第一話 駿府の庭
駿府の朝は、静かに始まる。白砂の上に松の影が落ち、風が吹くたびに細く揺れた。
春の光は柔らかいが、その下に立つ少年の表情は固い。松平竹千代――のちの徳川家康である。
まだ幼い手には強すぎる弓を握り、竹千代は黙々と矢を放っていた。
矢は的の手前に落ち、砂を跳ね上げる。彼は唇を噛み、誰にも聞こえぬほど小さく息を吐いた。
周囲には今川家の家臣たちが控えている。だが、誰も声をかけない。
近づきすぎず、離れすぎず、必要以上に関わらないようにしているのが分かる。
侍女たちも、竹千代のそばに長く留まらない。丁寧に扱われているようで、どこか冷たい。
――ここにいても、誰も自分を見ていない。
竹千代は、それを敏感に感じ取っていた。
その様子を、庭の端から見ていた男がいた。大沢基胤。遠江堀江城主。
豪快に笑いながらも、誰よりも周囲の空気に敏感な男だ。
竹千代の放った矢がまた的を外した瞬間、基胤は大股で歩み寄り、豪快に笑った。
「おお、竹千代君。弓が泣いておりますぞ」
竹千代は驚き、慌てて頭を下げる。
「……申し訳ございません」
「謝らなくてようござる。弓は謝られても強くなりもうさん。
だが扱い方を知れば、竹千代君の手足になる」
基胤は竹千代の手から弓を取り、軽くしならせた。
豪放に見える動きだが、実際は細心の注意が払われている。
竹千代の小さな手に合わせ、弦の張り具合を確かめているのだ。
「ほれ、このように肘を少し上げる。胸を張りなされ。松平家の嫡男が背を丸めてどうされる。」
竹千代は言われた通りに姿勢を直し、矢を放つ。今度は的の縁をかすめた。
「おお、よく放たれた。竹千代君、弓を友にされましたな。」
豪快に笑う基胤。しかし内心では、竹千代の孤独を思い、胸が痛んでいた。
そのとき、庭の奥から明るい声が響いた。
「竹千代、そんなに励まなくてもよいぞ」
今川氏真が現れた。竹千代より四歳年上。
無邪気で、優しく、しかし身分差を当然と思っている年頃だ。
「人質なのだから、無理をして疲れてしまっては困る。もっと気楽でよい」
悪意はない。むしろ気遣いのつもりだった。だがその言葉は、竹千代の胸を深く刺した。
竹千代の表情が、ほんの一瞬だけ曇る。その曇りを、基胤だけが見逃さなかった。
基胤は豪快に笑って場をつなぐ。
「ははは、若君。励むのは良いことでございます。
竹千代君は松平家の嫡男。励むのが似合うお方です」
氏真は首をかしげる。
「そうか? 人質なのだから、こちらが気を遣うべきだと思ったが……」
基胤は笑みを保ったまま、声の調子だけを落とした。
外向きは豪放、しかし内側は鋭く神経質に働いている。
「若君。松平は今川を支える大事な家臣です。
若君が家臣を侮れば、家臣は真の家臣ではなくなってしまいます」
氏真の目が揺れる。
「ましてや、竹千代君は若君に歳も近く、長い間寄り添いましょう。
大事な家臣であり……いずれは大事な友にもなりましょう。
どうか、そのようにお接しくださいますよう」
氏真はしばらく黙り、やがて竹千代の前に歩み寄った。
「……竹千代。さきほどの言い方は、よくなかった。すまなかった」
竹千代は驚き、深く頭を下げる。
「いえ……ありがとうございます」
その声には、“救われた”という温かさが宿っていた。
竹千代はこの瞬間、大沢基胤という大人が自分を守ってくれたことを、深く刻み込んだ。
基胤は豪快に笑って見せた。
「よし、二人とも仲良くされなされ」
だが内心では、静かに胸を撫で下ろしていた。
(これでいい。この二人は、きっと……未来で互いを支える)
その未来が、血と炎にまみれた戦国の嵐の中で、どれほど残酷な形を取るのか――
このときの基胤は、まだ知らない。
ただ、春の光の中で笑い合う二人の少年を見つめながら、
「この子らを守りたい」
という思いだけが、静かに胸に満ちていた。




