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第二話:運命の出会いは、図書館の片隅で

あれから、三日が過ぎた。

あの日、図書館で密かに立てた決意。「書けないなら、書けるようになればいい」。その言葉は、今も俺の胸の中に熱く残っている……はずだった。


現実は、非情である。


水曜日の放課後。俺は再び、自室のPCモニターの前で頭を抱えていた。テキストエディタの画面は、三日前とほとんど変わらない。つまり、白紙同然だ。


決意なんてものは、具体的な行動が伴わなければ、ただの自己満足に過ぎない。分かってはいた。分かってはいたが、いざ「行動」しようとすると、途端に何をしていいのか分からなくなるのだ。


「インプットだ」と意気込んではみたものの、何をどうインプットすればいいのか。

とりあえず、昨日、学校帰りにいつもは素通りするおしゃれなカフェの前で立ち止まってみた。ガラス張りの店内では、大学生くらいのカップルが楽しそうに談笑していた。

(あれが、デートというやつか……。何を話しているんだろう? 表情は……うん、二人とも笑顔だ。楽しそうだ。……で?)

五分ほど観察してみたが、分かったのは「自分は明らかに不審者である」という事実だけだった。慌ててその場を立ち去った。


「人間観察だ」と、教室で周りを見渡してみた。

休み時間、友人たちとスマホゲームに興じる男子グループ。恋バナで盛り上がっている(ように見える)女子グループ。黙々と次の授業の予習をする真面目なクラスメイト。窓の外をぼんやり眺めている、ちょっと影のあるイケメン(こいつがラブコメ主人公ならモテるんだろうな……)。

(……うん、日常だ。特に、ラブコメのネタになりそうな出来事はない)

そもそも、人をジロジロ観察する行為自体が性に合っていない。すぐに罪悪感を覚えてしまい、長続きしなかった。


結局、俺がやっていることと言えば、相変わらず「小説家になろう」や既存のラブコメ作品を読み漁ることだけだった。インプットの種類が増えるどころか、ますます偏りが酷くなっている気がする。


「はぁ……俺って、本当にダメだな……」


自己嫌悪のループ。三日前の決意はどこへやら。完全に振り出しに戻ってしまっている。いや、むしろマイナスかもしれない。一度「やるぞ!」と思った分、できない自分への失望感が半端ない。


(そもそも、「経験がないなら積めばいい」って、簡単に言うけどさ……)


恋愛経験なんて、どうやって積むんだ?

健太みたいに合コンに行く? 無理だ。まず誘われないし、誘われたとしても、あのキラキラした空間に耐えられる自信がない。

誰かに告白する? 冗談じゃない。まず相手がいない。それに、玉砕前提で告白するなんて、相手に失礼すぎる。


(……やっぱり、俺みたいな人間がラブコメを書こうなんて、おこがましいのかもしれない)


弱気な考えが、また頭をもたげてくる。

書けない苦しみから解放されるなら、いっそ諦めてしまった方が楽なのではないか?


いや、ダメだ。諦めないと決めたじゃないか。

ここで諦めたら、俺には何も残らない。


「……そうだ。場所を変えよう」


気分転換が必要だ。この狭い自室で、同じ画面とにらめっこしていても、何も生まれない。

どこへ行くか?

答えは、一つしかない。


俺はノートPCをリュックに詰め込み、部屋を飛び出した。

目指すは、市立図書館。

あそこなら、少なくとも静かな環境で集中できるはずだ。それに、もしかしたら……ほんの少しだけ、何かいいことがあるかもしれない、なんて。淡い期待を抱きながら。


市立図書館は、放課後のこの時間帯、学生や主婦、年配の方々でそれなりに賑わっていた。とはいえ、皆それぞれの目的に集中しており、話し声はほとんど聞こえない。ページをめくる音、キーボードを打つ音、空調の微かな作動音だけが、静寂の中に響いている。


俺は、お気に入りの窓際の閲覧席へと向かった。幸い、一つ空いている席があった。三日前に座った席の、ちょうど隣だ。


席に着き、ノートPCを取り出して起動する。深呼吸を一つ。

「よし、今日こそは……」


今日こそは、あのバス停のシーンを完成させる。たとえそれがテンプレートだとしても、まずは形にすることが大事だ。そこから、どうオリジナリティを出していくか考えればいい。


テキストエディタを開き、書きかけの文章を呼び出す。

『雨音をBGMに、傘の中で弾む会話。時折、風で傘が揺れて、二人の肩が触れ合う。その度に、航はドキッとして、弥生さんは少し意地悪そうに微笑む。』


……うん。やっぱり、どこかで読んだような描写だ。

「肩が触れ合う」。定番中の定番。分かってる。でも、他にどんな描写がある?

「不意に彼女の髪の匂いがして、心臓が跳ねた」? うーん、これも使い古されているか。

「見つめ合う二人。雨音だけが響く中、時間が止まったように感じた」? ……クサすぎるな。


「……難しい」


思わず、小さな声が漏れた。

どうすれば、ありきたりではない、読者の心に響くような描写ができるんだろう。


(そもそも、俺、女の子と肩が触れ合ったことなんて、あったか……?)


記憶を探ってみる。

満員電車で、やむを得ず隣の人と密着したことはある。でも、それは「不快」でしかなかった。

体育祭の二人三脚……いや、あれは相手が健太だった。論外だ。

文化祭の準備で、狭い倉庫で女子とすれ違った時に、少し腕が触れたような……? でも、その時俺は「あっ、すいません」と謝っただけで、特に何も感じなかった気がする。


(……ダメだ。経験がなさすぎる)


想像力が足りないのか。いや、想像するにも、元になる「体験」や「感情」がないのだ。ゼロから何かを生み出すことはできない。


俺は再び、深い溜息をつきそうになった。

その時だった。


すっ、と隣の空いていた椅子が引かれる音がした。

誰か来たようだ。ちらりと視線を向ける。


そこに立っていたのは、一人の女性だった。

歳の頃は……二十代前半くらいだろうか。落ち着いたベージュのブラウスに、ふわりとしたロングスカート。少し長めの、柔らかな栗色の髪を、うなじのあたりで緩く一つにまとめている。


(……あれ?)


どこかで見たような気がする。

そうだ。三日前の夕方、この図書館で見かけた女性だ。窓際で静かに本を読んでいた、あの。


(……綺麗な人だな)


改めて見ても、そう思った。派手な美人というわけではない。けれど、佇まいが上品で、どこか知的な雰囲気が漂っている。肌がきめ細かく、透き通るように白い。長い睫毛が、伏せられた目に影を落としている。


彼女は、持っていたトートバッグを静かに机に置き、椅子に腰かけた。そして、バッグから一冊の本を取り出した。ハードカバーの、少し分厚い本。前回と同じ本だろうか? タイトルまでは見えない。


彼女は、俺の存在には気づいていないようだった。あるいは、気づいていても、特に気にしていないか。すぐに本の世界に入り込んだようで、静かにページをめくり始めた。


(……集中しなきゃ)


いかんいかん。隣の人が気になるなんて、集中力が足りない証拠だ。俺は自分のPC画面に意識を戻そうとした。


だが、一度気になり始めると、どうにも意識が向いてしまう。

彼女がページをめくる、かすかな音。

時折、小さく息をつく気配。

窓から差し込む西日が、彼女の横顔を柔らかく照らし出す。その光景が、なんだか一枚の絵画のように見えて、目が離せなくなる。


(……ラブコメなら、ここで何か起こるんだよな)


例えば、彼女が読んでる本が、たまたま俺が好きな作家の本だったり。

あるいは、彼女が何か探し物をしていて、俺がそれを手伝ったり。

はたまた、突然彼女が話しかけてきたり……。


(……なんて、あるわけないか)


現実は非情だ。俺は俺。彼女は彼女。俺たちの世界が交わることなんて、きっとない。

そう自分に言い聞かせ、再び執筆に戻ろうとした。


その時だった。


カタン、コロコロコロ……。


小さな音がして、視線を上げると、隣の彼女が何かを落としたようだった。床に転がったのは、可愛らしい猫の形をした……消しゴム?


彼女は「あっ」と小さな声を漏らし、慌てて拾おうと屈んだ。しかし、消しゴムはさらにコロコロと転がり、ちょうど俺の足元で止まった。


「……」

「……」


一瞬の沈黙。

彼女が、少し困ったような顔で俺を見た。目が合う。

大きな、吸い込まれそうな瞳だった。


「あ、あの……すみません。拾ってもらえませんか?」


声は、想像していたよりも少し低めで、落ち着いた響きだった。でも、とても心地よい声だ。


「え? あ、はい!」


俺は慌てて屈み、猫の消しゴムを拾い上げた。プラスチック製で、少しずっしりとした重みがある。


「どうぞ」

「ありがとうございます。助かりました」


彼女は消しゴムを受け取ると、ふわりと微笑んだ。

その笑顔が、なんだかとても……破壊力があった。不覚にも、心臓が少しドキッとした。


「いえ……どういたしまして」

ぎこちなく返事をするのが精一杯だった。


これで会話は終わりだろう。俺は再びPCに向き直ろうとした。

だが、彼女は続けた。


「隣、失礼します。なんだか、すごく集中されてるみたいだったから、邪魔しちゃったかなって思って」

「え? あ、いえ、そんなこと……」

否定しかけたが、すぐに思い直した。

(いや、ここは正直に言うべきか? いや、でも……)

どう答えるのが正解なのか分からない。


「……実は、ちょっと行き詰まってて。集中、できてなかったです」

結局、正直に答えてしまった。なんだか情けない。


すると、彼女はくすくすと小さく笑った。

「そうなんだ。何をそんなに悩んでたの?」

まるで、昔からの知り合いに話しかけるような、自然な口調だった。その屈託のなさに、俺は少し戸惑った。


「えっと……それは……」

まさか初対面の人に、「ラブコメが書けなくて悩んでるんです」なんて言えるわけがない。

「……まあ、ちょっと、個人的なことで」

曖昧に濁した。


「ふーん?」

彼女は、特に詮索する様子もなく、俺のノートPCの画面にちらりと視線を向けた。そこには、まだ書きかけのバス停のシーンが表示されている。

「……何か、書いてるの?」

「えっ!?」

見られた!? と思って、思わず画面を手で隠そうとしてしまった。だが、もう遅い。

「あ、ごめんなさい! つい、見ちゃった」

彼女は悪戯っぽく笑って、ぺろりと舌を出した。その仕草が、年上なのに妙に可愛らしくて、また心臓が跳ねた。


「い、いえ……大したものじゃないんで……」

「小説?」

彼女は、真っ直ぐに俺の目を見て尋ねた。

その瞳に見つめられると、なんだか嘘をつけないような気がした。


「……はい。まあ、そんなようなものを、書こうとはしてるんですけど……」

観念して、小さく頷いた。

「へえ、すごい! どんな小説書いてるの?」

彼女の目が、キラキラと輝いたように見えた。それは、社交辞令とか、お世辞とかではなさそうだ。本当に興味を持ってくれている、そんな感じがした。


(……どうしよう。正直に言うべきか?)


ラブコメを書いている、なんて言ったら、笑われるだろうか。馬鹿にされるだろうか。「恋愛経験もないくせに」って、心の中で思われるだろうか。

不安が頭をよぎる。


でも……。

彼女の、この真っ直ぐな瞳を見ていると。

そして、この、どうしようもない閉塞感を打ち破るきっかけが、もしかしたらここにあるのかもしれないと思うと。


俺は、意を決して口を開いた。


「……あの、笑わないで聞いてほしいんですけど」

「うん?」

「ラブコメ、なんです。ラブコメを、書きたいんです」

俯き加減に、消え入りそうな声で言った。


一瞬の沈黙。

ああ、やっぱり引かれただろうか。変なやつだと思われただろうか。

顔を上げられない。


すると、彼女は言った。

「ラブコメ! いいじゃない!」


予想外の、明るい声だった。

驚いて顔を上げると、彼女はにっこりと満面の笑みを浮かべていた。


「私、ラブコメ好きよ。読むのも、見るのも」

「え……本当ですか?」

「本当本当。キュンとしたり、切なくなったり、読んでてすごく幸せな気持ちになれるじゃない? それを自分で書こうなんて、すごく素敵だと思う」


素敵……?

俺が? ラブコメを書こうとしていることが?

信じられなかった。今まで、健太以外に自分の夢を話したことはなかったし、健太の反応も「まあ、頑張れよ」程度のものだった。こんな風に、真正面から肯定されたのは初めてだった。


「……でも、全然、書けないんです」

思わず、本音が漏れた。

「経験とか、才能とか、そういうのが全然なくて……。頭の中では色々考えるんですけど、いざ書こうとすると、全然リアルにならなくて。ありきたりなことしか書けないんです」

堰を切ったように、言葉が溢れ出てきた。初対面の相手に、こんな個人的な悩みを打ち明けるなんて、普段の俺からは考えられないことだった。でも、彼女の雰囲気には、なんだかそうさせてしまうような、不思議な安心感があった。


彼女は、黙って俺の話を聞いていた。時折、優しく相槌を打ちながら。その真剣な眼差しが、俺に更なる言葉を促しているようだった。


一通り話し終えると、俺は少し冷静になって、急に恥ずかしくなった。

「……すみません。いきなり、変なこと話しちゃって」

「ううん、全然」

彼女は、穏やかに首を横に振った。

「むしろ、話してくれて嬉しいよ。……そっか、それで悩んでたんだね」


彼女は、少し考えるように顎に手を当てた。その仕草も、なんだか様になっている。

「経験がないから、リアルに書けない、か……。それは、多くの創作者がぶつかる壁かもしれないわね」

「……やっぱり、そうなんですかね」

「うん。でもね、思うんだけど」

彼女は、再び俺の目を真っ直ぐに見た。


「経験がないからこそ、書けるものもあるんじゃないかな?」

「え?」

予想外の言葉に、俺は目を瞬かせた。


「経験がないから、理想を純粋に追求できる。経験がないから、読者の『こうだったらいいな』っていう願望を、ストレートに形にできる。経験豊富な人が書くリアルな恋愛もいいけど、そういう、ちょっと夢見がちな、キラキラしたラブコメも、すごく魅力的だと思うけどな」

「……キラキラした、ラブコメ……」

「そう。例えば、あなたが今書こうとしてる、そのバス停のシーンだって」

彼女は、再び俺のPC画面に目を向けた。

「確かに、テンプレートかもしれない。でも、そのテンプレートが、どうして多くの作品で使われるのかって考えたことある?」

「え……?」

考えたこともなかった。


「それはきっと、多くの人が、そういう出会いに憧れてるからじゃないかな。雨の日、困っている時に、素敵な人が現れて、傘に入れてくれる。そして、共通の趣味で話が弾んで……。ベタかもしれないけど、すごくロマンチックで、ドキドキするシチュエーションだと思うよ」

「……」

「だから、テンプレートであることを恐れる必要はないんじゃないかな。大事なのは、そのテンプレートを、いかにあなた自身の言葉で、あなた自身の感情を込めて描けるか、ってことだと思う」


あなた自身の言葉で。あなた自身の感情を込めて。


その言葉が、すとんと胸に落ちたような気がした。

今まで俺は、「リアルじゃない」「ありきたりだ」ということばかり気にして、どうすれば「上手く」書けるか、ということばかり考えていた。でも、そうじゃないのかもしれない。


たとえ拙くても、たとえありきたりでも。

今の自分が感じている「こうだったらいいな」という憧れや、「こんな風にドキドキしたい」という願望を、素直に言葉にしてみる。そこから始めるべきなのかもしれない。


「……そっか……」

ぽつりと呟くと、視界が少し開けたような気がした。


「もちろん、これから色々な経験を積んだり、人間観察をしたりすることも、すごく大事だと思う。インプットは多い方がいいに決まってるから。でも、今すぐ経験がないからって、書くことを諦める必要は全然ないと思うな」

彼女は、励ますように、優しく微笑んだ。

その笑顔を見ていると、なんだか、本当に頑張れるような気がしてきた。


「……ありがとうございます。なんだか、すごく……元気が出ました」

素直な気持ちだった。

「ふふ、どういたしまして。私も、なんだか応援したくなっちゃった」

彼女は楽しそうに言った。


その時、図書館の壁にかけられた時計が、午後五時を告げるチャイムを鳴らした。

「あら、もうこんな時間」

彼女は少し驚いたように言った。

「私、そろそろ行かなきゃ。今日は、ありがとう。面白い話が聞けたわ」

彼女はそう言って、本や消しゴムをトートバッグにしまい、立ち上がった。


「あ……」

もう行ってしまうのか、と思うと、なんだか名残惜しい気がした。

もっと話したい。もっと、この人の話を聞きたい。


「あの!」

思わず、呼び止めていた。

彼女は、少し驚いた顔で振り返った。

「……?」


「あの……もし、よかったら……また、お話できませんか?」

言ってから、しまった、と思った。いきなり馴れ馴れしすぎただろうか。警戒されてしまっただろうか。


しかし、彼女は、一瞬きょとんとした後、すぐにふわりと微笑んだ。

「ええ、もちろん。私も、あなたの小説、読んでみたいな」

「え!?」

「完成したら、是非。……あ、でも、無理はしないでね。自分のペースで、楽しんで書くのが一番だから」

「は、はい!」


「じゃあ、また」

彼女はそう言って、軽く手を振ると、今度こそ閲覧席を後にした。

そのすらりとした後ろ姿が、書架の向こうに消えていくのを、俺はぼんやりと見送っていた。


「……」


静寂が戻ってきた。

隣の席には、もう誰もいない。

でも、さっきまでの空気とは、明らかに何かが違っていた。

彼女がいた場所に、まだ温もりと、そして……甘い香りが、微かに残っているような気がした。


(……名前、聞くの忘れた)


今更ながら、そのことに気づいた。

連絡先も、聞いていない。

これじゃあ、「また話す」ことなんて、できないじゃないか。


(……馬鹿だな、俺)


せっかくのチャンスを、また逃してしまった。

ラブコメの主人公なら、ここで機転を利かせて名前くらい聞くんだろうに。


でも……。

不思議と、落ち込んではいなかった。

それよりも、胸の中に、じんわりとした温かいものが広がっていくのを感じていた。


彼女の言葉。

「経験がないからこそ、書けるものもある」

「テンプレートであることを恐れる必要はない」

「あなた自身の言葉で、あなた自身の感情を込めて」


その言葉が、俺の中で反響していた。

そうだ。俺は、俺のままでいいのかもしれない。今の俺にできることを、精一杯やればいいのかもしれない。


(……書いてみよう)


もう一度、あのバス停のシーンを。

今度は、「上手く」書こうとするのではなく、俺が本当に「こうだったらいいな」と思う憧れを、正直にぶつけてみよう。


俺は、再びノートPCに向き直った。

テキストエディタの画面は、相変わらず白い部分が多い。

でも、さっきまでとは違って、それはもう「虚しい白紙」には見えなかった。

これから、俺の物語が描かれていく、「可能性の白」に見えた。


カタカタと、キーボードを打つ音が、静かな図書館に響き始める。

それはまだ、たどたどしく、不確かな音だったかもしれない。

でも、確かに、俺の新しい一歩が、そこから始まろうとしていた。


隣の席から香ってきた、甘い匂いの正体も知らないまま。

今日出会った彼女の名前も、連絡先も知らないまま。

それでも、俺の心は、久しぶりに、確かな希望の光で満たされていた。


もしかしたら、これが、何かの始まりになるのかもしれない。

そんな、ラブコメみたいな、都合のいい予感を抱きながら。

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