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湖畔の月   大沢基胤記  作者: 双鶴


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第十五話 堀江城、静かなる明け渡し

 和議が成立した翌朝、堀江城には不思議な静けさが満ちていた。

 あれほど激しく響いていた鉄砲の音も、怒号も、もう聞こえない。

 湖面には薄い霧が漂い、堀川城の方角にはまだ淡い煙が残っていた。


 基胤は天守から城下を見下ろした。

 兵たちは武具を整え、民は荷をまとめ、誰もが静かにその時を待っている。


(……よく耐えてくれた。

 堀川で散った者たちの無念も、必ず胸に刻む)


 基胤は深く息を吸い、広間へ向かった。




 広間には石川数正と酒井忠次が控えていた。

 二人は深く礼をし、丁寧に言葉を選んだ。


「大沢殿。

 本日、堀江城の明け渡しをお願い申し上げます」


 基胤は静かに頷いた。


「承知した。

 兵と民の安全は、約していただけるな」


「もちろんにございます。

 元康公より、堀江城の者には一切の害を加えるなとの厳命が出ております」


 その言葉に、家臣たちは安堵の息を漏らした。


 だが基胤は、わずかに目を伏せた。


(……元康。

 そなたの想い、確かに受け取った)


 しかし、それを口に出すことはなかった。




 堀江城の門が静かに開いた。

 徳川軍の兵が整然と並び、武器を構える者は一人もいない。

 その光景は、戦の終わりを告げる儀式のようだった。


 基胤は甲冑を着け、家臣団を従えて門を出た。

 その姿は、敗者ではなく、戦い抜いた武将の誇りそのものだった。


 石川数正が深く頭を下げた。


「大沢殿。

 堀江城の戦いぶり、まことに見事でございました」


 酒井忠次も続いた。


「この戦、誰もが大沢殿の名を語っております。

 遠江に、これほどの武士がいたかと」


 基胤は静かに答えた。


「……堀川で散った者たちの名を、忘れぬための戦であった」


 その言葉に、さすがの数正も忠次も言葉を失った。




 堀江城を離れた基胤は、まず駿府へ向かった。

 主君・今川氏真に復命するためである。


 氏真は基胤を迎えると、深く息を吐いた。


「基胤……よくぞ戻った。

 堀川の者たちの死、我も胸が裂ける思いであった。

 そなたの忠義、まことに天晴れである」


 基胤は深く頭を下げた。


「大沢基胤ならびに堀江城、力及ばず……申し訳ございませぬ」


「よい。

 そなたは十分に戦った。

 そなたを責める者など、どこにもおらぬ」


 氏真の言葉は、敗者への慰めではなかった。

 主君として、武士として、心からの労いだった。


 基胤は胸の奥が熱くなるのを感じた。


(氏真様……

 この御恩、決して忘れませぬ)




 その夜、基胤はひとり湖岸に立った。

 月が静かに水面を照らし、波が寄せては返す。


 あの夜――

 元康と交わした密約が胸に蘇る。


『氏真様の命は、決して奪わぬ』


 あの言葉は、誰にも知られてはならない。

 家臣にも、氏真にも、歴史にも残らぬ。


 だが基胤は知っていた。

 あの約束があればこそ、例え今川家の滅亡を迎えようとも

 氏真は命を落とさず、文化人として余生を送るができる。


 そして元康もまた、

 その約束を一度たりとも破らなかった。


 月光の下、基胤は静かに目を閉じた。


(元康……

 そなたの想い、確かに受け取った。

 だが、この約は……我ら二人だけのものだ)


 湖面を渡る風が、そっと基胤の衣を揺らした。


 堀江城の戦いは終わった。

 だが、胸に刻まれた誓いだけは、

 誰にも知られぬまま、静かに生き続けていた。


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