豪族、三田居氏が歩んだみち
平安時代中期から、駿河国(現在の静岡県)北東部一帯を支配していた三田居氏は、駿河国内でも最古の豪族だった。伝承では石高は五万五千石くらいはあったらしい。
三田居氏は、室町時代から戦国時代に掛けて今川氏に属していた。
しかし、永禄三年(一五六○年)六月十二日。今川義元が桶狭間の戦いで織田信長に敗れて戦死すると、その後、駿河に侵攻して来た武田信玄に鞍替えした。
天正十年(一五八二年)。信長は徳川家康と共同で武田領国へ侵攻を開始し、同年四月三日、武田信玄の跡を継いだ勝頼が自害して武田氏が滅亡し家康が駿河国を確保すると、三田居氏は徳川氏に付いた。
時の有力大名の下風に立つ事で、三田居氏は平穏に領地を統治していたが、豊臣秀吉の天下となると、それは一変する。天正十八年(一五九○年)、秀吉の天下統一事業が完了し、新たな国割りにより家康は関東に移封され、三田居領の西隣には豊臣系の大名が入った。
この時、三田居氏当主だった若武には、秀吉から所領を安堵するという通知はなく、西隣の大名の領地にも、三田居領は含まれていなかった。これは発令者の重大な誤り、ケアレスミスである。
これが大名と三田居氏との間で所領問題を生じさせる因子となった。三田居氏にすれば所領没収の命令もないまま、領地が大名に与えられた事には納得がいかない。大名側にしても、三田居氏が滅亡したり追放されたりして領地をもらった訳ではなく、宛行状にも三田居領十八ヶ村の文字はなく無理にその所有権を主張する訳にもいかなかった。
そこで大名は、三田居領をも手中に収めようと画策し、若武と協議した上で、
「関白殿下(秀吉)へ謁見する為、大坂へ上った際、某が良いように執り成してございまする」と偽りを持ち掛け、若武も「何卒よしなに」ということになった。
三田居氏を擁護するつもりなど全くない大名は、秀吉と対面した際、「三田居は逆心を企てている模様でございます」と言上し、秀吉は憤怒するが「三田居の処置は某にお任せくださいませ」と返答。秀吉は大名に「任せる」と討手を委任した。
帰国した大名は、三田居氏の筆頭家老、柏葉宗摂に目を付け味方に引き入れる。
「我が方に味方した暁には、三田居に代わりそなたがこの領を収められるよう、関白殿下に取り持って差し上げよう」こう策略を掛けた。
この話に宗摂の心中は揺蕩する。家老から領主へ立身出世ができるという単純な欲。それと、三田居氏と柏葉氏はかつて領地争いで鎬を削っていた過去がある。しかし室町時代に起こった戦に惨敗し、三田居氏の下風に立たざるを得なくなった。
敵対していた三田居氏と柏葉氏だったが、宗摂は近隣の豪族との戦で数多の戦功を立て、若武から信任を受け家老にまで上り詰めていた。だが、若武を滅ぼして自分が領主となる事は、いわば先祖の雪辱を果たすに等しい。
宗摂は勘考に勘考を重ねた末、
「承知致しました」
と私信を送る。この瞬間、柏葉宗摂は大名の策略にまんまと引っ掛かってしまったのだ。
宗摂から私信を受け取った大名は、
「思惑通りじゃな」
静かにほくそ笑む。
実は大名は宗摂の家柄を精査していた。だからこそ家老に白羽の矢を立てたのである。若武は家老に敵の息が掛かっている事を、看破できなかったのだ。
天正十九年(一五九一年)九月二七日夜。宗摂の手下二十人と大名の軍勢百五十人は、三田居氏の本拠、仲山城に向け進軍した。
付近まで来た所で大名軍は待機し、九ツ(午前零時)になった頃、宗摂は一人で城に忍び込む。宗摂は筆頭家老であるが故、城の内部を熟知している。
若武は城内の屋敷で就寝中、宗摂に寝首を掻かれて殺害され、刀で首を落とされた。享年六五だと伝承されている。当時としては結構な高齢ではあった。
若武の首を刎ねた宗摂は城内に火を放って退散。それを合図に大名軍は一気に城に突撃した。この奇襲戦で三田居一族のほとんどが討ち死にし、若武の嫡男、若宣も最後まで応戦するも戦死。瞬く間に仲山城は落城した。
生き残った三田居一族、旧臣らは命を助けられ大名の支配下に置かれ屈服した。
殺害された若武の跡は三男の若信が継いだが、すでに昔年の勢いはなかった。
しかも若信は暗君な性質で、弟で四男の若氏が謀反を企てているとの讒言を信じて水牢に閉じ込めたうえ殺害。更に、兄弟の中で傑物とされて将来を嘱望されていた、五男の鎮武をも殺害してしまう。
その後、若信は酒色に耽り慶長三年(一五九八年)に子供がいないまま病死。同時に六百五十年余り、二七代に亘り相続されて来た三田居氏嫡流の血脈も断絶した瞬間でもあった。よって、うちは本家ではなく分家の子孫という事になる。
因みに主君を裏切った宗摂は後に、
「いとも簡単に反旗を翻すとは、言語道断である」
と策略を掛けた大名から攻め込まれ、敢えない最期を遂げている……。




