第九話:『取材』という名の初デート? ~遊園地・恐怖と安らぎ~
「次は、絶叫系、行ってみない?」
「怖いんだけど、好きなの」
弥生さんの衝撃的なカミングアウトと、有無を言わさぬ力強い腕力によって、俺は半ば引きずられるようにして、園内最大級のジェットコースター「ギャラクシー・ダイバー」の乗り場へと連行されていた。コーヒーカップで受けたダメージはまだ尾を引いており、正直なところ、今すぐ天地がひっくり返るような体験をしたい気分ではなかったのだが、弥生さんのあのキラキラした瞳と「私が航くんを楽しませる番だね!」という言葉には、逆らうことなど到底できなかった。これもまた「取材」なのだ、と自分に言い聞かせるしかない。絶叫系アトラクションにおけるヒロインの反応、そして主人公の心の動き……観察すべき点は山ほどあるはずだ。
「うわー……やっぱりすごい行列だね」
乗り場に到着すると、そこには予想通りの長蛇の列ができていた。最後尾を示すプラカードを持ったスタッフによると、待ち時間は約60分とのこと。
「まあ、人気アトラクションだから仕方ないか。でも、待ち時間もデートのうち、って言うじゃない?」
弥生さんは、特に気にした様子もなく、むしろ楽しそうに言った。
「で、デート……!?」
思わず、声が裏返る。
「あ、いや、ごめん! また『取材』だったね!」
弥生さんは慌てて訂正したが、その口元はやっぱり笑っていた。確信犯だ。この人は、俺をからかうのを楽しんでいる。でも、不思議と嫌な気はしない。むしろ、その小悪魔的なところに、またしても心を掴まれてしまうのだから、我ながらチョロいと思う。
列に並び、ゆっくりと進むのを待つ間、俺たちは自然と会話を続けていた。周りには、俺たちと同じように順番を待つ人々がたくさんいる。楽しそうに話すカップル、はしゃぐ学生グループ、少し疲れた表情の家族連れ……。人間観察にはもってこいの状況だ。ラブコメのネタになりそうな会話や仕草はないか、と無意識にアンテナを張ってしまうのは、もはや職業病のようなものかもしれない。
「ねえ、航くん。さっき、顔色悪かったけど、もう大丈夫?」
不意に、弥生さんが心配そうな顔で俺を覗き込んできた。コーヒーカップでのダメージを、まだ気にしてくれていたようだ。
「あ、はい! もう全然、大丈夫です! 心配かけてすみません」
慌てて笑顔を作る。実際、弥生さんと話しているうちに、気分はだいぶ回復していた。
「そっか、良かった。無理しないでね? もし、ジェットコースターもキツそうだったら、やめておこうか?」
「いえ! 大丈夫です! 俺も、楽しみですから!」
ここで弱音を吐くわけにはいかない。それに、弥生さんの「怖いけど好き」という意外な一面を、この目で確かめたいという気持ちも強かった。
「そっか。ならいいんだけど……。あ、そうだ。小説の進み具合はどう? あの後、何か新しい展開とか考えた?」
弥生さんは、ごく自然に話題を小説のことに移した。この気遣いが、本当にありがたい。「取材」という大義名分を、彼女はちゃんと理解してくれている(……と、思いたい)。
「あ、はい。雨の日のシーンは、弥生さんのおかげで、なんとか形になりました。それで、次は、ヒロインが風邪を引くっていう展開を考えてるんですけど……」
俺は、看病イベントのプロットについて、簡単に説明した。弥生さんから聞いたアドバイスを元に、ヒロインの心細さや、主人公の不器用な優しさを描きたいと思っていること。お粥の作り方を調べていること(これは少し恥ずかしかったが)。
「へえ、看病イベント! いいねいいね! 絶対、キュンとするシーンになるよ!」
弥生さんは、目を輝かせて聞いてくれた。
「それでね、思ったんだけど……」
弥生さんは、少し声を潜めて、悪戯っぽく笑った。
「ジェットコースターでの、このドキドキ感も、もしかしたら小説に活かせるかもね? 吊り橋効果、みたいな?」
「つ、吊り橋効果……!?」
確かに、ラブコメの定番テクニックだ。危険やスリルを共有することで、相手への好意が高まるという……。
「まあ、これはあくまで『取材』だから、効果があるかは分からないけどね?」
弥生さんは、またしても意味深な笑顔を浮かべる。もう、完全に遊ばれている。だが、それでもいい。このドキドキ感そのものが、最高の「取材」なのだから。
そんな会話をしているうちに、列は少しずつ進み、乗り場が近づいてきた。ジェットコースターのレールが頭上を走り、時折、乗客たちの絶叫が聞こえてくる。その度に、弥生さんの肩がピクリと震えるのが分かった。
「……やっぱり、少し怖い?」
そっと尋ねてみると、弥生さんはこくりと頷いた。
「……うん。乗る直前が、一番怖いかも……。でも、このドキドキが、またいいんだけどね」
強がっているのか、本心なのか。その複雑な表情もまた、魅力的だった。
そして、ついに俺たちの番がやってきた。
座席は、二人掛け。もちろん、俺と弥生さんは隣同士に座る。スタッフによって、がちゃんと音を立てて安全バーが下ろされる。途端に、体が座席に固定され、弥生さんとの間にあった僅かな隙間さえもなくなった。肩と腕が、ぴったりと密着する。柔らかい感触と、温もりがダイレクトに伝わってきて、心臓が早鐘のように打ち始めた。ジェットコースターの恐怖とは別の種類のドキドキだ。
ゆっくりと、コースターが動き出す。最初は、カタカタと音を立てながら、高い坂を登っていく。眼下に、遊園地の景色が広がっていく。綺麗だ、と思う余裕は、もうなかった。これから訪れるであろう、急降下への恐怖。そして、すぐ隣にいる弥生さんの存在。その二つで、俺の頭は完全に飽和状態だった。
「……うぅ……やっぱり怖い……」
隣で、弥生さんが小さな声で呟いた。見ると、ぎゅっと目を瞑り、安全バーを力強く握りしめている。その手は、小刻みに震えていた。
(……大丈夫だろうか、弥生さん)
心配になって、声をかけようとした、その時。
ぐいっ、と俺の左腕に、柔らかい感触がまとわりついた。
見ると、弥生さんが、俺の腕にしがみついていたのだ。それも、かなりの力で。
「えっ!? み、弥生さん!?」
「……ご、ごめん……! ちょっと、腕、借りるね……!」
弥生さんは、顔を俺の腕にうずめるようにして、震える声で言った。
(……うわああああああああ!)
心の中で、絶叫した。
これは、やばい。やばすぎる。
ラブコメの王道中の王道。ジェットコースターでヒロインが主人公の腕にしがみつく展開。まさか、これを現実で体験することになるなんて!
しかも、相手は、あの弥生さんだ!
腕に伝わる、弥生さんの体の柔らかさと温もり。そして、微かな震え。すぐ近くで聞こえる、彼女の少しだけ速い呼吸音。甘い香り。
もう、恐怖なんて、どこかへ吹き飛んでしまった。ただただ、この状況に、頭が真っ白になる。
(……落ち着け、俺! これは取材だ! 観察しろ! 記録しろ!)
必死で、理性を総動員する。
しがみついてくる弥生さんの力加減は? 表情は? 呼吸は? 香りは?
だが、そんな冷静な分析ができるはずもない。俺の思考は、完全にショート寸前だった。
コースターは、ついに坂の頂上に達した。一瞬の静寂。そして……。
「「きゃあああああああああああああっっ!!」」
強烈な浮遊感とともに、コースターは猛スピードで急降下を始めた。
隣から、弥生さんの絶叫が聞こえる。それに引きずられるように、俺も思わず大声を上げていた。
風が、轟音とともに顔に叩きつけられる。景色が、目にも留まらぬ速さで後ろへと流れていく。体が座席から浮き上がりそうになるのを、安全バーが必死で抑え込んでいる。
怖い。確かに怖い。
でも、それ以上に……なんだか、 爽快感のようなものがあった。日頃の悩みとか、鬱屈した気持ちとか、そういうものが、全部、風と一緒に吹き飛んでいくような感覚。
そして、隣には、弥生さんがいる。
俺の腕に、必死でしがみついている。
その事実が、恐怖よりも強い、別の感情を俺の中に呼び起こしていた。守ってあげたい、というような、柄にもない庇護欲だろうか。
コースターは、急降下の後も、激しいカーブや宙返りを繰り返す。その度に、俺たちは絶叫し、時には笑い声を上げていた。
ふと、隣の弥生さんを見ると、目をぎゅっと瞑っているかと思えば、次の瞬間には目を開けて、少しだけ楽しそうな表情を浮かべていたりもした。「怖いけど好き」という言葉は、本当だったようだ。その必死さと、楽しさが入り混じったような表情が、また、すごく魅力的だった。
やがて、ジェットコースターは速度を落とし、ゆっくりと乗り場へと戻っていった。
安全バーが上がり、俺たちはようやく解放された。
「……はぁー……っ!」
二人同時に、深い息をつく。
まだ、心臓がバクバクしている。足が、少しだけ震えている。
「……こ、怖かったぁ……!」
弥生さんが、まだ少し潤んだ目で、俺の顔を見上げて言った。俺の腕は、いつの間にか解放されていたが、まだその感触が残っているような気がした。
「……ですね。でも……なんだか、スッキリしました」
俺も、正直な感想を口にした。
「でしょ? だから、やめられないんだよねー」
弥生さんは、へへ、と少し悪戯っぽく笑った。その顔には、恐怖の色はなく、むしろ満足気な表情が浮かんでいた。
「……あ、ごめんね、航くん。ずっと腕、掴んじゃってて……痛くなかった?」
そこでようやく、自分の行動に気づいたらしい。弥生さんが、申し訳なさそうに尋ねてきた。
「い、いえ! 全然! 大丈夫です!」
むしろ、もっと掴んでいてほしかった、なんてことは、口が裂けても言えない。
「そっか、良かった。……それにしても、航くんも、結構叫んでたね(笑)」
弥生さんが、思い出したように、またケラケラと笑い始めた。
「えっ!? そ、そんなことないですよ!」
「ううん、聞こえたもん。『うわー!』とか『無理ー!』とか(笑)」
「そ、それは、弥生さんがあまりにも大きな声で叫ぶから、つられて……!」
必死で言い訳するが、弥生さんは「はいはい」と楽しそうに聞き流している。完全に、からかわれている。
「……まあ、でも、楽しかったね!」
一通り笑い終えた弥生さんが、満足そうな笑顔で言った。
「……はい。すごく……楽しかったです」
俺も、心からの言葉で答えた。ジェットコースター自体も、そして、弥生さんと一緒にそれを体験できたことも、全てが、忘れられない思い出になりそうだった。
*
ジェットコースターの興奮がまだ冷めやらぬ中、俺たちは少し休憩することにした。近くのベンチに腰を下ろし、自動販売機で買った冷たい飲み物を飲む。
「ぷはーっ。生き返るー」
弥生さんが、ペットボトルのお茶をごくごくと飲み干して、気持ちよさそうに息をついた。その仕草が、なんだか少しおじさんっぽくて、また笑ってしまった。
「航くんは、次、何乗りたい?」
休憩しながら、弥生さんが尋ねてきた。
「そうですね……。絶叫系は、もう十分堪能したので(笑)、少し落ち着いたやつがいいですかね」
「あはは、そうだね。じゃあ……お化け屋敷とかどう?」
「お、お化け屋敷ですか!?」
弥生さん、怖がりなんじゃなかったのか?
「うん! 怖いけど、これも好きなの! キャーキャー言いながら、航くんの後ろに隠れて歩くんだー♪」
弥生さんは、またしても悪戯っぽい笑顔を浮かべる。
(……後ろに隠れる、だと……!?)
それは、またしても、ラブコメの王道展開……! 弥生さん、分かってて言ってるのか? 天然なのか?
どちらにしても、俺にとっては非常に心臓に悪い提案だ。
「……で、でも、弥生さん、ホラー苦手なんじゃ……」
「苦手だよ? 苦手だけど、怖いもの見たさっていうか……。それに、航くんが一緒なら、きっと大丈夫……かなって」
上目遣いで、そう言われてしまったら、断れるわけがない。
「……わ、分かりました。行きましょう、お化け屋敷」
「やった!」
……と、そんな話をしているうちに、ふと気づくと、もうお昼に近い時間になっていた。
「あ、もうこんな時間だね。お腹空かない?」
「言われてみれば……少し空きましたね」
「じゃあ、お昼ご飯にしようか! 園内に、いくつかレストランあったよね」
俺たちは、パンフレットを広げて、レストランを探した。
ファンシーなキャラクターカフェ、アメリカンダイナー風のレストラン、和食処まで、意外と選択肢は豊富だ。
「どうしようかなあ……。航くん、何食べたい?」
「俺は、何でも大丈夫ですよ。弥生さんの食べたいもので」
「またそれー(笑) じゃあ……うーん……あ、ここはどうかな?」
弥生さんが指差したのは、少し奥まった場所にある、テラス席のあるイタリアンレストランだった。ピザやパスタがメインのようだ。
「おしゃれな雰囲気だけど、値段もそこまで高くないみたいだし。テラス席なら、天気もいいし気持ちよさそうじゃない?」
「いいですね! そこにしましょう!」
俺たちは、イタリアンレストランへと向かった。幸い、お昼時ではあったが、少し場所が分かりにくいせいか、待たずにテラス席に案内された。
パラソルの下、爽やかな風が吹き抜ける。目の前には、緑豊かな庭園が広がっていて、雰囲気は最高だ。
メニューを広げ、二人で何にするか相談する。
「うーん、パスタも美味しそうだけど、ピザも捨てがたいなあ……。航くんは?」
「俺は……じゃあ、この、マルゲリータピザにしようかな」
「あ、いいね! じゃあ、私は……この、きのことベーコンのクリームパスタにしよっと。ねえ、もしよかったら、ピザとパスタ、少しシェアしない?」
「えっ、シェアですか!? い、いいんですか?」
「うん! 色んな味、楽しみたいじゃない?」
弥生さんは、ごく自然な感じで言った。
(シェア……! これも、ラブコメでよく見るやつ……!)
間接キス、とか、そういうことを意識してしまう俺は、不純だろうか。いや、きっとそうだろう。
注文を終え、料理が運ばれてくるまでの間、俺たちはまた、とりとめもない話をしていた。
さっきまでのアトラクションの話から、学校のこと、家族のこと、将来の夢のこと……。
弥生さんは、俺が小説家を目指していることを、本当に心から応援してくれているようだった。「航くんの小説、いつか本になったら、絶対に買うからね!」なんて、嬉しいことも言ってくれる。
俺も、弥生さんの大学での話や、将来やりたいこと(まだ漠然としているらしいが、人と関わる仕事がしたい、と言っていた)を聞いているうちに、彼女のことが、また少しだけ深く知れたような気がした。
やがて、熱々のピザとパスタが運ばれてきた。
「わあ、美味しそう!」
二人で同時に声を上げる。湯気が立ち上る料理は、見た目も香りも最高だ。
「いただきます!」
まずは、それぞれの料理を味わう。マルゲリータは、トマトソースの酸味とモッツァレラチーズのコクが絶妙だ。クリームパスタも、濃厚なソースときのこの風味がたまらない。
そして、いよいよシェアタイム。
「じゃあ、ピザ、一切れもらうね」
弥生さんが、俺の皿からピザを取る。
「はい、どうぞ。パスタも、よかったら」
俺も、弥生さんの皿からパスタを少しだけ取り分ける。
なんだか、すごく……照れくさい。でも、嬉しい。
弥生さんが、「んー! このピザも美味しい!」と幸せそうに頬張る姿を見ていると、こちらまで幸せな気分になる。
(……可愛いなあ、弥生さん)
食べる姿も、話す姿も、笑う姿も。全部が、キラキラして見える。
俺は、無意識のうちに、弥生さんのことばかり目で追ってしまっていることに気づいた。
(……まずい。完全に、ただの恋する男子になってる)
「取材」という目的は、どこかへ吹き飛んでしまいそうだ。
いや、でも、この感情こそが、最高の「取材データ」なのかもしれない。
恋する主人公の視点。ヒロインの、何気ない仕草に心を奪われる瞬間。それを、リアルに体験しているのだから。
美味しい食事と、楽しい会話。
穏やかで、幸せな時間が流れていく。
テラス席に吹き抜ける風が、心地よい。
(……こんな日が、ずっと続けばいいのに)
心の底から、そう思った。
でも、楽しい時間は、いつか終わる。
そして、俺たちのこの、曖昧な関係も、いつかは、何らかの形に変わっていくのだろう。
その時、俺は、どうするのだろうか。
自分の気持ちを、伝えることができるのだろうか。
そして、弥生さんは……。
そんなことを考えていると、ふと、弥生さんが真剣な表情で、俺の目を見て言った。
「ねえ、航くん」
「はい?」
「……今日の『取材』、本当に、小説の役に立ってる?」
その問いかけは、核心を突いているようで、俺は一瞬、言葉に詰まった。