第十話:『取材』という名の初デート? ~遊園地・昼食と夕暮れ~
「ねえ、航くん」
「……今日の『取材』、本当に、小説の役に立ってる?」
テラス席での和やかな昼食の雰囲気を、ふいに切り裂いた弥生さんの問い。それは、あまりにも真っ直ぐで、核心を突いていた。俺は、パスタを絡めたフォークを宙で止め、一瞬、思考が真っ白になるのを感じた。まるで、不意打ちで急所を突かれたかのように、心臓がドクリと跳ねる。
役に立っているか、いないか。答えは明白だ。イエス、だ。疑いようもなく。弥生さんと出会ってから、俺の創作の世界は劇的に色づき始めた。彼女との会話、彼女の笑顔、彼女がくれるアドバイス、そして、彼女と過ごす時間そのものが、枯れ果てていた俺の想像力に、尽きることのないインスピレーションを与えてくれている。今日この一日の体験だけでも、どれだけの「ネタ」……いや、「リアルな描写」の種を得られたことか。それは、感謝してもしきれないほどだ。
だが、問題はそこではない。弥生さんが問うているのは、おそらく、その言葉の裏側にある俺の真意なのだろう。この時間を、俺が本当に「取材」としてだけ捉えているのか、それとも……。
自覚はある。これはもう、とっくに「取材」という名目を超えている。俺は、ただ純粋に、弥生さんと一緒にいるこの瞬間を楽しんでいる。小説のため、という建前以上に、彼女の隣にいたい、彼女の笑顔をもっと見ていたい、そう願ってしまっているのだ。その、どこか後ろめたさを伴う、しかし抗いがたい強い感情。それを、この聡明な年上の女性は、見抜いているのではないか? この質問は、その確認なのではないか?
どう答えるべきか。一瞬のうちに、いくつもの思考が頭の中を駆け巡る。「役に立ってますよ、おかげさまですごく楽しいです!」と正直に伝えてしまう? いや、それはあまりにも軽率だ。この心地よい曖昧な関係を、自ら壊してしまうことになるかもしれない。かといって、「ええ、あくまで取材ですから」とビジネスライクに答える? それはそれで、弥生さんを傷つけてしまうかもしれないし、何より自分の心に嘘をつくことになる。
逡巡の末、俺は一つの答えを選んだ。それは、嘘ではない、今の俺の正直な気持ち。そして、願わくば、弥生さんを傷つけずに、この関係性を保てるであろう、ギリギリのライン。
俺は、一度フォークを皿に置き、姿勢を正し、真っ直ぐに弥生さんの大きな瞳を見つめ返した。その瞳の奥に揺れる光から、目を逸らさないように。
「……はい。めちゃくちゃ、役に立ってます」
声が、少しだけ震えたかもしれない。弥生さんは、黙って俺の言葉の続きを待っている。その静かな眼差しが、俺の心臓をさらに強く締め付ける。まるで、告白前の緊張感にも似たプレッシャーだ。
「もちろん、その……今日体験させてもらったこと全てが、具体的な描写のヒントになっています。メリーゴーランドの、あの独特の浮遊感とか、コーヒーカップでの弥生さんの……えっと、楽しそうな反応とか、さっきのジェットコースターでの、あの……心臓が飛び出しそうなスリルとか……」
言葉を選びながら、できるだけ具体的に挙げていく。これは事実だ。
「今まで、想像だけで補おうとして、どうしても嘘っぽくなってしまっていた部分が、今日一日で、まるで目の前で起こっているかのように、鮮明にイメージできるようになった気がします。解像度が、一気に上がった感じです」
そこで一度、息を吸い込む。ここからが、本題だ。
「でも……それ以上に、なんて言ったらいいのか……」
少しだけ言い淀む。適切な言葉が見つからない。
「……自分が、どういう風に『感じる』のか、っていうのが……少し、分かったような気がするんです」
「え?」
弥生さんが、不思議そうに小さく首を傾げた。その仕草に、また心臓が跳ねる。
「ラブコメを書く上で、登場人物の気持ちを描くことが一番大事だって分かってるんですけど、今までは、正直、頭で考えて、無理やり感情を『設定』してるような感覚があったんです。『こういう時は、きっとこう感じるはずだ』みたいな……。でも、それはやっぱり、どこか表面的で、リアリティがなかった」
「でも、今日、こうして弥生さんと一緒に遊園地に来て……単純に、『楽しい』とか、『嬉しい』とか、さっきみたいに『ドキドキする』とか……そういう、すごく基本的な感情を、ものすごく強く、リアルに感じることができたんです」
熱がこもっていくのが自分でも分かる。言葉が、自然と溢れ出してくる。
「それは、多分……俺が一人でここに来ていたとしても、絶対に感じられなかったことだと思うんです。隣に、弥生さんがいてくれたから……弥生さんが、笑ってくれたり、話してくれたり、時には……ちょっと意地悪したり(笑)、そういう反応を見せてくれたからこそ、俺の心も、動いたんだと思うんです」
そこまで一気にまくし立てて、はっと我に返った。
まずい。かなり踏み込んだことを言ってしまった。これは、ほとんど、弥生さんへの存在そのものへの感謝であり、ある種の……告白に近いニュアンスを帯びてしまっているのではないか?
「……だ、だから! その……取材対象として、非常に、こう……感情を揺さぶってくれる、素晴らしい方だということで! つまり、すごく、役に立ってます! はいっ!」
慌てて、無理やり「取材」という言葉に着地させ、語気を強めて締めくくった。弥生さんの反応を窺うのが怖くて、思わず視線をテーブルの上の水のグラスへと落としてしまう。グラスの表面についた水滴が、やけにクリアに見えた。
数秒間の、重い沈黙。レストランの喧騒が、遠くに聞こえる。心臓の音が、耳元でドクドクと鳴っている。
やっぱり、言いすぎたか? 気持ち悪いと思われたか? この気まずい空気、どうすればいい……?
「……そっか」
やがて、静寂を破ったのは、弥生さんの、ぽつりとした呟きだった。
恐る恐る、顔を上げる。
弥生さんは……予想に反して、怒っても、引いてもいなかった。ただ、ふわりと、とても柔らかく、優しい表情で微笑んでいたのだ。
その笑顔には、先ほど感じた安堵のような色合いに加えて、ほんの少しだけ、切なさというか、寂しさのような影が差しているように見えたのは、やはり気のせいではなかったのかもしれない。まるで、何かを諦めたような、それでいて、何かを受け入れたような、そんな複雑なニュアンス。
「……なら、良かった」
弥生さんは、そう言うと、まるでスイッチを切り替えるように、表情をいつもの明るいものに戻した。
「航くんの小説が、それで少しでも良くなるなら、今日の『取材』は大成功、ってことだね!」
そして、何事もなかったかのように、残りのパスタを美味しそうに口に運び始めた。「んー、冷めないうちに食べないとね!」と、少しだけ早口で言いながら。
(……良かった、のか……?)
弥生さんの、そのあまりにも自然な態度の変化に、俺は戸惑いを隠せない。俺の、あの熱のこもった言葉は、彼女の心にどう響いたのだろうか。「取材対象として素晴らしい」という、最後の強引な着地点だけを、都合よく受け取ってくれたのだろうか。それとも、もっと深い意味まで理解した上で、あえて、この曖昧な関係を維持しようとしているのだろうか。
分からない。弥生さんの考えていることは、本当に分からない。まるで、幾重にもベールを重ねた先の、柔らかな光のようだ。時折、その光が強く感じられる瞬間はあるけれど、決して、その核心に触れることは許されない。
だが、今は、それでいいのかもしれない、と俺は思った。
この「取材」という名の、甘くて切ないベール。それを、急いで剥ぎ取る必要はない。この、宙吊りのような、不安定で、でも心地よい関係性。それ自体が、今の俺たちの物語を、より深く、魅力的なものにしているのかもしれないのだから。
「さてと! エネルギーチャージもばっちり完了したし、午後の『取材』、本格的に再開しよっか!」
あっという間にパスタを平らげた弥生さんが、満足そうな笑顔でパン、と軽快に手を叩いた。その見事な切り替えっぷりに、俺はまだ少しだけ動揺を引きずりつつも、「はい!」と力強く頷いた。
「はい! 次は……いよいよ、お化け屋敷、でしたっけ?」
「そう! 恐怖の館へようこそ! ……覚悟はよろしくて、航くん?」
弥生さんは、わざと低い声を作り、ニヤリと悪戯っぽい笑みを浮かべて、俺の顔を覗き込んできた。その瞳には、先ほどまでの複雑な色は微塵もなく、好奇心と、ほんの少しの(これから起こるであろう自分の反応への)恐怖が入り混じった、独特の輝きが宿っている。
「……望むところです。弥生さんの『取材』、しっかりさせていただきますよ」
俺も、その挑戦的な視線を受け止め、少しだけ不敵な笑みを返してみせた。内心では、これから体験するであろうラブコメ的展開と、単純な生理的恐怖とで、すでに心臓が別の意味で早鐘を打っていたのだが……それを悟られるわけにはいかない。
*
昼食を終え、午後の陽光がきらめく園内へと再び繰り出した俺たちが目指したのは、園の少し外れ、鬱蒼とした木々に囲まれるようにして建つ、古めかしい洋館だった。その名は「呪われた人形館」。壁は黒ずみ、窓ガラスは所々割れ、屋根には気味の悪いガーゴイル像が鎮座している。入り口の前には、煤けた看板と、虚ろな目をしたアンティークドールの大きな人形が置かれ、そこから漏れ聞こえてくる、録音されたものであろう悲鳴や呻き声が、現実の恐怖感を巧みに演出していた。
「うぅ……やっぱり、近くで見ると、迫力が違う……」
あれだけ強気だった弥生さんが、目的地を目前にして、早くも弱気な声を漏らし始めた。顔色も心なしか青ざめ、足取りは明らかに躊躇いがちだ。その変化が、なんだか小動物のようで、不謹慎ながらも可愛いと思ってしまう。
「だ、大丈夫ですか? やっぱり、やめておきますか?」
俺が本気で心配して声をかけると、弥生さんは「だ、だだだ、大丈夫だもん!」と、どもりながらも虚勢を張った。しかし、その声は情けないほど震えている。
「こ、こういうのは、入るまでが一番怖いんだから! 入っちゃえば、意外と……平気……な、はず……だもん……」
完全に自分に言い聞かせている。果たして、本当に大丈夫なのだろうか。ジェットコースターの時とは、明らかに様子が違う。
幸い(?)、お化け屋敷はジェットコースターほどの人気はなく、列は比較的短かった。それでも、待っている間、弥生さんは終始落ち着かない様子で、俺の服の袖をぎゅっと掴んで離さなかった。その小さな手の震えが、俺にまで伝わってくるようだ。
やがて、俺たちの順番が来た。薄暗い入り口で、無表情なスタッフから古びたデザインの懐中電灯を一つ手渡される。「館内は、視界が大変悪くなっております。お連れ様と、決してはぐれないよう……そして、いかなるものをご覧になっても、決して……決して、振り返ってはいけません……」と、抑揚のない、不気味な声で注意事項を告げられた。最後の「振り返ってはいけない」という言葉が、妙に耳に残る。ホラーの定番だが、やはり効果的だ。
「……じゃ、じゃあ……行こっか……」
弥生さんが、か細い声で言った。顔は完全に引きつっている。
「は、はい……」
俺も、さすがに緊張してきた。懐中電灯のスイッチを入れると、頼りなく揺れる光の輪が、前方の闇をわずかに照らし出す。
ギィィィ……という、わざとらしいほど大きな音を立てて、重厚な扉が開かれる。その向こうは、完全な暗闇だった。ひんやりとした、埃っぽいような、そして微かに甘いような(香水の匂いだろうか?)奇妙な匂いが鼻をつく。
一歩、足を踏み入れると、背後で扉がバタン!と大きな音を立てて閉まった。
「ひぃっ……!」
隣で、弥生さんが短い悲鳴を上げ、反射的に俺の腕にしがみついてきた。今度は、服の袖どころではない。がっちりと、二の腕あたりを両手で掴まれている。しかも、かなりの力だ。爪が食い込んでいるんじゃないかと思うほど。
「み、弥生さん、大丈夫ですか!?」
「……だ、大丈夫じゃない……! もう無理! 帰る! 帰りたい……!」
完全にパニック状態だ。俺の腕に顔を押し付け、ぶるぶると全身を震わせている。
「で、でも、もう扉閉まっちゃいましたし……前に進むしかないですよ!」
「……やだ……やだぁ……! 航くん、お願いだから……そばにいて……! 絶対に、絶対に、離れないで……!」
涙声で懇願してくる弥生さん。その必死な様子に、俺の心臓は、恐怖とは全く別の理由で、激しく高鳴り始めた。
(……よし。ここは、俺が守るしかない)
情けないが、俺だって怖い。だが、弥生さんを、このままにしておくわけにはいかない。彼女を安心させなければ。そして、この絶好の(ラブコメ的な)シチュエーションを、しっかりと「取材」しなければ!
俺は、一度深呼吸をして、懐中電灯をしっかりと握り直した。そして、できるだけ落ち着いた、頼りがいのある声を作って言った。
「大丈夫です、弥生さん。俺がいますから。何も心配いりません。俺の後ろに、ぴったり隠れててください。絶対に、守りますから」
自分でも驚くほど、スムーズに、それっぽいセリフが出てきた。これも、ラブコメの読みすぎの弊害……いや、成果だろうか。
「……うん……!」
弥生さんは、涙声のまま、こくりと頷いた。そして、宣言通り、俺の背中にぴったりと体を密着させ、服の裾ではなく、今度は腰のあたりに、ぎゅっとしがみついてきた。
背中に伝わる、彼女の体の曲線と柔らかさ。首筋にかかる、熱っぽい吐息。そして、耳元で聞こえる、か細い呼吸音と、時折漏れる「ひっ」という小さな悲鳴。甘い香りが、暗闇の中でより一層強く感じられる。
……もう、ダメだ。お化け屋敷の恐怖なんて、完全に吹き飛んでしまった。ただ、この、あまりにも近すぎる距離と、背中に感じる弥生さんの存在に、頭がクラクラする。理性と本能が、激しくせめぎ合っている。
俺たちは、一歩、また一歩と、暗闇の中を進んでいく。懐中電灯の光が照らし出すのは、埃をかぶった家具、破れたカーテン、そして……あちこちに置かれた、不気味な人形たち。様々な大きさ、様々な表情の人形が、まるで生きているかのように、こちらを見つめている気がする。
「きゃあああっ!」
「うわっ!」
突然、壁の一部がガタンと音を立てて開き、中からピエロのような人形が飛び出してくる。古典的な仕掛けだが、やはり驚く。その度に、弥生さんは甲高い悲鳴を上げ、俺の腰にしがみつく力を強める。俺も、情けないことに、ビクッと肩を震わせてしまう。
『俺は、必死で平静を装った。だが、内心では、弥生さん以上にパニックに陥っていたかもしれない。背中に感じる彼女の柔らかな感触と、耳元で繰り返される悲鳴。それは、恐怖よりも遥かに強烈な刺激となって、俺の理性を揺さぶり続けていた。』
(……よし。この葛藤を描写すれば、主人公の人間味が出るはずだ)
頭の片隅では、相変わらず冷静な分析(?)が行われている。もはや、これは一種の防衛本能なのかもしれない。
通路は迷路のように入り組み、様々な部屋へと続いていく。古びた子供部屋には、首のないテディベアや、目が一つしかない木馬。ダイニングルームには、埃だらけの食卓と、そこに座る等身大の家族の人形(もちろん、表情は不気味だ)。寝室には、天蓋付きのベッドと、その上に横たわる……花嫁衣装を着た、白骨化した人形。
どの部屋も、薄気味悪く、そして、どこか物悲しい雰囲気が漂っている。この館には、何か悲しい物語があるのだろうか……なんて、感傷に浸る余裕は、今の俺にはない。ただただ、早くこの悪夢のような空間から抜け出したい一心だった。
特に、弥生さんが最も怯えていたのは、やはり日本人形の並ぶ和室だった。薄暗い部屋の中に、何十体もの市松人形が、ガラスケースの中や畳の上に、ずらりと並べられている。その、表情のない、黒目がちな瞳が、一斉にこちらを見ているようで、背筋が凍る。
「……いや……いやぁ……! もう、やだ……! 見られてる……絶対、見られてる……!」
弥生さんは、完全にパニックになり、俺の背中に顔を押し付けて、わんわんと泣き出してしまった。
「だ、大丈夫ですよ! 人形ですって! 動きませんから!」
「うそ! さっき、絶対、目が合ったもん……! こっち見て、笑ってたもん……!」
「気のせいです! きっと!」
必死でなだめるが、弥生さんは完全に恐怖に囚われてしまっている。腰にしがみつく力も、限界まで強くなっているようだ。
(……これは、まずいな)
このままでは、先に進めない。どうすれば……。
その時、俺は、ラブコメでよく見る、ある行動を思い出した。
(……やるか? いや、でも、さすがに……)
一瞬、躊躇した。だが、弥生さんの嗚咽を聞いていると、いてもたってもいられなかった。
俺は、意を決して、腰にしがみついている弥生さんの手を、そっと、優しく握った。
「……!?」
弥生さんの体が、ビクッと震えるのが分かった。嗚咽も、一瞬だけ止まる。
「……大丈夫です。俺の手、握っててください。そうすれば、怖くない……はずですから」
自分でも、何を言っているのか分からない。でも、咄嗟に、そんな言葉が出ていた。
弥生さんは、何も言わなかった。ただ、俺の手を、さらに強く、ぎゅっと握り返してきた。その手は、冷たく、そして、小刻みに震えていた。でも、確かに、俺の手の中にあった。
(……繋いだ。手を)
お化け屋敷という、異常な状況下ではあったけれど。俺は、初めて、弥生さんと手を繋いだのだ。
その事実に、俺の心臓は、恐怖とは違う、温かくて、甘いような感情で満たされていくのを感じた。
「……行きましょう」
俺は、弥生さんの手を引いて、ゆっくりと歩き出した。弥生さんも、さっきよりは少しだけ落ち着いた様子で、俺についてくる。日本人形たちの視線を感じながらも、俺たちは、なんとかその部屋を通り抜けることができた。
その後も、様々な仕掛けや演出が俺たちを襲ったが、手を繋いでいるという事実が、不思議な安心感を与えてくれた。弥生さんの悲鳴は相変わらずだったが、パニックになることはなく、俺も、以前よりは冷静に状況に対処できたような気がする。
そして、ついに、前方に微かな光が見えてきた。出口だ。
「……あ、出口……!」
弥生さんが、安堵の声を上げる。俺も、心の底からほっとした。
最後の角を曲がり、外の眩しい光の中に飛び出す。
新鮮な空気を胸いっぱいに吸い込むと、ようやく現実世界に戻ってきたような気がした。
「……はぁ……はぁ……。つ、疲れた……! 生きた心地しなかった……!」
出口の横にあったベンチに、弥生さんはどさりと座り込んだ。額には汗が光り、息もまだ整っていない。メイクも少し崩れているかもしれないが、それでも、その解放されたような表情は、とても魅力的だった。
「大丈夫ですか、弥生さん」
俺も、隣に腰を下ろし、息をつく。体力的にも精神的にも、かなりの消耗だ。ジェットコースターよりも疲れたかもしれない。
「……うん……なんとか……。でも……ちょっとだけ……面白かった、かも……」
息も絶え絶えになりながらも、弥生さんの口元には、やはり満足気な笑みが浮かんでいた。この人は、本当に、怖いもの好きのドMなのかもしれない。
「航くん、本当にありがとうね。手を……繋いでてくれなかったら、私、本当にダメだったかも……」
座り込んだまま、弥生さんが俺を見上げて言った。その瞳は、まだ少し潤んでいて、吸い込まれそうだ。
「い、いえ……俺の方こそ、すみません、頼りなくて……」
照れながら答える。手を繋いだ感触が、まだ、はっきりと右手に残っていた。
「ううん、そんなことないよ! すごく、頼りになった! ……かっこよかったよ、航くん」
弥生さんは、そう言うと、少しだけ頬を染めて、視線を逸らした。
(……か、かっこよかった……!?)
またしても、不意打ちの褒め言葉。しかも、今回は「かっこいい」の上位互換(?)である「かっこよかった」だ。もう、俺の心臓は限界かもしれない。顔が熱い。絶対に、茹でダコみたいになっているはずだ。
「……あ、あの、手……」
俺は、繋いだままだった手を、意識して、そっと離そうとした。名残惜しい気持ちは山々だが、さすがに、いつまでも繋いでいるわけにはいかないだろう。
だが、弥生さんは、離そうとした俺の手を、逆に、きゅっと握りしめてきたのだ。
「え?」
驚いて弥生さんを見ると、彼女は、顔を真っ赤にして、俯いていた。
「……もう少しだけ……このままで、いさせて……?」
か細い、蚊の鳴くような声で、そう言った。
(……えええええええええええ!?)
俺の頭は、完全にキャパシティオーバーを起こした。
これは、どういう状況だ?
弥生さんが、俺と、手を繋いだままでいたい、と……?
夢か? これは、都合の良すぎる夢なのか?
俺は、ただ、呆然と、握られた手の温もりを感じることしかできなかった。
周りの喧騒も、時間の流れも、何もかもが遠くに感じられる。
ただ、弥生さんの存在と、繋がれた手の感触だけが、やけにリアルだった。
*
どれくらいの時間、そうしていただろうか。
数分だったかもしれないし、数十分だったかもしれない。
俺たちは、ただ黙って、手を繋いだまま、ベンチに座っていた。
気まずい、というよりも、なんだか、とても穏やかで、温かい時間が流れていたように思う。
やがて、弥生さんが、ふっと息をついて、顔を上げた。頬の赤みは、まだ少し残っているけれど、表情は落ち着きを取り戻していた。
「……ごめんね、航くん。もう大丈夫」
そう言って、弥生さんは、名残惜しそうに、ゆっくりと俺の手を離した。
「い、いえ……」
離れた手のひらが、少しだけ寂しい。
「……さて! そろそろ、いい時間になってきたね」
弥生さんが、時計を確認しながら言った。見ると、確かに、太陽はかなり西に傾き、空は美しいオレンジ色と紫色に染まり始めていた。遊園地のあちこちで、イルミネーションの明かりが灯り始めている。昼間とはまた違う、ロマンチックな雰囲気が漂い始めていた。
そして、夕暮れの遊園地といえば……。
俺たちの視線は、自然と、園内で最も高い場所にある、あの巨大な建造物へと向けられた。
ゆっくりと回転する、色とりどりのゴンドラ。ライトアップされ、夕闇の中に幻想的に浮かび上がる、観覧車だ。
(……観覧車……)
いよいよ、その時が来たのかもしれない。
この「取材」という名のデートの、クライマックス。
ラブコメにおける、数々の名場面を生み出してきた、約束の場所。
俺の心臓が、また、ドキドキと音を立て始める。
弥生さんと二人きりで、あのゴンドラに乗る。夕暮れから夜景へと移り変わる景色を眺めながら、二人だけの時間を過ごす。
想像するだけで、期待と緊張が入り混じった、複雑な感情が込み上げてくる。
これは、最高の「取材」になるだろう。間違いない。
観覧車の中での会話、雰囲気、心情の変化……。小説のクライマックスシーンを描く上で、これ以上の参考資料はない。
でも、同時に、恐れもあった。
あの密室空間で、俺は、自分の気持ちを抑えきれるだろうか? つい、何か、余計なことを口走ってしまわないだろうか?
そして、弥生さんは……何を考えているのだろうか? 彼女も、この観覧車に、何か特別な意味を感じているのだろうか?
ちらりと、隣の弥生さんの横顔を窺う。
彼女もまた、じっと、夕暮れの空に浮かぶ観覧車を見つめていた。その表情は、どこか真剣で、そして、少しだけ、憂いを帯びているようにも見えた。まるで、何かを決意しようとしているかのような……。
(……どうする? 俺から、誘うべきか?)
「最後に、観覧車に乗りませんか?」
その言葉が、喉まで出かかっている。
でも、もし断られたら? もし、弥生さんが乗りたくないと思っていたら?
そう思うと、なかなか言い出せない。
悩んでいるうちに、先に口を開いたのは、弥生さんの方だった。
「……ねえ、航くん」
その声は、いつもより少しだけ低く、真剣な響きを帯びていた。俺は、ゴクリと唾を飲み込み、彼女の次の言葉を待った。
「……今日の『取材』、これで、本当に締めくくりにしようと思うんだけど」
「……はい」
「……それでね、やっぱり、最後は、あれかなって」
弥生さんは、ゆっくりと、観覧車を指差した。
「……あそこの、観覧車……一緒に、乗ってみない?」
「……ラブコメの、王道だし……。きっと、最高の『取材』の、締めくくりに、なると思うから……」
そう言って、弥生さんは、俺の目を真っ直ぐに見つめてきた。
その瞳には、もう迷いの色はなかった。ただ、強い意志と、そして、ほんの少しの、不安のようなものが揺らめいているように見えた。
……誘われた。弥生さんから、観覧車に。
またしても、「取材」という言葉を使ってはいるけれど、その響きは、今までとは明らかに違っていた。これはもう、ただの言い訳ではない。もっと、切実な、何か。
(……行くしかない。行かなければ、後悔する)
俺の心は、決まった。
期待も、不安も、全て飲み込んで。この物語のクライマックスへと、足を踏み出すのだ。
「……はい! 是非……!」
俺は、弥生さんの視線をしっかりと受け止め、満面の笑みで、力強く頷いた。
声が、少しだけ、震えていたかもしれない。
弥生さんも、俺の返事を聞いて、ほっとしたように、そして、とても嬉しそうに、微笑んだ。
「……良かった! じゃあ、行こっか!」
俺たちは、ベンチから立ち上がると、夕闇が迫る遊園地を、光り輝く観覧車へと向かって、ゆっくりと歩き出した。
周りの喧騒が、少しだけ遠くに聞こえる。ライトアップされたメリーゴーランドや、楽しそうな声が響くアトラクション。それらが、まるで映画の背景のように、俺たちの進む道を彩っている。
すぐ隣を歩く弥生さんの横顔は、様々な色のイルミネーションに照らされて、刻一刻と表情を変えていく。綺麗だ、と思った。そして、愛おしい、とも思った。
俺たちの間に流れる空気は、昼間とは明らかに違っていた。甘くて、少しだけ切なくて、そして、何か大きな変化が訪れる前触れのような、張り詰めた緊張感を孕んでいる。
(……観覧車)
あの、ゆっくりと空へと昇っていく、二人きりの密室。
そこで、俺たちは、どんな言葉を交わし、どんな気持ちを共有するのだろうか。
この「取材」という名の、忘れられない一日は、一体どんな結末を迎えるのだろうか。
募る想いと、高鳴る鼓動。
そして、すぐ隣にある、大切な人の温もり。
俺は、これから始まるであろう、特別な時間への期待と、ほんの少しの覚悟を胸に、光り輝く観覧車へと、最後の一歩を踏み出すのだった。




