第8話「竜との遭遇」
──俺とヴィエラは、サーヤの小さな背を追って、75階層の都市廃墟を進んでいた。
あの朱塗り鋏との戦闘から、いったいどれほどの時が経ったか……迷宮の底では空の移ろいもなく、刻の感覚などとうに曖昧だ。だが、腹の虫が鳴き、脚が重くなってきたことを思えば、すでに半日は過ぎているだろう。
(そろそろ飯も食わんとな)
瓦礫に埋もれた街の通り、傾いた石造りの建物群。都市遺構が延々と広がるこの階層は、ところどころに瓦礫の崩落や地面の裂け目があり、移動は思うように進まない。
途中、冒険者だった者たちの亡骸も見かける。白骨化したもの、ミイラのように乾ききったもの──手つかずの装備を確認すると、中には弓矢を携えていた者もおり、矢だけは有り難く拝借する。
「しかし……流石に広いな、この階層」
思わず呟くと、隣のヴィエラが「ええ」と頷く。
「わたくしは20階層までしか到達しておりませんが……それでも、ひとつの階層は一日もあれば周れました──」
この深き死の地下迷宮では、下へ行くほど構造が複雑かつ広大になるのだ。俺も60階層まで到達したが、かなりの広さだったのは覚えている。
(──それだけに75階層の広さは嫌になる)
「それにしても……朱塗り鋏の以降は、まだモンスターと出くわしていないな?」
あの異形も、もともとはこの階層のものではなく、ヴィエラと一緒に転送されてきた。
(だが、それにしても……妙だ)
すでに何体もの冒険者の亡骸があった。死後かなり経っているのは確かだ。
「おい、サーヤ。この階層、怪物はいないのか?」
先を行くサーヤは廃墟の瓦礫に登ってくるりとこちらを振り向き、勢いよく「うんうん!」と力強く頷いた。
「まあ、そうなのですね! それは助かります」
ヴィエラが花が咲いたような笑みを浮かべる──この表情だけを見るとお淑やかなご令嬢だ。
(この娘が"怪力"の天恵持ちとはな……)
大鎚矛を難なく振り回し、朱塗り鋏の毒尾を腕力だけで掴んで離さないその姿とのギャップを思い浮かべて肩を竦めた。
(──しかし、本当に怪物は居ないのか?)
「なら、この亡骸の数は……」
俺がかつて仲間達と辿り着いた60階層より下まで到達したパーティーの話は聞いた事が無い。もし、俺が知らない間にこの75階層に到達している者が居たとしても、この亡骸の数ほどの冒険者たちが到達していれば噂になっているはずだ。
「ゼタさんはここへはどのようにして?」
「ああ、俺も転送で飛ばされて──」
俺とヴィエラがそんな会話をしていた時だった。
「んーっ! んーっ!」
サーヤが、突然ぴょんぴょん跳ねながら、瓦礫の上で必死に指差す。何かを知らせようとしているようだ。
「……サーヤさん?」
首を傾げるヴィエラの視線の先、青白い閃光が走った。
(あれは……転送の光か?)
――ズン……ドスン……ズル……ズル……。
重々しく大きな何が引きずりながら移動する音が聞こえる。
「近い……来るぞ!」
サーヤの立つ瓦礫の向こうから、黒々とした巨大な影が姿を現した。うねるように長い首、爬虫類のような鱗に覆われた頭部──。
「竜!?」
下層には伝説の怪物である竜が居る。今まで遭遇した亜竜も確かに恐ろしい怪物だが、本物の竜は恐ろしさが桁違いだ。
(あの時は撤退するのが大変だったよな……)
昔、仲間達と遭遇した時の事を思い出して背筋が冷たくなる。
「サーヤ、下がれ! こっちだ!!」
サーヤは振り返って驚くと慌てて瓦礫を駆け下りる。サーヤが立っていた瓦礫に竜の前脚と思しきものが振り下ろされて瓦礫が崩れた。
ヴィエラは逃げてくるサーヤを庇うように前に出て立ちはだかる。瓦礫が崩れた事で竜の姿が露わになった。
亜竜でさえ十分に脅威だが……今、目の前にいるのは──それとは違う。
「サーヤ、下がれ! こっちだ!」
俺の叫びに驚いたように目を見開いたサーヤが、瓦礫を駆け下りてくる。その瞬間、竜の巨大な前肢が振り下ろされ、サーヤがいた足場を木っ端微塵に粉砕した。
「サーヤさん!」
ヴィエラが一歩前へ出て、崩れた瓦礫の向こうから現れた竜と対峙する。全長は優に一〇メートルを超える──だが、俺の目は別の異常に気づいていた。竜の体表を、何か粘り気のある"膜"のようなものが覆っている。
(植物……いや、なんだあれは?)
思考を巡らす間にも、竜の巨体がサーヤへ向かって突進を始めていた。ヴィエラが横合いから大鎚矛を振るい、竜の頭部を殴りつける。
「やあぁぁっ!」
──ドゴォ!
轟音が響く。竜はバランスを崩し、瓦礫に突っ込んだ。その間にサーヤは俺の傍まで無事に駆け戻ってくる。だが──。
バキィッ──!!
竜は身じろぎもせずに唐突に尾のみを振るい、ヴィエラを横から弾き飛ばした。
「ぐはっ……!!」
ヴィエラの体が宙を舞い、廃墟の壁に叩きつけられる。俺は即座に矢を掴み、弓を引いた。
(戦技──連射矢!)
矢を数本同時に掴み、連続して放つ。竜の巨体に次々と矢が刺さるが、まるで効果がないかのように動いている。
「くそ、効かねえ! サーヤ、退避先はあるか?」
サーヤが「むー! むー!」と言いながら近くの廃墟の地下入口を指さしながら、全力で手招きしていた。
「よし、退くぞ──ヴィエラ、こっちだ!」
ふらつきながらも立ち上がったヴィエラとサーヤを引き連れ、俺たちは廃墟の地下へと身を滑り込ませる──錆びた鉄の扉を押し開けて中へ入ると、意外にも中は仄かに明るかった。
「……照明石、か」
壁際に据えられた石が、まるで灯火のように淡い光を放っている。魔法による常時発光の術式が施された石材──通称"照明石"だ。迷宮内を照らしているのはこの仕掛けが殆どだ。
(しかし、こんな廃墟の中にもあるとは──)
光に導かれるように通路の奥へ進むと、木製の扉がひとつ。見る限り、鍵はかかっていない。
「待て、俺が開ける」
そう言って先頭に立ち、ゆっくりと扉に手をかけた。軋む音を立てて開かれた室内には、やはり照明石がいくつか置かれており、明るさが保たれている。
壁際には古びた書棚が並び、その中には今も整然と本が並んでいた。だが──本棚よりも、何よりも目を引いたのは、その中央の床の上だった。
「……人?」
床にうつ伏せに倒れ伏す人影。慌てて駆け寄り、肩を返しながら脈を探る。
(……生きてる。眠ってるだけか?)
倒れていたのは女だった。肌は陽に焼けたような褐色で、ところどころに紋様めいた入墨が刻まれている。薄紅の光沢ある長髪は床に広がり、身に纏う長衣はどこか異国めいた造りだ。年の頃は──二〇代半ば、といったところか。
「う……っ、うう……」
小さく呻く声。顔色は悪く、酷くやつれている。
「……サーヤ、頼めるか?」
俺が振り向いて呼びかけると、サーヤは「むっ!」とばかりに小さく力こぶを作って見せる。そのまま小柄な身体をひょいと屈め、倒れている女の体に手をかざした。手のひらが緑色に光り、治癒魔法を唱えている様だ。
(──この女は竜から逃れてここに籠っていたのか?)
そんな事を推察してみる。ならばこの地下室は取り敢えずは安全なのかもしれない。サーヤの治癒が終わって意識を取り戻せば、経緯が聞けるだろうか──。