最終話(第二十話):俺のラブコメはこれから
長かった梅雨が明け、空には本格的な夏の青が広がっていた。蝉の声が、容赦なく降り注ぐ太陽の光とともに、世界を満たしている。俺、日野航の高校二年生の夏は、かつてないほどの充実感と、そして確かな幸福感の中で始まろうとしていた。
理由は、言うまでもなく、隣にいる彼女――桜井弥生さんの存在だ。
あの雨上がりの公園での、不器用で、でも精一杯の告白を経て、俺たちは正式に恋人同士になった。それは、まるで夢のような出来事だったけれど、隣で微笑む彼女の存在と、繋いだ手の確かな温もりが、これが紛れもない現実であることを教えてくれる。
弥生さんとの関係は、驚くほど穏やかに、そして温かく育まれていた。毎日のメッセージや電話での他愛のない会話、週末ごとに重ねるデート。水族館の薄暗い水槽の前で、ゆらめく魚たちを眺めながらそっと肩を寄せ合ったり、レトロな喫茶店で、他のお客さんの目を盗んでこっそり手を繋いだり、どちらかの家で、手料理を振る舞い合い、くだらないテレビ番組を見て笑い転げたり……。そんな、何気ない日常のすべてが、キラキラと輝いて見えた。
もちろん、時には小さな喧嘩やすれ違いもあった。俺が執筆に没頭しすぎて弥生さんを寂しくさせたり、逆に俺が弥生さんの男友達に勝手に嫉妬したり。でも、その度に俺たちは、ちゃんと話し合い、互いの気持ちを確認し合い、そして、雨降って地固まる、というように、より一層絆を深めていくことができた。不器用で、面倒くさくて、でも、どうしようもなく愛おしい。それが、俺たちのリアルな恋愛の形だった。
そして、俺のもう一つの夢――ラブコメ作家になる、という夢もまた、一つの節目を迎えていた。
あの、最大の難関だった「告白シーン」を乗り越えてからというもの、俺の執筆は、まるで堰を切ったかのように進んだ。弥生さんとのリアルな恋愛経験と、そこから生まれる溢れんばかりの感情が、俺の物語に、以前とは比べ物にならないほどの深みと熱量を与えてくれたのだ。
主人公とヒロインの、甘酸っぱくて、もどかしくて、でも確かな愛情に満ちた日々。それは、もはや単なる創作ではなく、俺と弥生さんの物語そのものを、別の形で描き出しているかのようだった。書けば書くほど、弥生さんへの愛しさが募り、そして、その愛しさがまた、新たな物語のインスピレーションとなる。そんな、幸福なスパイラル。
そして、ついに――。
夏休みが始まった、ある日の午後。
俺は、自室のPCの前で、最後のエンターキーを叩いた。
カチッ、という軽い音とともに、テキストエディタの画面に「Fin.」の文字が表示される。
「……終わった……」
呟いた声は、自分でも驚くほど、掠れていた。
達成感。安堵感。そして、ほんの少しの寂しさ。様々な感情が、一気に胸の中に込み上げてきて、視界が滲む。
長かった。本当に、長かった。
書けないと悩み、もがき、諦めかけ、それでも、書きたいという一心で、ここまでたどり着いた。
弥生さんとの出会いがなければ、彼女の励ましがなければ、そして、彼女との恋がなければ、決して完成させることはできなかっただろう。
この物語は、俺一人の力で書き上げたものではない。
弥生さんと、二人で紡いだ物語なのだ。
俺は、完成した原稿を、何度も何度も読み返した。
拙い部分も、未熟な部分も、たくさんあるだろう。プロの作家から見れば、笑われてしまうような出来かもしれない。
でも、今の俺に書ける、全ての想いを込めた。俺自身の、等身大のラブコメ。
タイトルは、最後まで悩んだ。
色々と考えた末、俺は、この物語の原点であり、そして俺自身の原点でもある、あの言葉をタイトルにすることにした。
『ラブコメを書きたい』
これ以上に、この物語を表す言葉はないだろうと思ったからだ。
そして、俺は、震える指で、とあるウェブ小説投稿サイトのページを開いた。以前からアカウントだけは持っていた、あの場所だ。
ペンネームは、そのまま使おう。
タイトルを入力し、あらすじを書き、ジャンルを選ぶ。
そして、完成したばかりの原稿ファイルを、アップロードする。
最後に、「投稿する」のボタンをクリックする。
……投稿、完了。
あっけないほど、簡単だった。
でも、俺にとっては、それは、人生における、大きな大きな一歩だった。
夢への、第一歩。
投稿された作品ページを、何度も確認する。
アクセス数は、まだゼロ。評価も、感想も、もちろんない。
これから、この物語がどうなるのか、全く分からない。誰にも読まれずに、ひっそりと埋もれていくのかもしれない。それでも、自分の作品を、こうして世に送り出すことができたという事実が、不思議な高揚感と、そして確かな手応えをもたらしてくれた。
その日の夜、俺は弥生さんに、ついに小説を完成させ、ウェブサイトに投稿したことを報告した。もちろん、タイトルが『ラブコメを書きたい』であることも。
『ええっ!? 本当に!? 完成したの!? おめでとう、航くん!!』
弥生さんは、メッセージで、自分のことのように喜んでくれた。
『すごいよ! 本当にすごい! 私、自分のことみたいに嬉しい!』
『それで、タイトル、『ラブコメを書きたい』にしたんだね。……うん、すごく、いいタイトルだと思う。航くんらしい』
その言葉に、俺はまた胸が熱くなった。
『……それでね、航くん』
弥生さんのメッセージは続く。
『もしよかったら……その小説、一番に、読ませてもらってもいいかな?』
もちろん、断る理由はない。
俺は、投稿した作品ページのURLを、弥生さんに送った。
すぐに既読が付き、「ありがとう! 今から読むね!」という返信が来た。
それから、しばらくの間、弥生さんからの連絡は途絶えた。
俺は、落ち着かない気持ちで、ただひたすら、彼女からの感想を待った。
自分の全てを注ぎ込んだ物語。そして、俺たちの物語でもある、この作品。弥生さんは、どう感じるだろうか。
長い、長い時間に感じられた。
そして、ようやく、弥生さんからメッセージが届いたのは、深夜近くになってからだった。
『……読んだよ、航くん』
その一文だけで、俺の心臓は、また激しく高鳴り始めた。
『……もう……涙が止まらない……』
『……すごい……本当に、すごいよ……』
『……感動した……。今まで読んだ、どんなラブコメよりも、一番、心を揺さぶられた……』
涙……? 感動……?
弥生さんの言葉は、俺の想像を遥かに超えていた。
『……主人公くんの気持ちも、弥生さん(仮)の気持ちも……すごく、すごく伝わってきて……』
『……まるで、自分のことのように……ううん、本当に、私たちの物語を、読んでいるみたいで……』
『……最後の、告白シーン……そして、エピローグ……。もう、ダメ……涙腺崩壊……』
弥生さんは、俺の小説を読んで、泣いてくれたのだ。
感動してくれたのだ。
そして、これが「俺たちの物語」だと、感じてくれたのだ。
たとえ、他の誰にも読まれなくても。
たとえ、感想が一つも来なくても。
たった一人でも、弥生さんがこうして感動してくれたのなら、俺がこの物語を書いた意味は、十分すぎるほどあった。
『……航くん、本当にありがとう』
『こんなに素敵な物語を、生み出してくれて、ありがとう』
『そして……私を、ヒロインにしてくれて、ありがとう……!』
……ヒロインにしてくれて、ありがとう。
その言葉に、俺の目からも、熱いものが溢れ出してきた。
ああ、書いてよかった。本当に、書いてよかった。
諦めずに、最後まで書き上げて、本当に良かった。
『弥生さん……こちらこそ、ありがとうございます』
『弥生さんがいなかったら、この物語は、絶対に完成しませんでした』
『俺の、たった一人の、最高の読者でいてくれて、ありがとうございます』
俺は、震える指で、感謝の気持ちを打ち込んだ。
『……もう……航くんったら……(/ω\)』
『……でも、すごく嬉しい』
『……ねえ、航くん』
『……今から、少しだけ、電話してもいい? やっぱり、直接、声が聞きたくなっちゃった』
もちろん、と俺はすぐに返信し、スマホを握りしめた。
すぐに、弥生さんからの着信がある。
「……もしもし、弥生さん?」
『……もしもし、航くん……? ……ふふっ』
電話の向こうから聞こえてくる弥生さんの声は、まだ少しだけ、涙で震えていた。でも、その響きは、とても温かくて、優しくて、そして、幸せに満ちていた。
「……あの、小説……本当に、ありがとうございます」
『……ううん。こっちのセリフだよ……。本当に、感動した……。宝物にするね』
俺たちは、しばらくの間、言葉にならない想いを、電話越しに伝え合った。
そして、どちらからともなく、今日の出来事や、小説の感想や、そして、これからの二人のことについて、夜が更けるのも忘れて、ゆっくりと語り合った。
電話を切る頃には、空はもう白み始めていた。
またしても、徹夜してしまった。
でも、疲労感は全くなかった。ただ、胸の中に、温かくて、大きくて、そして確かな幸福感が満ち溢れているだけだった。
*
夏休みが終わり、二学期が始まった。
俺の日常は、以前とは比べ物にならないほど、充実していた。
ウェブサイトに投稿した『ラブコメを書きたい』は、その後も、爆発的な人気を得ることはなかった。アクセス数は伸び悩み、評価や感想が付くことも稀だった。世の中には、面白い物語が溢れている。俺の拙い作品が、その他大勢の中に埋もれていくのは、仕方のないことなのかもしれない。
少しだけ、落ち込んだりもした。自分の才能の限界を、改めて思い知らされたような気もした。
でも、不思議と、絶望はしなかった。
なぜなら、俺には、たった一人だけれど、最高の読者がいてくれるからだ。
「航くんの小説、私は世界で一番好きだよ」
弥生さんは、いつだって、そう言って俺を励ましてくれた。
「アクセス数とか、評価とか、そんなの気にすることないよ。航くんが、心を込めて書いた物語だもん。その価値は、数字なんかじゃ測れないよ」
その言葉だけで、俺は救われた。また、次を書こうと思えた。
それに、俺の物語は、もうウェブサイトの上だけにあるものではなかった。
俺自身の人生が、弥生さんとの関係が、まさにリアルタイムで進行中の、最高のラブコメなのだから。
弥生さんとの関係は、その後も、穏やかに、そして深く続いていった。
恋人として過ごす時間は、相変わらず幸せで、常に新しい発見と喜びに満ちていた。俺たちは、互いを支え合い、時にはぶつかり合いながらも、共に成長していく。そんな実感があった。
秋が深まり、冬が近づく頃。俺は、次の作品の構想を練り始めていた。
もちろん、それは、またしてもラブコメだ。
ある晴れた週末。俺は、弥生さんと一緒に、思い出の公園のベンチに座っていた。
色づいた落ち葉が、風に舞っている。空は高く澄み渡り、少しだけ冷たい空気が心地よい。
「ねえ、航くん」
弥生さんが、俺の肩にこてん、と頭を預けながら言った。その重みが、愛おしい。
「次の作品は、どんなお話にするの? もう決まった?」
「そうですね……。まだ、ぼんやりとですけど……」
俺は、空を見上げながら答えた。
「でも、やっぱり、ラブコメがいいなって思ってます」
「ふふ、航くんらしいね。私も、それがいいな」
弥生さんが、嬉しそうに笑う。
「だって、俺……ラブコメが、本当に好きですから」
俺は、隣にいる愛しい恋人の顔を見て、心からの笑顔で微笑み返した。
「誰かを、キュンとさせたい。ドキドキさせたい。時には切なくさせたい……。そして、読み終えた時に、心が温かくなって、少しだけ、明日が楽しみになるような……。そんな物語を、これからも、ずっと、書き続けていきたいんです」
「たとえ、多くの人に読まれなくても。たとえ、評価されなくても」
「たった一人でも、誰かの心に、小さな光を灯せるような……そんな物語を」
俺は、言葉を続ける。
「そして……できれば、いつか……」
「……弥生さんとの、この物語も……ちゃんと、ハッピーエンドまで、書き上げたいなって……思ってます」
少しだけ、照れくさかったけれど、正直な気持ちだった。
俺たちのリアルなラブコメ。その結末は、まだ誰にも分からない。でも、俺は、絶対に、ハッピーエンドにしたいと願っている。
俺の言葉に、弥生さんは、一瞬だけ、驚いたように目を見開いた。
そして、次の瞬間、とろけるように甘い、最高の笑顔で、俺の肩に、さらに強く、ぎゅっと、頭を擦り寄せてきた。
「……うん……!」
言葉にはならなかったけれど、その温もりと、確かな鼓動が、彼女の答えを伝えてくれていた。
「……私も、楽しみにしてる。航くんが描く、私たちの物語の、ハッピーエンド」
その言葉に、俺たちは、どちらからともなく、顔を見合わせて、幸せに笑い合った。
ラブコメを書きたい、と願った、あの不器用で、臆病だった少年は、もういない。
俺は、今、自分の人生という、たった一つの、かけがえのないラブコメを、愛する人と一緒に、一歩一歩、紡ぎ始めているのだ。
この物語が、どんな困難にぶつかり、どんな未来へと続いていくのかは、まだ分からない。
きっと、たくさんの喜びと、同じくらいの涙と、そして、数えきれないほどの愛おしい瞬間が、俺たちを待っているのだろう。
でも、もう、何も怖くない。
だって、俺たちのラブコメは、まだ始まったばかりなのだから。
最高のハッピーエンドを目指して。
二人で、一緒に。
そう信じて、俺は、隣にいる彼女の手を、そっと、強く握りしめた。
どこまでも続く、青い空の下で。
物語は、これからも、続いていく。




