第九話 最初の裏切
昼過ぎ、堀江城の空気がざわついた。
浜名湖の水面が荒れ、風が湿り気を帯びている。
基胤が廊下を進むと、中安兵部が駆け寄ってきた。
その顔色は、ただ事ではない。
「殿……気賀衆が、松平へ使者を送りました」
廊下の空気が一瞬で凍った。
気賀は堀江城の北西、浜名湖北岸の要地。
ここが松平に靡けば、堀江城は湖岸の道を失う。
「確かか」
「はい。山村修理が確認いたしました。
松平方の使者が気賀に入り、
その後、気賀の若党が岡崎へ向かいました」
基胤は静かに息を吸った。
(……ついに動いたか)
そこへ、権田織部が駆け込んできた。
「殿! 堀川城の竹田より急使!
気賀衆の領内で、松平方の兵が動いております!」
「数は?」
「三百から四百の先遣隊にございます!
気賀衆が道を開けておりまする!」
家臣団が一斉に息を呑んだ。
気賀衆は、松平を“迎え入れた”のだ。
堀江城の空気が一気に緊張した。
「殿、いかがいたしまする!」
権田織部の声は震えていたが、それは恐怖ではない。
殿の決断を待つ忠義の震えだった。
基胤は迷わなかった。
「堀川城へ援兵を三百。
竹田に伝えよ――“堀川城を死守せよ”と」
「御意!」
兵が走り出す。
尾藤主膳が進み出た。
「殿……堀川城は持ちこたえられましょうか」
「堀川城には千七百が籠もっておる。
竹田も、尾藤も、修理も、皆よく守る。
だが援軍なしでは持たぬ。
堀川が落ちれば、松平は浜名湖北岸を自由に使える。
堀江城が孤立する」
家臣団は深く頷いた。
「殿。気賀衆へは……?」
「使者を出す。
“今川への忠節を忘れたか”と問え。
だが、責め立てるな。
まだ完全に敵と決まったわけではない」
その判断に、家臣団は殿の器量を見た。
「殿……やはり、殿は我らの柱にございます」
「殿の御心があれば、堀江城は揺るぎませぬ」
「殿のためなら、命など惜しみませぬ」
基胤は彼らを見渡し、静かに言った。
「皆の忠義、胸に刻む。
だが、命を粗末にするな。
堀江城は、父上が築いた城だ。
皆の命と共に守り抜く」
そのとき、物見の兵が駆け込んできた。
「殿! 松平方の偵察が、堀川城の手前まで来ております!
小勢にございます!」
基胤は即座に立ち上がった。
「湖岸に弓兵を。
物見台を増やし、狼煙を上げよ。
堀江は戦の構えを取る」
「御意!」
家臣団が一斉に動き出す。
その足音が、堀江城全体に緊張を走らせた。
堀江城は、ついに“戦の入口”に足を踏み入れた。
その夜、基胤は天守から浜名湖を見下ろした。
湖面は荒れ、風が唸っている。
(父上……
この堀江城が試される時が来ました)
拳を握りしめる。
(堀江城を守る。それが、私の務めだ。
お館様のためにも、家臣たちのためにも、基宿のためにも)
湖面の灯は、風に揺れながらも消えなかった。
その灯こそ、堀江の意地だった。




