第四話 風の兆し
駿府の空は、初夏の光に満ちていた。
庭の白砂は眩しく、松の影は濃く伸びている。
だが、その明るさとは裏腹に、城内にはどこか落ち着かぬ空気が漂っていた。
今川義元が、尾張へ向けて大軍を率いて出陣したのだ。
そしてその軍勢の中には、
かつて駿府で共に学んだ少年――
松平元康の姿もあった。
氏真は朝から落ち着かなかった。
学問所に座っていても、筆が進まない。
和歌の一文字を書くたびに、ため息がこぼれる。
「……元康は、もう三河を越えた頃であろうか」
独り言のように呟く氏真の横で、控えていた大沢基胤は静かに答えた。
「はい。元康殿は先陣の一つを任されております。
今川家の将として、松平の名を背負うにふさわしい働きをされましょう」
外向きには豪放に笑って見せた。
だが内側では、胸の奥がざわついていた。
(竹千代君……
あの竹千代君が戦場に立つ日が来たか。
あの幼い背中が、今は兵を率いている……)
その成長を誇らしく思う一方で、
胸の奥に冷たい影が差す。
(どうか……無事であれ)
その願いは、誰にも言えなかった。
「基胤」
氏真が振り返った。
「そなたは……心配しておるのか?」
基胤は一瞬だけ言葉を選び、豪放に笑った。
「若君。お館様は天下に名高き名将。
ご心配には及びませぬ」
氏真は頷いたが、その表情には不安が滲んでいた。
「……元康は、立派に務めを果たすであろうか」
「もちろんにございます。
元康殿は、武家の嫡男としての覚悟をお持ちです」
氏真は少しだけ表情を緩めた。
「そなたがそう言うなら、信じよう」
基胤は静かに頷いた。
(竹千代君……
竹千代君が今川家を支えてくれれば……
氏真様の未来も、どれほど明るいか)
その願いは、胸の奥に深く沈んでいた。
そのとき、廊下の向こうから足音が響いた。
急ぎ足で駆けてくる音。
ただ事ではない。
襖が開き、使者が息を切らして飛び込んできた。
「若君……!
尾張より急報……!」
氏真の顔色が変わる。
「父上に……何かあったのか」
使者は震える声で言った。
「……お館様……
義元様が……
討ち死に……!」
学問所の空気が凍りついた。
氏真は筆を落とし、立ち上がった。
「……うそ、じゃろう……?」
その声は震えていた。
幼い子供が、現実を拒むような震えだった。
基胤は、胸の奥が冷たくなるのを感じた。
(……来てしまったか)
外向きには豪放な男も、
この瞬間ばかりは言葉を失った。
「父上が……?
あの父上が……?
織田などに……?」
氏真は足元をふらつかせ、基胤の袖を掴んだ。
「基胤……
わしは……どうすれば……」
基胤は氏真の肩を支え、静かに言った。
「若君。
今こそ、若君が立たねばなりませぬ。
今川家は……若君の御身にかかっております」
氏真の目に涙が溢れた。
「わしが……今川を……?」
「はい。
若君は、お館様の嫡男にございます。
今川家の柱は、若君にございます」
氏真は震える手で涙を拭った。
その姿は、幼さを残しながらも、どこか凛としていた。
「基胤……
そなたは……常にそばにて支えよ」
その言葉は命令ではなく、
必死に自分を保とうとする少年の願いだった。
基胤は深く頭を下げた。
「若君。
この命に代えても、お支えいたします」
その誓いは、
これから訪れる地獄のような日々の中で、
基胤を支える唯一の灯となる。
だが今はまだ、
氏真の肩を支えながら、
基胤は静かに空を見上げた。
初夏の空は、あまりに青かった。
(竹千代君……
竹千代君は今、何を思っているのか。
どうか……氏真様を見捨てないでくれ)
その願いは、風に溶けて消えていった。




