第十七話:気づいた本当の気持ち
『……もし、私が、航くんの小説のヒロインだとしたら……っていう、仮定の話だから……』
『……私だったら……すごく、嬉しいと思う』
あの雨の夜、弥生さんがメッセージで零してくれた、あまりにも意味深で、そして温かい言葉。それは、スランプの闇の中でもがいていた俺にとって、一条の光であると同時に、新たな混乱と葛藤の種でもあった。
弥生さんは、気づいている。俺の小説のヒロインが、彼女自身をモデルにしていることに。そして、その上で、「嬉しい」と、言ってくれた。それは、遠回しな告白への肯定? それとも、年上としての優しさや、作家を目指す俺へのエール? あるいは、もっと複雑な、彼女自身も持て余している感情の表れ?
真意は分からない。怖くて、確かめることもできなかった。結局、俺はまたしてもチャンスを逃し、臆病な自分を晒してしまっただけだった。あの夜の後、弥生さんとのメッセージのやり取りは、さらにぎこちないものになった。互いに、どこか遠慮し、探り合うような、薄い膜が一枚挟まってしまったような感覚。以前のような、屈託のない、自然な会話の流れは、失われてしまったように思えた。
「おはようございます」「おやすみなさい」という定型的な挨拶と、当たり障りのない日常報告。執筆の進捗を聞かれることもなくなり、俺の方からも、怖くてその話題に触れることができない。
図書館で顔を合わせることはあった。でも、以前のように隣に座って、気さくに話しかけてくれることは少なくなった。目が合えば、弥生さんは優しく微笑んでくれる。でも、その笑顔は、どこか作り物めいていて、すぐに伏せられてしまう。そして、彼女は決まって、俺から少し離れた席に座り、静かに本の世界へと没頭してしまうのだ。
(……避けられてる……?)
そう感じずにはいられなかった。あの夜、俺が彼女の零した本音に、ちゃんと応えられなかったからだろうか。それとも、俺の小説の内容が、あまりにも生々しくて、彼女を不快にさせてしまったのだろうか。あるいは……やはり、莉子ちゃんの存在が、何か影響しているのだろうか。
分からない。何もかもが、分からない。
弥生さんの心が、以前よりもずっと遠く感じられる。その距離感が、俺をさらに不安にさせ、焦らせた。
そして、その焦りは、最悪なことに、執筆活動にも悪影響を及ぼしていた。
告白シーンが書けない、というスランプは、依然として続いていた。いや、むしろ悪化していたかもしれない。弥生さんとの関係がぎくしゃくしている今、あのシーンを書くことは、まるで禁忌に触れるかのように感じられたのだ。
(弥生さんの気持ちも分からないのに、俺が勝手に、小説の中で告白シーンなんて書いていいのか……?)
(もし、弥生さんが、もう俺のことを迷惑に感じていたら……?)
そんなネガティブな思考が、次から次へと湧き上がってくる。PCの前に座っても、指一本動かせない。白い画面が、ただただ、俺の無力さを嘲笑っているかのようだ。
「……くそっ……!」
苛立ちは募る一方だった。書けない自分にも、弥生さんの心を探れない自分にも、そして、この状況を打開できない自分の臆病さにも。全てが、腹立たしかった。
ラブコメ作家になりたい、なんて、やっぱり俺には夢のまた夢だったのかもしれない。人をキュンとさせるどころか、自分の気持ちすらまともに扱えないのだから。
(……もう、諦めた方がいいのかもしれない)
そんな弱音が、またしても心の隙間から顔を出す。
書けない苦しみから解放されるなら、その方が楽なのではないか?
弥生さんとの、この気まずい関係からも、逃げ出してしまえるのではないか?
だが、心の奥底で、何かがそれに強く抵抗していた。
諦めたくない。諦められるわけがない。
だって、俺は、書きたいんだ。この物語を、最後まで。
そして、弥生さんとの関係も、このまま終わらせたくない。
(……でも、どうすれば……)
答えが見つからないまま、時間だけが過ぎていく。まるで、出口のない迷路に迷い込んでしまったかのようだった。
*
そんな、八方塞がりの状況に、さらなる追い打ちをかける出来事が起こった。
橘莉子ちゃんの、再度の、そして、より積極的な接近だ。
あの日、駅前でばったり会って以来、莉子ちゃんは、まるでストーカーのように(と言っては失礼かもしれないが)、俺の行く先々に現れるようになったのだ。
放課後の図書館。俺が席に着くと、いつの間にか隣に座っている。
「先輩! 今日は何を書くんですか? 私、応援してますね!」
満面の笑みで、そう言って、俺のPC画面を覗き込んでくる。
学校帰りの書店。ラノベコーナーで新刊をチェックしていると、背後から「あ! 航先輩!」と声をかけられる。
「先輩もこれ、好きなんですか? 私もこの作家さん、大好きなんです! 今度、おすすめとか教え合いませんか?」
ぐいぐいと、距離を詰めてくる。
さらには、俺の通う高校の近くまで、わざわざやって来ることもあった。
「先輩! 今日、たまたま近くまで来たんで、会えるかなーって思って!」
校門の前で待ち伏せ(?)され、半ば強引に、一緒に帰り道を歩くことになったりもした。
莉子ちゃんの行動は、悪気がないのは分かる。純粋に、俺の小説のファンとして、そして、もしかしたら、俺個人に対しても、好意を持ってくれているのかもしれない。その気持ちは、ありがたいと思う。だが、今の俺には、その好意を素直に受け止める余裕がなかった。
何よりも、莉子ちゃんと一緒にいるところを、弥生さんに見られたらどうしよう、という不安が常にあった。ただでさえ、ぎくしゃくしている関係だ。これ以上、誤解を招くようなことは、絶対に避けなければならない。
「ご、ごめん、橘さん。俺、急いでるから……」
「その……あんまり頻繁に来られると、ちょっと……」
俺は、できるだけ角が立たないように、しかし、はっきりと、莉子ちゃんとの距離を取ろうとした。だが、彼女は、全くめげなかった。
「えー、そうですか? 残念です……。でも、また来ますね!」
「先輩が、私を必要としてくれるまで、いつまでも待ってますから!」
そんな、健気な(あるいは、少し怖い)言葉を残して、彼女は一時的に引き下がる。だが、数日もすれば、また何食わぬ顔で現れるのだ。その、ある種の執念のようなものに、俺は正直、少しだけ恐怖すら感じ始めていた。
(……なんなんだ、この状況……)
書けないスランプ。弥生さんとの微妙な関係。そして、積極的すぎる後輩女子。
まるで、ラブコメのテンプレートのような、面倒くさい状況に、俺は完全に巻き込まれてしまっている。
だが、これは、現実だ。
テンプレートのように、都合よく解決したりはしない。
俺自身が、何とかしなければならないのだ。
(……逃げてちゃダメだ。向き合わなきゃ)
分かっている。頭では分かっている。
でも、体が動かない。心が、拒絶する。
失敗することが、傷つくことが、怖いのだ。
そんな、情けない葛藤を繰り返していた、ある日のこと。
それは、またしても、雨の降る日だった。
まるで、俺の心模様を映し出すかのように、空は重く垂れ込め、冷たい雨がしとしとと降り続いていた。
その日、俺は、どうしても書かなければならないレポートがあり、珍しく、放課後、学校の図書室に残っていた。(市立図書館では、弥生さんや莉子ちゃんに会ってしまう可能性があったから、という理由もあった)
図書室は、雨のせいか、いつもより利用者が少なく、静まり返っていた。窓の外の雨音だけが、規則的に響いている。
レポートをなんとか終わらせ、時計を見ると、もうかなり遅い時間になっていた。窓の外は、すでに暗くなり始めている。
(……早く帰らないと)
鞄に荷物を詰め、図書室を出る。廊下も、ほとんど人影はない。
昇降口で靴を履き替え、傘立てに置いておいた、あの紺色の長傘を手に取る。弥生さんと相合傘をした、思い出の傘だ。それを使うたびに、あの日のドキドキ感が蘇ってくる。
外に出ると、雨は、昼間よりも少し強くなっていた。ザーザーという音が、辺りに響いている。
傘を差し、駅へと向かう道を歩き始める。街灯の光が、濡れたアスファルトに反射して、ぼんやりと滲んで見えた。
(……弥生さん、今日はどうしてるかな……)
自然と、彼女のことを考えてしまう。
メッセージ、送ってみようか? でも、なんて送ればいい?
『雨、すごいですね』? いや、当たり前すぎるか。
『体調、大丈夫ですか?』? ……心配しすぎだと思われるだろうか。
そんなことを考えながら、歩いていると、ふと、前方に、見慣れた人影を見つけた。
駅前の、少し大きな書店の軒下で、雨宿りをしているようだ。
すらりとした立ち姿。淡い色のトレンチコート。緩くまとめられた、栗色の髪。
(……弥生さん……?)
間違いない。弥生さんだ。
こんな時間に、こんな場所で、何をしているんだろう?
傘は、持っていないのだろうか?
俺は、思わず駆け寄ろうとした。
だが、その足が、ぴたりと止まった。
弥生さんは、一人ではなかったのだ。
彼女の隣には、一人の男性が立っていた。
歳の頃は、弥生さんと同じくらいだろうか。背が高く、スーツを着こなした、いかにも「デキる男」といった雰囲気。優しそうな笑顔で、弥生さんに何か話しかけている。そして、弥生さんもまた、笑顔で、彼と話していた。
その光景を見た瞬間、俺の心臓は、まるで氷水を浴びせられたかのように、急速に冷えていくのを感じた。
頭が、真っ白になる。
(……誰だ? あの男……)
楽しそうに話す、二人の姿。
親密そうな、雰囲気。
まるで、俺の知らない、弥生さんの世界。
(……もしかして……彼氏……?)
弥生さんは、「彼氏はいるの?」という俺の問いに、「秘密」と答えた。
肯定も、否定もしなかった。
もし、あの男性が、弥生さんの彼氏だとしたら……?
そうだとしたら、俺が今まで抱いていた期待や、淡い希望は、全て、ただの勘違いだったということになる。
弥生さんの優しさも、思わせぶりな言葉も、全て、年下の男の子に対する、気まぐれや、社交辞令だったのかもしれない。
俺は、ただ、一人で舞い上がって、勝手に恋愛シミュレーションをしていた、哀れなピエロだったのかもしれない。
ズキン、と胸の奥が痛んだ。
息が、苦しい。
雨音が、やけに大きく聞こえる。
俺は、その場に立ち尽くしたまま、動けなかった。
声をかけることも、立ち去ることもできずに。
ただ、遠くから、楽しそうに談笑する二人を、呆然と見つめていることしかできなかった。
どれくらいの時間が経っただろうか。
雨脚が、少し弱まってきたようだ。
男性が、持っていた大きな傘を開き、弥生さんに差し出した。弥生さんは、ありがとう、と言うように、小さく頭を下げ、彼の傘の中へと入っていく。
そして、二人は、一つの傘の中、親密そうに肩を寄せ合いながら、俺とは反対の方向へと、歩き去っていった。
その、後ろ姿が、やけにスローモーションのように見えた。
傘の中で、二人が何かを話し、笑い合っている気配が、遠くに感じられる。
(……終わった……)
何が、とは分からない。
でも、何かが、決定的に終わってしまったような気がした。
俺の、淡い恋も。俺が書こうとしていた、ラブコメの物語も。
全てが、この冷たい雨の中に、溶けて消えていくような感覚。
力が、抜けていく。
持っていた傘が、手から滑り落ちそうになる。
雨が、容赦なく、俺の体を濡らしていく。
冷たい。でも、それ以上に、心が、凍えるように冷たかった。
(……なんで、俺、こんなにショック受けてるんだ……?)
当たり前じゃないか。
弥生さんには、弥生さんの世界がある。俺の知らない、人間関係がある。
俺は、ただの、年下の、小説家志望の、相談相手。それ以上でも、それ以下でもなかったのだ。
勝手に期待して、勝手に舞い上がって、そして、勝手に傷ついている。馬鹿みたいだ。
(……ラブコメなんて、やっぱり、現実には存在しないんだ……)
俺が書こうとしていた、あのキラキラした世界。
運命的な出会い。すれ違い。そして、結ばれる二人。
そんなものは、全て、都合のいい幻想だったのだ。
現実は、もっと残酷で、もっと平凡で、そして、もっと……どうしようもなく、切ない。
涙が、溢れてきた。
雨に紛れて、誰にも気づかれないだろう。
情けない。本当に、情けない。
こんなことで、泣いているなんて。
俺は、その場に、しばらく立ち尽くしていた。
雨に打たれながら、ただ、空っぽになった心で、行き交う人々を眺めていた。
……いや。
本当に、そうだろうか?
本当に、全ては幻想だったのだろうか?
ふと、疑問が湧き上がってきた。
あの、弥生さんがくれた言葉。
『私だったら、嬉しいと思う』
『私にとっても、すごく……特別で、大切な時間だよ』
あれは、本当に、ただの社交辞令だったのだろうか?
あの、観覧車の中で、触れ合った肩の温もり。
お化け屋敷で、繋いだ手の感触。
指切りをした、あの約束。
それらも、全て、意味のないものだったのだろうか?
違う。
そうではないはずだ。
俺が感じた、あの温かさや、高鳴りは、確かに本物だったはずだ。
弥生さんが見せてくれた、あの笑顔や、涙や、照れた表情も、嘘ではなかったはずだ。
だとしたら……?
あの男性は、誰なんだ?
そして、弥生さんの本当の気持ちは……?
(……分からない。でも……)
諦めたくない。
このまま、終わらせたくない。
たとえ、これが俺の勘違いで、ただの失恋に終わるのだとしても。
それでも、俺は、ちゃんと、自分の気持ちと、そして弥生さんの気持ちと、向き合わなければならないのではないか?
逃げてばかりじゃ、何も変わらない。
傷つくことを恐れていては、何も得られない。
それは、小説を書く上でも、そして、人生を生きる上でも、同じことなのではないか?
(……そうだ。俺は……)
俺は、ラブコメを書きたいんだ。
リアルな、人の心を打つ、ラブコメを。
そのためには、俺自身が、リアルな感情から、目を背けていてはいけないんだ。
喜びも、悲しみも、期待も、不安も、嫉妬も、後悔も……。その全てを、受け止めて、乗り越えて、そして、それを物語の力に変えていく。
それが、俺が目指すべき、作家の姿なのではないか?
雨は、いつの間にか、小降りになっていた。
俺は、ゆっくりと顔を上げた。
濡れた前髪から、冷たい雫が滴り落ちる。
心の中に、小さな、しかし確かな決意の炎が灯るのを感じた。
(……気づいたんだ。俺は)
弥生さんのことが、好きなんだ、と。
本気で、どうしようもなく、好きなんだ、と。
それはもう、疑いようのない、俺自身の、本当の気持ちなんだ、と。
そして、同時に気づいた。
俺が今まで書いてきた物語は、単なる創作ではなかったのだ、と。
それは、俺自身の、リアルな恋の物語そのものだったのだ、と。
俺は、小説を書いているつもりで、実は、自分自身のラブコメの主人公を、演じていただけなのかもしれない。
(……だとしたら……)
この物語の結末を、俺は、自分で決めなければならない。
ハッピーエンドにするのか、それとも……。
それは、これからの俺の行動にかかっている。
俺は、地面に落ちていた傘を拾い上げた。
そして、もう一度、弥生さんたちが消えていった方向を見た。
胸の痛みは、まだ消えない。不安も、恐怖も、まだそこにある。
でも、もう、立ち止まってはいられない。
俺は、歩き出さなければならない。
自分の気持ちに、正直に。
そして、いつか、必ず、弥生さんに、伝えなければならない。
たとえ、それが、どんな結末を迎えることになるのだとしても。
俺は、傘をしっかりと握り締め、雨上がりの道を、一歩、踏み出した。
それは、臆病だった自分が、ようやく、物語の本当の主人公になるための、小さくて、でも、とても大きな一歩だったのかもしれない。




