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湖畔の月   大沢基胤記  作者: 双鶴


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第五話 沈む城

 駿府の空は、重く曇っていた。

 今川義元討死の報せが届いてから三日。

 城内は、まるで光そのものが失われたかのように沈んでいた。


 廊下を行き交う家臣たちは皆、声を潜め、互いの目を避けている。

 武家の棟梁が討たれたという現実は、それほどまでに重かった。


 その中心に立つのは、若き当主・今川氏真である。


 氏真はすでに元服し、妻も迎えている。

 年齢も成人に達し、家中から見れば立派な「殿」だ。

 だが、父の死はあまりに突然で、あまりに大きかった。


 学問所に座る氏真の前には、白紙の和歌が置かれている。

 筆は握っているが、墨は乾いたままだ。


「……父上が討たれたと聞いても、まだ実感が湧かぬ」


 静かな声だった。

 狼狽ではない。

 だが胸の奥に深い痛みを抱えた声だった。


 大沢基胤は、氏真の背後に控えていた。

 沈痛な面持ちで、ただ静かに若君を見守っている。


「若君。

 お館様は武人として見事なお最期でございました。

 その御志は、若君が継がれます」


 氏真はゆっくりと頷いた。


「……分かっておる。

 わしが立たねば、今川は揺らぐ」


 その言葉は、幼さを脱した武家の嫡男のものだった。


 そこへ、静かに襖が開いた。

 現れたのは、今川家の大黒柱――寿桂尼である。


「氏真」


 その声は厳しく、しかし揺るぎない温かさを含んでいた。


「泣く暇はございませぬ。

 家中の者たちは、そなたの顔色を見ておる。

 三河も、遠江も、駿河も揺れておる。

 そなたが強くあらねば、家は保てませぬ」


 氏真は深く頭を下げた。


「祖母上……心得ております」


 寿桂尼は基胤に目を向けた。


「基胤。

 そなたは氏真の側を離れるな。

 この子を支えられるのは、そなたしかおらぬ」


「はっ。

 この命に代えても」


 寿桂尼は静かに頷き、去っていった。


 その背中を見送りながら、氏真は小さく息を吐いた。


「……祖母上は強い。

 わしも、あのようにあらねばならぬ」


「若君は、すでに立派にございます」


 基胤が静かに言ったそのとき、

 廊下の向こうから急ぎ足の音が響いた。


 襖が開き、家臣が息を切らして飛び込んできた。


「若君……!

 三河より急報……!」


 氏真の表情が強張る。


「……松平はどうした?」


 家臣は震える声で答えた。


「松平殿……

 大高城を退き、岡崎へ……

 岡崎へ戻られました……!」


 氏真の目が揺れた。


「……竹千代が……

 まさか……」


 その声には、裏切りというより、

 信じていた者の選択を理解できない戸惑いがあった。


 基胤は一歩前に出て、静かに言った。


「若君。

 松平殿は三河勢を率いる身。

 様々な思惑や事情もありましょう」


 氏真は基胤を見つめた。


「……独立した、ということか」


「仮にそうであったとしても、

 若君との絆は変わりませぬ」


 氏真の目がわずかに揺れた。


「絆……」


「はい。

 そして何より、若君が強くあらせられれば、

 今川家の家中は揺らぎませぬ」


 基胤は深く頭を下げた。


「この基胤、命をかけて若君を、今川家をお護りいたします」


 氏真はしばらく黙り、

 やがて静かに頷いた。


「……そなたの言葉、胸に刻む」


 その言葉は、

 少年ではなく、

 当主としての覚悟だった。


 曇り空の向こうで、雷鳴が遠く響いた。


 今川家の嵐は、ここから始まる。


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