第八話 沈む遠江
翌朝、堀江城の空は重く曇っていた。
浜名湖の水面は風もないのにわずかに揺れ、
まるで湖そのものが落ち着かぬ心を映しているようだった。
基胤が廊下を進むと、すでに家臣団が集まっていた。
中安兵部、権田織部泰長、竹田高正、尾藤主膳、山村修理――
いずれも殿の帰還で気力を取り戻したはずの顔ぶれだが、その表情は硬い。
「殿、国衆からの返答が届きました」
中安兵部が文を差し出した。
基胤は受け取り、静かに目を通す。
二つの家が返答を寄越した。
だが、どちらも言葉を濁していた。
「……“今川家の行く末を見定めたい”か」
基胤の声は低く、湖面のように静かだった。
「はい、殿。どちらも、従うとも離れるとも申しておりませぬ」
兵部の声には、怒りではなく、深い疲れが滲んでいた。
権田織部が進み出る。
「殿。松平が三河西端の村々に兵を巡らせております。
遠江へ入る道を探っているように見えまする」
竹田高正が続けた。
「堀川城周辺でも、村の兵が集まりませぬ。
“家を空ければ松平に攻められる”と……」
尾藤主膳は兵糧の帳面を抱えたまま、深く頭を下げた。
「兵糧も、昨年より大きく減っております。
民の不安が強うございます」
山村修理が静かに言った。
「北から、武田の偵察と思しき者が二度、入り込んでおります。
いずれも捕らえ損ねましたが……」
家臣団の報告は、どれも重かった。
だが、誰一人として殿の前で弱音を吐かない。
基胤は、彼らの顔を一人ひとり見た。
皆、殿を守るために必死なのだ。
「……よく知らせてくれた」
その一言に、家臣たちの目が揺れた。
殿が自分たちを信じている――その実感が胸に広がる。
「殿……我らは、どこまでもお供いたしまする」
権田織部が言うと、他の家臣たちも深く頭を下げた。
「堀江は、殿と共にございます」
「殿が立っておられる限り、我らは揺るぎませぬ」
「殿のためなら、命など惜しくはございませぬ」
その言葉は、誇張でも虚勢でもなかった。
堀江城は、殿を中心にひとつの家なのだ。
基胤は静かに頷いた。
「皆の忠義、しかと受け取った。
だが、命を粗末にしてはならぬ。
堀江城は、父上の思いがこもった城。
皆の命と共に守り抜く」
その言葉に、家臣団の胸が震えた。
そのとき、物見の兵が駆け込んできた。
「殿! 浜名湖の西岸に、松平方の旗が……!」
家臣団が一斉に顔を上げる。
「数は?」
「二十ほどの小勢にございます! 物見かと!」
権田織部が即座に判断した。
「追撃はならぬ。偵察の背後に本隊が潜むこともある」
基胤は頷いた。
「湖岸に弓兵を配置せよ。
近づけば矢で牽制し、深追いはするな。
物見台を増やし、動きを逐一報せ」
「御意!」
兵が駆け出していく。
基胤は湖の方角を見つめた。
湖面は静かだが、その向こうに確かに“影”があった。
(松平……
ついに、遠江の入口まで来たか)
胸の奥に、初めて“危機”が形を持って迫ってくるのを感じた。
その夜、基胤は天守に上り、浜名湖を見下ろした。
湖面に映る灯が揺れている。
(父上……
あなたが築いたこの城が、初めて試されようとしております)
拳を握りしめる。
(堀江城を守る。それが、私の務めだ。
お館様のためにも、家臣たちのためにも、基宿のためにも)
湖面の灯は揺れ続けていた。
その揺れが、遠江の未来を暗示しているように思えた。




