第六話:これは取材です!……たぶん (後編)
『てるてる坊主でも作って、雨が降るの、待ってよっか(笑)』
弥生さんからの、そんな冗談めかしたメッセージを受け取ってから、俺の日常は、天気予報とにらめっこする日々へと変わった。
朝起きて、まずスマホで天気予報をチェック。
学校へ行く途中、空を見上げて雲の動きを確認。
授業中、窓の外が曇ってくると、そわそわして集中できない。
休み時間には、健太に「なあ、今日、雨降るかな?」と意味もなく聞いてみたりする。(「知るかよ、天気予報見ろ」と呆れられるだけだが)
放課後、図書館へ行く足取りも、空模様次第で軽くなったり重くなったり。
我ながら、どうかしていると思う。
たかが「取材」のために、ここまで天気に一喜一憂するなんて。しかも、願っているのは、普通なら誰もが嫌がる「雨」なのだから。
だが、俺にとっては、それは単なる雨ではなかった。
弥生さんと、相合傘をして、雨宿りをするための、特別な雨。ラブコメの神様が、俺たちのために用意してくれる(かもしれない)、最高の舞台装置なのだ。
しかし、そんな俺の祈りも虚しく、天気予報は連日、晴れマークか曇りマークばかりを告げていた。梅雨入りはまだ先のようだ。
『今日も雨、降りそうにないですね……』
弥生さんに、そんな恨めし気なメッセージを送ると、
『そうだねー。てるてる坊主、逆さまに吊るしてみようか?(笑)』
なんて、お茶目な返信が来て、また俺の心をかき乱す。
焦る必要はない。弥生さんは「今度、雨が降ったら」と言ってくれたのだ。いつか必ず、その日は来る。
そう自分に言い聞かせながらも、逸る気持ちは抑えきれなかった。
早く、弥生さんと相合傘がしたい。
早く、弥生さんと雨宿りがしたい。
早く、あのドキドキするシチュエーションを、現実に体験してみたい。
そして、その経験を、最高の形で小説に落とし込みたい。
もちろん、下心がないと言えば嘘になる。
相合傘をすれば、必然的に弥生さんとの距離は近くなる。肩が触れ合うかもしれない。弥生さんの髪の香りを、すぐそばで感じられるかもしれない。
雨宿りをすれば、二人きりの空間で、普段はできないような話ができるかもしれない。もっと、弥生さんのことを知れるかもしれない。
(……いやいや、これは取材だ。あくまで、小説のための)
何度目か分からない自己弁護を繰り返しながら、俺は来るべき日に備えて、密かに準備を進めていた。
まずは、傘。
相合傘をするなら、それなりの大きさの傘が必要だ。俺が普段使っている折り畳み傘では、二人で入るのは厳しいだろう。
かといって、あまりにも大きな傘を持ち歩くのも不自然だ。
悩んだ末、少し大きめの、シンプルな紺色の長傘を新調することにした。これなら、普段使いしてもおかしくないだろう。
次に、雨宿りの場所。
どこか雰囲気の良い場所はないだろうか。ただのコンビニの軒下では味気ない。
図書館の帰り道にあるルートを思い浮かべながら、候補地を探してみる。
古い神社の軒下……は、やっぱりベタすぎるか。
レトロな喫茶店の入り口……も悪くないが、結局店に入ってしまいそうだ。
バス停……出会いの場所と同じになってしまうな。
うーん、なかなか良い場所が見つからない。
まあ、これは、実際に雨が降った時に、その場の状況で探すしかないかもしれない。行き当たりばったりも、また一興だろう。……と、自分を納得させた。
そして、最も重要な準備。それは、心の準備だ。
弥生さんと、至近距離で過ごすことになるのだ。平常心でいられる自信がない。
緊張して、何も話せなくなってしまっては、「取材」にならない。
かといって、意識しすぎて、挙動不審になってもいけない。
(……自然に、あくまで自然に振る舞うんだ)
弥生さんは、俺のことを「面白い」と言ってくれた。無理に格好つけようとせず、いつもの自分でいればいい。そして、「取材」という目的を忘れずに、しっかりと観察し、感じたことを記録するのだ。
(……記録?)
そうだ。記録しなければ意味がない。
相合傘をしている時に、メモ帳を取り出すわけにはいかないだろう。スマホのメモ機能を使うか? いや、それもなんだか無粋な気がする。
(……ボイスレコーダー?)
スマホの録音機能を使って、こっそり会話を録音しておく……?
いや、それはさすがにまずいだろう。盗聴だ。犯罪だ。弥生さんにバレたら、軽蔑されるどころの話ではない。
(……やっぱり、記憶力勝負か)
弥生さんの表情、仕草、言葉。その時の雨の音、匂い、空気感。五感をフルに使って、全てを記憶に焼き付けるしかない。そして、後で、できるだけ詳細に、ノートに書き出すのだ。
(……よし。なんとなく、計画は固まってきたぞ)
あとは、雨が降るのを待つだけだ。
*
そして、その日は、突然やってきた。
約束から、五日後の火曜日。
朝から空はどんよりと曇り、湿度が高く、まとわりつくような空気が漂っていた。天気予報は、午後から雨。しかも、一時的に強く降る可能性がある、とのことだった。
(……きた!)
俺の心臓は、早鐘のように打ち始めた。
今日だ。今日、決行するしかない。
授業中も、全く内容が頭に入ってこなかった。窓の外ばかり気にしている。早く雨が降らないか、と。
昼休み、弥生さんにメッセージを送る。
『弥生さん、今日、午後から雨みたいですけど……例の「取材」、今日決行しませんか……?』
ドキドキしながら返信を待つ。
『ほんとだ! 予報、雨になってるね!』
『うん、いいよ! 今日、私も放課後、特に予定ないから。図書館で待ってるね(^-^)』
(……よっしゃああああ!)
心の中で、ガッツポーズを繰り返す。
ついに、この日が来たのだ。
放課後。空は、いよいよ怪しくなっていた。黒い雲が低く垂れ込め、風も少し強くなってきた。今にも降り出しそうだ。
俺は、新調した紺色の長傘をしっかりと握りしめ、足早に図書館へと向かった。健太の「おい航、どこ行くんだよ?」という声も、耳に入らなかった。
図書館に着くと、入り口付近で弥生さんが待っていた。
今日の弥生さんは、白いブラウスに、カーキ色のフレアスカート。髪はポニーテールにしている。雨に備えてか、足元はレインブーツだ。
「航くん、お待たせ!」
弥生さんは、俺の姿を見つけると、笑顔で手を振った。
「いえ、俺も今来たとこです!」
「すごいね、本当に雨降りそう。航くん、てるてる坊主、逆さまに吊るしたでしょ?(笑)」
「い、いや、そんなことは……」
図星だったので、少しどもってしまった。
「さあ、取材、始めよっか?」
弥生さんは、悪戯っぽく笑って言った。
「は、はい! よろしくお願いします!」
俺は、緊張でカチコチになりながら、頷いた。
図書館を出ると、ちょうどそのタイミングで、ぽつり、ぽつりと雨粒が落ちてきた。
そして、あっという間に、それはザーザーという本格的な雨になった。
「わっ、すごい降ってきた!」
弥生さんが、驚いたように声を上げる。
「……チャンス、ですね」
俺は、ゴクリと唾を飲み込みながら言った。
「え?」
「……弥生さん。取材、開始です」
俺は、意を決して、持っていた紺色の長傘をバサリと開いた。
そして、弥生さんの方へ、そっと差し出す。
「……よかったら、入りますか?」
あの日の、バス停での出会いを再現するように。
ただし、あの時とは立場が逆だ。そして、俺たちの関係も、あの時とは少し違う。
弥生さんは、一瞬、きょとんとした顔をした。
そして、すぐに状況を理解したのか、ふふっ、と小さく笑った。
「……ありがとう。じゃあ、お言葉に甘えて」
弥生さんが、俺の差す傘の中に、そっと入ってきた。
途端に、ふわりと、あの甘い香りが鼻腔をくすぐる。
近い。
肩と肩が、触れ合うか触れ合わないか、くらいの距離。
弥生さんのポニーテールが、すぐ目の前で揺れている。
(……やばい。緊張してきた)
心臓が、ドクドクと音を立てているのが、自分でも分かる。
平常心、平常心……と心の中で唱えるが、全く効果はない。
「……なんか、変な感じだね」
弥生さんが、ぽつりと言った。
「え?」
「だって、ほら。出会った時と、逆じゃない?」
「あ……確かに、そうですね」
言われてみれば、そうだ。あの時は、弥生さんが傘を差し出してくれたのだ。
「あの時も、ドキドキしたけど……。今も、結構ドキドキしてるかも」
弥生さんは、少しだけ頬を染めて、俯き加減に言った。
(……えっ!?)
ドキドキしてる? 弥生さんも? 俺との相合傘で?
その言葉に、俺の心臓は、さらに激しく脈打った。
これは、期待してもいいのだろうか? 俺が相手でも、弥生さんはドキドキしてくれるのだろうか?
(……いかんいかん、取材中だ、取材中……)
必死で、理性を呼び戻そうとする。
観察だ。観察するんだ。弥生さんの表情、仕草……。
俯いているせいで、表情はよく見えない。でも、耳が少し赤いような気がする。
肩が、ほんの少しだけ、震えているような……? いや、これは雨のせいかもしれない。
手は、スカートの裾を、きゅっと握りしめている。緊張しているのだろうか?
(……可愛い)
思わず、心の声が漏れそうになった。
いかん。これは客観的な観察ではない。完全に、主観だ。
「……どこか、雨宿りできる場所、探しましょうか」
なんとか、平静を装って、俺は言った。
「……うん。そうだね」
弥生さんは、こくりと頷いた。
俺たちは、一つの傘の中、ゆっくりと歩き始めた。
雨は、ますます強くなっている。傘を叩く雨音が、やけに大きく聞こえる。
道行く人はまばらで、まるで世界に俺たち二人だけしかいないような、そんな錯覚さえ覚えた。
肩が、時折、こつん、と触れ合う。
その度に、お互いにビクッとして、少しだけ距離を取る。でも、すぐにまた、近づいてしまう。
弥生さんの体温が、すぐ隣に感じられる。温かい。
(……これが、相合傘……)
ラブコメで、何度も読んだシチュエーション。
実際に体験してみると、想像していた以上に、破壊力があった。
心臓が、ずっとうるさい。顔が熱い。まともに、前を見て歩けない。
(……会話。何か話さないと)
このまま黙って歩いているのは、気まずすぎる。
それに、会話の内容も「取材」の重要な要素だ。
「……すごい雨ですね」
結局、当たり障りのないことしか言えなかった。
「……うん。梅雨みたいだね」
弥生さんも、ぎこちなく答える。
「弥生さん、雨に濡れてませんか? 大丈夫ですか?」
傘を、少しだけ弥生さんの方に傾ける。
「あ、ありがとう。大丈夫だよ。航くんこそ、濡れてない?」
「俺は大丈夫です。この傘、結構大きいんで」
新調した傘が、ここで役に立った。少しだけ、誇らしい気分になる。
「……ねえ、航くん」
弥生さんが、不意に話しかけてきた。
「はい?」
「……なんで、ラブコメ、書こうと思ったの?」
それは、今まで聞かれたことのない質問だった。
「え……? なんでって……」
改めて聞かれると、うまく答えられない。
「……面白いから、ですかね。読んでて、キュンとしたり、笑えたり……。そういうの、自分でも書いてみたいって思ったんです」
ありきたりな答えしか出てこない。
「ふーん……」
弥生さんは、それ以上は追求せず、また少し黙ってしまった。
(……まずい。会話が続かない)
もっと、何か……。
そうだ、弥生さんのことだ。
「弥生さんは、どうして、俺の小説、読んでみようって思ったんですか?」
今度は、俺から質問してみる。
「え? 私?」
弥生さんは、少し驚いたように顔を上げた。ようやく、その表情が見えた。少し、戸惑っているような、照れているような、複雑な色を浮かべている。
「……なんだろうね」
弥生さんは、視線を彷徨わせながら言った。
「……航くんが、すごく真剣な顔して、悩んでたからかな……。あと……」
「あと?」
「……ラブコメが好きだって言った時の、航くんの顔が、なんだかすごく……キラキラして見えたから……かな」
そう言って、弥生さんは、また俯いてしまった。耳が、さっきよりも赤くなっている気がする。
(……俺の顔が、キラキラ?)
そんな風に見えていたなんて、思ってもみなかった。
なんだか、すごく……嬉しい。
「……だから、応援したくなったの。航くんの書くラブコメ、読んでみたいなって」
その言葉に、胸が熱くなった。
弥生さんは、本当に、俺のことを応援してくれているんだ。
「ありがとうございます……! 絶対、面白いもの書きますから!」
思わず、力強く宣言してしまった。
弥生さんは、顔を上げて、ふわりと微笑んだ。
「うん。楽しみにしてるね」
その笑顔を見た瞬間、俺は確信した。
やっぱり、俺は、この人のために、小説を書きたいんだ、と。
そんなことを考えているうちに、俺たちは、ある場所の前まで来ていた。
それは、以前、俺が候補として考えていた、レトロな喫茶店だった。名前は「珈琲館 ボタン」。レンガ造りの壁に、蔦が絡まっている。入り口の軒下が、ちょうど雨宿りするのに良さそうなスペースになっていた。
「……あ、ここ、良さそうじゃないですか? 少し、雨宿りしていきましょうか」
俺が提案すると、弥生さんも頷いた。
「うん。そうだね。少し、雨脚も弱まるまで……」
俺たちは、喫茶店の軒下に入った。傘を畳む。
狭いスペース。壁を背にして、二人並んで立つ。
目の前には、雨に煙る街並み。ザーザーという雨音が、BGMのように響いている。
「……ふう」
弥生さんが、小さく息をついた。
「大丈夫ですか? 寒くないですか?」
「うん、大丈夫だよ。ありがとう」
また、沈黙が訪れる。
でも、さっきまでの、ぎこちない沈黙とは少し違う。もっと、穏やかで、心地よいような……。
(……雨宿り。これも、ラブコメの王道だ)
ここで、何か、特別な会話が生まれるはずだ。
普段は言えないような、本音とか。
「……ねえ、航くん」
また、弥生さんからだった。
「はい?」
「……航くんって、彼女とか……いるの?」
……えっ!?
か、彼女!?
なんで、そんなことを聞くんだ!?
突然の、予想外すぎる質問に、俺は完全にフリーズした。
「え……あ……い、いませんけど……! 全然! 全く!」
しどろもどろになりながら、全力で否定する。
「……そっか」
弥生さんは、それだけ言うと、また黙ってしまった。
なんだ? 今の質問は?
どういう意図があったんだ?
(……もしかして、弥生さん、俺に気がある……とか?)
そんな、都合のいい妄想が、頭をよぎる。
いやいや、まさか。そんなわけがない。
きっと、ただの世間話だ。深い意味はないはずだ。
でも……。
だとしたら、なんで、あんなことを聞いたんだろう?
弥生さんの気持ちが、分からない。
(……これも、ギャップ、なのか?)
普段は落ち着いている弥生さんが、時折見せる、大胆な質問。
これもまた、彼女の魅力の一つなのかもしれない。
「……弥生さんは……彼氏とか……」
今度は、俺が聞き返す番だ。
勇気を振り絞って、聞いてみた。これは、小説のためだ。ヒロインに彼氏がいるかどうかの設定は、重要だ。決して、個人的な興味ではない。断じて。
弥生さんは、一瞬、驚いたように目を見開いた。そして、すぐに、ふっと表情を和らげた。
「……ふふ。どうかな?」
答えを、はぐらかされた。
なんだか、弥生さんに、いいように手玉に取られているような気がする。
「……秘密、ってことにしとこうかな」
弥生さんは、悪戯っぽく笑って言った。
その笑顔が、また、すごく魅力的で……。
俺は、もう、弥生さんのことばかり考えてしまっている自分に気づいた。
(……まずいな。これは、「取材」だって、分かってるはずなのに)
弥生さんの一挙手一投足に、心が揺さぶられっぱなしだ。
客観的な観察なんて、できているのだろうか?
記録すべき情報を、ちゃんと記憶できているのだろうか?
雨は、まだ降り続いている。
軒下の狭い空間。二人きり。甘い香り。近い距離。
雨音が、やけに大きく聞こえる。
心臓の音も、負けずにうるさい。
これは、本当に、ただの「取材」なのだろうか?
それとも……。
俺は、隣に立つ弥生さんの横顔を、そっと盗み見た。
雨に濡れた街を見つめる、その瞳には、どんな感情が映っているのだろうか。
分からない。
でも、もっと知りたい、と思った。
雨が止むまで、あとどれくらいだろうか。
この、不思議な時間が、もう少しだけ続けばいいのに、と。
柄にもなく、そんなことを願ってしまっている自分がいた。