第三話:年上のお姉さんは、創作の女神?
あれから一週間が経った。
世界が劇的に変わったわけじゃない。相変わらず俺は平凡な高校二年生で、教室の窓から見える空はいつもと同じように青かったり曇ったりしている。妹の美咲は相変わらず俺の書いているものを「しょーもない」と言い放つし、健太は今日も今日とて「昨日読んだラブコメのヒロインが神すぎた」と熱弁を振るっている。
けれど、俺の中では、確実に何かが変わり始めていた。
きっかけは、一週間前の水曜日、あの市立図書館での出来事だ。
名前も知らない、年上の綺麗な女性。彼女がくれた言葉が、まるで乾いたスポンジに水が染み込むように、俺の心に深く浸透していた。
『経験がないからこそ、書けるものもあるんじゃないかな?』
『テンプレートであることを恐れる必要はないんじゃないかな。大事なのは、そのテンプレートを、いかにあなた自身の言葉で、あなた自身の感情を込めて描けるか、ってことだと思う』
『自分のペースで、楽しんで書くのが一番だから』
思い出すだけで、胸の奥がじんわりと温かくなる。
今まで、書けない自分を責め、才能がないと嘆き、経験がないことを言い訳にしてきた。でも、彼女はそんな俺を、真正面から肯定してくれたのだ。「素敵だと思う」と、あの優しい笑顔で。
(……あなた自身の言葉で、あなた自身の感情を込めて)
その言葉を道標に、俺は再びPCに向かっていた。場所は、もちろん自室だ。図書館は集中できるけれど、毎日通うわけにもいかない。それに、あの彼女にまた会えるかもしれないという下心が、どうにも執筆の邪魔をする気がしたのだ。いや、気のせいだ。多分。
目標は、変わらずあの「雨のバス停」のシーンを完成させること。
前回、彼女に励まされて書き上げたものは、勢いはあったものの、読み返してみるとやはり粗が目立った。特に、ヒロインの描写が薄っぺらい。俺の理想を詰め込んだだけの、都合のいい人形みたいに見えてしまう。
(「あなた自身の感情を込めて」……か)
俺自身の感情。ラブコメを読んでキュンとした気持ち? 切なくなった気持ち? それとも、あの日、彼女と話して感じた、あのドキドキ感?
(そうだ、あの時のことを思い出してみよう)
俺は目を閉じ、一週間前の図書館の光景を思い浮かべた。
隣に座った彼女。落ち着いた雰囲気。柔らかそうな栗色の髪。伏せられた長い睫毛。
消しゴムを拾った時の、不意に合った視線。大きな、吸い込まれそうな瞳。
「ありがとうございます」と言って、ふわりと微笑んだ顔。
(……うん、ドキッとした。確かに)
あの瞬間、俺の心臓は確かに跳ねたのだ。それは、漫画やアニメで描かれる「ズキュウウン!」みたいな効果音付きのものではない。もっと静かで、でも確かな鼓動の高鳴り。まるで、水面に小石を投げ込まれた時のような、小さな波紋。
(この感じだ。この、リアルな心の動きを、小説に落とし込めないか?)
俺はテキストエディタに向き直った。
航が、傘に入れてくれた弥生(仮)の笑顔を見た瞬間。
『彼女は「ありがとう」と言って、ふわりと微笑んだ。その笑顔は、まるで春の陽だまりのようで、不意に俺の心臓を鷲掴みにした。ズキュウウン! と効果音が鳴ったわけじゃない。でも、確かに、胸の奥で何かが「キュン」と音を立てたような気がした。それは、今まで感じたことのない、甘くて、少しだけ苦しいような感覚だった。』
……どうだろうか。
さっきよりは、少しだけマシになったような気がする。少なくとも、「破壊力があった」よりは具体的だ。
でも、「春の陽だまりのよう」とか「心臓を鷲掴み」とか、やっぱりどこか陳腐じゃないか? もっと、俺自身の言葉で表現できないか?
(あの笑顔……そうだ、目が優しかった。口元だけじゃなくて、目元も、ふわりと細められて……。安心するような、それでいて、少しだけ悪戯っぽいような……)
思い出しながら、言葉を探す。
語彙力が、圧倒的に足りない。普段からもっと、色々な表現に触れておくべきだった。国語の授業、もっと真面目に受けておけばよかったな……。
『彼女は「ありがとう」と言って、柔らかく微笑んだ。少し細められた目元には、親しみやすさと、どこか悪戯っぽい光が宿っているように見えた。その視線に射抜かれて、俺の心臓が、トクン、と一つ大きく脈打った。まるで、自分だけが知っている秘密の扉が、静かに開かれたような、そんな不思議な感覚。今まで感じたことのない、温かくて、少しだけ擽ったいような感情が、胸の中にゆっくりと広がっていくのを感じた。』
……うん。さっきより、さらに良くなった気がする。
「秘密の扉が開かれたような感覚」は、ちょっとポエミーすぎるかもしれないが、あの時の俺の気持ちには近いかもしれない。誰にも言ったことのない「小説家になりたい」という夢を、肯定された時の、あの感覚。
(よし、この調子だ)
次は、会話シーン。
共通の趣味、ラブコメの話で盛り上がる場面。
前回は、ただ「面白かった」「あのヒロイン最高!」と言い合うだけで終わってしまった。もっと、二人の個性が出るような会話にしたい。
例えば、弥生(仮)は、どんな風にラブコメを語るだろうか。
あの落ち着いた雰囲気からすると、ただ「キュンとするー!」と騒ぐタイプではなさそうだ。もっと、キャラクターの心情とか、物語の構成とか、そういう部分に注目しているかもしれない。文学作品も読むような人だったし。
『「ラブコメ! いいわね、私も結構好きよ」弥生さんは、少し意外そうな顔をした後、嬉しそうに言った。「特に、登場人物たちの心情が丁寧に描かれている作品が好きかな。不器用な二人が、少しずつ距離を縮めていく過程とか、読んでいてすごく応援したくなるの」』
うん、これなら弥生さん(仮)っぽいかもしれない。
それに対して、航はどう答える?
俺なら……やっぱり、ヒロインの可愛さとか、萌えポイントに目が行きがちだ。
『「え、本当ですか!? 俺はどっちかというと、ヒロインの仕草とかセリフにキュンとすることが多いですけど……あ、でも、確かに、すれ違ってた二人がようやく気持ちを通わせるシーンとかは、グッときますね!」』
少し食い気味に、早口で答える感じ。オタク特有の饒舌さが出てしまう感じ。うん、俺っぽい。
(よしよし、なんか、キャラクターが少しずつ動き出してきたぞ)
夢中でキーボードを叩き続ける。
バス停のシーンを、何度も書き直し、推敲していく。
以前のように、「書けない」という絶望感はない。むしろ、試行錯誤すること自体が、少しだけ楽しいと感じ始めていた。まるで、難しいパズルを解いているような感覚に近いかもしれない。
もちろん、全てが順調なわけではない。
ちょっとした描写、例えば「雨に濡れた彼女の髪」をどう表現するかで三十分悩んだり、「ドキドキする」以外の感情を表す言葉が見つからなくて語彙力辞典とにらめっこしたり。そんなことの繰り返しだ。
『雨粒が、彼女の栗色の髪をそっと濡らしていた。数本、頬に張り付いた髪が、妙に色っぽくて……』
(……色っぽい? 俺が書いていいのか、色っぽいなんて。そもそも、色っぽいって具体的にどういう……? ダメだ、これ以上考えると変態だと思われる)
削除。
『雨粒が、彼女の栗色の髪できらきらと輝いていた。まるで、小さなダイヤモンドを散りばめたようで……』
(……クサい! クサすぎる! ラノベの地の文じゃなくて、ポエムだろこれ)
削除。
『雨に濡れた彼女の髪は、いつもより少し色が濃く見えた。普段はふわりとしている髪が、しっとりと頬にかかっている。そのせいだろうか、いつもより少しだけ、大人びて見えるような気がした。』
(……うん、これくらいなら、まあ、許容範囲か?)
こんな調子で、一進一退を繰り返しながら、少しずつ、本当に少しずつだが、物語は形になり始めていた。
*
そんな風に、執筆に多少の前進が見られるようになった一方で、俺の日常にも、ほんの少しだけ変化が訪れていた。
一番大きな変化は、世界を見る解像度が、ほんの少しだけ上がったような気がすることだ。
今まで気にも留めなかったクラスメイトの女子たちの会話や仕草が、妙に目に付くようになったのだ。
「ねえ、昨日見たドラマの俳優さん、超カッコよくなかった?」
「わかるー! あの、ちょっと強引なとこ、たまんないよね!」
(ふむふむ。女子は、少し強引な男に惹かれる、と。メモメモ……いや、待てよ、これはドラマの話だ。現実の女子もそうなのだろうか?)
「〇〇くんってさ、普段は無口だけど、笑うと可愛いよね」
「えー、わかる! あのギャップがいいんだよー」
(ギャップ萌え、か。定番だけど、やっぱり効果的なんだな。俺の小説の主人公にも、何かギャップを設定してみるか? ……いや、俺自身にギャップなんてないな……)
休み時間に、隣の席の女子が、消しゴムを落とした。
(あっ、これは……!)
思わず、体が反応しかけたが、すぐに別の男子が拾って渡していた。
(……だよな。ラブコメみたいに、毎回俺が拾えるわけないよな)
でも、その時の女子の「ありがとう」という言い方や、表情を、俺は無意識のうちに観察していた。あの時の彼女(弥生さん(仮))とは、全然違う。もっとあっさりとしていて、事務的な感じだ。
(なるほど。相手や状況によって、「ありがとう」一つでも、全然印象が違うんだな)
今までなら聞き流していたであろう些細な出来事が、妙に引っかかるようになった。そして、その度に、頭の中で「これは小説に使えるか?」と、無意識にシミュレーションしている自分がいた。
まるで、常にネタ探しのアンテナを張っているような状態だ。これが、あの彼女の言っていた「インプット」や「人間観察」ということなのだろうか。
健太との会話にも、変化があった。
「おい航、お前、最近なんか雰囲気変わったか?」
昼休み、いつものように健太が話しかけてきた。
「え? そうか? 別に何も変わらないと思うけど」
「いや、なんか……前より、ちょっとだけだけど、話聞いてる感があるっていうか」
「なんだよ、それ。前は聞いてなかったってことか?」
「いや、聞いてはいたんだろうけどさ。なんか、上の空っていうか、『どうせ俺には関係ないし』みたいなオーラが出てたじゃん?」
図星だった。
「……そうだったか?」
「おう。でも、最近は、ちゃんとこっちの話に興味持ってくれてる感じがするぜ。なんかいいことでもあったのか?」
健太が、ニヤニヤしながら聞いてくる。
「……別に、何もないよ」
図書館での出会いのことは、なんとなく健太には話していなかった。話したところで、「誰だよそれ?」「名前は?」「連絡先は?」と根掘り葉掘り聞かれて、結局「名前も知らないのかよ! ダメだな、お前は!」と呆れられるのが目に見えているからだ。
「ふーん? まあ、いいけどさ。とにかく、その調子で、現実にもっと目を向けろよな。そしたら、ラブコメだって書けるようになるって」
「……まあ、努力はしてみる」
以前なら「うるさいな」と返していたところだが、その日は素直にそう答えることができた。健太は少し驚いた顔をしたが、すぐに「おう、頑張れよ!」と肩を叩いてきた。
妹の美咲との関係も、微妙に変化した。
「お兄ちゃん、この数学の問題、教えて」
珍しく、美咲が俺の部屋にやってきた。いつもなら「自分で考えろ」と追い返すところだが、その日は少しだけ気分が良かったので、参考書を広げて教えてやることにした。
「ここは、この公式を使ってだな……」
「ふーん……あ、そっか、なるほどね」
意外にも、美咲は素直に話を聞いていた。
「……珍しいじゃん、お兄ちゃんがちゃんと教えてくれるなんて。なんか企んでるの?」
「別に企んでないよ。たまには、兄らしいこともするさ」
「ふーん。……まあ、サンキュ」
ぶっきらぼうに礼を言って、美咲は部屋を出ていった。
(……なんか、今日の美咲、いつもより素直だったな)
もしかしたら、俺の態度が変わったから、相手の反応も変わったのだろうか。人間関係って、そういうものなのかもしれない。
そんな風に、日常の中で小さな変化を感じながらも、俺の頭の中のかなりの部分を占めているのは、やはりあの図書館の彼女のことだった。
(……名前、なんて言うんだろうな)
結局、あれ以来、彼女に会うことはできていない。
もちろん、俺はあれからほぼ毎日、放課後に図書館に通っている。執筆のため、という名目はあるものの、心のどこかで「また会えるかもしれない」と期待している自分を否定できなかった。
閲覧席を見渡し、それらしき姿がないと分かると、少しだけがっかりする。そして、窓際の、あの日彼女が座っていた席が空いていると、無意識にそこに座ってしまう。まるで、彼女の残り香でも探すかのように。
(……ストーカーみたいだな、俺)
自嘲しつつも、彼女が読んでいた本が気になって、文学書の棚をうろついてみたりもした。
ハードカバーで、少し分厚くて……。でも、それだけの手がかりでは、膨大な蔵書の中から探し出すのは不可能だった。そもそも、タイトルすら覚えていないのだから。
(なんで、もっとちゃんと見ておかなかったんだろう)
(なんで、名前を聞かなかったんだろう)
(なんで、連絡先を……いや、それはハードルが高すぎるか)
後悔ばかりが募る。
もし、もう一度会えたら。今度こそ、ちゃんと名前を聞こう。そして、もし勇気が出たら……連絡先も。
(……いや、待てよ。なんで俺、そんなに彼女に会いたいんだ?)
ふと、疑問に思った。
確かに、彼女は綺麗だった。優しかった。俺の夢を肯定してくれた。
でも、それだけだ。たった一度、少し話しただけの人。
なのに、どうしてこんなにも、彼女のことが頭から離れないんだろう。
これは、もしかして……。
いわゆる、「一目惚れ」というやつなのだろうか?
ラブコメなら、そういう展開もよくある。運命的な出会いを果たした主人公が、ヒロインに一瞬で心を奪われる。
でも、現実の俺が? この、恋愛経験ゼロの俺が?
しかも、相手は名前も知らない、年上の女性。
(……いやいや、そんな、まさか)
慌てて首を振る。
きっと、違う。これは、ただの「感謝」と「尊敬」の念だ。俺の悩みに寄り添ってくれて、的確なアドバイスをくれた、素敵な人。だから、また会って、お礼を言いたい。そして、できれば、また相談に乗ってもらいたい。それだけだ。
(……うん、そうだ。きっと、そうだ)
自分に言い聞かせるように、何度も頷いた。
でも、心の奥底で、何かが違うと囁いているような気もした。
胸の中に灯った、この温かくて、少しだけ擽ったいような感情。それは、単なる感謝や尊敬だけでは説明がつかないような気がするのだ。
(……分からない。自分の気持ちすら、よく分からないなんて)
ラブコメを書こうとしている人間が、これでは話にならない。
俺は、大きくため息をついた。
*
その日は、金曜日だった。
一週間の授業が終わり、開放感に満ちた放課後。健太は「これからゲーセン行くぞ!」と騒いでいたが、俺はいつものように断って、図書館へと向かっていた。
今日は、なんだか特に、彼女に会えるような気がしていた。根拠はない。ただの予感だ。こういう予感は、大抵外れるものだと相場は決まっているのだが。
図書館に着き、自動ドアを抜ける。
いつものように、閲覧席の方へ視線を向ける。窓際の、あの席は……空いている。
(……やっぱり、今日もダメか)
心のどこかで落胆している自分に気づき、小さく苦笑する。期待なんてするから、がっかりするんだ。
気を取り直して、空いている席に座ろうとした、その時だった。
ふわりと、どこからか甘い香りが漂ってきた。
この香り……知っている。
一週間前に、隣の席から香ってきた、あの匂いだ。シャンプーなのか、香水なのか分からないけれど、清潔で、少しだけ甘くて、心を落ち着かせてくれるような、不思議な香り。
まさか、と思って、香りのする方へ視線を巡らせる。
閲覧席ではない。書架の方だ。文庫本のコーナー。
そこに、彼女はいた。
ベージュのブラウスではなく、今日は白いワンピースを着ている。髪は下ろしていて、栗色の髪が肩のあたりで柔らかく揺れていた。真剣な表情で、文庫本の背表紙を眺めている。
(……いた!)
心臓が、ドクン、と大きく跳ねた。
間違いない。あの時の彼女だ。
一週間ぶりに見る彼女の姿は、記憶の中よりもさらに綺麗に見えた。白いワンピースが、彼女の清楚な雰囲気を際立たせている。
どうしよう。
声をかけるべきか?
でも、なんて声をかければいい?
「あの、この前の……」? いや、いきなりすぎるか?
もしかしたら、俺のことなんて、もう忘れているかもしれない。
逡巡しているうちに、彼女は一冊の文庫本を手に取り、パラパラとページをめくり始めた。その横顔は真剣で、声をかける隙がなさそうだ。
(……ダメだ。やっぱり、俺には無理だ)
声をかける勇気が出ない。また、このまま見送るだけなのか?
いや、でも、今度こそ……。
名前を聞きたい。お礼を言いたい。そして……。
俺は、無意識のうちに、一歩、彼女の方へ足を踏み出していた。
その時だった。
彼女が、ふと顔を上げた。
そして、俺の姿を認めると、少しだけ驚いたように目を見開き……次の瞬間、柔らかく微笑んだのだ。
「あ……」
声にならない声が漏れた。
覚えていてくれた。俺のこと。
その事実だけで、胸がいっぱいになった。
彼女は、手にしていた文庫本を棚に戻すと、静かにこちらへ歩いてきた。
甘い香りが、近づいてくる。
「こんにちは。この前ぶりだね」
彼女は、俺の目の前で立ち止まり、声をかけてきた。その声は、やっぱり落ち着いていて、心地よかった。
「こ、こんにちは!」
俺は、緊張で声が上擦りながらも、なんとか挨拶を返した。心臓が、早鐘のように鳴っている。
「奇遇だね。また会えるなんて」
「は、はい! 俺も、びっくりしました!」
(嘘だ。めちゃくちゃ期待してた。毎日探してた)
とは、口が裂けても言えない。
「……元気だった?」
彼女は、少し首を傾げて、俺の顔を覗き込むようにして尋ねた。その仕草に、また心臓が跳ねる。近い。顔が近い。
「は、はい! おかげさまで!」
「そっか、良かった。……小説、進んでる?」
彼女は、悪戯っぽく笑いながら尋ねた。
「あ……はい! なんとか、少しだけですけど……!」
「へえ、すごいじゃない! どんな感じ?」
「えっと……この前、アドバイスもらったみたいに、自分の気持ちとか、正直に書いてみようと思って……。まだまだ、全然ダメなんですけど……」
しどろもどろになりながら答える。
「そっか。頑張ってるんだね」
彼女は、優しい目で俺を見た。
「あの……本当に、ありがとうございました。この前、色々話聞いてもらって、すごく……助かりました」
今度こそ、ちゃんとお礼を言えた。
「ううん、どういたしまして。私も、楽しかったから」
少しだけ、沈黙が流れた。
何を話せばいいのか分からない。でも、このまま別れてしまうのは、絶対に嫌だ。
(……名前。名前を聞かなきゃ)
今だ。今しかない。
勇気を出せ、俺!
「あ、あの!」
「ん?」
「俺、日野航って言います! この前、名乗りそびれちゃったんで……!」
勢い込んで、自己紹介をした。
彼女は、一瞬きょとんとした顔をしたが、すぐに納得したように頷いた。
「ああ、そっか。そうだね。ごめんね、私も名乗ってなかったわね」
そして、にっこりと微笑んで言った。
「私は、桜井弥生。弥生って呼んで」
桜井……弥生さん。
やっぱり、あの時、小説の中で仮につけた名前と同じだった。なんだか、運命みたいなものを感じてしまう。いや、単なる偶然だろうけど。
「弥生……さん」
恐る恐る、名前を呼んでみる。なんだか、すごく特別な響きを持っているように感じた。
「ふふ、よろしくね、航くん」
弥生さんは、楽しそうに言った。
名前を呼び合えた。それだけで、二人の距離がぐっと縮まったような気がした。
嬉しくて、顔がにやけてしまいそうだ。必死で表情筋を引き締める。
「弥生さんは、よくこの図書館に来るんですか?」
なんとか、会話を続けようと質問を投げかける。
「うん、結構来るかな。家が近いし、静かで落ち着くから。航くんも?」
「はい。俺も、家で集中できない時とか……」
「そっか。じゃあ、またここで会えるかもしれないね」
弥生さんは、そう言って微笑んだ。
また会えるかもしれない。その言葉が、とてつもなく嬉しかった。
でも……。
「また会えるかもしれない」じゃなくて、「また会いたい」んだ。確実に。
(……連絡先)
次のハードルだ。
名前を聞くよりも、さらに難易度が高い。
どう切り出せばいい?
「あの、もしよかったら、連絡先……」? いや、ストレートすぎるか?
「小説のことで、また相談したいことがあるので……」? うーん、下心が見え見えか?
悩んでいるうちに、また沈黙が訪れてしまう。
弥生さんは、特に気にした様子もなく、壁の時計に目をやった。
「あ、私、そろそろ友達と約束があって」
「えっ」
もう行ってしまうのか。
まずい。このままじゃ、また何も聞けずに終わってしまう。
「あのっ!」
今度こそ、大きな声が出た。周りの人が、少しだけこちらを見た気がする。
弥生さんも、少し驚いた顔で俺を見た。
「……?」
「あの……もし、迷惑じゃなかったら……その……連絡先、教えていただけませんか!?」
目を瞑って、一気に言い切った。
言ってしまった。もう後戻りはできない。
恐る恐る目を開けると、弥生さんは、少しだけ目を丸くして、俺を見ていた。
(……やっぱり、引かれた? 迷惑だった?)
心臓が、嫌な音を立てて締め付けられる。
断られても仕方ない。初対面に近い年下の男に、いきなり連絡先を聞かれたら、普通は警戒するだろう。
「……ふふっ」
沈黙の後、弥生さんは、突然、小さく吹き出した。
「え?」
「ごめんごめん。航くん、すごく必死な顔してるから」
弥生さんは、くすくすと笑いを堪えながら言った。
「そんなに緊張しなくても、大丈夫だよ」
「え……?」
「いいよ、連絡先。私も、航くんともっと話してみたいなって思ってたから」
……え?
今、なんて……?
もっと話してみたい? 俺と?
信じられない言葉に、俺は完全に思考が停止した。
「……ほ、本当ですか?」
かろうじて、それだけを絞り出した。
「本当だよ。はい、これ」
弥生さんは、スマホを取り出すと、メッセージアプリのQRコード画面を表示して、俺に差し出した。
「……あ、ありがとうございます!」
俺は慌てて自分のスマホを取り出し、震える指でQRコードを読み込んだ。
ピロン、と軽い音がして、弥生さんのアカウントが友達リストに追加された。
桜の花びらのアイコン。名前は「Yayoi」。
(……本当に、交換できた)
夢みたいだった。
数分前まで、名前も知らなかった人と、今、こうして連絡先を交換している。
しかも、相手から「もっと話してみたい」とまで言ってもらえた。
「じゃあ、いつでもメッセージしてきて。小説の相談でも、それ以外のことでも、何でもいいから」
弥生さんは、悪戯っぽく片目を瞑って言った。
「は、はい! 絶対します!」
力強く頷く。
「じゃあ、今度こそ本当に行くね。またね、航くん」
「はい! また!」
弥生さんは、最後にひらりと手を振って、今度こそ図書館の出口へと向かっていった。
白いワンピースの後ろ姿が、自動ドアの向こうに消えていく。
「……」
俺は、しばらくその場に立ち尽くしていた。
手の中のスマホには、弥生さんのアカウントが表示されたままだ。
現実感が、まだない。
(……やった)
じわじわと、実感が湧いてきた。
やったぞ! 俺!
名前を聞けて、連絡先まで交換できた!
しかも、向こうも俺と話したがっていたなんて!
これはもう、ラブコメの主人公と言っても過言ではないのではないか!?
いや、過言か。まだ何も始まっていない。
でも、確かに、大きな一歩を踏み出した。
書けないと悩んでいただけの日常から、確実に、何かが動き出した。
胸の中が、期待と興奮でいっぱいになる。
早く弥生さんにメッセージを送りたい。でも、なんて送ろう?
『今日はありがとうございました!』? いや、普通すぎるか?
『早速ですが、相談が……』? いや、がっつきすぎか?
(……落ち着け、俺)
まずは、深呼吸だ。
焦る必要はない。連絡先は、もう手に入れたのだから。
俺は、興奮を抑えながら、閲覧席へと向かった。
今日はもう、執筆どころではないかもしれない。
でも、それでいい。
だって、最高の「ネタ」が、手に入ったのだから。
いや、ネタじゃない。これは、俺自身の、リアルな物語の始まりなんだ。
窓際の席に座り、ノートPCを開く。
テキストエディタには、まだ完成していないバス停のシーン。
(……このシーン、もっと良くできる気がする)
弥生さんの笑顔を思い出す。
弥生さんの声を思い出す。
弥生さんの香りを思い出す。
今の俺なら、もっと、リアルに、もっと、魅力的に、この出会いを描けるかもしれない。
カタカタ……。
キーボードを打つ音が、再び図書館に響き始めた。
それは、さっきまでよりも、少しだけ軽やかで、弾んでいるような音だった。
空は、いつの間にか綺麗な夕焼け色に染まっている。
窓の外を眺めながら、俺は、これから始まるであろう、弥生さんとの関係に、そして、俺自身の物語に、胸を膨らませていた。
ラブコメみたいな奇跡なんて、そうそう起こらない。
分かっている。
でも、もしかしたら……。
ほんの少しだけなら、期待してもいいのかもしれない。
そんな風に思える自分が、少しだけ、誇らしかった。