは進める。
今、俺は王都の外れに新しい結界管理所を作っている。
王家直属でも神殿管轄でもない、黒魔術師と治癒術師が対等に働ける場所だ。
追放されていた連中も少しずつ戻ってきた。
まだ俺を見ると怯える民もいる。
でも、必要だと理解し始めた者もいる。
遅すぎた理解だ。
それでも、ゼロよりはましだ。
王都の空を見上げる。
昔みたいな眩しい聖光じゃない。
夕暮れに似た、薄い薄い防壁の色だ。
綺麗ではない。
でも、嘘よりずっといい。
俺は手の甲に残った黒い亀裂を撫でる。
傷は消えない。
きっと一生残る。
あいつらに踏みつけられた日々も、握りつぶされた四十七通も、エレナが勇者の隣で笑った顔も、忘れはしない。
ただもう、それに俺の人生を食わせるつもりはない。
鐘の鳴らない王都で、俺は静かに息を吐いた。
祝福の代わりに真実が降ったあの日から、この国はようやく、自分の足元の骨を見た。
それで十分だ。
俺が送った最上の“恩返し”は、たぶん、もう二度と消えない。
(完)
---
あとがき:
この物語をお読みいただき、ありがとうございました。
他にも物語を連載していますので、もしこの話がお気に召しましたら、ぜひ下記の作品もご覧いただければ幸いです。
▼連載中の作品はこちら▼
https://kakuyomu.jp/works/822139842039386364
引き続き、読者の皆様の心に残る物語をお届けできるよう努めてまいります。これからも応援よろしくお願いいたします。




