表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
湖畔の月   大沢基胤記  作者: 双鶴


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

16/16

第十六話 湖畔の月、三人の絆

 慶長十年、夏。

 大沢基胤は、屋敷で静かに床に伏していた。

 齢七十を越え、身体は痩せ細り、息は浅い。

 だが、その眼だけは昔と変わらず澄んでいた。


 障子の向こうには、浜名湖から吹く風がそよぎ、

 遠い昔の戦の匂いを、かすかに運んでくるようだった。


(……三十六年か。

 あの堀江城の戦から、もう三十六年も経ったのだな)


 基胤は静かに目を閉じた。




 堀江城を明け渡した後のあの日、

 基胤は氏真のもとへ戻り、深く頭を下げた。


『よくぞ戻った、基胤。

 そなたの忠義、我は忘れぬ』


 氏真はそう言い、

 敗軍の将である基胤を責めるどころか、

 労いの言葉をかけてくれた。


(氏真様……

 あの御言葉があったから、私は生きられた)


 今川家はその後、滅亡した。

 だが氏真は殺されなかった。

 それどころか、和歌と蹴鞠を愛する文化人として、

 穏やかな余生を送った。


(……元康。

 そなたとの密約、決して忘れてはおらぬ)


 あの夜、湖岸で交わした言葉。


『氏真様の命は、決して奪わぬ』


 あれは、誰にも知られぬまま、

 ただ二人の胸にだけ残った約束だった。




 基胤はその後、徳川家の家臣として戦場に立った。


 三方原。

 長篠。

 小牧・長久手。


 幾度も死地をくぐり抜け、

 老いてなお槍を握り続けた。


(……私は、武士として生きた。

 そして、武士として死ねる)


 だが、基胤が最も誇りに思ったのは、

 戦での武功ではなかった。


 堀江城開城後、幼かった息子・基宿が

 徳川家中の子として育てられ、

 将軍家の近臣として遇されていることだった。


(基宿……

 そなたは、私よりもはるかに遠くへ行くのだろう)


 その未来を、基胤は静かに思い描いた。




 ふと、障子が開き、

 老いた氏真が姿を見せた。


「基胤……来たぞ」


 かつての若君は、今や白髪の老人となっていた。

 だが、その声は昔と変わらず柔らかかった。


「氏真様……お元気で……」


「そなたこそ、よくぞここまで生きた。

 堀江の戦から、もう三十六年だな」


 二人はしばらく言葉を交わさず、

ただ静かに湖の方を眺めた。


「基胤……

 竹千代は、そなたを大切にしてくれたな」


「……はい。

 あの方は、約を……守ってくださいました」


 氏真は微笑んだ。


「三人で誓ったな。

 あの頃、まだ若かった我らが」


 基胤はゆっくりと頷いた。そして涙を浮かべながら微笑みあった。


「……はい。

 あの誓いは、今も……胸にございます」




 その夜、基胤は静かに息を引き取った。

 享年七十一。


 その後――

 基胤の子・大沢基宿は、徳川家の厚い庇護のもとで成長し、

 やがて左近衛中将にまで昇った。

 滅亡した今川家の一臣下の家から、

 これほどの栄達を遂げた例は他にない。


 今川氏真は十年後の元和元年、

 高家として、文化人としてその生涯を終えた。


 そしてその翌年、

 天下人となった徳川家康もまた、

 二人を見送り、安堵したかのようにしてこの世を去った。


 三人の絆は、

 誰にも知られぬ密約とともに、

 永遠に結ばれたままだった。


 湖畔には、あの日と同じ月が浮かんでいた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ