第十三話:波紋を呼ぶ後輩女子
遊園地での、夢のような一日から数週間。俺の世界は、確実に色を変えていた。灰色だった日常はパステルカラーに彩られ、書けないと嘆いていたPCの画面には、次々と新しい物語が紡がれていく。その中心には、いつも、桜井弥生さんの存在があった。
彼女との関係は、「取材」という名のデートを重ねるごとに、着実に、そして心地よい速度で深まっていた。毎日のメッセージのやり取りは、もはや生活に欠かせないルーティンとなり、その内容は他愛のない日常報告から、時に真面目な創作論、そして、お互いのことを少しずつ探り合うような、甘酸っぱいものへと変化していた。
『航くん、今日もお疲れ様! 執筆進んでる? 無理しないでね(>_<)』
『弥生さんこそ、大学の課題、大変そうですね。何か手伝えることがあれば、いつでも言ってください!(料理以外なら…)』
『ふふ、ありがとう。その気持ちだけで嬉しいよ。航くんは、優しいね』
『そ、そんなことないです…! 弥生さんこそ、いつも俺の話、聞いてくれて…』
こんな、どこかぎこちなくて、でも温かい言葉のキャッチボール。その一つ一つが、俺の心をじんわりと満たしていく。遊園地の帰り際に交わした、「また『取材』に行こうね」という指切りの約束も、決して社交辞令ではなかった。
「次の『取材』は、水族館がいいかなって思うんだけど、どうかな?」と弥生さんから提案があったのは、遊園地デートから一週間後のことだった。「薄暗い水槽の前で、二人で魚を眺めるのって、なんだかロマンチックじゃない? 小説のネタにもなりそうだし!」と、またしても「取材」を口実にしながらも、その声は明らかに弾んでいた。もちろん、俺に断る理由など微塵もない。「是非お願いします!」と即答したのは言うまでもない。
執筆活動も、かつてないほど順調だった。
遊園地での経験を注ぎ込んだシーンは、弥生さんからも「すごくリアルで、読んでてドキドキした!」と絶賛され、俺の自信を大きく後押ししてくれた。弥生は、もはや俺が当初設定したキャラクター像を遥かに超えて、生き生きと物語の中で呼吸し、恋をしていた。それは、俺自身の、弥生さんへの募る想いが色濃く反映されているからに他ならない。書けば書くほど、弥生さんへの気持ちが深まり、そして、その気持ちがまた、新たな物語を生み出す力となる。そんな、幸福な循環の中に、俺はいた。
『ヒロインが風邪を引く看病イベント』も、弥生さんのアドバイスと、ネットで調べた知識(お粥の作り方や、解熱剤の種類まで!)を総動員して、なんとか形になりつつあった。主人公が、慣れない手つきで看病しながらも、弱っているヒロインの普段は見せない姿に心をときめかせ、二人の距離が縮まっていく……。そんな王道展開を、いかにして自分らしく、リアルに描けるか。試行錯誤は続いたが、以前のような苦痛はなかった。むしろ、その過程すら楽しんでいる自分がいた。
(……もしかして俺、本当にラブコメ作家になれるんじゃないか?)
そんな、以前では考えられなかったような、大胆な自信さえ、心の片隅に芽生え始めていた。もちろん、まだまだ実力不足であることは自覚している。でも、弥生さんという最高の読者であり、最高のミューズが側にいてくれる限り、俺はもっと成長できるはずだ。そう信じられるようになっていた。
日常は、輝いていた。
学校の授業も、以前ほど退屈には感じなかった。休み時間に健太とくだらない話をするのも、家に帰って美咲と些細なことで言い争うのも、その全てが、穏やかで、かけがえのない時間のように思えた。それはきっと、俺の心の中に、弥生さんという確かな光が灯ったからだろう。
だが、物語には、光があれば影もある。
そして、ラブコメにおいては、順風満帆なだけの関係は、えてしてスパイス不足とされる。読者は、ハラハラドキドキするような展開や、乗り越えるべき障害を求めているのだ(と、俺は勝手に分析している)。
その「障害」は、ある日、何の前触れもなく、俺の穏やかな日常に、小さな波紋を投げかける形で現れた。
*
それは、週明け月曜日の放課後のことだった。
俺はいつものように、執筆場所を求めて市立図書館へと向かっていた。弥生さんも、今日は大学の講義が早く終わるから、後で図書館で合流しよう、とメッセージをくれていた。それを楽しみに、少しだけ浮かれた気分で、図書館の自動ドアをくぐる。
いつもの窓際の閲覧席……は、残念ながら埋まっていた。仕方なく、少し奥まった場所にある、書架に近い席に腰を下ろす。ノートPCを開き、書きかけの原稿ファイルを開く。看病イベントのクライマックス、主人公がヒロインへの想いを自覚しかける、重要なシーンだ。
(……ここの描写、もう少し練りたいな。ヒロインの寝顔を見て、主人公がどう感じるか……。『天使のようだ』は、さすがに使い古されすぎか……)
そんなことを考えながら、集中しようとした、その時だった。
「あの……すみません」
すぐ隣から、不意に声をかけられた。
驚いて顔を上げると、そこには、一人の女子生徒が立っていた。
ブレザーの制服からして、おそらく高校生だろう。俺と同じ学校の生徒ではないようだ。歳の頃は……俺より一つ下くらいだろうか?
肩にかかるくらいの、明るい茶色の髪をツインテールにしていて、大きな瞳がくりくりと動いている。小柄で、華奢な体つき。全体的に、小動物のような、愛らしい印象を受ける。
(……誰だろう? 俺に何か用かな?)
きょとんとしている俺に、彼女は少しだけ恥ずかしそうに、しかし、はっきりとした口調で続けた。
「もしかして……『月見航路』先生、ですか?」
……え?
月見航路。
それは、俺が「小説家になろう」で使っているペンネームだ。
なぜ、この子がそれを知っている? しかも、「先生」付けで呼ぶなんて。
「……えっと……まあ、そう、ですけど……」
戸惑いながらも、肯定する。まさか、自分のペンネームを、現実世界で、しかも見ず知らずの女子生徒から呼ばれる日が来るとは思ってもみなかった。
すると、彼女の顔が、ぱあっと輝いた。
「やっぱり! わあ、本物だ! すごーい!」
まるで、憧れのアイドルにでも会ったかのように、目をキラキラさせて、ぴょんぴょんと小さく跳ねている。その反応に、俺はますます困惑した。
「あ、あの……何か……?」
「私! 橘莉子って言います! 先生の小説、『年上お姉さんとの甘々デイズ』(仮)の、大ファンなんです!」
彼女――橘莉子と名乗る後輩らしき女子生徒は、そう言って、ぺこりと勢いよく頭を下げた。
……俺の、小説の、ファン?
しかも、「大ファン」?
あの、まだ書きかけで、誤字脱字も多くて、自分でもまだまだ納得できていない、あの小説の?
信じられなかった。
今まで、俺の小説を読んでくれているのは、弥生さんと、あとはからかい半分で覗き見した健太くらいだと思っていた。(「なろう」のアクセス数は微々たるもので、感想や評価もほとんど付いていなかった)
それが、こんなにも熱烈な(ように見える)ファンが、現実に存在したなんて。
「え……あ、ありがとうございます……」
なんとか、それだけを絞り出すのが精一杯だった。嬉しい、というよりも、驚きと、戸惑いの方が大きい。
「私、先生の小説、毎日チェックしてるんですよ! 更新されるのが、すっごく楽しみで! あの、ヒロインの弥生さん(仮)が、めちゃくちゃ可愛くて! ちょっとドジなところとか、主人公の前だけ見せる弱いところとか、もう、最高です!」
莉子ちゃんは、矢継ぎ早に、興奮した様子で語り始めた。その熱量に、俺は少し気圧される。
「特に、この前の遊園地の話! あの観覧車のシーン、やばかったです! 読んでて、こっちまでキュンキュンしちゃいました! あの二人、早くくっつけばいいのにー!」
……遊園地の話。観覧車のシーン。
それは、つい数日前に、俺が徹夜して書き上げ、弥生さんに読んでもらったばかりの部分だ。それを、この子も読んでくれていたのか。しかも、「やばかった」「キュンキュンした」とまで言ってくれている。
(……嬉しい。素直に、嬉しいな)
弥生さん以外の読者から、こんなにも直接的に、熱い感想をもらえたのは初めてだった。作家冥利に尽きる、とはこのことだろうか。少しだけ、胸が熱くなるのを感じた。
「そ、そうですか……。ありがとうございます。そう言ってもらえると、励みになります」
照れながらも、素直な気持ちを伝える。
「本当ですか!? わーい! あの、もしよかったら、もっと感想とか、言ってもいいですか? 私、語りだしたら止まらないんですけど!」
莉子ちゃんは、さらに目を輝かせて、身を乗り出してきた。距離が近い。元気で、人懐っこいタイプの子なんだろうな、というのが伝わってくる。
「あ、いや、でも、ここ図書館ですし……それに、俺もこれから執筆を……」
さすがに、この場で延々と感想を聞くわけにはいかない。それに、弥生さんももうすぐ来るはずだ。
「あ、そっか! ごめんなさい! 先生の邪魔しちゃダメですよね!」
莉子ちゃんは、はっとしたように、慌てて一歩下がった。素直で、聞き分けのいいところもあるようだ。
「でも! あの、もしよかったら、今度、ゆっくりお話聞かせてください! 私、先生の小説のこと、もっともっと知りたいです! それに、先生自身のことも!」
……先生自身のことも?
最後の言葉に、少しだけ引っかかりを覚えたが、気のせいだろうか。
「あ、あと! これ、もしよかったら!」
莉子ちゃんは、そう言って、自分のカバンから何かを取り出した。
それは、可愛らしい猫のイラストが描かれた、小さなメモ帳とボールペンだった。
「サインください!」
「さ、サイン!?」
予想外の要求に、俺は完全に面食らった。サインなんて、書いたこともないし、そもそも、俺はまだ、ただの小説家志望の高校生だ。
「だ、ダメですか……? やっぱり、迷惑でしたか……?」
莉子ちゃんが、急にしゅんとした顔で、潤んだ瞳でこちらを見上げてくる。その表情は、まるで捨てられた子犬のようで、断るという選択肢を奪い去る。
(……この子、もしかして、自分の可愛さを分かっててやってる……?)
少しだけ、そんな疑念が頭をよぎる。だが、今はそれどころではない。
「い、いや! 迷惑じゃないですけど……! サインなんて、そんな、大したものじゃ……」
「いいんです! 私にとっては、宝物ですから! お願いします!」
ぐいぐいと、メモ帳とペンを押し付けてくる。その勢いに負けて、俺は結局、引き受けるしかなかった。
(……サイン、どうしよう……)
ペンネームの「月見航路」と書くだけでいいのだろうか。それとも、何か、それっぽいイラストでも添えるべきか? いや、絵心なんてないしな……。
悩んだ末、俺は、できるだけ丁寧な字で、「月見航路」と書き、その下に、小さく「読んでくれてありがとう」と書き添えた。我ながら、素人感丸出しのサインだ。
「わーい! ありがとうございます! 家宝にします!」
莉子ちゃんは、サインを受け取ると、満面の笑みで、再びぴょんぴょんと跳ねた。本当に嬉しそうだ。その純粋な喜びように、俺もなんだか悪い気はしなかった。
「じゃあ、先生! 今日はこれで失礼します! 執筆、頑張ってください! 次の更新も、めちゃくちゃ楽しみにしてますから!」
莉子ちゃんは、そう言って、もう一度ぺこりと頭を下げると、軽い足取りで書架の方へと去っていった。嵐のような、あっという間の出来事だった。
俺は、一人残された席で、しばらくの間、呆然としていた。
(……なんだったんだ、今の……)
自分の小説に、熱烈なファンがいたこと。
しかも、それが可愛い後輩女子だったこと。
サインまで求められたこと。
その全てが、あまりにも現実離れしていて、まだ頭が追いつかない。
(……でも、悪い気はしないな)
弥生さん以外の読者に認められた、という事実は、素直に嬉しかった。それに、莉子ちゃんの、あの屈託のない笑顔と、真っ直ぐな好意(ファンとしての、だが)は、なんだか心を明るくしてくれるような気がした。
(……これ、もしかして、ラブコメでよくある、後輩ヒロイン登場イベントってやつか?)
ふと、そんな考えが頭をよぎる。
主人公に積極的にアプローチしてくる、元気で可愛い後輩。物語をかき回し、メインヒロインとの関係に波乱を巻き起こす存在。
(……いやいや、まさかな)
慌てて、その考えを打ち消す。
莉子ちゃんは、ただの、俺の小説のファンだ。俺個人に好意があるわけじゃない。それに、俺には、弥生さんがいる。弥生さんへの気持ちは、もう確信に変わりつつあるのだ。他の女の子に、心が揺らぐなんてことは、絶対にない。
(……うん。そうだ。これは、ただの、作家とファンの関係だ)
そう自分に言い聞かせ、俺は再びPCに向き直った。
早く執筆を再開して、莉子ちゃん(そして、もちろん弥生さん)の期待に応えなければ。
だが、一度気になり始めると、どうにも集中できない。
さっきの莉子ちゃんの笑顔や言葉が、頭の中でリフレインする。
「先生自身のことも、もっと知りたいです!」
あの言葉は、本当にただのファンとしての興味だったのだろうか?
(……考えすぎか)
俺は、頭を振って、雑念を追い払おうとした。
その時だった。
「航くん、お待たせー」
聞き慣れた、優しい声がした。
顔を上げると、そこには、弥生さんが立っていた。
今日の弥生さんは、淡いブルーのワンピースに、白いカーディガン。髪は緩く巻かれていて、いつものように、穏やかで優しい笑顔を浮かべている。
「あ、弥生さん! こんばんは」
「ごめんね、少し遅くなっちゃった。大学の先生に捕まっちゃって」
「いえ、大丈夫ですよ。俺も、今来たとこみたいなもんですから」
嘘をついた。本当は、さっきの後輩女子との遭遇で、まだ少し動揺していた。
「そっか。……あれ? 航くん、なんか顔、赤い?」
弥生さんが、不思議そうに俺の顔を覗き込んできた。
「えっ!? そ、そうですか!? き、気のせいですよ! ちょっと暑いだけです!」
慌てて否定する。まずい。動揺が顔に出ていたらしい。
「ふーん……?」
弥生さんは、少しだけ訝しげな表情を浮かべたが、それ以上は追求せず、俺の隣の席に静かに腰を下ろした。
「……さ、私も読書しよっと」
そう言って、バッグからいつもの分厚いハードカバーの本を取り出す。
(……良かった。気づかれなかった……かな?)
ほっと胸を撫で下ろす。
だが、弥生さんが本を開こうとした、その時。
彼女の視線が、ふと、俺の机の上に置かれていた、あるものに留まった。
それは、さっき莉子ちゃんがサインを求めてきた、あの、猫のイラストが描かれたメモ帳だった。俺は、サインを書いた後、無意識のうちに、それを自分のPCの横に置いてしまっていたのだ。
「……あれ?」
弥生さんが、小さな声を漏らした。
「そのメモ帳……可愛いね。猫の絵」
「えっ? あ、ああ、これですか……」
まずい。どう説明しよう。
「航くんの? ……にしては、ちょっとファンシーかなって思ったんだけど(笑)」
弥生さんは、軽い口調で言った。
「い、いや、これは、俺のじゃなくて……その……」
しどろもどろになる俺。
「……さっき、ちょっと、人に……」
「人に?」
弥生さんの声のトーンが、ほんの少しだけ、低くなったような気がした。気のせいだろうか。
「……知り合い、に、会って……。その子が、持ってたやつで……」
苦しすぎる言い訳だ。自分で言っていても、無理があるのが分かる。
「……ふーん。知り合い、ねぇ……」
弥生さんは、それだけ言うと、ふい、と視線を逸らし、黙って本を開いた。
その横顔は、いつもと同じように穏やかに見えた。
だが、俺には、その笑顔の裏に、ほんの一瞬だけ、何か別の感情……例えば、ほんの少しの疑念や、あるいは、もっと別の、形容しがたい感情が、よぎったように見えたのだ。
(……気のせい、だよな?)
俺は、不安を打ち消すように、首を振った。
弥生さんが、そんなことで、何かを勘ぐるはずがない。俺たちの関係は、もっと信頼に基づいたもののはずだ。
でも、俺の心の中には、小さな、しかし無視できない棘のようなものが刺さったままだった。
莉子ちゃんの登場。弥生さんの、一瞬見せた翳りのような表情。
それは、これから始まる波乱の、ほんの序章に過ぎないのかもしれない。
穏やかだった日常に投げ込まれた、小さな石。
その波紋は、静かに、しかし確実に、俺と弥生さんの関係に、そして俺が紡ぐ物語に、影響を与え始めていた。




