第十二話:遊園地の帰り道と、日常の始まり
夕暮れの観覧車。二人きりのゴンドラの中で過ごした、まるで夢のような時間。言葉にはならなかったけれど、確かに触れ合い、響き合ったと感じた心。あの特別な体験は、俺と弥生さんの関係性に、目には見えないけれど、しかし決定的な変化をもたらしたようだった。観覧車を降りた瞬間から、俺たちの間に流れる空気は、それまでとは明らかに違う色合いを帯びていた。甘酸っぱくて、少しだけ切なくて、それでいて、確かな温もりと、これから何かが始まるかもしれないという強い予感を孕んだ、そんな特別な空気。
閉園を告げる「蛍の光」が流れる中、俺たちは名残惜しさを胸に、光り輝く魔法の国を後にした。遊園地のゲートをくぐり抜けた瞬間、まるでシンデレラの魔法が解けるかのように、現実世界へと引き戻される感覚があった。ゲートの向こう側には、日常の延長線上にある、見慣れた駅へと続く道が伸びている。
「……終わっちゃったね」
振り返り、夜空に浮かぶ観覧車の光の輪を見上げながら、弥生さんがぽつりと呟いた。その声には、隠しようのない寂しさが滲んでいて、俺の胸をきゅっと締め付けた。
「……はい。なんだか、あっという間でしたね。朝来たのが、もう何日も前のことみたいです」
俺も、同じように遊園地を見上げた。楽しかった一日の記憶が、色鮮やかなフラッシュバックのように脳裏を駆け巡る。メリーゴーランドの優しい光、コーヒーカップでの弥生さんの無邪気な笑顔、ジェットコースターでの絶叫と密着感、お化け屋敷での恐怖と繋いだ手の温もり、そして、観覧車から見た息をのむような夜景と、すぐ隣にあった彼女の存在……。その全てが、夢のように美しく、そして儚く感じられた。
「航くんは、今日、何が一番心に残ってる?」
弥生さんが、今度は少し違う角度から尋ねてきた。「楽しかった」ではなく、「心に残ってる」こと。
「えっ、心に……ですか?」
またしても難しい質問だ。楽しかったことと、心に残ったことは、必ずしもイコールではないかもしれない。
「うーん……やっぱり、観覧車……ですかね。あの景色と……弥生さんと、二人きりで……」
言葉を選びながら、正直な気持ちを口にする。観覧車での時間は、やはり格別だった。
「……そっか。私も……観覧車、かな」
弥生さんも、少し照れたように、でも、はっきりとそう言った。同じ答えだったことが、なんだか無性に嬉しくて、俺の心臓がまた一つ、温かい音を立てた。
「あと……お化け屋敷で、航くんが手を繋いでくれたこと、かな……」
弥生さんは、さらに小さな声で付け加えた。その言葉に、俺の心臓は跳ね上がり、顔がカッと熱くなる。
「あ、あれは、その、弥生さんがあまりにも怖がってたから、つい……!」
慌てて言い訳するが、弥生さんは「うん、知ってる」と、くすくす笑った。
「でも、すごく……安心したし、嬉しかったんだよ? ……ありがとね」
真っ直ぐな瞳で、そう言われてしまうと、もう何も言えない。ただ、照れて俯くしかなかった。弥生さんは、本当に、俺を翻弄するのが上手い。
そんな、どこか甘酸っぱくて、むず痒いような会話をしながら、俺たちは駅へと向かう道をゆっくりと歩いていた。遊園地の喧騒は完全に背後に遠ざかり、夜の静けさが心地よい。街灯が照らす歩道には、俺たち以外にも、同じように遊園地からの帰りと思われる人々がちらほらと歩いている。寄り添って歩くカップル、疲れて親に手を引かれる子供、友達同士で今日の出来事を興奮気味に語り合うグループ……。その誰もが、それぞれの特別な一日の余韻に浸っているように見えた。
俺たちの間には、再び、穏やかな沈黙が訪れていた。だが、それはもう気まずいものではなく、むしろ、言葉にしなくても多くのことを共有できているような、満たされた沈黙だった。時折、視線が合っては、どちらからともなく、はにかむように微笑み合う。そんな、ささやかなやり取りだけで、心が温かくなるのを感じた。
駅に到着し、ホームで電車を待つ。俺と弥生さんの家は、途中まで同じ路線だ。ベンチに隣同士で腰を下ろす。さっきまでの遊園地での高揚感が、少しずつ落ち着きを取り戻し、代わりに、心地よい疲労感と、名残惜しさがじわじわと広がってくる。
電光掲示板が、無情にも現実の時刻を告げている。あと数十分もすれば、俺たちは別々の電車に乗り換え、それぞれの日常へと戻っていくのだ。
やがて、ホームに電車が滑り込んできた。土曜日の夜だけあって、車内は思った以上に混雑していた。座席はすべて埋まっており、俺たちはドア付近のスペースに並んで立つことになった。
吊革に掴まる弥生さんの横顔を、そっと盗み見る。窓ガラスに、俺たちの姿がぼんやりと映っている。なんだか、それが不思議な光景に思えた。少し疲れたような、でも満足そうな弥生さんと、その隣で、明らかに緊張している俺。周りの乗客たちの無関心な表情との対比が、俺たち二人だけの特別な関係性を際立たせているような気がした。
ガタン、ゴトン……。電車は、夜の街を走り抜けていく。車窓からは、家々の明かりや、ビルのネオンサインが流れていくのが見える。その光景を眺めていると、今日一日の出来事が、まるで遠い夢のようにも感じられた。本当に、俺は弥生さんと遊園地に行ってきたのだろうか? あの魔法のような時間は、本当に存在したのだろうか?
だが、隣に立つ弥生さんの存在と、吊革を持つ手が時折軽く触れ合う感触が、それが紛れもない現実であることを教えてくれる。
「……航くん、本当に疲れてない? 顔、少し赤いよ?」
不意に、弥生さんが心配そうに俺の顔を覗き込んできた。近い。混雑した車内では、自然と距離が縮まる。甘い香りが、また俺の鼻腔をくすぐる。
「あ、いえ! 大丈夫です! これは、その……電車の暖房が暑いだけですから!」
苦しい言い訳をする。実際は、弥生さんの近さと、自分の高鳴る心臓のせいで、顔が火照っているだけだ。
「そっか? ならいいんだけど……。無理しちゃダメだよ?」
弥生さんは、まだ少し心配そうな顔をしていたが、それ以上は追及せず、ふわりと微笑んだ。その優しさが、また俺の心を温かくする。
「……今日の『取材』の成果、本当に楽しみにしてるからね」
弥生さんが、期待のこもった目で、再び俺を見た。
「はい! お任せください! 必ず、弥生さんを……ううん、読者の皆さんをキュンとさせるような、最高のシーンを書いてみせます!」
思わず、力が入ってしまう。弥生さんの期待に応えたい。そして、俺が感じたこの気持ちを、物語を通して表現したい。その思いが、強く胸を打つ。
「うん、楽しみにしてる。……でも、プレッシャーに感じないでね? 航くんのペースで、航くんが書きたいものを書くのが一番だから」
弥生さんは、そう言って、俺の肩をポン、と軽く叩いた。その、さりげないけれど温かい励ましに、俺はまた、胸が熱くなるのを感じた。
そんな会話をしているうちに、あっという間に、俺が乗り換えるべき駅が近づいてきた。「次は、〇〇〜、〇〇〜」というアナウンスが、別れの時が近いことを告げる。
「あ……じゃあ、俺、ここで降ります」
名残惜しい気持ちでいっぱいだったが、そう告げるしかない。
「うん。そっか……」
弥生さんの表情にも、明らかに寂しさの色が浮かんだ。それが、俺には少しだけ嬉しかった。彼女も、俺との別れを惜しんでくれているのだ、と。
電車がホームに停車し、プシューという音とともにドアが開く。
「……今日は、本当に、本当に、ありがとうございました!」
最後に、もう一度、心を込めてお礼を言う。
「ううん、こちらこそ! 最高の一日だったよ! ……あのね、航くん」
弥生さんが、何かを言いかける。なんだろう?
「……また、『取材』、絶対行こうね?」
弥生さんは、悪戯っぽく笑って、今度は、そっと俺の小指に自分の小指を絡めてきた。「指切りげんまん」の形だ。
「えっ!?」
突然のことに、俺は完全に固まってしまう。指先に伝わる、弥生さんの指の細さと、温もり。心臓が、爆発しそうなくらい激しく脈打つ。
「約束、だからね? ……なんちゃって(笑)」
弥生さんは、すぐに指を離すと、顔を真っ赤にして、照れたように笑った。その破壊力は、もはや計り知れない。
「は、はい! 絶対……!」
俺は、もう、それしか言えなかった。
「じゃあ、本当に気をつけて帰ってね。……おやすみ、航くん」
「は、はい! 弥生さんも、お気をつけて……! おやすみなさい!」
ドアが閉まり始める。俺は慌てて電車を降りた。
動き出す電車。窓越しに、弥生さんが、満面の笑顔で、大きく手を振っているのが見えた。俺も、その姿が見えなくなるまで、必死で手を振り返した。
一人、夜のホームに取り残される。
電車の走り去る音と、遠ざかっていく赤いテールランプ。
俺は、まだドキドキと高鳴る心臓と、弥生さんの指の感触が残る小指を見つめながら、深い、深いため息をついた。
(……なんだ、今の……反則だろ……)
夢のような一日。そして、最後の最後での、あの不意打ち。
俺の頭の中は、完全にキャパシティオーバーを起こしていた。
(……変わったな、俺。本当に)
数ヶ月前の、ラブコメなんて書けるわけがないと、部屋に閉じこもってうじうじ悩んでいた自分が、嘘のようだ。
今、俺は、現実に、憧れの年上の女性とデートをして、手を繋いで(お化け屋敷でだけど)、観覧車に乗って、そして、次のデート(取材)の約束までしてしまったのだ。しかも、指切りまで。
これはもう、ラブコメの主人公以外の何物でもないのではないか?
(……いや、まだだ。まだ、何も始まっていないのかもしれない)
確かに、状況は大きく動いた。弥生さんとの距離も、確実に縮まったはずだ。
でも、俺はまだ、自分の本当の気持ちを伝えられていない。弥生さんの本当の気持ちも、まだ分からないままだ。
俺たちは、まだ「取材」という名の、便利な言い訳に守られた、曖昧な関係性のままなのだ。
(……でも、それでいい。今は、まだ)
焦る必要はない。今日のこの経験と、胸の中に生まれた確かな温もりを、大切に育てていけばいい。
作家としても、一人の男としても、俺は確実に成長しているはずだ。そう信じたい。
家路につく足取りは、疲れているはずなのに、なぜか軽かった。
空を見上げると、綺麗な半月が浮かんでいた。あの観覧車から見た星空ほどではないけれど、優しい光を放っている。
自室に戻り、ベッドに倒れ込む。
心地よい疲労感。そして、胸を満たす、甘くて切ない余韻。
すぐにでも眠ってしまいそうだったが、ポケットの中のスマホが震えているのに気づいた。
弥生さんからだった。
『航くん、無事に着いたかな? 今日は本当に本当にありがとう! 最高に楽しい一日だったよ! 思い出すだけで、まだドキドキしてる(〃ω〃) ゆっくり休んでね! P.S. 次の『取材』の約束、忘れないでね? 指切りしたもんね♪』
メッセージの最後には、指切りをしている可愛らしいスタンプが添えられていた。
そのメッセージを、俺は何度も何度も読み返した。「まだドキドキしてる」という言葉に、また心臓が跳ねる。そして、「指切りしたもんね♪」という追伸に、顔がにやけてしまうのを止められない。
(……よし。書かなければ)
疲れなんて、どこかへ吹き飛んでしまった。
この、まだ熱く燃えている感情が冷めないうちに。今日の、この奇跡のような一日を、そして、この胸の高鳴りを、弥生さんへの募る想いを、物語へと昇華させるんだ。
俺は、ベッドから勢いよく起き上がると、PCの電源を入れた。
真っ白な画面が、静かに光を放つ。それはもう、俺にとって、恐れるべき空白ではない。無限の可能性を秘めた、希望のキャンバスだ。
カタカタカタ……。
キーボードを叩く音が、夜の静寂を破って、部屋に響き始めた。
それは、以前とは比べ物にならないほど、力強く、そして確かな意志を持ったリズムを刻んでいた。
遊園地の帰り道。二人を乗せた電車。交わした言葉。触れ合った指先。そして、別れの瞬間の、切ない余韻。
その全てを、俺は、自分の言葉で、自分の感情で、紡いでいく。
*
翌日からの俺の日常は、あの遊園地での一日を経て、さらに大きな、そして明確な変化を見せ始めていた。
まず、執筆活動は、かつてないほどの充実期を迎えていた。
遊園地での「取材」で得た、あまりにも豊富で、鮮烈な一次情報は、俺の物語に、驚くほどのリアリティと深みを与えてくれた。特に、ヒロインである弥生の描写は、我ながら格段に進歩したと思う。
無邪気にはしゃぐ姿、怖がる姿、強がる姿、照れる姿、そして、観覧車の中で見せた、あの切なくて大人びた表情……。現実の弥生さんの持つ、多面的な魅力を、俺は惜しみなく物語の中に注ぎ込んだ。書いているうちに、弥生は、もはや俺の手を離れて、自らの意志で動き、語り、恋をしているかのようにさえ感じられた。
『遊園地の帰り道、電車に揺られながら、彼女は窓の外の夜景を見ていた。その横顔に映る光と影は、まるで彼女自身の心の内のようだ、と主人公は思った。楽しかった一日の終わりを惜しむ気持ちと、隣にいる主人公への、まだ形にならない想いと……。』
『別れ際、彼女が差し出した小指。触れた瞬間の、柔らかな感触と温もり。それは、言葉よりもずっと雄弁に、二人の間の距離が縮まったことを示していた。主人公は、その小さな約束を、宝物のように胸にしまい込んだ。』
もちろん、自分の感情が露骨に出すぎていないか、という懸念は常にあった。地の文が、時折、感傷的なポエムのようになってしまうのも相変わらずだ。だが、もう迷いはなかった。これが、今の俺が書ける、最高のラブコメなのだ、と。
弥生さんとのメッセージのやり取りは、もはや生活の一部となっていた。
毎日の挨拶は欠かさず、学校での些細な出来事、見つけた面白いニュース、執筆の進捗状況、そして、次にどんな「取材」をしたいか、といった未来への期待……。そんなことを、他愛なく、しかし親密に語り合う。
弥生さんからの返信は、いつも俺の心を温かくしてくれた。
『航くん、執筆順調みたいで嬉しいな! でも、ちゃんと寝てる? 無理は禁物だよ(>_<)』
『えっ、お粥の練習してるの!? すごい! 偉い! 今度、味見させてほしいなー♪ なんてね(笑)』
『次の「取材」かぁ……。うーん、水族館とかも定番かな? 薄暗い中で、二人で大きな水槽眺めるの、ロマンチックじゃない? ……って、これも小説のネタになりそう?(笑)』
そんな、思わせぶりな(あるいは天然なのかもしれない)メッセージや、可愛いスタンプが送られてくるたびに、俺の心臓は跳ね上がり、顔は緩みっぱなしだった。完全に、弥生さんの手のひらの上で転がされている自覚はあったが、それがむしろ心地よかった。
学校での俺の様子も、明らかに変わっていたらしい。
健太からは、「おい航、お前、マジで最近どうしたんだ? 授業中もなんかニヤニヤしてるし、スマホ見る回数も異常だし。隠してても無駄だぞ、絶対彼女できたろ!」と、ほぼ確信を持って問い詰められるようになった。
「だーかーらー! できてないって! これは、その……創作活動の一環でだな……」
もはや、言い訳も苦しくなってきている。顔が赤くなるのを止められない。
「ふーん……? まあ、お前が幸せなら、それでいいんだけどさ。でも、もし本当に彼女なら、今度ちゃんと紹介しろよな! 俺、お前の友達なんだからさ!」
健太は、呆れたような、でもどこか嬉しそうな顔で、そう言った。こいつなりに、俺のことを応援してくれているのかもしれない。それは、少しだけ、くすぐったかった。
妹の美咲からも、「お兄ちゃん、最近なんかキモいんだけど」という、ストレートすぎる指摘を受けた。
「なっ……! キモいとはなんだ!」
「だって、なんか、ずっとニヤニヤしてるし、急に鼻歌とか歌い出すし。それに、この前、私のプリン勝手に食べたでしょ!」
「そ、それは……! 悪かったって!」
(……プリン、食べたのバレてたのか……。いや、それよりも、俺、そんなに挙動不審だったのか?)
自分の変化に、一番気づいていないのは、自分自身なのかもしれない。
日常は、輝きを増していた。
世界が、以前よりもずっと明るく、希望に満ちて見える。
それは間違いなく、俺の中に芽生えた「恋」という感情と、そして、弥生さんという、かけがえのない存在のおかげだった。
このまま、穏やかで幸せな日々が続いていく。そう、信じて疑わなかった。
だが、物語には、起伏がつきものだ。
そして、ラブコメにおいては、順風満帆なだけの展開は、むしろ退屈とされる。
幸せな時間の後には、しばしば、波乱が訪れるものなのだ。
その予兆は、本当に些細な形で、現れ始めていたのかもしれない。
例えば、ある日、弥生さんからのメッセージの返信が、いつもより半日ほど遅れたこと。
例えば、執筆中に、ふと、弥生の笑顔の裏に、何か別の感情が隠されているような気がして、筆が止まってしまったこと。
例えば、ある放課後、図書館で、見慣れない、少し勝ち気そうな目をした、可愛らしい後輩らしき女子生徒と、目が合ってしまったこと……。
その時の俺は、まだ、それらの小さな出来事が、これから訪れるであろう嵐の、ほんの始まりに過ぎないことに、気づいてはいなかった。
順調に進むかのように見えた、俺の物語と、俺自身のリアルなラブコメ。
その行く手には、新たな登場人物と、そして、避けることのできない試練が、静かに、しかし確実に、待ち構えていたのだ。




