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湖畔の月   大沢基胤記  作者: 双鶴


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第七話 堀江への帰還

 駿府を発って一日。大沢基胤は早馬で遠江へ向かっていた。

 空はどんよりと曇り、初夏とは思えぬ冷たい風が吹いている。

 道中の村々では、農民たちが頭を下げはするが、その目には力がなかった。

 兵糧を積んだ荷車も少なく、若者の姿も減っている。

 松平が三河の大半を押さえた影響が、すでに遠江の村々にまで及んでいるのだと基胤は悟った。


 やがて浜名湖の水面が見えてきた。鈍い光を返す湖面の向こうに、対岸の山影が揺れている。

 その北岸に、堀江城の白壁が立っていた。父が築いた城だ。胸の奥に熱いものがこみ上げる。


 城門が開き、家臣たちが駆け寄ってきた。

 筆頭家臣の中安兵部、軍事を預かる権田織部泰長、堀川城守将の竹田高正、

 兵站と民政を担う尾藤主膳、外交にも通じた山村修理。

 いずれも基胤の中核家臣である。


「殿、お戻りを!」

「殿がご無事で……本当に、ようございました!」


 声が震えていた。

 堀江城の家臣たちは、基胤を“主君として”だけでなく、“親のように”慕っている。

 その温度が、声に滲んでいた。


 基胤は馬を降り、家臣たちの顔を見渡した。

 皆、笑顔を作ってはいるが、その奥に不安が宿っている。

 それでも、殿が戻ったというだけで、空気が変わった。


「皆、よく守ってくれた」


 その一言に、家臣たちの目が潤んだ。


「殿……我らは、殿のお帰りを、ずっと……」


 中安兵部が言葉を詰まらせた。

 権田織部は拳を握りしめ、竹田高正は深く頭を下げた。

 尾藤主膳は胸に手を当て、山村修理は静かに目を閉じた。


 堀江城は、殿を中心に“ひとつの家”なのだ。


 城内に入ると、家臣団がひれ伏した。

 中安兵部が進み出て、「三河では松平が国衆の大半を従え、

 兵糧の流れがこちらへ来なくなっております」と報告した。


 権田織部は「北の武田も諏訪口で兵を動かしております。

 遠江へ向けた動きとまでは申せませぬが、油断はできませぬ」と言う。


 竹田高正は「堀川城周辺の村々でも兵の出し渋りが見られます。

 “今川の行く末を見たい”との声が……」と続け、


 尾藤主膳は「兵糧の備蓄は昨年より二割ほど減っております。

 民の不安も強うございます」と告げた。


 山村修理は「国衆への使者を出しましたが、返答を渋る家が三つ……」と静かに言った。


 基胤は全員の報告を聞き、静かに言った。


「……遠江は、すでに戦の入口に立っておる。西の松平、北の武田。両面に備えるのが堀江の役目だ。

 ここが崩れれば、駿府が危うい」


 その言葉に、家臣団の背筋が一斉に伸びた。

 殿の声が、堀江城の“柱”なのだ。


「殿の仰せのままに!」

「堀江は、我らが命に代えても守り抜きまする!」


 その声は、震えではなく、決意だった。


 基胤は続けた。


「物見を増やし、浜名湖側の監視を強化せよ。湖岸の船着場も見張りを増やす。

 兵糧の再点検を行い、足りぬ分は至急手配する。国衆への返答は三日以内に求めよ。

 渋る家は名を控えておけ」


「御意!」


 家臣たちが散っていくとき、

 誰もが殿の背中を誇りに思っていた。


 夜、基胤は屋敷に戻り、夕餉の席についた。

 そこには幼い息子・基宿が座っていた。

 まだ幼く、政治など分からない。ただ、戦が怖いのだ。


「父上……戦になるのですか」


 震える声に、基胤は穏やかに微笑んだ。


「基宿。戦は、誰も望んでおらぬ」


「でも……村の人が言っていました。松平が来る、と……」


 基宿の不安は純粋な恐怖だった。

 基胤は息子の目をまっすぐ見た。


「よいか、基宿。お館様も、松平も、どちらも立派なお方だ。

 どちらも無用な戦を避けようとしておられる。お館様は強く、松平は聡い。

 どちらも家を守るために動いておられる。だから、恐れることはない」


 基宿は少し安心したように息を吐いた。


「……父上がいれば、大丈夫ですね」


 その言葉に、基胤の胸が熱くなった。


「もちろんだ。父が堀江を守る。お前も、家も、皆を守る」


 その後、基胤は天守に上り、浜名湖を見下ろした。

 湖面は静かだが、その静けさがかえって不気味だった。


(父上……あなたが築いたこの城を、私は守り抜きます)


 拳を握りしめる。


(堀江が崩れれば、駿河が危うい。お館様も、遠江も、すべてが危うくなる)


 湖面に揺れる灯が、まるで未来の影のように見えた。


(堀江城を守る。それが、今の私にできるすべてだ)



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