第三話 別れの朝
駿府の空は、いつもより澄んでいた。
春の光が白砂に落ち、松の影が長く伸びている。
だが、その美しさとは裏腹に、庭に立つ三人の胸には重いものが沈んでいた。
松平元康が、岡崎へ戻ることになったのだ。
人質としての立場は変わらない。
だが今川義元の命により、一時的に本国へ戻されることになった。
理由はどうあれ、別れは別れだった。
氏真は、朝から落ち着かなかった。
学問所でも筆が進まず、和歌の一文字を書くたびにため息をつく。
「……竹千代、もう行ってしまうのか」
氏真の声は、いつもの明るさを失っていた。
「はい。お館様のご命にて」
元康は静かに答えた。
その声は震えていない。
だが、指先がわずかに強張っているのを、基胤だけが見抜いた。
基胤は二人の横に控え、静かに息を吐いた。
(この二人の別れは……あまりに早い)
外向きには豪放に笑っていても、内側では胸が締めつけられていた。
「竹千代」
氏真が歩み寄り、竹千代の手を取った。
「そなたと学ぶのは、楽しかった。
和歌も兵法も、そなたがいると励みになった」
「……私も、氏真様とご一緒できて、光栄でした」
元康は深く頭を下げた。
その姿は幼いながらも武家の嫡男としての誇りを感じさせる。
だが、氏真はその礼儀正しさがかえって寂しかった。
「そんなにかしこまるな。
そなたは……わしの大事な友であろう」
竹千代の目が揺れた。
その言葉は、彼の胸に深く刺さった。
基胤は、二人のやり取りを見つめながら、静かに目を伏せた。
(氏真様……なんと優しいお方か)
そして同時に、胸の奥に冷たい影が差す。
(竹千代君……竹千代君は家臣では終わらぬ。
いずれ大名として国を背負う器だ。
だが……どうか今川家を支えてほしい。
氏真様を……支えてほしい)
その願いは、忠義ゆえのものだった。
だが叶わぬ願いであることも、基胤は薄々感じていた。
「基胤」
氏真が振り返った。
「そなたも……寂しいか?」
基胤は豪放に笑って見せた。
「若君が寂しければ、私も寂しゅうございます」
だが内心では、胸が裂けるようだった。
元康が基胤の方を向いた。
「基胤様。
これまで……ありがとうございました」
その言葉は、幼いながらも深い敬意に満ちていた。
基胤は胸の奥が熱くなるのを感じた。
「礼には及びませぬ。
私はただ、若君方をお護りする務めを果たしただけにございます」
だが竹千代は首を振った。
「いいえ。
基胤様は……私を“人”として扱ってくださいました。
それが、どれほど嬉しかったか……」
その言葉に、氏真も目を見開いた。
「そうじゃ、竹千代。
基胤は家臣ではなく……家族のようであろう?」
竹千代は静かに頷いた。
「……その通りにございます」
その言葉に、基胤の胸がじんと熱くなる。
だが表には出さず、ただ豪快に笑った。
「ははは、若君方にそう言っていただけるとは、恐れ多いことでございます」
そのとき、遠くから馬のいななきが聞こえた。
元康を迎えに来た使者だ。
氏真の表情が曇る。
「……行くのか」
「はい」
元康は深く頭を下げた。
「氏真様。
また、必ず戻ってまいります」
「うむ。
その言葉、忘れるでないぞ」
氏真は竹千代の肩に手を置いた。
その手は震えていた。
元康は最後に基胤へ向き直った。
「基胤様。
どうか……氏真様をお支えください」
その言葉に、基胤は胸が締めつけられた。
「もちろんでございます。
若君のことは、この命に代えても」
竹千代は深く頷き、馬へと向かった。
その背中は小さい。
だが、どこか堂々としていた。
(ああ……やはり竹千代君は、大名の器だ。
だが……どうか、氏真様を見捨てないでくれ)
基胤は胸の奥で呟いた。
馬が動き出す。
元康は振り返り、二人に向かって深く頭を下げた。
氏真も、基胤も、動けなかった。
春の風が吹き、白砂が舞う。
その中を、竹千代の姿はゆっくりと遠ざかっていった。
やがて見えなくなると、氏真は小さく呟いた。
「……寂しいのう」
基胤は静かに頷いた。
「若君。
別れは、また会うためにございます」
氏真は涙をこらえながら、基胤の袖を握った。
「基胤……そなたは、わしの家族じゃ。
そなたがいてくれねば、わしは……」
基胤はその手を包み、静かに答えた。
「若君。
私は、いついかなるときも、若君のそばにおります」
その言葉は、誓いだった。
そしてその誓いは、まだ先の未来へと続いていく。
だが今はまだ、春の光が二人を優しく包んでいた。




