15. 羊ヶ丘さん、クタクタで帰宅する
職場を出た瞬間、どっと疲れが押し寄せた。
今日は散々だった。自分のデスクに向かう時間よりも、他の人のフォローに回る時間の方が長かった気がする。業務が滞ってしまっている同僚を手伝ったり、新人の質問に対応したり。挙句の果てには社内のトラブルに巻き込まれ、上司の機嫌を損ねる始末。そんなこんなで、ほとんど昼休憩も取れなかった。
そういえば、ウルフガルムに出会った前の日も、疲れ果てて帰ってきたんだっけ。翌朝は出社するのさえ億劫で、正直、ベッドから起き上がるのも一苦労だった。そんな状態で駅へ向かっていたら、まさかあんな出会いが待っていたとは……。限界状態だったから、目の前に現れたウルフガルムを無遠慮に触りまくっちゃったっけ。今思えば、思いっきり殴られてもおかしくなかったくらい無遠慮だったなぁ。
ボロボロの状態でなんとか帰宅し、鍵を開けてドアを押した。
「……ただいまー……」
絞り出した声はリビングまで届かないはずだけれど、ウルフガルムの耳にはちゃんと届いたらしい。
「おう。おかえり」
私が到達するより先にリビングの扉が開いて、彼が顔を出した。
「おい、死相が出てんぞ」
「色々あって……今日は……もうダメ……」
ふらふらとリビングへ入るなり、バッグを放り出して、ソファへダイブ。そんな私にウルフガルムは文句を言うことなく、黙って様子を観察していた。
と、その時。
「衣奈」
彼に声を掛けられたかと思うと、私の身体がふわりと浮いた。
「へ?」
一瞬、何が起きたのか分からない。視界がぐらりと動き、次の瞬間にはウルフガルムの膝の上に乗せられていた。
「??」
思考が追いつかない。何? この状況。なんで私はウルフガルムの膝の上にいるの?
顔を上げると、ウルフガルムは特に気にする様子もなく、いつもの不機嫌そうな顔でこちらを見下ろしていた。
あぁ、そっか。もしかしたら、フレドルカが足りなくなったのかもしれない。なんとか考えを巡らせ、ようやくそこに辿り着いた。でも、昨日補充してあげたばかりだし、毛並みの艶もいい。足りてるはず……だよね?
「……えっと、フレドルカは昨日、」
「うるせぇ」
私の言葉を遮るように、ウルフガルムが低く呟いた。
「????」
完全に思考がストップする。いや、なんで黙らされたの?
すると、彼の腕が背中に回された。強く引き寄せられるわけではなく、ただ、そこにあるだけ。
——あ。
もしかして、私を労おうとしてくれてる?
「……っ」
理解した瞬間、胸の奥がじんわりと温かくなった。フレドルカを補充してあげるときは、何の躊躇いもなく抱きついているのに、今はなぜか少しだけ戸惑う。
けれど、その温もりを前にして、考えるよりも先に身体が動いた。
顔を彼の胸元の毛並みに埋め、深呼吸してみる。どこか野生的で落ち着く匂いがした。森の中のような、乾いた木の皮と温かい土を思わせる、心地よい香り。ウルフガルムの体温、がっしりとした体躯、獣毛の柔らかさ、低く響く鼓動——そのすべてが、私を安心させてくれる。
気づけば、涙が溢れていた。
「なっ!? お、おい……!」
「う、ごめん……なんか、ホッとしちゃったら……ごめん」
ぐずぐずとしゃくり上げる私に、ウルフガルムは呆れたようにため息をついた。そして、すこし乱暴な手つきで背中を撫でてくれる。
「ったく、めんどくせぇな。好きなだけ泣いとけ」
その声は思いのほか優しくて、余計に泣きたくなった。
「……ありがとう」
「ん」
私は目を閉じて、しばらく彼の匂いに包まれた。
どれくらいそうしていただろう。ふと、ウルフガルムがぽつりと呟いた。
「……シャドウオーダーに、タイモー・ヘイムダルってやつがいた」
突然の言葉に、ゆるりと顔を上げる。
「岩の怪人なんだけどよ、よくつるんでたんだ」
彼は遠くを見るような目をしたまま、淡々と話し出した。
「ちょっとやそっとの攻撃じゃビクともしねえくらい強かったし、頑丈だった。なのに、飯を奢ればすぐ懐く単純なやつでよ。てめぇは本当にシャドウオーダーの一員か? って、しょっちゅう思ってた」
ウルフガルムは少し笑ったように鼻を鳴らした。低く響く声に普段の粗暴さはなく、どこか柔らかさが滲んでいる。
「俺が戦闘訓練の後クタクタになってっと、黙ったまんま少し動けるようになるだけのフレドルカを押し付けてきたりしてな。命令違反してまで手助けするようなバカでもなかったが、困ってると絶妙なタイミングで助け舟を出してくる……そんなヤツだった」
私は、頭の中にその岩怪人を想い描いていた。大きな岩の身体に、小鳥たちを乗せて、のんびりと笑っている姿を。そして、その隣で呆れたように笑う、ウルフガルムの姿を。
「仲が良かったんだね」
「いや。ただ他のやつらより一緒にいることが多かったってだけだ」
「じゃあ、相棒かな?」
彼は少し驚いたような顔をしてから、静かに、まるで自分の中に落とし込むように、
「……そうだったのかもな」
と、頷いた。
「ヤツが、よく言っていたんだよ。『誰かに頼られたり、必要とされるのは嬉しい』ってな。そん時の俺には何言ってんだコイツって言葉だったが……今なら、少しは分かる気がする」
ウルフガルムの腕に、さりげなく力が込められた。握りこぶしひとつ分くらい離れていた私たちの身体が、ぴたりとくっつく。フレドルカをあげるときと同じ距離。なのに、どうしよう、落ち着かない。
「う、ウルフガルム……?」
私は戸惑いながら声を掛けた。けれど、ウルフガルムは何も言わずに、ただ私を抱きしめたまま。心臓の音が、いつもより大きく聞こえる。でも、それが私のものなのか彼のものなのか、思考が追い付かなくて分からない。
「あ、あのー……ウルフガルムさん?」
気恥ずかしさに耐え切れず、もう一度彼の名前を呼んだ。それでも、彼は少し尻尾を動かしただけで、腕の力を緩めずに黙っている。
「ウルフガルムー?」
もう一度、今度は少しだけ声を大きくして呼んでみる。
すると、ウルフガルムはムッとしたように顔を上げて叫んだ。
「っるせぇな!! てめぇにムードってもんはねぇのかッッ!?」
「ムード!?」
「……っその、なんだ……い、いい雰囲気、だったろうがっ!!」
「いっ……!?」
いい雰囲気!?
カァッと顔が熱くなる。今のって、やっぱり、そういうのだったんだ!?
赤面した状態でフリーズしている私に、彼は業を煮やしたようで。
「~~っ!! もう知らねぇ!! さっさと飯食って寝ろ!!」
そう吐き捨て、私の身体をぺいっと投げ捨てるように膝から降ろした。
「え、ちょっ……!?」
私が抗議する間もなく、ウルフガルムはそっぽを向いてしまった。『てめぇはもう絶対に乗せねぇ』と言わんばかりに、腕も足も固く組んでいる。
……なんか、すごく勿体ないことをした気がする。あのまま黙ってしがみついていれば、甘い雰囲気だってあり得たかもしれないわけで。空気読もうよ、私ー!
でも、ふと気付いた。
ほんの少し前まで、疲れ切って何も考えられなかったのに。今は、なんだか心が軽くなった気がする。それどころか、明日も頑張れそうな気さえしている。
「じゃあ、着替えてくるね」
私が声をかけると、彼は返事の代わりに手で追い払うような仕草をした。寝室のドアを閉める直前、ソファに座ったままの大きな真っ黒い背中に向かって、小さく呟く。
「ありがとね」
ウルフガルムはやっぱり何も言わない。けれど、立派な耳がぴりりと動いたから、私の言葉はちゃんと届いたみたいだ。