表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
20/20

最終話(第二十話):俺のラブコメはこれから

長かった梅雨が明け、空には本格的な夏の青が広がっていた。蝉の声が、容赦なく降り注ぐ太陽の光とともに、世界を満たしている。俺、日野航の高校二年生の夏は、かつてないほどの充実感と、そして確かな幸福感の中で始まろうとしていた。


理由は、言うまでもなく、隣にいる彼女――桜井弥生さんの存在だ。

あの雨上がりの公園での、不器用で、でも精一杯の告白を経て、俺たちは正式に恋人同士になった。それは、まるで夢のような出来事だったけれど、隣で微笑む彼女の存在と、繋いだ手の確かな温もりが、これが紛れもない現実であることを教えてくれる。


弥生さんとの関係は、驚くほど穏やかに、そして温かく育まれていた。毎日のメッセージや電話での他愛のない会話、週末ごとに重ねるデート。水族館の薄暗い水槽の前で、ゆらめく魚たちを眺めながらそっと肩を寄せ合ったり、レトロな喫茶店で、他のお客さんの目を盗んでこっそり手を繋いだり、どちらかの家で、手料理を振る舞い合い、くだらないテレビ番組を見て笑い転げたり……。そんな、何気ない日常のすべてが、キラキラと輝いて見えた。


もちろん、時には小さな喧嘩やすれ違いもあった。俺が執筆に没頭しすぎて弥生さんを寂しくさせたり、逆に俺が弥生さんの男友達に勝手に嫉妬したり。でも、その度に俺たちは、ちゃんと話し合い、互いの気持ちを確認し合い、そして、雨降って地固まる、というように、より一層絆を深めていくことができた。不器用で、面倒くさくて、でも、どうしようもなく愛おしい。それが、俺たちのリアルな恋愛の形だった。


そして、俺のもう一つの夢――ラブコメ作家になる、という夢もまた、一つの節目を迎えていた。

あの、最大の難関だった「告白シーン」を乗り越えてからというもの、俺の執筆は、まるで堰を切ったかのように進んだ。弥生さんとのリアルな恋愛経験と、そこから生まれる溢れんばかりの感情が、俺の物語に、以前とは比べ物にならないほどの深みと熱量を与えてくれたのだ。


主人公とヒロインの、甘酸っぱくて、もどかしくて、でも確かな愛情に満ちた日々。それは、もはや単なる創作ではなく、俺と弥生さんの物語そのものを、別の形で描き出しているかのようだった。書けば書くほど、弥生さんへの愛しさが募り、そして、その愛しさがまた、新たな物語のインスピレーションとなる。そんな、幸福なスパイラル。


そして、ついに――。

夏休みが始まった、ある日の午後。

俺は、自室のPCの前で、最後のエンターキーを叩いた。


カチッ、という軽い音とともに、テキストエディタの画面に「Fin.」の文字が表示される。


「……終わった……」


呟いた声は、自分でも驚くほど、掠れていた。

達成感。安堵感。そして、ほんの少しの寂しさ。様々な感情が、一気に胸の中に込み上げてきて、視界が滲む。


長かった。本当に、長かった。

書けないと悩み、もがき、諦めかけ、それでも、書きたいという一心で、ここまでたどり着いた。

弥生さんとの出会いがなければ、彼女の励ましがなければ、そして、彼女との恋がなければ、決して完成させることはできなかっただろう。


この物語は、俺一人の力で書き上げたものではない。

弥生さんと、二人で紡いだ物語なのだ。


俺は、完成した原稿を、何度も何度も読み返した。

拙い部分も、未熟な部分も、たくさんあるだろう。プロの作家から見れば、笑われてしまうような出来かもしれない。

でも、今の俺に書ける、全ての想いを込めた。俺自身の、等身大のラブコメ。


タイトルは、最後まで悩んだ。

色々と考えた末、俺は、この物語の原点であり、そして俺自身の原点でもある、あの言葉をタイトルにすることにした。


『ラブコメを書きたい』


これ以上に、この物語を表す言葉はないだろうと思ったからだ。


そして、俺は、震える指で、とあるウェブ小説投稿サイトのページを開いた。以前からアカウントだけは持っていた、あの場所だ。

ペンネームは、そのまま使おう。


タイトルを入力し、あらすじを書き、ジャンルを選ぶ。

そして、完成したばかりの原稿ファイルを、アップロードする。

最後に、「投稿する」のボタンをクリックする。


……投稿、完了。


あっけないほど、簡単だった。

でも、俺にとっては、それは、人生における、大きな大きな一歩だった。

夢への、第一歩。


投稿された作品ページを、何度も確認する。

アクセス数は、まだゼロ。評価も、感想も、もちろんない。

これから、この物語がどうなるのか、全く分からない。誰にも読まれずに、ひっそりと埋もれていくのかもしれない。それでも、自分の作品を、こうして世に送り出すことができたという事実が、不思議な高揚感と、そして確かな手応えをもたらしてくれた。


その日の夜、俺は弥生さんに、ついに小説を完成させ、ウェブサイトに投稿したことを報告した。もちろん、タイトルが『ラブコメを書きたい』であることも。


『ええっ!? 本当に!? 完成したの!? おめでとう、航くん!!』

弥生さんは、メッセージで、自分のことのように喜んでくれた。

『すごいよ! 本当にすごい! 私、自分のことみたいに嬉しい!』

『それで、タイトル、『ラブコメを書きたい』にしたんだね。……うん、すごく、いいタイトルだと思う。航くんらしい』


その言葉に、俺はまた胸が熱くなった。


『……それでね、航くん』

弥生さんのメッセージは続く。

『もしよかったら……その小説、一番に、読ませてもらってもいいかな?』


もちろん、断る理由はない。

俺は、投稿した作品ページのURLを、弥生さんに送った。

すぐに既読が付き、「ありがとう! 今から読むね!」という返信が来た。


それから、しばらくの間、弥生さんからの連絡は途絶えた。

俺は、落ち着かない気持ちで、ただひたすら、彼女からの感想を待った。

自分の全てを注ぎ込んだ物語。そして、俺たちの物語でもある、この作品。弥生さんは、どう感じるだろうか。


長い、長い時間に感じられた。

そして、ようやく、弥生さんからメッセージが届いたのは、深夜近くになってからだった。


『……読んだよ、航くん』


その一文だけで、俺の心臓は、また激しく高鳴り始めた。


『……もう……涙が止まらない……』

『……すごい……本当に、すごいよ……』

『……感動した……。今まで読んだ、どんなラブコメよりも、一番、心を揺さぶられた……』


涙……? 感動……?

弥生さんの言葉は、俺の想像を遥かに超えていた。


『……主人公くんの気持ちも、弥生さん(仮)の気持ちも……すごく、すごく伝わってきて……』

『……まるで、自分のことのように……ううん、本当に、私たちの物語を、読んでいるみたいで……』

『……最後の、告白シーン……そして、エピローグ……。もう、ダメ……涙腺崩壊……』


弥生さんは、俺の小説を読んで、泣いてくれたのだ。

感動してくれたのだ。

そして、これが「俺たちの物語」だと、感じてくれたのだ。


たとえ、他の誰にも読まれなくても。

たとえ、感想が一つも来なくても。

たった一人でも、弥生さんがこうして感動してくれたのなら、俺がこの物語を書いた意味は、十分すぎるほどあった。


『……航くん、本当にありがとう』

『こんなに素敵な物語を、生み出してくれて、ありがとう』

『そして……私を、ヒロインにしてくれて、ありがとう……!』


……ヒロインにしてくれて、ありがとう。

その言葉に、俺の目からも、熱いものが溢れ出してきた。

ああ、書いてよかった。本当に、書いてよかった。

諦めずに、最後まで書き上げて、本当に良かった。


『弥生さん……こちらこそ、ありがとうございます』

『弥生さんがいなかったら、この物語は、絶対に完成しませんでした』

『俺の、たった一人の、最高の読者でいてくれて、ありがとうございます』

俺は、震える指で、感謝の気持ちを打ち込んだ。


『……もう……航くんったら……(/ω\)』

『……でも、すごく嬉しい』

『……ねえ、航くん』

『……今から、少しだけ、電話してもいい? やっぱり、直接、声が聞きたくなっちゃった』


もちろん、と俺はすぐに返信し、スマホを握りしめた。

すぐに、弥生さんからの着信がある。


「……もしもし、弥生さん?」

『……もしもし、航くん……? ……ふふっ』

電話の向こうから聞こえてくる弥生さんの声は、まだ少しだけ、涙で震えていた。でも、その響きは、とても温かくて、優しくて、そして、幸せに満ちていた。


「……あの、小説……本当に、ありがとうございます」

『……ううん。こっちのセリフだよ……。本当に、感動した……。宝物にするね』


俺たちは、しばらくの間、言葉にならない想いを、電話越しに伝え合った。

そして、どちらからともなく、今日の出来事や、小説の感想や、そして、これからの二人のことについて、夜が更けるのも忘れて、ゆっくりと語り合った。


電話を切る頃には、空はもう白み始めていた。

またしても、徹夜してしまった。

でも、疲労感は全くなかった。ただ、胸の中に、温かくて、大きくて、そして確かな幸福感が満ち溢れているだけだった。



夏休みが終わり、二学期が始まった。

俺の日常は、以前とは比べ物にならないほど、充実していた。


ウェブサイトに投稿した『ラブコメを書きたい』は、その後も、爆発的な人気を得ることはなかった。アクセス数は伸び悩み、評価や感想が付くことも稀だった。世の中には、面白い物語が溢れている。俺の拙い作品が、その他大勢の中に埋もれていくのは、仕方のないことなのかもしれない。

少しだけ、落ち込んだりもした。自分の才能の限界を、改めて思い知らされたような気もした。


でも、不思議と、絶望はしなかった。

なぜなら、俺には、たった一人だけれど、最高の読者がいてくれるからだ。


「航くんの小説、私は世界で一番好きだよ」

弥生さんは、いつだって、そう言って俺を励ましてくれた。

「アクセス数とか、評価とか、そんなの気にすることないよ。航くんが、心を込めて書いた物語だもん。その価値は、数字なんかじゃ測れないよ」

その言葉だけで、俺は救われた。また、次を書こうと思えた。


それに、俺の物語は、もうウェブサイトの上だけにあるものではなかった。

俺自身の人生が、弥生さんとの関係が、まさにリアルタイムで進行中の、最高のラブコメなのだから。


弥生さんとの関係は、その後も、穏やかに、そして深く続いていった。

恋人として過ごす時間は、相変わらず幸せで、常に新しい発見と喜びに満ちていた。俺たちは、互いを支え合い、時にはぶつかり合いながらも、共に成長していく。そんな実感があった。


秋が深まり、冬が近づく頃。俺は、次の作品の構想を練り始めていた。

もちろん、それは、またしてもラブコメだ。


ある晴れた週末。俺は、弥生さんと一緒に、思い出の公園のベンチに座っていた。

色づいた落ち葉が、風に舞っている。空は高く澄み渡り、少しだけ冷たい空気が心地よい。


「ねえ、航くん」

弥生さんが、俺の肩にこてん、と頭を預けながら言った。その重みが、愛おしい。

「次の作品は、どんなお話にするの? もう決まった?」

「そうですね……。まだ、ぼんやりとですけど……」

俺は、空を見上げながら答えた。

「でも、やっぱり、ラブコメがいいなって思ってます」


「ふふ、航くんらしいね。私も、それがいいな」

弥生さんが、嬉しそうに笑う。


「だって、俺……ラブコメが、本当に好きですから」

俺は、隣にいる愛しい恋人の顔を見て、心からの笑顔で微笑み返した。


「誰かを、キュンとさせたい。ドキドキさせたい。時には切なくさせたい……。そして、読み終えた時に、心が温かくなって、少しだけ、明日が楽しみになるような……。そんな物語を、これからも、ずっと、書き続けていきたいんです」

「たとえ、多くの人に読まれなくても。たとえ、評価されなくても」

「たった一人でも、誰かの心に、小さな光を灯せるような……そんな物語を」


俺は、言葉を続ける。


「そして……できれば、いつか……」

「……弥生さんとの、この物語も……ちゃんと、ハッピーエンドまで、書き上げたいなって……思ってます」


少しだけ、照れくさかったけれど、正直な気持ちだった。

俺たちのリアルなラブコメ。その結末は、まだ誰にも分からない。でも、俺は、絶対に、ハッピーエンドにしたいと願っている。


俺の言葉に、弥生さんは、一瞬だけ、驚いたように目を見開いた。

そして、次の瞬間、とろけるように甘い、最高の笑顔で、俺の肩に、さらに強く、ぎゅっと、頭を擦り寄せてきた。


「……うん……!」

言葉にはならなかったけれど、その温もりと、確かな鼓動が、彼女の答えを伝えてくれていた。


「……私も、楽しみにしてる。航くんが描く、私たちの物語の、ハッピーエンド」


その言葉に、俺たちは、どちらからともなく、顔を見合わせて、幸せに笑い合った。


ラブコメを書きたい、と願った、あの不器用で、臆病だった少年は、もういない。

俺は、今、自分の人生という、たった一つの、かけがえのないラブコメを、愛する人と一緒に、一歩一歩、紡ぎ始めているのだ。


この物語が、どんな困難にぶつかり、どんな未来へと続いていくのかは、まだ分からない。

きっと、たくさんの喜びと、同じくらいの涙と、そして、数えきれないほどの愛おしい瞬間が、俺たちを待っているのだろう。

でも、もう、何も怖くない。


だって、俺たちのラブコメは、まだ始まったばかりなのだから。

最高のハッピーエンドを目指して。

二人で、一緒に。


そう信じて、俺は、隣にいる彼女の手を、そっと、強く握りしめた。

どこまでも続く、青い空の下で。

物語は、これからも、続いていく。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ