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第十五話:書けない告白シーン

橘莉子ちゃんという、予想外の後輩ファンの登場。そして、それに伴う弥生さんの、本当に些細な、しかし無視できない態度の変化。俺の日常には、確実に新しい風が吹き始めていたが、鈍感な俺は、その風がもたらすであろう本当の意味に、まだ気づかずにいた。弥生さんの時折見せる翳りを、単なる疲れや大学での悩みだと信じ込み、的外れな心配をしつつも、基本的には、これまでの穏やかで幸福な日々が続いている、と楽観的に考えていたのだ。


何よりも、俺自身の執筆活動が、かつてないほど順調に進んでいたことが、その楽観論を後押ししていた。遊園地での「取材」で得た、鮮烈な体験と感情。それを注ぎ込んだシーンは、自分でも驚くほどのリアリティと熱量を帯び、弥生さんからも「今までで一番好きかも!」という最高の賛辞をもらえた。その成功体験が、俺に大きな自信を与えてくれていたのだ。


弥生コピーのキャラクター造形も、ますます深みを増していた。方向音痴で、怖がりで、でも好奇心旺盛で、時折、意地悪な一面も見せる……そんな、現実の弥生さんからインスパイアされた(というより、ほとんどそのままモデルにした)ギャップのあるヒロイン像は、書いていて本当に楽しかったし、物語を生き生きとさせてくれた。弥生さん本人からも、「なんだか、私のこと、よく分かってるね?(笑)」なんて言われることもあり、その度にドキリとしながらも、「取材の成果です!」と胸を張る(心の中では冷や汗をかきながら)のが、もはやお決まりのパターンになっていた。


そして、物語は、いよいよ佳境へと差し掛かろうとしていた。

ヒロインが風邪を引く看病イベント。弥生さんからのアドバイスと、ネットで仕入れた知識、そして俺自身の妄想(?)をフル動員して書き進めたこのエピソードは、主人公とヒロインの距離を物理的にも精神的にも大きく縮める、重要な転換点となるはずだった。


慣れない手つきでお粥を作る主人公。熱に浮かされ、普段は見せない弱さや甘えを見せるヒロイン。二人きりの空間で交わされる、ぎこちないけれど温かい会話。そして、不意に訪れる、ハプニング的な急接近……。

俺は、これまでにないほど集中して、この一連のシーンを描き上げていった。弥生さんに読んでもらうのが楽しみで、そして少しだけ怖かった。特に、主人公がヒロインの寝顔に見惚れてしまうシーンや、思わず手を握ってしまうシーンなどは、俺自身の願望がかなり反映されてしまっている自覚があったからだ。


『熱で潤んだ瞳が、不安げにこちらを見つめている。その頼りない表情に、主人公は、胸が締め付けられるような感覚を覚えた。「大丈夫ですよ、俺がそばにいますから」――そう言って、彼女の冷たくなった手を、そっと握りしめた。その手は、驚くほど小さく、そして儚く感じられた。守ってあげなければ、と、強く思った。』


書き上げた原稿を、期待と不安の入り混じった気持ちで弥生さんに送る。返ってきた感想は、またしても絶賛だった。


『読んだよ、航くん! 今回の、本当に……ヤバい……!』

『看病シーン、最高すぎた……! 主人公くんの不器用な優しさと、弥生さん(仮)の弱ってる時の可愛さが、もう……! 読んでて、ずっと顔が熱かったよ(/ω\)』

『特に、手を握るところ! あそこ、反則だよー! 私までドキドキしちゃった!』

『航くん、本当にすごいよ! どんどん上手くなってる! 天才じゃない!?』


……天才。

弥生さんに、そこまで言ってもらえるなんて。

もちろん、お世辞や、俺を励ますための言葉が含まれていることは分かっている。それでも、嬉しくて、舞い上がらないわけがなかった。俺は、自分の才能を、そして未来を、本気で信じ始めていたのかもしれない。


だが、物語の神様は、そう簡単には微笑んでくれないらしい。

絶好調かに思われた俺の執筆活動は、その看病イベントを書き終えた直後、突如として、分厚い壁にぶち当たることになる。


それは、物語全体のクライマックスに向けて、避けては通れない、最も重要なシーン。

――主人公が、ヒロインに、自らの想いを告げる、「告白シーン」だった。


プロット上では、こうなっている。

看病イベントを経て、互いへの特別な感情をはっきりと自覚した主人公とヒロイン。しかし、主人公は、年下の自分なんかが彼女に釣り合うはずがない、という劣等感や、今の心地よい関係を壊してしまうことへの恐怖から、なかなか最後の一歩を踏み出せないでいた。一方、ヒロインも、年上としてのプライドや、主人公の気持ちへの確信が持てないことから、積極的にはなれずにいる。そんな、もどかしいすれ違いが続く中で、ある出来事(例えば、ライバルの再登場や、卒業・進学といった時間的なリミットなど)をきっかけに、主人公がついに覚悟を決め、告白に至る……と。


構想は、ある。

シチュエーションも、いくつか候補を考えていた。

夕暮れの教室。星空の下の公園。あるいは、二人が初めて出会った、あの雨のバス停……。

だが、いざ、そのシーンを書こうとすると、指が、ぴたりと止まってしまうのだ。


(……告白……)


どんな言葉で、伝えればいい?

「好きです」?

あまりにも、ストレートすぎるか? 陳腐に聞こえないだろうか?


「あなたのことが、大切です」?

少し、遠回しすぎるか? 気持ちが伝わらないかもしれない。


「俺と、付き合ってください」?

……いや、これは、セリフとしてはアリかもしれないが、その前に、どういう流れで、どういう感情の高まりがあって、その言葉に至るのか。それが、全く書けない。


主人公は、どんな表情で、どんな声で、その言葉を口にするのだろう?

ヒロインは、それを聞いて、どんな反応をするのだろう?

驚く? 喜ぶ? それとも、困惑する?

涙を流す? 微笑む? 抱きしめる?


分からない。

何もかもが、分からない。

まるで、濃い霧の中に放り出されたように、何も見えない。どこへ進めばいいのか、皆目見当がつかないのだ。


今まで、あれほどスラスラと書けていたのが、嘘のようだ。

どんなにPCの前で粘っても、一行も書けない。書いては消し、書いては消しを繰り返し、気づけば、ただ時間だけが過ぎていく。テキストエディタの白い画面が、まるで俺の才能の限界を突きつけてくるかのように、無慈悲に広がっている。


「……くそっ……!」


苛立ちと焦りが、募っていく。

なぜ書けないんだ?

今まで、あれだけリアルな感情を描けていたじゃないか。弥生さんとの経験を、あれだけ物語に活かせていたじゃないか。

なのに、なぜ、一番肝心な「告白」のシーンだけが、こんなにも書けないんだ?


(……もしかして、やっぱり、俺には……経験が足りないのか?)


結局、そこに行き着いてしまう。

俺は、弥生さんとの「取材」を通して、恋の始まりのドキドキ感や、関係が深まる過程での喜びや切なさを、疑似的にではあれ、体験することができた。だから、そこまでの描写は、比較的リアルに書けたのかもしれない。


だが、「告白」となると話は別だ。

それは、自分の全てを賭けて、相手に想いを伝えるという、人生においても最大級の決断であり、行動だ。そこには、成功への期待と、拒絶されることへの恐怖、そして、関係性が決定的に変わってしまうことへの覚悟が伴う。

そんな、複雑で、重くて、切実な感情を、俺はまだ、経験したことがない。


(……想像で書くしかないのか? でも、それで、リアルになるのか?)


ラブコメ作品を読み漁って、告白シーンのパターンを研究してみる?

感動的なセリフを、どこかから拝借してくる?

でも、それでは、また「テンプレートの焼き直し」になってしまうだけだ。弥生さんが褒めてくれたような、「航くん自身の言葉で、感情を込めて」描かれたものには、きっとならない。


「……どうすればいいんだ……」


完全に、手詰まりだった。

まるで、ゴール目前で、見えない壁に阻まれてしまったかのような感覚。

焦れば焦るほど、思考は空回りし、指は動かなくなる。

かつての、「書けない」苦しみが、再び俺を襲い始めていた。



そんな俺のスランプ状態を、弥生さんが気づかないはずはなかった。

メッセージの返信が滞りがちになったり、執筆の進捗報告をしなくなったり……俺の態度の変化は、明らかだっただろう。


『航くん、最近、元気ないみたいだけど、大丈夫? 何かあった?』


心配そうなメッセージが、弥生さんから届いた。

俺は、正直に打ち明けるべきか、迷った。

告白シーンが書けなくて悩んでいる、と。

でも、それを弥生さんに相談するのは、なんだか違う気がしたのだ。


だって、俺が書こうとしているのは、年下の主人公が、年上のヒロインに告白するシーンだ。モデルは……言うまでもなく、俺と弥生さん自身だ。

そんなシーンについて、弥生さんに「どう書けばいいと思いますか?」なんて、聞けるはずがない。それは、あまりにも生々しすぎて、そして、俺自身の秘めたる想いを暴露してしまうようなものだからだ。


それに、最近の弥生さんの、あの微妙な変化も気にかかっていた。

時折見せる、翳りのような表情。少しだけ距離を感じるような態度。

もしかしたら、弥生さん自身も、何か悩みを抱えているのかもしれない。そんな時に、俺の個人的な創作の悩みで、彼女を煩わせるべきではないだろう。


『いえ、大丈夫ですよ! ちょっと、考え事が多くて……。でも、元気です! 心配かけてすみません』


俺は、結局、そう嘘をついてしまった。

弥生さんを心配させたくない、という気持ちと、自分の弱さを見せたくない、という見栄。そして、弥生さんとの間に生まれた、微妙な距離感を探るのが怖い、という臆病さ。それらが、俺に嘘をつかせた。


『そっか……。ならいいんだけど。でも、もし何かあったら、いつでも話してね? 私でよければ、いつでも聞くから』


弥生さんからの返信は、いつもと変わらず優しかった。

その優しさが、嘘をついている俺の胸に、チクリと刺さる。


(……ダメだな、俺)


弥生さんとの関係においても、そして、小説家を目指す者としても。

俺は、一番大事なことから、目を背けているのかもしれない。

自分の弱さと、そして、弥生さんの心の機微と、正面から向き合うことから。


スランプは、深刻化していった。

PCの前に座っても、一行も書けない日が続く。

書けない焦りから、他のことにも集中できなくなる。学校の授業も上の空。健太との会話も、どこか上の空。食事も、なんだか味がしない。


「お兄ちゃん、最近、また部屋で唸ってるよ。前よりひどくない?」

美咲に、そんな風に指摘される始末だ。自分でも、精神的にかなり追い詰められているのを感じていた。


(……俺には、やっぱり、才能がないのかもしれない)


一度は乗り越えたはずの、自己否定の考えが、また鎌首をもたげてくる。

遊園地での高揚感も、弥生さんからの賞賛も、まるで遠い昔のことのように感じられる。

あれは、ただの、一時的なまやかしだったのではないか?

結局、俺は、最後まで物語を書き上げることのできない、ただの凡才なのではないか?


そんなネガティブな思考のループに、俺は囚われてしまっていた。



そんなある日の放課後。

執筆が全く進まないことに嫌気が差し、気分転換のつもりで、あてもなく街をぶらついていた時のことだった。

駅前の広場で、見慣れた人影を見つけた。


(……あれは……莉子ちゃん?)


橘莉子ちゃんが、友人らしき数人の女子生徒と一緒に、楽しそうに談笑していた。私服姿の彼女は、制服の時とはまた違う、活発でオシャレな雰囲気だ。


(……元気そうだな)


俺は、声をかけずに、そのまま通り過ぎようとした。今の俺は、誰かと話せるような精神状態ではなかったし、特に莉子ちゃんとは、少し距離を置きたいと思っていたからだ。


だが、運悪く、莉子ちゃんがこちらに気づいてしまった。

「あ! 航先輩!」

大きな声で、俺の名前を呼んでくる。周りの友人たちも、一斉にこちらを見た。まずい。完全に注目されてしまっている。


「こんにちはー! 奇遇ですね!」

莉子ちゃんは、友人たちに何か一言二言断ると、ぱたぱたと駆け寄ってきた。その笑顔は、相変わらず太陽のように明るい。

「こ、こんにちは……橘さん」

「もー、莉子でいいって言ってるじゃないですかー!」

ぷくーっと頬を膨らませる。あざとい。だが、可愛いと思ってしまう自分がいる。


「先輩、最近、更新ないですけど、どうしたんですか? もしかして、スランプですか?」

いきなり、核心を突いてくる。この子は、本当に遠慮がない。

「……まあ、ちょっと……」

曖昧に答えると、莉子ちゃんは、心配そうな顔になった。

「えー、大丈夫ですか? 私でよければ、相談に乗りますよ? ……あ、でも、私じゃ役不足かな……。やっぱり、弥生さん、とかに相談してるんですか?」


……弥生さん。

その名前が、莉子ちゃんの口から、ごく自然に出てきたことに、俺は内心、動揺した。

なぜ、莉子ちゃんが弥生さんのことを知っている? いや、俺の小説の熱心なファンなら、ヒロインの名前を知っていてもおかしくはない。だが、その口調は、まるで、弥生さんが実在の人物であることを知っているかのような……?


「……いや、弥生さんには、心配かけたくないから……」

思わず、本音が漏れた。

「えー、どうしてですか? あんなに仲良さそうなのに。きっと、弥生さんも、先輩のこと心配してますよ?」

莉子ちゃんは、不思議そうな顔で言った。

仲良さそう……? なぜ、そんなことを知っている?


「……橘さん、なんで、俺と弥生さんのことを……?」

俺は、訝しげな表情を隠さずに尋ねた。

すると、莉子ちゃんは、あっけらかんとした顔で答えた。

「え? だって、この前、図書館で見ましたもん。先輩と弥生さんが、二人で楽しそうに話してるところ」


……見られていた?

いつ? どのタイミングで?

俺は全く気づかなかった。


「それに、弥生さんって、すごく綺麗な人ですよね! 大人っぽくて、優しそうで……。先輩がお手本にするのも分かります! ……ちょっと、嫉妬しちゃうくらい(笑)」

莉子ちゃんは、冗談めかして笑ったが、その目には、やはり、どこか真剣な色が混じっているように見えた。


嫉妬……?

何に対して? 俺の小説のヒロインに? それとも……?


「……橘さん、一体……?」

俺が、さらに問い詰めようとした、その時。

「あ、ごめんなさい、先輩! 私、そろそろ友達と行かなきゃ!」

莉子ちゃんは、腕時計を確認すると、慌てたように言った。

「じゃあ、執筆、頑張ってくださいね! スランプなんて、吹き飛ばしちゃってください! 私、いつまでも待ってますから!」

そう言い残すと、莉子ちゃんは、またしても嵐のように去っていった。


一人残された俺は、ただ、呆然とその場に立ち尽くしていた。

莉子ちゃんの言葉が、頭の中でぐるぐると回り続ける。

弥生さんとのことを見られていたこと。

「仲良さそう」という言葉。

そして、「嫉妬しちゃう」という、意味深な一言。


(……まさか……)


嫌な予感が、胸をよぎる。

莉子ちゃんは、本当にただのファンなのだろうか?

彼女の、あの屈託のない笑顔の裏には、何か別の意図が隠されているのではないだろうか?

そして、弥生さんの、最近の微妙な変化は……もしかして、莉子ちゃんの存在と、何か関係があるのではないだろうか?


今まで、目を背けてきた可能性。

弥生さんが、嫉妬している、という可能性。

年下の、しかもまだ何者でもない俺に、本気で好意を寄せてくれている、という可能性。


もし、そうだとしたら……?


俺は、自分の鈍感さと、臆病さを、激しく呪った。

弥生さんの、あの微かなサインを見逃し、一人で悩ませてしまっていたのかもしれない。俺が、ちゃんと向き合おうとしなかったせいで。


(……どうしよう……)


今すぐ、弥生さんに連絡して、確かめるべきか?

でも、なんて聞けばいい?

「俺のこと、好きなんですか?」

「もしかして、嫉妬してますか?」

そんな、あまりにもデリカシーのない質問ができるはずがない。


それに、もし、俺の考えすぎだったら?

弥生さんを、さらに困惑させてしまうだけかもしれない。


ぐるぐると、思考が堂々巡りする。

答えは、見つからない。

ただ、一つだけ確かなことは、俺がこのまま、自分の殻に閉じこもっていてはいけない、ということだ。


執筆のスランプも、弥生さんとの関係も、そして、莉子ちゃんという新たな波乱も。

その全てから、目を背けることはできない。

俺は、向き合わなければならないのだ。自分の弱さと、そして、大切な人の心と。


だが、具体的にどうすればいいのか、その方法が分からない。

臆病な俺は、またしても、最初の一歩を踏み出せずにいた。


ラブコメの神様は、どこへ行ってしまったのだろうか。

あんなにも順調に進んでいたはずの物語は、今、完全にその動きを止め、深い霧の中に迷い込んでしまっていた。

そして、その霧を晴らす方法を、俺はまだ、見つけられずにいるのだった。

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