第二話 学び舎の午後
駿府の学問所は、午後になると静けさを増す。
障子越しの光は柔らかく、畳の上に淡い影を落としていた。
墨の匂いと、紙をめくる音だけが空気を満たしている。
その一角で、今川氏真と松平竹千代が机を並べていた。
氏真は和歌の課題を軽やかに書き上げ、竹千代は兵法書を読み込んでいる。
二人の姿は、年齢差こそあれ、どこか兄弟のようにも見えた。
その背後に、静かに控えている男がいる。
大沢基胤。
今日は駿府へ出仕したついでに若君へ挨拶に立ち寄った。
だが氏真は「しばし見ていけ」と言い、基胤は断る理由もなく、二人の学びが終わるまで傍らに侍っている。
基胤は、二人の背中を見つめながら静かに息を吐いた。
(氏真様は、柔らかい。
竹千代君は、固い。
だが、この二人は……いずれ国を背負う)
その未来を思うと、胸の奥がざわつく。
外向きには豪放に笑っていても、内側では常に不安が渦巻いていた。
「竹千代、そこは違うぞ」
氏真が竹千代の机を覗き込み、指で一行を示した。
「“兵は拙速を尊ぶ”だ。急ぐことを恐れてはならぬ、という意味だ」
竹千代は驚いたように顔を上げた。
「……ありがとうございます、氏真様」
「よいよい。分からぬところは聞けばよいのだ」
氏真は明るく笑った。
その笑顔は、竹千代の胸に温かいものを灯す。
基胤はその様子を見て、静かに頷いた。
(よい。こうして二人が並んで学ぶ姿は、実に良い)
だが同時に、胸の奥に小さな痛みが走る。
(この時間が、永く続けばよいのだが……)
その願いは、戦国の現実の前ではあまりに儚い。
学問所の外から、風が吹き込んだ。
障子がわずかに揺れ、三人の影が畳の上で重なった。
「基胤」
氏真が振り返った。
「和歌の添削をしてくれないか?」
「もちろんでございます」
基胤は氏真の机に歩み寄り、和歌を手に取った。
筆致は美しい。だが、どこか幼い。
「若君。ここは“春風”よりも“東風”の方が趣が深くなりましょう」
「なるほど……」
氏真は素直に頷く。
その素直さが、基胤には愛おしく思えた。
一方で、竹千代は兵法書を閉じ、静かに二人のやり取りを見つめていた。
その目には、尊敬と憧れが入り混じっている。
基胤は竹千代に気づき、柔らかく声をかけた。
「竹千代君。兵法ばかりでは疲れましょう。少し外を歩きませぬか」
竹千代は一瞬ためらったが、やがて小さく頷いた。
「……はい」
「氏真様も、ご一緒にいかがですか」
「うむ、行こう」
三人は学問所を出て、庭へ向かった。
春の風が頬を撫で、梅の香りが漂っている。
池のほとりに立つと、氏真が竹千代に話しかけた。
「竹千代。そなたは、弓も兵法もよく励んでいるな」
「……励まねば、松平家の名折れになります」
「名折れなど、誰も思わぬ。そなたは立派だ」
竹千代は驚き、氏真を見つめた。
その目には、幼いながらも深い感謝が宿っている。
基胤は二人の横顔を見つめながら、胸の奥が温かくなるのを感じた。
(この二人は、きっと良い主従になる。
いや……主従を超えた、何かになるかもしれぬ)
だが同時に、胸の奥に冷たい影が差す。
(竹千代君……でも竹千代君は家臣では終わらぬ。
いずれ大名として国を背負う器だ。
今川に留まる器ではない……)
その思いは、誰にも言えない。
言えば、忠義に背くことになる。
だが、基胤の胸の奥には確かな直感があった。
「基胤」
氏真が振り返った。
「そなたは、なぜいつも我らに付き添ってくれるのだ?」
基胤は一瞬だけ言葉を選び、豪放に笑った。
「若君をお護りするのは、家臣たる私の務めにございます」
氏真は嬉しそうに笑い、竹千代の方を向いた。
「なあ竹千代。基胤は家臣というより……歳の離れた兄者のようじゃ」
竹千代は驚き、そして静かに頷いた。
「……その通りにございます」
その言葉に、基胤の胸が熱くなる。
(兄……か。
この身に余る言葉よ)
だが表には出さず、ただ豪快に笑って見せた。
「ははは、若君方にそう言っていただけるとは、恐れ多いことでございます」
春の光が三人を包む。
その光は温かく、穏やかで、どこまでも優しかった。
だが基胤は知っている。
この穏やかな時間が、永遠ではないことを。
(守らねばならぬ。この二人を。
この時間を。
この未来を)
だが今はまだ、春の風が三人の頬を優しく撫でていた。




