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第十九話:不器用な告白

夕暮れの公園のベンチ。雨上がりの澄んだ空気の中、俺、日野航は、人生で初めての、そして全身全霊の告白をした。年上の、ずっと憧れていた、そしていつしかどうしようもなく惹かれていた女性、桜井弥生さんに。「好きです。俺と、付き合ってください」と。


震える声で、格好悪くて、不器用極まりない告白だったと思う。断られても仕方がない、いや、断られる可能性の方が高いとさえ思っていた。なのに、弥生さんの答えは「はい」だった。涙を流しながら、でも、今まで見た中で一番美しい笑顔で、彼女は俺の想いを受け入れてくれたのだ。


その瞬間、俺の世界は文字通り反転した。モノクロだった景色に、鮮やかな色彩が溢れ出し、遠くに聞こえる街の喧騒さえ、祝福のファンファーレのように感じられた。胸がいっぱいで、言葉が出てこない。ただ、隣にいる弥生さんの存在が、握りしめた手の温もりが、あまりにもリアルで、温かくて、これが夢ではないことを教えてくれていた。


「……あの、弥生さん……本当に……いいんですか? 俺なんかで……」

しばらくして、ようやく絞り出したのは、そんな情けない言葉だった。まだ、信じられない気持ちの方が大きかったのだ。

すると、弥生さんは、まだ少し涙で濡れた瞳で俺を見て、くすくすと笑った。

「もう、航くん。『俺なんか』なんて言わないで。私の方こそ、航くんみたいな素敵な人に好きになってもらえて……すごく、すごく嬉しいんだから」

「す、素敵だなんて……そんな……!」

「素敵だよ。真っ直ぐで、優しくて、一生懸命で……。それに、才能もある。私は、航くんの書く小説も、航くん自身のことも、全部、大好きだよ」


大好き――。

その言葉の破壊力は、凄まじかった。俺の心臓は、またしても限界を超えて高鳴り、顔中の血液が一気に沸騰するような感覚に襲われる。もう、顔がどれだけ赤くなっているかなんて、気にする余裕もない。


「……あ、ありがとう、ございます……!」

かろうじて、それだけを返すのが精一杯だった。


俺たちは、どちらからともなく、また顔を見合わせて、照れたように笑い合った。繋いだ手の温もりが、心地よい。さっきまでの、不安や疑念や、もどかしさといったネガティブな感情は、嘘のように消え去っていた。ただ、純粋な喜びと、幸福感だけが、胸の中に満ち溢れていた。


これが、恋が成就するということなのか。

ラブコメの中で描かれてきた、あのキラキラした瞬間。それを、今、俺は現実に体験しているのだ。想像していた以上に、それは温かくて、くすぐったくて、そして、少しだけ切ないような、不思議な感覚だった。


「……じゃあ、改めて……これから、よろしくお願いします、弥生さん」

俺は、少しだけ真面目な表情を作って、もう一度、弥生さんの目を見て言った。

「うん……! こちらこそ、よろしくね、航くん」

弥生さんも、真剣な眼差しで頷き返し、そして、ふわりと微笑んだ。その笑顔は、もう何の翳りもなく、ただただ、幸せに満ちているように見えた。


俺たちは、どちらからともなく、繋いだ手に力を込めた。言葉にしなくても、互いの気持ちが、温かく伝わってくる。


しばらくの間、俺たちはそのまま、ベンチに座って、夕闇が迫る空を眺めていた。隣に弥生さんがいる。俺の彼女として。その事実だけで、ありふれた公園の景色が、特別な輝きを放っているように見えた。


何を話したというわけではない。ただ、時折、他愛のない言葉を交わしたり、どちらからともなく微笑み合ったりするだけ。それでも、その時間は、今までで一番、満たされた、幸せな時間だった。もう、「取材」という言い訳は必要ない。俺たちは、ただ、二人でいる時間を、心から楽しんでいたのだ。


やがて、公園の時計が、閉園の時刻が近いことを告げるメロディーを奏で始めた。

「……あ、もうこんな時間だね」

弥生さんが、名残惜しそうに言った。

「本当ですね……。帰りたくない、ですけど……」

素直な気持ちが、口をついて出る。

「……ふふ。私もだよ」

弥生さんも、小さく笑って同意してくれた。その共感が、また嬉しい。


「……送ります」

俺は、立ち上がりながら言った。

「え? でも、航くんの家、こっちじゃないでしょ?」

弥生さんは、少し驚いた顔をした。確かに、俺の家は反対方向だ。

「いいんです。……彼女になった人を、一人で夜道歩かせるわけにはいきませんから」

少しだけ、格好つけて言ってみる。自分で言っていて、かなり恥ずかしかったが。

弥生さんは、一瞬きょとんとした後、みるみるうちに顔を赤くして、俯いてしまった。

「……もう……航くん……!」

その反応が、たまらなく愛おしい。


結局、弥生さんの家の近くまで、俺は彼女を送っていくことになった。

繋いだ手は、そのまま。夜道を、ゆっくりと、並んで歩く。

街灯の光が、俺たちの影を長く伸ばしている。時折、どちらかの手が汗ばんでいるのを感じて、少しだけ恥ずかしくなる。でも、離そうとは思わなかった。


弥生さんのマンションの前まで着くと、さすがにここで別れなければならない。

「……じゃあ、ここで」

弥生さんが、名残惜しそうに言った。

「はい。……あの、ちゃんと家に着くまで、見届けます」

「え、いいよ、もう着いたんだから」

「いえ、念のためです」

妙なところで頑固な俺に、弥生さんは呆れたように、でも嬉しそうに笑った。


「……じゃあ、また、明日……連絡するね?」

「はい! 待ってます!」

「……航くんも、気をつけて帰ってね」

「はい。……おやすみなさい、弥生さん」

「……おやすみ、航くん」


最後に、もう一度、強く手を握り合ってから、ゆっくりと離す。

離れた手のひらが、寂しい。でも、心は温かいもので満たされていた。

弥生さんがマンションの中に入っていくのを最後まで見届けてから、俺は、軽くなった足取りで、自分の家へと向かった。


帰り道、俺は何度も、にやけてしまうのを抑えきれなかった。

信じられない。本当に、弥生さんと付き合うことになったなんて。

まるで、夢を見ているようだ。

でも、手のひらに残る、弥生さんの手の温もりと、胸の中に溢れる幸福感が、これが紛れもない現実であることを教えてくれていた。


(……書けるかもしれない)


ふと、そう思った。

今まで、あれほど書けなかった、告白シーン。

今なら、書けるかもしれない。

いや、書かなければならない。

俺自身の、このリアルな体験と、溢れる感情を、物語に注ぎ込むんだ。


家に帰り着くと、俺は、家族に怪しまれるほどの満面の笑みで(美咲には「うわ、さらにキモくなった」と言われたが)、風呂と食事を猛スピードで済ませ、自室に駆け込んだ。

そして、PCの前に座る。

テキストエディタを開き、あの、空白のままだったページと向き合う。


深呼吸を一つ。

そして、キーボードに指を置く。


不思議なことに、あれほど悩んでいたのが嘘のように、言葉が、次から次へと溢れ出してくるのだ。


主人公の、告白前の葛藤。

ヒロインへの想いの深さ。拒絶されることへの恐怖。それでも、伝えなければならないという覚悟。

そして、勇気を振り絞って、想いを告げる瞬間。

震える声。真っ直ぐな瞳。伝わる、熱い気持ち。

それを聞いたヒロインの、驚き、戸惑い、そして、込み上げてくる喜びの涙。

「はい」という、小さな、しかし確かな返事。

結ばれた二人の、照れくさいけれど、幸せに満ちた時間。


俺自身の体験と感情が、そのまま、主人公とヒロインの言葉となり、行動となり、物語を紡いでいく。そこには、もう、何の迷いも、躊躇いもなかった。ただ、心の赴くままに、キーボードを叩き続けた。


『「好きです」――その言葉は、決して流暢ではなかったかもしれない。声は震え、顔は赤くなり、視線は定まらなかったかもしれない。それでも、そこには、彼の、嘘偽りのない、ありったけの想いが込められていた。』

『彼女の瞳から、大粒の涙が零れ落ちた。それは、悲しみではなく、喜びの涙。ずっと、心の奥底で願っていた言葉を、ようやく聞くことができた、安堵の涙。そして、彼の真っ直ぐな想いに、心を打たれた、感動の涙だった。』

『「はい」――彼女のか細い、しかし確かな返事は、彼の世界を、永遠に変えた。触れ合った手の温もりが、二人の間に生まれた、新しい絆の証だった。』


書いているうちに、俺自身も、あの公園での出来事を追体験しているかのように、胸が熱くなり、目頭が潤んできた。

これが、「自分の言葉で、感情を込めて書く」ということなのか。

弥生さんが、ずっと俺に伝えたかったのは、こういうことだったのかもしれない。


気づけば、窓の外は白み始めていた。またしても、徹夜してしまったようだ。

だが、疲労感は全くなかった。むしろ、全身が、心地よい達成感と、そして、新たな創作への意欲で満ち溢れていた。


(……書けた。俺、書けたぞ……!)


ついに、最大の壁を乗り越えることができたのだ。

しかも、自分でも納得のいく、最高の形で。


俺は、完成したばかりの告白シーンを含む原稿を、震える指で保存した。

これを、弥生さんに読んでもらいたい。

早く、感想が聞きたい。

そして、伝えたい。この物語は、俺たちの物語なんだ、と。


いや、待てよ。さすがに、それはまだ早いか。

まずは、恋人として、ちゃんと関係を築いていくことが先決だ。

焦る必要はない。俺たちの時間は、まだ始まったばかりなのだから。


スマホを確認すると、弥生さんから「おはよう(^-^) 昨日はありがとう。まだ夢みたいだよ」というメッセージが届いていた。

俺は、満面の笑みで、「おはようございます! こちらこそ、ありがとうございました! 俺も、まだ夢みたいです!」と返信した。



告白が成功し、弥生さんと正式に恋人同士になってから、俺の日常は、さらに輝きを増した。


執筆活動は、スランプを完全に脱し、絶好調そのものだった。告白シーンを乗り越えたことで、物語全体の構成も明確になり、ラストスパートに向けて、迷いなく筆を進めることができるようになった。弥生コピーの描写にも、さらに深みと愛情が込められるようになったのは言うまでもない。それは、もはやモデルというよりも、俺自身の愛する恋人を描いているような感覚だった。


弥生さんとの関係も、順調そのものだった。

毎日のメッセージのやり取りは、さらに甘く、親密なものになった。「好きだよ」「私も好き」といった、以前では考えられなかったようなストレートな言葉が、自然と交わされるようになる。電話で話す時間も増えた。弥生さんの、少し眠そうな、甘えたような声を聞くだけで、俺の心は幸福感で満たされた。


週末には、デートを重ねた。

もう、「取材」という言い訳は必要ない。純粋に、二人で過ごす時間を楽しむためのデートだ。

約束していた水族館にも行った。薄暗い水槽の前で、ゆらゆらと泳ぐ魚たちを眺めながら、そっと手を繋いだ。周りのカップルたちと同じように。それが、なんだかすごく自然で、幸せだった。

弥生さんが気になっていたという、レトロな喫茶店「珈琲館 ボタン」にも行った。美味しいコーヒーとケーキを味わいながら、他愛のない話で笑い合った。

時には、どちらかの家で、手料理(弥生さんが作ってくれることが多かったが、俺も簡単なものなら挑戦した)を食べながら、映画を見たり、本を読んだりして過ごすこともあった。そんな、何気ない日常のひとときが、何よりも愛おしく感じられた。


俺たちは、互いのことを、さらに深く知っていった。

弥生さんの、意外なほどのおっちょこちょいな一面や、涙もろいところ、そして、時折見せる、年上としての頼もしさや、包容力。

そして、俺の、内向的で、少し理屈っぽいけれど、一度決めたことは最後までやり遂げようとする頑固さや、弥生さんの前でだけ見せる、素直な笑顔。

互いの良いところも、少しダメなところも、全てを受け入れ合い、尊重し合える。そんな、温かくて、心地よい関係性を、俺たちは少しずつ築き上げていた。


もちろん、全てが順風満帆だったわけではない。

俺が執筆に没頭しすぎて、弥生さんからの連絡に気づかなかったり、デートの約束を忘れかけたりして、弥生さんを少しだけ拗ねさせてしまうこともあった。(「もう、航くんのバカ! 小説と私、どっちが大事なの!」と、涙目で言われた時は、心臓が止まるかと思ったし、平謝りするしかなかった)

逆に、弥生さんが大学の友人(特に、あの元カレの先輩も含まれるであろう男友達)と楽しそうに話しているのを見て、俺が勝手に嫉妬して、少しだけ不機嫌な態度をとってしまい、弥生さんを困らせてしまうこともあった。(「もう、航くんってば、可愛いんだから。心配しなくても、私には航くんしかいないよ?」と、優しく頭を撫でられた時は、嬉しさと恥ずかしさで爆発しそうになった)


そんな、小さなすれ違いや、喧嘩もあったけれど。その度に、俺たちはちゃんと話し合い、互いの気持ちを確認し合い、そして、より一層、絆を深めていくことができた。これもまた、リアルな恋愛の、大切なプロセスなのだろう。


そして、気になる莉子ちゃんの動向だが……。

俺と弥生さんが付き合い始めたことを、彼女がどこで知ったのかは分からない(もしかしたら、健太あたりが漏らしたのかもしれない)。だが、それ以降、彼女が俺に積極的に絡んでくることは、ぴたりとなくなったのだ。

図書館で顔を合わせても、以前のような馴れ馴れしさはなく、「あ、航先輩、こんにちは。執筆、頑張ってください」と、少しだけ寂しそうな、でも、どこか吹っ切れたような笑顔で挨拶してくるだけになった。

正直、ほっとした。同時に、少しだけ、申し訳ないような気持ちもあった。彼女の好意(それがどんな種類のものであれ)に、ちゃんと向き合ってあげられなかったことへの、小さな罪悪感。

だが、これも仕方ないことなのだろう。ラブコメにおいては、全てのヒロインが報われるわけではないのだから。……なんて、作家目線で考えてしまう俺は、少しだけ性格が悪いのかもしれない。


そんなこんなで、季節は夏本番へと向かっていた。

俺の小説も、いよいよ完成が近づいていた。残すは、エピローグのみ。

そして、俺と弥生さんの関係も、安定期に入り、穏やかで、幸せな日々が続いていた。


まるで、長かった梅雨が明け、ようやく訪れた、輝く夏空のように。

俺たちの未来も、明るく、希望に満ちているように思えた。


だが、物語の神様は、やはり、一筋縄ではいかないらしい。

この、穏やかすぎるほどの幸福感。それは、もしかしたら、次なる嵐の前の、静けさに過ぎないのかもしれない、という予感を、俺はまだ、心のどこかで拭いきれずにいたのだ。

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