死にゆく家と老犬
翌日の午前九時にシオのマンションから自宅に戻り、九時五十二分の電車に乗って地元の町に向かった。片道約二時間。富士山が見えて来ると相変わらず気持ちが沈む。帰りの富士山は解放感もあって見惚れていられるのに……。同じ風景でも、気持ちが違えば全くの別物だ。
正午前に地元の駅に着いたけど、私の「迎えはいらない」との言葉通り、両親の姿はなかった。二人共仕事を休んでまで迎えてくれる必要はないから。
駅からタクシーに乗り、実家に着いてポストの中の合鍵を使って中に入る。手洗いうがいを済ませ、水をコップ一杯飲んで二階に上がり、武弥が開けた穴をチェックした。
大きく開けたもんだねえ……。
それはそうとまだ眠かったので、お昼も食べずに自室に入って横になった。
「ワンワンワンッ!!」
二時間後、ランが吠える声で目が覚めた。『ガチャッ』と玄関が開く音が聞こえたので一階に降りると、
「あの犬、私によく吠えるんだよね」
武弥が疲れた表情でリビングのソファに座っている。
「あんたランの面倒見た事なくない?」
武弥が散歩に連れて行く姿は疎か、頭を撫でている光景すら見た事がない。
「駅からはタクシーですか?」
「当たり前じゃん! 歩く訳ないよ」
相変わらずサバサバとした答えな事。
「私の事は覚えてるかな?」
両親、ランと会うのも六年ぶり。少し不安だったけど、近付くと威嚇もせず近寄って来た。私の足と手を嗅ぐと認識してくれて、ランは手を甘噛みするスキンシップを始める。
覚えててくれてたか! 安心したのも束の間、改めてランの姿を見て唖然とした。毛がボウボウできったない! これほんとに飼い犬?
幾ら忙しいからといっても、ブラッシングしてあげる時間もないのか? 直ぐにブラシを持って来てブラッシングしていると、後ろから車の音が聞こえ、政孝が帰って来た。
「(ランは)覚えてたか?」
「みたいよ」
私はランの相手をしたまま、振り返らずに答えた。
六年ぶりとなる父子の会話は一旦終了。家に入る直前の政孝の後ろ姿を見て、また唖然とした。髪が真っ白になっている。随分お爺さんになって……。
私だってもうアラサーだ。年老いて行く親をまざまざと見せ付けられた。
それから約十分後、亮子も車で帰って来た。
「覚えてた?」
夫婦揃って第一声がそれ?
「犬は視覚より嗅覚で覚えてるんじゃない?」
「そう・・・・・・ねえあんた、まだアイドルやってるの?」
一番気になるのだろう。亮子は私の耳元で囁いた。
「去年で引退した。今は正社員になって事務所の事務職に専念してる」
「その方が良いわ」
亮子の声は衷心から安心した様子だ。
「お母さんこそ、まだ血圧の薬飲んでるの?」
「あんたに心配されなくても大丈夫よ。最近は落ち着いてるから」
亮子は笑ってるけど、負けん気にも見える。この十年、夫と娘の事で心労が絶えなかったと思う。私の点では、やっと肩の荷を下ろさせる事ができたんじゃないかな。
私も、最近になってやっと、亮子がヒステリックを起こすのは、愛情の裏返しなのだと思えるようになった。
「お母さん」
「何?」
「今までごめんね。それと、ありがとう」
笑顔で言うと、亮子は一瞬、私に怪訝な目を向けた。唐突ではあるけど、言うなら今だって思ったから。
「何なのいきなり・・・・・・ありがとうって、遅いわよ!」
亮子は照れ臭そうに笑い、私から目を逸らした。でも、その目に光るものがあったのを、私は見逃さなかったよ、お母さん……。
亮子は私に背中を向けたまま、大きく溜息を吐いて向き直った。
「それより、武弥が開けた穴見た?」
「見事だったね」
「雨漏り、壁の染みと穴・・・・・・実はそれだけじゃないのよ」
「まだ何かあるの!?」
「向こうの庭のブロック、この前、力久の叔父さんに見てもらったら、「このままだと危ないから補修した方が良い」って言われたの。気にはなるんだけど、そこまでする費用はまだ貯まんないしねえ」
力久の叔父さんとは、建設会社社長で、私の叔母の夫だ。
一段下に建つ家との境目に積まれたブロックが、危険に晒されている。
「やっぱりこの家、死にかけてるのかなあ?」
「どうだろうね」
亮子は他人事のように言った。
「建って十三年しか経ってないのに、ガタ来過ぎじゃん?」
複雑な心境のままランに餌をやって、中に入った。
夕食は焼肉。我が家のご馳走は、夏は焼肉。冬は水炊きかしゃぶしゃぶと決まっている。
晩酌をする政孝に酒乱の気が出るか心配だったけど、ビールはアルコール度数が低いためか、今日は落ち着いている。私がアイドルをやっていた事は、政孝も当然知っているはずだけど、何も訊いて来なかった。
久しぶりとなる一家揃っての夕食は、思い出話に花を咲かせる訳でもなく、テレビを観ながらの淡々としたものだった。




