18. 羊ヶ丘さんのお節介
帰宅後、ウルフガルムは元のオオカミ怪人の姿に戻り、ソファに深く沈み込んでいた。どこか遠くを見つめている彼に、私は尋ねてみる。
「フレドルカの補給、する?」
長い沈黙の後、彼は空虚な響きで「ああ」とだけ答えた。
いつもなら、待ってましたとばかりにそのモフモフの毛並みに飛びつくところだけど、今の彼にはさすがに出来ない。私はウルフガルムの隣にそっと腰を下ろし、ソファに置かれていた彼の手を取った。大きくて鋭い爪のある、黒い毛に覆われた逞しい手。その手を、自分の両手でそっと包み込む。
私のいつもと違う行動に、ウルフガルムは猩々緋色の瞳をこちらに向けた。でも、何も言わずにまた正面を向いてしまった。彼の心は、あのこども園に置き去りにされたままみたいだった。
気になるの? 何かあったの? と、聞きたい言葉は喉まで出かかっている。でも、それらをぐっと呑み込んで、黒い毛並みの二の腕に、そっと頭を預けた。こうして隣にいることが、私にできることだと思うから。
しばらく沈黙が続いた後、彼が小さくつぶやいた。
「おい、衣奈。もし……死んだ、と思ってた奴が生きてたら、どうする?」
「え?」
突然の質問に、私はウルフガルムを見上げた。でも彼は私を見ようとしない。
死んだと思っていたひとが、生きていたら?
その瞬間、私の頭にひとつの記憶が蘇った。あの雨の夜、公園で血まみれになって倒れていたウルフガルムを見つけた時のこと。どうしても助けたくて、彼を抱きしめ、フレドルカを分け与えたこと。そして意識を失った私が病院で目を覚ました時、世間では『シャイニングナイトに倒され、消滅した怪人』として報道されていたウルフガルムが、実は生きていると知った時の気持ち。
あの時の私は、確かに複雑だった。安堵と同時に、戸惑いや罪悪感もあった。でも、一番強く感じたのは――。
「嬉しいよ」
私は素直に答えた。
「生きててくれて良かったって、思う。どんな事情があったとしても、まず最初に感じるのは、それだと思う」
ウルフガルムの手が、わずかに震えた。私は、それ以上何も言わなかった。ただ、大きな手を包む自分の両手に、そっと力を込める。
やがて長い沈黙の後に、彼は一度大きく息を吸い込み、喉の奥から絞り出すように呟いた。
「……タイモーが、生きてるかもしれねぇ」
その名前に、心臓が跳ねた。以前話してくれた、ウルフガルムの相棒の名前だ。
「死んだと思っていたひと、って……」
「あぁ。タイモーは、俺がここに来る前に、シャイニングナイトにやられちまった。消滅したんだ……って、上層部から聞かされた」
「そう、だったんだ……」
そういえば、ウルフガルムと出会ったばかりの頃、色々調べる中で、シャイニングナイトが倒した怪人の中に岩の怪人がいたかもしれない。ウルフガルムのことで頭がいっぱいだったから、全然結びつかなかったけれど。
「でも、生きてるかもって……どうして?」
私の問いかけに、彼は深くため息をついた。
「テレビに映っていやがったんだ。ガキどもが遊んでいる向こう側に、職員の男が……体格も立ち振る舞いも……あいつに、そっくりだった」
そっか。その姿をもう一度確認したくて、地域の番組ばかり見ていたんだ。そして今日、わざわざこども園の前を通ったのも。
「それで、今日……」
「ああ。遠目だったけどよ、あそこにあった岩……」
言いかけた彼の手が、私の手から離れていく。そのまま、両手で自分の顔を覆い隠すように深く項垂れた。
「……あいつが昼寝していた姿と、同じだった」
「ウルフガルム……」
消滅したと思い込んでいた仲間が、生きている。それも、すぐそばで穏やかに暮らしている。その事実に、彼の胸がどれほど締め付けられているかと思うと、私まで息苦しくなった。
「なんで……なんで俺に連絡を寄越さない? 生きてる、無事だ、安心しろって……俺らの繋がりなんて、そんなもんだったていうのかよ!?」
ウルフガルムの声が次第に大きくなり、最後は怒鳴っているかのようだった。でも私には分かる。それは怒りじゃない。寂しさと、不安なんだ。
「でも、ウルフガルム」
強張っているその肩に、そっと触れた。
「タイモーさんも同じ気持ちかもしれないよ」
「……あ?」
私の言葉に、彼が顔を上げる。その猩々緋色の瞳が、驚いたように私を捉えた。
「世間では、ウルフガルムもシャイニングナイトに倒されたことになってるでしょ? この町にいるなら、タイモーさんも報道を聞いたはず」
ウルフガルムは息を呑んだ。そんなこと考えもしなかったという表情で。
「確認したくっても、連絡の取りようがないのかも。下手に探してシャイニングナイトに見つかったら、今度こそ本当に消されちゃうかもしれないし。だから……だから、静かに暮らすしか、道がなかったんだと思うよ」
「そんな……そんな都合のいい話が、あるかよ」
その声には、普段の粗野な感じはこれっぽちもない。むしろ、何かに縋りつきたいという切実ささえ感じる。
「あると思う。ううん、きっとそうだよ」
私はウルフガルムの目を見つめ、力強く頷いた。
「私だったら、会いに行く。後悔、したくないから」
ウルフガルムの目が見開かれる。しばらく私を見つめた後、彼は鼻で嗤った。
「……会いに行く、だぁ?」
「うん」
「バカか、てめぇは」
呆れたように吐き捨てたその声は、いつものウルフガルムに戻っていた。そして、その瞳の奥に、わずかな希望の光が灯っているように見えた。
「いきなり現れて『よぉ、生きてたのかよ』なんて言えるか? もしあいつが平穏に暮らしてるとしたら、それを壊しちまうかもしれねぇんだぞ? それに、人違いだったらどうする」
元・悪の組織の手先だとは思えないような言葉が出てきて、思わず私の口元が緩んだ。そんな私を一瞥し、ウルフガルムはバツが悪そうに唸った。
「ンだよ、その顔は。言っとくが、俺は面倒が嫌なだけだ。無駄足踏んで、骨折り損のくたびれ儲けなんざ、まっぴらごめんだって言ってんだ」
「うん、分かってるよ」
「それにだ、あいつに似てるだけのただの人間だったら、俺のこのモヤモヤした気持ちはどこにぶつければいい? てめぇが代わりに殴られるか? あ゛??」
「そ、それはちょっと……ご遠慮します」
次から次へと出てくる、行かない理由。でも、その言葉とは裏腹に、彼の瞳は『どうしたらいい』と私に助けを求めているように見えた。たくさんの言い訳は、ただ怖いだけなんだ。真実を知るのが。タイモーさんと築いた関係が変わってしまうのが。
だったら、私がその背中を押してあげる。ううん、背中を押すなんておこがましいか。ほんの少しだけ、お節介な同居人になっても構わないよね?
「じゃぁ、こういうのは?」
私は、ぱちんと手を打った。きょとんとするウルフガルムに、満面の笑みで提案する。
「明日から、私、駅までの通勤ルートを変える!!」
「はぁぁ? だから何だよ」
「こども園の前を通るルートにするの。さらに!!」
私は人差し指をぴんと立て、最高のアイデアを告げた。
「ウルフガルムが、毎日、私を駅まで送り迎えする!!」
彼の眉間のシワが、ぐっと深くなる。
「名付けて、『元・相棒の今を探れ! ドキドキ☆通勤デート大作戦』!!」
「ふざけるのも大概にしやがれ!!」
ウルフガルムの怒声がリビングに響いたけれど、私は怯まない。
「だって、ウルフガルムがひとりでこども園の周りをウロウロしてたら、完全に不審者になっちゃうでしょ? 私だけじゃ、タイモーさんかどうか分からないし。でも、ふたりでなら、『あら、毎日送り迎え? 仲の良いカップルねぇ』って感じでしょ?」
「だ、誰がカップルだ!!!!」
「それに、朝と夕方、一日2回も自然にチェックできるんだよ? こんなに効率のいい偵察、他にないと思うんだけど」
畳みかけると、ウルフガルムはぐっと言葉を詰まらせた。赤い瞳が左右に泳ぎ、何か反論はないかと必死に探している。それがなんだか可愛くて、私の口元は緩みっぱなしだった。
やがて、ウルフガルムは何を言っても無駄だと悟ったように、ソファの背もたれにぐったりと身を預けた。
「てめぇは、本当に……俺をどうしたいんだ……」
「もちろん、タイモーさんと感動の再会をさせてあげたいんだよ?」
「……そうじゃねぇよ」
ぽつりと呟かれた言葉の意味は、私にはよく分からなかった。ウルフガルムは長い長い息を吐き出すと、観念したように私を睨みつけた。
「……分かった、乗ってやろうじゃねぇか。そのふざけた作戦に」
「ほんと!? やったー!」
「ただし!!」
突然、彼はソファから身を起こし、キッと私を睨みつけた。その猩々緋色の瞳には、獰猛な光が宿っている。
「いいか、これは偵察だ。断じてデートなんかでも、カップルなんかでもねぇ!! てめぇが少しでも余計な真似をしたら、その場で八つ裂きにするからな!? 分かったか!!」
「イエス、ボス!!」
私が悪戯っぽく敬礼すると、ウルフガルムは舌打ちしてそっぽを向いた。でも、その横顔が少しだけ晴れやかになったのを、私は見逃さなかった。
嬉しくなって、彼の顔を覗き込み、笑いかける。
「大きな一歩だね、ウルフガルムっ」
その時、ウルフガルムが一瞬、息を呑んだ。そして、どこか決意を固めたような顔つきになると、大きな手で私の顎を少し乱暴に持ち上げた。
「……調子に乗んじゃねぇよ」
囁くような声と共に、視界が彼の顔でいっぱいになる。そして、しっとりした少し冷たい彼の鼻先が、私の鼻に優しく触れた。
ほんの一瞬の、でも、とてつもなく濃密な時間。驚きに固まる私からすぐに体を離したウルフガルムは、ふん、と尊大に鼻を鳴らした。
「これは警告だ。次にヘラヘラした間抜け面を晒したら、鼻じゃ済まさねぇからな」
あくまで主導権は自分にあるのだと主張する、彼らしい脅し文句。
「い……いえす、ボス」
私は自分の心臓が跳ねる音を聞きながら、とろけそうな声で答えることしかできなかった。