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第十六話:雨の夜と、零れた本音

告白シーンが書けない――その一点で、俺の執筆活動は完全に暗礁に乗り上げていた。あれほど順調だったのが嘘のように、PCの前に座っても、ただ時間だけが虚しく過ぎていく。テキストエディタの白い画面は、まるで俺の空っぽな頭の中を映し出す鏡のようで、向き合うたびに自己嫌悪と焦燥感に苛まれた。


スランプの原因は、分かっている。圧倒的な経験不足。そして、自分の心と、そして弥生さんの心と、真剣に向き合うことへの恐怖。年下の自分が、年上の彼女に想いを告げるという、その行為の重さと複雑さ。それを、今の俺には、リアルに描くことができないのだ。頭の中ではいくらでも理想の告白シーンを思い描けるのに、いざそれを言葉にしようとすると、途端に陳腐で、薄っぺらいものになってしまう。


弥生さんへの相談も、躊躇われた。この悩みの核心部分が、あまりにも俺たち自身の関係性と重なりすぎているからだ。それに、最近の弥生さんの、あの微妙な変化……時折見せる翳りや、わずかな距離感。それを考えると、迂闊にこの話題に触れることはできなかった。もしかしたら、彼女自身も何かを抱えていて、俺がその繊細な部分に踏み込むことを恐れているのかもしれない、とさえ思った。


莉子ちゃんの存在も、俺の心をさらに掻き乱した。「嫉妬しちゃう」という彼女の言葉、そして、俺と弥生さんの関係を見られていたという事実。考えすぎかもしれないが、弥生さんの変化と、莉子ちゃんの登場が、全く無関係だとは思えなくなっていた。もし、弥生さんが本当に嫉妬しているのだとしたら……それは、彼女が俺に対して、特別な感情を抱いてくれている証拠なのかもしれない。だが、そうだと確信するには、あまりにも根拠が薄弱だったし、何より、俺にはそれを受け止める覚悟がまだできていなかった。


結局、俺は誰にも相談できず、一人で悶々と悩み続けるしかなかった。書けない焦りは、日常生活にも影を落とし始めた。授業に集中できず、健太との会話も上の空。食欲もなく、夜もなかなか寝付けない。部屋にこもり、ただPCの画面とにらめっこするだけの、不健全な日々。


「お兄ちゃん、大丈夫? 最近、顔色悪いよ。ちゃんとご飯食べてる?」

珍しく、妹の美咲が心配そうな顔で声をかけてきた。いつもは「キモい」だの「邪魔」だの言ってくるくせに、こういう時は妙に鋭い。

「……うるさいな。大丈夫だよ」

素っ気なく返しながらも、妹にまで心配されるほど、自分は追い詰められているのか、と改めて自覚させられた。


弥生さんとのメッセージのやり取りも、どこかぎこちなくなっていた。俺がスランプのことを隠しているせいか、あるいは弥生さん自身も何かを隠しているせいか、以前のような、無邪気で、心からの言葉のキャッチボールが、少なくなっていたように思う。


『航くん、元気? 執筆、進んでる?』

当たり障りのない弥生さんからの問いかけに、

『はい、なんとか……。弥生さんは、大学、忙しいですか?』

俺もまた、当たり障りのない返事を返す。互いに、核心には触れようとしない。そんな、もどかしい距離感が、俺たちの間に漂っていた。水族館の「取材」の話も、自然と立ち消えになっていた。


このままではいけない。

分かっている。でも、どうすればいいのか分からない。

まるで、分厚い霧の中を手探りで進んでいるような、心細さと閉塞感。ラブコメの神様は、完全に俺を見放してしまったかのようだった。



そんな閉塞感を打ち破るきっかけとなったのは、皮肉にも、俺がスランプに陥る原因となった「告白シーン」について、弥生さんの方から切り出してきたことだった。


それは、ある雨の日の夜のことだった。

その日は朝から雨が降り続き、気温も低く、どんよりとした空気が一日中漂っていた。俺は、やはり執筆が進まず、気分も塞ぎ込みがちで、早々にPCを閉じ、ベッドに潜り込んでいた。雨音が、窓を叩く音だけが、静かな部屋に響いている。なんだか、あの、弥生さんと初めて出会ったバス停の日や、相合傘をした日のことを思い出させるような、そんな夜だった。


スマホが、不意にメッセージの着信を告げた。弥生さんからだった。

『航くん、こんばんは。今、大丈夫かな?』

いつもより、少しだけ改まったような文面。何かあったのだろうか?


『こんばんは。大丈夫ですよ。どうしましたか?』

少しだけ緊張しながら返信する。


『あのね、航くんの小説のことなんだけど……』

『看病イベントの後の展開、もう考えてるのかなって思って』


……きた。

一番、触れてほしくなかった話題だ。


『あ、いや……それが、実は……』

正直に言うべきか、迷う。でも、もう隠し通せる状況でもないのかもしれない。それに、この閉塞感を打ち破るには、やはり弥生さんの力が必要なのかもしれない。


『……すみません。実は、その後の……告白シーンが、全然書けなくて……スランプ、なんです』

俺は、観念して、正直に打ち明けた。


返信は、少しの間、来なかった。

やっぱり、呆れられただろうか。才能がないと思われただろうか。不安が募る。


やがて、返ってきたメッセージは、意外なものだった。

『そっか……。告白シーン、か……。……難しいよね、そういうのって』

まるで、他人事ではないような、共感するような響き。


『……私もね、実は、今書いてる小説(※大学の課題か何かだろうか?)で、似たようなところで詰まってるんだ』

え? 弥生さんも?


『好きな人に、想いを伝える……その一歩が、どうしても書けなくて。どんな言葉で、どんな風に伝えたら、相手に響くんだろう、とか。もし、受け入れてもらえなかったら、どうしよう、とか……。考えれば考えるほど、分からなくなっちゃって』


弥生さんのメッセージは、まるで俺自身の悩みを代弁しているかのようだった。驚きと、そして、ほんの少しの安堵感を覚える。弥生さんも、同じように悩んでいたなんて。


『だから、航くんの気持ち、すごくよく分かるよ。……無理もないと思う』

優しい、慰めの言葉。それが、弱っていた俺の心に、じんわりと染みた。


『……もしよかったら、なんだけど……』

弥生さんのメッセージは続く。

『……その告白シーンについて、少し、話してみない? もちろん、航くんが書こうとしてる内容そのものじゃなくていいんだ。例えば……』

『……もし、自分が告白されるとしたら、どんな風に言われたら嬉しいか、とか……。そういう、 hypothetical(仮定の)な話なら、少しは、気が楽になるかなって……』


仮定の話……。

自分が告白されるとしたら……。


それは、確かに、直接的な相談よりは、ハードルが低いかもしれない。

それに、弥生さんがどんな告白を嬉しいと感じるのか、それを知ることは、俺自身のリアルな恋愛においても(もし、そんな未来があるのなら)、そして、もちろん小説の描写においても、大きなヒントになるはずだ。


『……ありがとうございます。そうですね……。そういう話なら、少し……聞いてみたい、かもしれません』

俺は、そう返信した。


『良かった。じゃあ……例えば、なんだけど……』

弥生さんは、少しだけ、ためらうような間を置いてから、続けた。


『……年下の男の子から、告白されるとしたら……』


……年下の、男の子。

それは、あまりにも、俺たちの状況と重なりすぎている。

仮定の話、と言いながら、弥生さんは、明らかに、俺たちのことを念頭に置いて、この話題を振ってきているのではないか?


心臓が、ドキリとする。


『……やっぱり、最初は、すごく驚くと思う。え? 私のこと? って。……それに、少しだけ、戸惑うかも。年下だし、弟みたいに思ってた(つもりだった)から……』

(……弟みたいに、思ってた、つもり……?)

その、括弧書きの部分が、妙に気になる。


『でも……もし、その子のことを、私も、少しでも特別に思い始めていたとしたら……』

『……すごく、嬉しいと思う』


嬉しい……。

その言葉に、俺の心臓は、さらに大きく跳ねた。


『どんな言葉で、とか、どんなシチュエーションで、とか……そういうのは、実は、あんまり重要じゃないのかもしれないなって、最近思うんだ』

『もちろん、ロマンチックな演出とか、素敵なセリフも、嬉しいけど……』

『……一番、心に響くのは、やっぱり……』

『……その人の、正直な、真っ直ぐな気持ちが、伝わってくること、かな』


正直な、真っ直ぐな気持ち。


『たとえ、言葉が拙くても。たとえ、すごく緊張して、声が震えてても。それでも、一生懸命、自分の想いを伝えようとしてくれる……その姿そのものが、何よりも、心を打つんじゃないかなって』

『「好きです」っていう、シンプルな言葉でもいい。あるいは、「あなたがいると、毎日が楽しいです」とか、「もっと一緒にいたい」とか……。どんな言葉でも、そこに、嘘のない、本当の気持ちがこもっていれば……』

『……私だったら……すごく、嬉しいと思う』


弥生さんの言葉は、まるで、俺の心の中の霧を、少しずつ晴らしてくれるかのようだった。

そうだ。俺は、難しく考えすぎていたのかもしれない。

完璧なセリフや、感動的な演出を追い求めるあまり、一番大切なこと……主人公自身の、正直な気持ちを描くことを、忘れていたのかもしれない。


『……だからね、航くん』

弥生さんのメッセージは、俺に語りかけるように続く。

『……小説の主人公くんも、きっと、自分の言葉で、精一杯、伝えればいいんだと思うよ。上手く言おうとしなくていい。格好つけようとしなくていい。ただ、正直に……』


そこまで読んで、俺は、はっとした。

弥生さんは、小説の主人公の話をしている。でも、それは同時に、俺自身へのメッセージでもあるのではないか?

俺が、弥生さんへの気持ちを、どう伝えればいいのか、迷っていること。それを、彼女は、もしかしたら、気づいているのではないか?

そして、「正直に伝えればいい」と、そっと背中を押してくれようとしているのではないか?


(……まさか……)


そんな都合のいい解釈、していいのだろうか?

でも、そう思わずにはいられないほど、弥生さんの言葉は、温かく、そして力強かった。


『……ありがとうございます、弥生さん。すごく……すごく、参考になりました。なんだか、書ける気がしてきました』

俺は、感謝の気持ちを込めて、そう返信した。心の霧が、完全に晴れたわけではない。まだ、不安も迷いもある。でも、確かに、一筋の光が見えたような気がしたのだ。


『本当? 良かった!』

『……でもね、航くん』

弥生さんのメッセージは、まだ終わらなかった。

『……さっきの話は、あくまで、私の個人的な意見だからね?』

『……もし、私が、航くんの小説のヒロインだとしたら……っていう、仮定の話だから……』


え?

今、なんて……?

弥生さんが、俺の小説のヒロインだとしたら……?


『……あ!』

すぐに、次のメッセージが届いた。

『ご、ごめん! 今の、ちょっと、言葉が足りなかった! 変な意味じゃなくて!』

『その、もし、私が、あの弥生さん(仮)の立場だったら、っていう意味で……! 一般論として、ね!』

『だから、気にしないで! 忘れて!』


弥生さんは、必死で取り繕おうとしているようだった。顔文字も、焦っているようなものが並んでいる(>_<;;)。

だが、俺の心臓は、かつてないほど激しく高鳴っていた。


弥生さんは、気づいているのだ。

俺の小説のヒロインが、自分をモデルにしていることに。

そして、その上で、「私だったら、嬉しい」と、言ってくれたのだ。


それは、もう、ほとんど……答えなのではないか?

俺の気持ちに対する、弥生さんなりの、精一杯の、肯定なのではないか?


『……弥生さん……』

俺は、震える指で、メッセージを打ち始めた。

今なら、言えるかもしれない。

この、雨の夜の、不思議な空気の中でなら。

弥生さんが、こんなにも近くに感じられる、今なら。


『……俺……』


だが、その続きの言葉を、打ち込むことができなかった。

あと一歩が、踏み出せない。

もし、これが俺の勘違いだったら? 弥生さんの優しさに、甘えているだけだったら?

その可能性を考えると、やはり怖いのだ。


(……ダメだ。やっぱり、俺は……)


臆病な自分が、またしても、邪魔をする。

結局、俺は、弥生さんの言葉の真意を確かめることも、自分の気持ちを伝えることもできずに、当たり障りのない返信しかできなかった。


『……はい、分かってます。あくまで、仮定の話、ですよね。でも、本当に参考になりました。ありがとうございます』


そのメッセージを送った後、弥生さんからの返信は、しばらく来なかった。

既読は、ついているのに。


雨音だけが、静かな部屋に響いていた。

それは、俺の心の中の、もどかしさや、後悔の念を、代弁しているかのようだった。


やがて、ようやく返ってきたメッセージは、

『……うん。どういたしまして。……じゃあ、私、そろそろ寝るね。おやすみ、航くん』

という、短いものだった。

いつもの、優しいけれど、どこか壁を感じさせるような、そんな言葉。


俺は、「おやすみなさい」とだけ返し、スマホを閉じた。


(……零れた、本音……)


弥生さんが、零してくれた、勇気ある言葉。

それを、俺は、受け止めることができなかった。

またしても、チャンスを逃してしまったのだ。


胸の中に、後悔と、自己嫌悪と、そして、ほんの少しだけ、弥生さんへの申し訳なさが、重くのしかかる。

雨は、まだ降り続いていた。

この雨は、いつになったら、止むのだろうか。

そして、俺の心の中の霧は、いつになったら、晴れるのだろうか。


スランプの闇は、まだ深かった。

だが、その闇の中に、確かに、一つの温かい光が灯ったことも、事実だった。

弥生さんが零してくれた、あの言葉。

「私だったら、嬉しい」

その言葉を、俺は、決して忘れないだろう。


いつか、必ず、その言葉に応えられるように。

俺は、もう一度、立ち上がらなければならない。

作家としても、そして、一人の男としても。


雨音を聞きながら、俺は、固く、そう誓うのだった。

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