第一話:ラブコメが書きたい、けど書けない
「……だから、違うんだって!」
日曜日の午前十時。俺、日野航は、自室のPCモニターに映る白紙同然のテキストエディタに向かって、誰に言うでもなく叫んでいた。季節は初夏。窓から差し込む日差しは柔らかいが、俺の心は鉛色の曇天模様だった。
『「もう、航くんったら!」そう言って、頬を膨らませる弥生。その仕草が、夕暮れの教室で妙に色っぽくて、俺は思わず唾を飲み込んだ。』
……ダメだ。なんだこれ。陳腐すぎる。テンプレートにも程がある。
俺は書いたばかりの一文を、Backspaceキー長押しで猛然と削除した。白い画面が再び虚しく広がる。これで何度目だろうか。ここ一時間で書き進められたのは、実質ゼロ行だ。
俺は高校二年生。部活にも入らず、バイトもせず、かといって勉強に全力を注いでいるわけでもない、ごく平凡な男子高校生……と言いたいところだが、一つだけ、人にはあまり言っていない大きな野望がある。
小説家になりたいのだ。
それも、ただの小説家じゃない。読んだ人が思わず顔を赤らめ、胸を高鳴らせ、時には切なさで涙するような……そう、『ラブコメ』作家になりたい。
きっかけは中学の頃に読んだ、ある一冊のライトノベルだった。主人公とヒロインの不器用ながらも甘酸っぱいやり取り、すれ違い、そして迎えるハッピーエンド。読み終えた時、柄にもなく感動して、しばらく胸のドキドキが収まらなかったのを覚えている。まるで自分がその物語の中にいたような、そんな錯覚さえ覚えた。
それからだ。俺はラブコメというジャンルにのめり込んだ。漫画も、アニメも、そしてもちろんライトノベルも。古今東西の名作と呼ばれるものから、「小説家になろう」で連載されている話題作まで、片っ端から読み漁った。
そして、いつしか思うようになったのだ。「俺も、こんな物語を書いてみたい」と。
誰かをキュンとさせたい。読んだ人が幸せな気持ちになれるような、そんな最高のラブコメを、この手で生み出してみたい。
……と、まあ、志だけは高いのだが、現実は厳しい。
最大の、そして致命的な問題が一つ。
俺には、恋愛経験というものが、生まれてこの方、一切ない。
女子とまともに話した記憶すら、クラス委員の連絡事項伝達くらいしかない。手を繋いだこともなければ、デートなんてもちろん未経験。告白されたことも、したこともない。悲しいかな、これが十七年間生きてきた俺のリアルだ。
そんな俺が、どうしてラブコメなんて書けるだろうか?
頭の中では、理想のヒロイン像が駆け巡る。ちょっとツンデレだけど根は優しい幼馴染。クールビューティーだけど主人公にだけ甘えるクラスメイト。天然ドジっ子だけどいつも一生懸命な後輩。ミステリアスで大人っぽい先輩……。
設定だけならいくらでも考えられる。だが、いざ彼女たちに「リアルな」言葉を喋らせようとすると、途端に筆が止まるのだ。
「可愛い」って、具体的にどういうことなんだ?
女の子が頬を膨らませる時って、本当に「もう、〇〇くんったら!」なんて言うのか?
不意に距離が近づいた時、男は「唾を飲み込む」以外にどんな反応をするんだ?
そもそも、男女が二人きりになった時、どんな会話をするのが自然なんだ?
分からない。何もかもが分からない。
俺の書くセリフは、どこかで読んだような借り物の言葉ばかり。行動は、ステレオタイプなテンプレートの焼き直し。そこには、生身の人間の感情の機微も、リアルな空気感も、何も存在しない。ただただ薄っぺらく、空々しいだけだ。
「はぁ……」
深い深いため息が漏れる。椅子に深くもたれかかり、天井を仰いだ。白い天井が、まるで俺の才能の無さを象徴しているように見えて、さらに気分が落ち込む。
「なんで俺、ラブコメ書きたいんだろうな……」
ぽつりと呟いた言葉は、誰に聞かれることもなく部屋の空気に溶けていった。
読んだ時の感動? 誰かを幸せにしたい?
それも嘘じゃない。でも、もっと根源的な理由がある気もする。
もしかしたら、俺はただ、自分にないものを求めているだけなのかもしれない。恋愛という、キラキラして見える世界への、手の届かない憧れ。それを、せめて創作の世界でだけでも味わいたい、という自己満足。
だとしたら、あまりにも動機が不純じゃないか?
そんな気持ちで、本当に人の心を打つ物語が書けるのだろうか?
ぐるぐると、同じような思考が頭の中を回り続ける。こういう時、決まって俺は現実逃避に走る。
ブラウザを立ち上げ、「小説家になろう」のブックマークを開いた。お気に入りのラブコメ作品の新着更新をチェックする。……今日は更新がないようだ。仕方なく、日間ランキングのラブコメジャンルを眺める。
『クールな生徒会長(実はポンコツ)が、地味な俺にだけデレてくる件』
『転生したら悪役令嬢の取り巻きAだったけど、なぜか隣国の王子様に溺愛されています』
『隣の席のギャルが、放課後だけ俺の彼女(仮)になる話』
……すごいな。タイトルだけで惹きつけられる。内容も、きっと面白いんだろう。レビューや感想コメント欄は、読者たちの熱い声で溢れている。
「ヒロイン可愛すぎ!」「毎話ニヤニヤが止まらん!」「更新はよ!」
羨ましい。作者の人たちは、どうやってこんな魅力的なキャラクターやストーリーを生み出しているんだろう。彼らも、俺みたいに悩んだりするのだろうか。それとも、泉のようにアイデアが湧き出てくるのだろうか。
(……いや、きっと、才能なんだろうな)
そう結論付けてしまうのが一番楽だ。自分には才能がない。だから書けない。仕方ない。
でも、本当にそれでいいのか?
諦めたら、そこで試合終了だぞ、と誰かが言っていた気がする。安西先生だったか? いや、それはバスケの話か。
「……くそっ」
諦めたくない。諦められるわけがない。
だって、書きたいんだ。どうしても。
俺は再びテキストエディタに向き直った。
白い画面。点滅するカーソル。
それはまるで、「さあ、何を書くんだ?」と俺に問いかけているようだった。
「……よし。まずは、プロットから見直そう」
気合を入れ直し、別ファイルに保存していたプロットを開く。
タイトル(仮):『年上お姉さんとの甘々デイズ』
……うん、タイトルからしてダサいな。まあ、これは後で考えよう。
主人公:平凡な高校生、俺(航)。
ヒロイン:近所に住む、ちょっとミステリアスな年上のお姉さん、弥生さん(仮)。年齢は……大学生くらい? 20歳前後か。
出会い:雨の日、バス停で傘を忘れた主人公に、ヒロインが傘を差し出す。
展開:主人公はヒロインに淡い恋心を抱くが、年上であることや、彼女の掴みどころのない性格に戸惑う。一方、ヒロインも主人公の純粋さに惹かれ始めるが、年下相手であることに葛藤する。様々なラブコメ的イベント(お祭り、看病、勉強会など)を経て、二人の距離は縮まっていくが、ライバル(主人公の同級生女子? ヒロインの元カレ?)の登場やすれ違いがあり……。
結末:紆余曲折を経て、二人は結ばれる。ハッピーエンド。
……改めて見ると、酷いな。あまりにも王道をなぞりすぎている。オリジナリティの欠片もない。それに、一番の問題は、このプロットのどの部分も、具体的にどう書けばいいのか全く想像できないことだ。
例えば、「雨の日、バス停で傘を忘れた主人公に、ヒロインが傘を差し出す」シーン。
どんな会話をする?
「あの、よかったら入りませんか?」
「え? あ、ありがとうございます!」
……これだけか? これだけで、恋が始まるきっかけになるのか? もっと何か、特別な瞬間が必要なんじゃないか? 例えば、傘を持つヒロインの手が綺麗だったとか、雨に濡れた髪が色っぽかったとか……?
「うーん……」
唸りながら、ネットで「ラブコメ 感動 出会いシーン」などと検索してみる。出てくるのは、有名作品の名場面集や、分析記事ばかり。参考にはなるが、それをそのまま真似するわけにはいかない。
「第一、俺、年上の女性とまともに話したことないしな……」
どんな話し方をするんだろう。どんなことに興味があるんだろう。年下の男の子のことを、どう思っているんだろう。全く想像がつかない。俺の周りにいるのは、同級生の女子か、妹くらいだ。彼女たちを参考にしても、弥生さん(仮)のキャラクター像には結びつかない。
「はあ……やっぱり、取材が必要なのか……?」
ラブコメ作家のエッセイなんかを読むと、よく「人間観察が大事」とか「実際にデートスポットに行ってみる」とか書いてある。でも、俺が一人でデートスポットに行ったところで、何が分かるというんだろう。カップルをジロジロ観察してたら、不審者扱いされるのがオチだ。
それに、「年上の女性に取材」って、どうすればいいんだ?
いきなり街中で「すみません、年下の男にドキッとする瞬間ってどんな時ですか?」なんて聞けるわけがない。確実に警察を呼ばれる。
「詰んだ……完全に詰んでる……」
俺は机に突っ伏した。ひんやりとした天板が、火照った額に心地よかった。もう諦めて、ファンタジー小説でも書こうか。剣と魔法の世界なら、恋愛経験なんて関係ない……いや、ファンタジーにもラブ要素は必須か。異世界転生チーレム? それはそれで、ハーレムを形成するヒロインたちの心理描写が必要になるわけで……。
結局、どのジャンルを書くにしても、人間を描くことから逃れることはできないのだ。そして、その「人間」を描くための引き出しが、俺には圧倒的に足りていない。
「航ー! お昼ご飯できたわよー!」
階下から母さんの声が聞こえた。時計を見ると、もう十二時半を過ぎている。結局、午前中は一行も進まなかった。いや、むしろマイナスだ。自己嫌悪で精神力がゴリゴリ削られただけだった。
「……はい、いま行く」
重い腰を上げ、部屋を出る。階段を下りながら、今日の午後はどうしようかと考えた。このまま部屋に籠っていても、進展があるとは思えない。気分転換に、外に出るべきだろうか。
リビングに入ると、すでにテーブルには昼食が並べられていた。今日のメニューはオムライスらしい。ケチャップで歪んだスマイルマークが描かれている。妹の中学生・美咲が、スマホをいじりながらすでに席についていた。
「お兄ちゃん、また部屋で唸ってたでしょ。近所迷惑だよ」
「う、うるさいな。別に唸ってない」
「ふーん。まあ、どうせまた、しょーもない小説でも書いてたんでしょ?」
「しょーもないとはなんだ!」
「だって、この前こっそり読んだけど、意味わかんなかったもん。女の子が急に怒ったり照れたり、情緒不安定すぎ」
ぐっ……! 的確な指摘に言葉を失う。こっそり読むなよ、とは思うが、反論できない自分が情けない。
「まあまあ、二人とも。喧嘩しないの」
母さんが、俺の分のオムライスを置きながら言った。
「航も、たまには外に出たら? 今日、天気もいいんだし」
「……うん、まあ、そうしようかなとは思ってるけど」
「あら、そうなの? デート?」
母さんが、ニヤニヤしながら聞いてくる。こういう時、うちの母は妙に勘がいい……というか、単に息子の恋愛事情に興味津々なだけだ。
「違うよ! そんな相手いないって、いつも言ってるだろ!」
思わず大きな声が出てしまう。
「はいはい、分かってますよーだ。でも、いつまでもそんなんじゃ、彼女できないわよ? 美咲にだって、もうすぐ彼氏ができるかもしれないのに」
「はあ!? できるわけないじゃん、こんなガサツなやつに!」
「ちょっと、お兄ちゃん!?」
再び始まる兄妹喧嘩。母さんはそれを楽しそうに見ている。
……これが、俺の日常だ。ラブコメの主人公が送っているような、華やかでドキドキするようなイベントなんて、どこにもない。あるのは、進まない執筆と、家族からのからかいだけ。
(……やっぱり、俺とラブコメの世界は、あまりにもかけ離れている)
ため息をつきながら、オムライスを口に運んだ。ケチャップの甘酸っぱさが、妙に心に染みた。
昼食後、俺は自室に戻る気にもなれず、かといって家にいても落ち着かず、結局、あてもなく外に出ることにした。
行き先は……まあ、いつもの場所だろうか。
駅前の大型書店。
そして、その近くにある市立図書館。
別に、何か具体的な目的があるわけじゃない。ただ、本に囲まれていると、少しだけ落ち着くのだ。それに、もしかしたら、何か新しい発見があるかもしれない、という淡い期待もあった。ラブコメのネタになるような、面白い出来事とか……まあ、そんな都合のいいことが起こるはずもないのだが。
家を出て、駅に向かう道を歩いていると、スマホが震えた。メッセージの通知だ。相手は、佐々木健太。クラスメイトで、数少ない俺の友人だ。
『おい航! 例のブツ、フラゲしたぜ! 今から駅前の書店行くんだけど、お前も来る?』
「例のブツ」とは、今日発売の、人気ラブコメライトノベルの新刊のことだろう。健太は俺と同じくラブコメ好きだが、俺とは違って、現実世界でもそれなりに青春を謳歌しているタイプだ。明るくて社交的で、女子とも普通に話せる。正直、少し羨ましい。
『ああ、ちょうど今からそっち向かってたところだ』
そう返信し、少しだけ歩くペースを速めた。一人でいるよりは、健太と一緒の方が気が紛れるかもしれない。
駅前の書店に着くと、入り口付近で健太が待っていた。相変わらず、少し派手な私服を着こなしている。
「よお、航! 遅かったな」
「別に遅くないだろ。それより、もう買ったのか?」
「おう! 特典のSSも無事ゲットだぜ!」
健太は、嬉しそうにビニール袋に入った新刊を掲げて見せた。その表紙には、金髪ツインテールのいかにもツンデレなヒロインが描かれている。
「……やっぱ、王道は強いな」
「だろ? この作家さん、マジで分かってるんだよな。ヒロインの可愛さの描き方が神がかってる」
健太は熱っぽく語り始めたが、俺は正直、あまり耳に入ってこなかった。羨ましさと、劣等感と、焦燥感がない混ぜになったような複雑な気持ちが、胸の中で渦巻いていたからだ。
「で、お前の方はどうなんだよ? 例の『ラブコメを書きたい』計画は進んでるのか?」
健太は、俺の夢を知っている数少ない人物の一人だ。からかい半分、応援半分といったところだろうか。
「……まあ、ぼちぼちだ」
嘘をついた。本当は一行も進んでいないのだが、そんなことは言えなかった。
「ふーん? また行き詰まってんじゃねえの?」
健太は、俺の表情から何かを察したようだ。
「お前さあ、いっつも頭でっかちに考えすぎなんだよ。もっとこう、ノリと勢いで書けばいいんだって」
「それができたら苦労しない」
「じゃあさ、いっそ現実で彼女作ればいいじゃん。そしたら、ネタなんていくらでも転がり込んでくるぜ?」
「だーかーらー! それができないから困ってるんだって!」
思わず、また大きな声が出てしまった。周りの客が、ちらりとこちらを見る。
「……わりぃ」
「いや、まあ、お前の気持ちも分からんでもないけどさ」
健太は、少しバツが悪そうに頭を掻いた。
「でもさ、マジで、少しは現実の女の子にも目を向けた方がいいと思うぜ? 例えばほら、あそことか」
健太が顎で示した先には、文庫本のコーナーで熱心に本を選んでいる女子高生二人組がいた。制服からして、おそらく他校の生徒だろう。
「どっちか、声かけてみろよ。練習だって」
「……無理に決まってるだろ!」
「だよなあ。まあ、お前にそれを期待する方が間違ってるか」
健太はあっさりと諦めたように言った。
「でもさ、お前、本当にもったいないと思うぜ? 意外と、お前のこと気になってる女子とか、いるかもしんねえじゃん」
「……いるわけないだろ、そんな都合のいい話」
俺は自嘲気味に呟いた。ラブコメじゃあるまいし。
その後、俺たちはしばらく店内をぶらぶらした。健太は他の新刊ラノベや漫画を物色し、俺はその隣で、ぼんやりと棚を眺めるだけだった。健太が時折、「なあ、この前の合コンでさー」とか「最近、クラスの〇〇さんがさー」とか、俺にとっては眩しすぎる現実の恋愛エピソード(多少盛られている可能性は高いが)を話してくるが、俺は適当な相槌を打つことしかできなかった。
(こいつは、こうやって現実で経験を積んで、それをラブコメを読む時の解像度にも繋げてるんだろうな……。それに比べて俺は……)
インプットばかりで、アウトプットができない。知識だけは増えていくのに、それを自分の言葉で表現できない。まるで、使い方の分からない道具ばかり溜め込んでいるような気分だった。
「じゃあ、俺、そろそろ帰って新刊読むわ」
一通り店内を見終えた健太が言った。
「お前、どうする? このまま図書館でも行くのか?」
「……ああ、そのつもりだ」
「そっか。まあ、頑張れよ。もし書けたら、一番に読ませろよな」
「……気が向いたらな」
「へへ、楽しみにしてるぜ」
健太はそう言って、軽い足取りで去っていった。一人取り残された俺は、深い溜息をついた。友人との会話でさえ、こうも疲弊するとは。
(……ダメだ。このままじゃ、本当に何も書けないまま終わっちまう)
何かを変えなければ。
そう強く思った俺は、足早に書店を後にし、すぐ近くにある市立図書館へと向かった。
市立図書館は、比較的新しい建物で、ガラス張りの壁が開放的な印象を与える。中は広々としていて、静かで、本の匂いが充満している。俺のお気に入りの場所の一つだ。
いつものように、窓際の閲覧席の一つに陣取る。周囲には、俺と同じように勉強や読書に励む人たちがいる。その静謐な空気が、少しだけ俺のささくれだった心を落ち着かせてくれた。
ノートPCを開き、再びテキストエディタと向き合う。
白い画面。点滅するカーソル。
さっきと何も変わらない光景だ。
「……よし。今日は、とにかく何か一つでも具体的なシーンを書いてみよう」
プロットの冒頭、「雨の日、バス停で傘を忘れた主人公に、ヒロインが傘を差し出す」シーン。これを、今日中に形にする。それが今日の目標だ。
まずは、状況設定からだ。
季節は、梅雨時。放課後。主人公の航は、部活の帰りか、あるいは友人との寄り道で、帰りが遅くなった。空はどんよりと曇り、今にも雨が降り出しそうだ。バス停に着いた途端、大粒の雨が降り始める。折り畳み傘は……持っていない。天気予報をチェックし忘れた、というありがちな理由で。
バス停には、屋根はあるものの、横殴りの雨を防ぐには心許ない。航は、鞄を庇いながら雨宿りする。バスはなかなか来ない。雨はますます強くなる。心細さを感じ始める。
(……うん、ここまではいい。問題は、ここからだ)
ヒロイン、弥生さん(仮)の登場。
彼女は、どうやって現れる?
最初からバス停にいた? いや、それだと少し不自然か。後からやってくる方が、ドラマチックかもしれない。
彼女は、綺麗な水色の傘を差して、バス停にやってくる。雨に濡れたアスファルトに、彼女の足音が近づいてくる。航は、その気配に気づいて顔を上げる。
そこで、弥生さん(仮)が航に気づく。
航は、制服が少し濡れて、困った顔をしている。
弥生さん(仮)は、少しだけ逡巡する……いや、ここは逡巡せずに、自然な感じで声をかける方がいいか? 年上の余裕、みたいな感じで。
「あの……大丈夫ですか? すごい雨ですね」
声は、少し高めで、柔らかい響き。航は、不意にかけられた声に驚き、顔を上げる。
目の前には、綺麗な傘を差した、見慣れない女性が立っている。歳の頃は……二十歳くらいだろうか。落ち着いた雰囲気で、優しい目をしている。
「え……あ、はい。大丈夫です。ちょっと、油断してて……」
航は、しどろもどろに答える。
「よかったら、傘、入りますか? バス、まだ来そうにないですし」
弥生さん(仮)は、にっこりと微笑んで、自分の傘を少し航の方に傾ける。
「えっ、い、いいんですか!? すみません、ありがとうございます!」
航は、恐縮しながら、傘の中に入れてもらう。
二人の距離が、ぐっと近づく。ふわりと、シャンプーのような、甘くて清潔な香りがした。航は、緊張して体が硬くなる。
(……よしよし、なんか、それっぽくなってきたぞ?)
自分で書いていて、少しだけドキドキしてきた。これはいい兆候かもしれない。
傘の中での会話。
何を話す?
天気の話? 学校の話?
いや、もっと、二人の関係が進展するような会話が必要だ。
「あの、俺、この近くの高校に通ってる、日野航って言います。助かりました」
まずは自己紹介か。
「ふふ、ご丁寧にどうも。私は、桜井弥生。この辺に住んでるの」
ヒロインの名前は、桜井弥生にしよう。桜舞う春のイメージ。いいね。
「桜井……弥生さん、ですか。綺麗な名前ですね」
「あら、ありがとう。航くん、だっけ? 面白い名前ね」
「はあ……よく言われます」
……ダメだ。会話がぎこちない。もっと自然な流れにならないか?
例えば、航が持っている鞄から、何か特定のアイテムが見えていて、それを弥生さんが指摘するとか?
航の鞄からは、少しだけライトノベルが覗いている。それを見た弥生さんが、
「あら、航くんも本が好きなの?」
と話しかける。
「え? あ、はい。まあ、小説とか……」
「へえ、どんなの読むの?」
「えっと……ラブコメとか、です」
少し恥ずかしそうに答える航。
「ラブコメ! いいわね、私も結構好きよ」
「え、本当ですか!?」
意外な共通点に、航の目が輝く。
「ええ。最近だと、〇〇先生の新作とか、面白かったわ」
「あ、俺も読みました! あのヒロイン、最高ですよね!」
「分かる! ちょっとツンとしてるけど、デレた時の破壊力が……」
……うん、これだ! これなら、自然に会話が弾むし、二人の距離も縮まる。共通の趣味を通じて、互いに親近感を覚える。ラブコメの王道展開だ!
興奮しながら、キーボードを叩く指が速くなる。
雨音をBGMに、傘の中で弾む会話。時折、風で傘が揺れて、二人の肩が触れ合う。その度に、航はドキッとして、弥生さんは少し意地悪そうに微笑む。バスが来るまでの短い時間。でも、二人にとっては、忘れられない特別な時間になる。
そして、バスがやってくる。
「あ、バス来ましたね」
「本当だ。じゃあ、私はここで」
「あ、あの! 傘、ありがとうございました! これ、お礼というか……連絡先とか、教えてもらえませんか?」
航は、思い切って切り出す。
弥生さんは、少し驚いた顔をするが、すぐにいつもの笑顔に戻る。
「ふふ、いいわよ。じゃあ……」
……よし! いいぞ! ここで連絡先を交換して、二人の関係が始まるんだ!
完璧じゃないか! これなら、きっと読者もキュンとしてくれるはず!
高揚感とともに、一気に書き上げたシーンを読み返す。
………。
………。
………あれ?
なんだろう、この……既視感。
自分で書いたはずなのに、まるでどこかで読んだことのあるような、そんな感覚。
雨の日のバス停、傘、共通の趣味、連絡先交換……。あまりにも、都合が良すぎる。あまりにも、テンプレートすぎる。
さっきまで感じていた高揚感が、急速にしぼんでいく。
結局、俺が書けるのは、こういう「どこかで見たような」展開だけなのか?
ここには、俺自身の言葉も、俺自身の感情も、何も入っていないじゃないか。ただ、ラブコメのお約束をなぞっただけだ。
「……はぁ」
また、深いため息が出た。椅子に深くもたれかかり、窓の外を見た。いつの間にか、空は明るさを取り戻し、西の空がオレンジ色に染まり始めていた。もう、閉館時間が近いらしい。
(結局、今日もダメだったか……)
自己嫌悪と無力感が、再び胸の中に広がっていく。
書けない。どうやっても、リアルなラブコメが書けない。
俺には、才能がないんだろうか。
いや、それ以前に、経験が、圧倒的に足りないんだ。
(経験、か……)
どうすれば、経験を積める?
健太みたいに、現実で積極的に行動する?
……無理だ。俺にそんな勇気はない。
じゃあ、どうする?
このまま、書けない自分を嘆き続けるのか?
それとも、もう諦めるのか?
諦める……?
いや、それは、絶対に嫌だ。
(書きたいんだ……どうしても)
心の底から、その思いが湧き上がってくる。
たとえ今は書けなくても。たとえ才能がなくても。それでも、俺はラブコメを書きたいんだ。
読んだ人が、少しでも幸せな気持ちになれるような、そんな物語を。
(……書けないなら、書けるようになればいい)
そうだ。単純なことじゃないか。
才能がないなら、努力で補うしかない。
経験がないなら、これから積めばいい。
どうやって?
……分からない。まだ、具体的な方法は分からない。
でも、諦めずに、足掻き続けるしかないんだ。
「まずは、インプットだ。もっと、色々なものを見て、聞いて、感じてみよう」
小説や漫画だけじゃない。映画も、音楽も、街行く人々の会話も。日常の中にだって、きっとヒントは隠されているはずだ。アンテナを高く張って、些細なことでも見逃さないようにしよう。
そして、人間観察だ。
不審者にならない程度に、周りの人たちの表情や仕草、会話を観察してみる。どんな時に人は笑い、どんな時に人は怒り、どんな時に人は……恋に落ちるのか。
「すぐに結果は出ないかもしれない。でも、続ければ、きっと何か変わるはずだ」
自分に言い聞かせるように、呟いた。
そうだ。俺が書いている小説の主人公だって、きっと同じように悩んで、それでも前に進んでいくはずだ。作者である俺が、ここで立ち止まっているわけにはいかない。
「……よし」
俺は顔を上げ、PCの電源を落とした。結局、今日も成果はゼロだったが、さっきまでとは少しだけ違う気持ちになっていた。絶望ではなく、ほんの少しの、決意のようなもの。
閉館を告げるアナウンスが、静かな館内に響き渡る。
俺は荷物をまとめ、席を立った。
帰り支度を済ませ、図書館の出口へと向かう。
夕暮れ時の館内は、昼間とはまた違う、落ち着いた雰囲気に包まれていた。
ふと、視界の端に、窓際の席で静かに本を読んでいる女性の姿が入った。
歳の頃は……二十代前半くらいだろうか。落ち着いた色のカーディガンを羽織り、少し長めの髪を緩くまとめている。夕陽に照らされた横顔は、なんだかとても綺麗に見えた。手にしているのは、少し厚めのハードカバーの本。文学作品だろうか。
(……綺麗な人だな)
ほんの一瞬、そう思った。
けれど、今の俺の頭の中は、自分の悩みと、これからの決意でいっぱいだった。その女性の姿は、すぐに意識の中から消えていった。ラブコメの主人公なら、ここで何か運命的な出来事が起こるのかもしれないが、現実はそんなに甘くない。
俺は、そのまま何も気に留めることなく、図書館の自動ドアを抜けた。
外に出ると、雨上がりのひんやりとした空気が心地よかった。空には、まだ少しだけオレンジ色が残っている。
帰り道、俺は今日の出来事を反芻していた。
健太との会話。書けなかった小説。そして、図書館での決意。
(ラブコメみたいな都合のいい展開なんて、現実にあるわけない)
分かっている。そんなことは百も承知だ。
俺の日常は、これからもきっと、退屈で平凡なまま過ぎていくのだろう。
(でも……)
もし、ほんの少しでも、そんな奇跡が起こる可能性が、ゼロではないとしたら?
もし、この退屈な日常の中に、物語の欠片が隠されているとしたら?
(……いや)
今は、そんなことを期待するべきじゃない。
まずは、書くんだ。
自分の力で。自分の言葉で。
たとえ拙くても、たとえ時間がかかっても。
俺だけの、最高のラブコメを。
夕暮れの道を歩きながら、俺は、まだ見ぬ物語への思いを馳せていた。
その第一歩が、どれだけ険しいものになるのか、まだ想像もできていなかったけれど。