13. 羊ヶ丘さんのぬいぐるみ
「あと、ちょっと、なのにぃ……!」
私は寝室のクローゼットの前に小さな踏み台を置き、その上でつま先立ちになっていた。目当てのものは、上段の奥に置いてある赤茶色の収納ボックス。不織布で出来たそれは結構大きめで、ぬいぐるみもいくつか入りそうなサイズだ。背伸びをしても、指先がかすかに触れるだけで、なかなか掴むことができない。
「もー、なんでこんな奥に入れちゃったんだろう」
「っしゃぁ! これでクリアだ、ざまぁみろ!!」
リビングからウルフガルムの声が聞こえ、ピンと閃いた。寝室から顔を出すと、ケモノ系アクションゲームを見事にクリアし、満足そうにソファにふんぞり返っている彼の姿があった。
「ウルフガルム。ちょっと手伝ってもらえないかな?」
「はぁ? なんで俺が」
「クローゼットの一番上にしまってある箱を取りたいんだけど、台を使っても届かなくって。お願い!」
「ったく、しょうがねぇな」
ぶつぶつと文句を言いながら、ウルフガルムは重い腰を上げた。が、私の目の前まで来たところで、彼の足がピタリと止まった。そして、寝室のドアの前で腕を組み、不満げに私を睨んでくる。
「おい。俺に、寝室へ入れっていうのか?」
「え? そうだけど?」
「マジかよ」
「だって、そうじゃなきゃ取れないじゃん」
「俺がてめぇの寝室に入るってのは……どうなんだ?」
「……えっ」
今更? 私はきょとんとしてウルフガルムを見上げた。彼は相変わらず難しい顔をしている。
「てめぇは女だろ? 男が、しかも怪人の俺が、易々と女の寝室に入るのは……色々問題があるんじゃねぇか?」
「いや、別に見られて困るものは無いけど?」
私が首を傾げると、ウルフガルムは目を逸らし、もごもごと何かを呟いた。
「~~っ! 雄と雌ってのは、色々あんだろ!? テリトリーっつーか、なんつーか……」
「テリトリー、ですか」
「……まぁ、そういう、デリケートな問題だろうが!!」
「ふーん?」
普段はあんなに横暴なのに、こんなことで躊躇するなんて。なんだか意外。
「じゃあ、私が仕事に行ってるときも、律儀に入らないでいたの?」
「当たり前だろ!!」
そ、そうなんだ。本当に意外。
「そっか、ありがとね。でも、今は手伝ってもらいたいから。入ってきてもらわないと」
ウルフガルムは不機嫌に舌打ちをしたけれど、観念したようにため息をついた。
「くそっ! てめぇはいい加減、危機感ってもんを覚えやがれ……! いいか、俺がこの部屋に入るのは今回だけだからな!?」
「別に遠慮しなくても」
「してねぇ!!」
私の言葉を遮り、彼は大股で寝室へ入ってきた。
「で? どれを取れって?」
そう言いながら、落ち着かない様子で視線を一巡させる。クローゼットから順に、ノルディック調のドレッサー、観葉植物の並ぶミニポットが並んだ窓辺、推しケモノグッズたちの飾り棚。そして、ベッドまで向けたところで、視線は私へ。
「えっと、クローゼットのあそこ。一番奥にある、赤茶の箱なんだけど」
私が指差した箱を、ウルフガルムは台も使わず、片手で軽々と掴み取った。うーん、頼もしい~!
「ほらよ」
「ありがとう!」
降ろしてもらった収納ボックスを受け取り、ベッドに腰掛けた。少しホコリが積もっていたけれど、見覚えのある箱にテンションが上がる。蓋を開けると、中にはふわふわのぬいぐるみが詰まっていた。
「やっぱり、ここにいた!」
すぐさま手に取ったのは、黒い毛並みが美しいオオカミのキャラクター、ダークナイト・フェンリル様。私が初めてハマったケモノ作品の推しキャラだ。
「懐かしい~っ。子どもの頃、ずーっと抱っこして寝てたっけ。カッコよくて強くて、敵キャラなのに優しいところもあって。最高だったなぁ……!」
思い出が溢れ出し、ついつい熱弁してしまう。ぬいぐるみを両手で持ち上げ、光の角度を変えて毛並みを眺めたり、尻尾をなでたり。
「おい」
「ん?」
「なんだよ、その毛玉」
目の前のウルフガルムは、不機嫌オーラ全開。私の腕の中のフェンリル様を、殺意を持った目で見ている。ちょっと、そんな睨みつけ方、今まで見たことないんですけど……?
「えぇっと、フェンリル様のこと? 毛玉じゃないよ。ほら、見て。この黒い毛並み! 艶があって、手触りも最高なんだよ。それに、この精悍な顔つき! ちょっとウルフガルムに似てるよねっ」
私はぬいぐるみをウルフガルムに近づけて見せた。すると、彼は露骨に顔をしかめた。
「思わねぇ!!!!」
「そっくりだと思うんだけどなぁ。特に、このキリッとした目つき。ほら!」
ぬいぐるみの目を指さし、もう一度アピールしてみたけれど。
「俺はこんなにちんちくりんじゃねぇっつの!!」
そう吐き捨てられ、押し戻されてしまった。しょんぼり。
「そういうことが言いたいんじゃないんだけどなぁ……」
呟きながら、ぬいぐるみを抱きしめなおす。するとウルフガルムがこちらを睨みつけながら、低い声でぼそっと言った。
「そんなに抱きしめて可愛がって、どんだけ惚れてんだよ。その『フェンリル様』とやらに」
あれ? なんか、拗ねてる?
「もしもし、ウルフガルムさん? 一応言っておくけど、フェンリル様は2次元のケモノ。キャラクターだからね?」
そう言うと、彼はツンとそっぽを向きながら、どこか納得いかないように鼻を鳴らした。
「だから何だ。たかがぬいぐるみにベタベタしやがって。目障りだ。俺の目の前で抱きつくな」
えぇっと……もしかして……いや、まさか。
「ウルフガルム、ヤキモチ妬いてる?」
「はああぁぁっ!? だ、誰がッッ!!」
勢いよく振り向いてきた彼の顔は、明らかに動揺していた。え、図星? これは面白くなってきたぞ~~っ。
「だって、ぬいぐるみ見せてから、明らかに機嫌悪くなってる。それに、フェンリル様に抱きついてるのが目障りって言われたら……ぬいぐるみに嫉妬しちゃったのかなぁって」
にやけ顔を我慢できない私を、ウルフガルムは肩をわなわなと震わせながら睨みつけてきた。
「調子に乗んな!! 俺が、そんなくっだらねぇことで嫉妬するわけが、」
「フェンリル様、素敵~!」
「……ぐ、……」
う、わぁ。すっごい不機嫌に喉鳴らしてる。これは、完全にアウトかも。
私が少し怖気づいていると、ウルフガルムが突然手を伸ばしてきた。
「そいつをよこせ! 八つ裂きにしてやる!!」
「え!? だ、ダメダメ!! これ、もう手に入らないんだから!!」
やむ負えず再びぬいぐるみを抱きしめることになってしまった私に、彼はますますヒートアップする。
「ふざけんな!! よこせ!!」
「無理ぃ!」
ぬいぐるみを奪われまいと身をひねり、全力でウルフガルムの手をかわそうとした、その瞬間。バランスを崩して、私は背中からベッドに倒れ込んでしまった。
「ぅわっ……!」
ふかっとした感触とともに、抱えていたフェンリル様のぬいぐるみが脇に転がる。そして、視界いっぱいにウルフガルムの顔が迫っていた。ベッドの上で、私を押さえ込むような形になった彼は、荒い息を吐きながら睨みつけている。狼の鋭い双眼が緋く光り、まるで獲物を狙う野生の捕食者そのものだった。
身の危険を感じなきゃならないはずなのに、私はウルフガルムに魅入っていた。マズルの先端の黒い鼻が湿り気を帯びているのさえ分かる距離。心臓が、嫌になるくらいドキドキしている。猩々緋色の瞳が、私を一瞬たりとも逃がさないように見据えていて、視線を逸らそうとしてもできない。
「俺は……っ! そいつの代わりなのかよ……?」
低く響く彼の声は、いつもより深みを増して耳に届く。一瞬、何を言われているのか理解できなかった。
「え……?」
「そんなぬいぐるみなんかより……俺を、」
ぎし、とベッドの軋む音が静寂に響いた。その目の奥に見えたのは、普段の彼らしくない、どこか不安そうな色。
どういうこと? 一体、何の話? 混乱した私が返事をする間もなく、ウルフガルムはハッとしたように目を見開いた。そして次の瞬間、勢いよくベッドから飛び退いた。
「な、何でもねぇ!! 手伝いはもう終わったろ!?」
そう言うが早いか、彼は逃げるように寝室から出ていってしまった。乱暴に閉められたドアの音が響き、隣の部屋から「くそっ」だとか「何故だ!!」だとかいう苛立ちの言葉が聞こえてくる。
残された私は、というと、ベッドに横たわったまま天井を見上げて放心状態に陥っていた。ウルフガルムの言葉がリフレインして、彼だけが頭の中を埋め尽くしている。
そいつの代わりなのかよ? ぬいぐるみなんかより、俺を??
近すぎだったよね? 私、押し倒されてたよね? 期待しかけたんだけど。何? ほんとうに、どういうこと?? あの距離、あの目、あの声!!
「う、うわぁぁぁぁ!!!」
勢いよく跳ね起きる。無駄に動いたせいでベッドのスプリングがぎしりと鳴るけど、そんなこと気にしてる場合じゃない。胸の鼓動が、さっきよりもさらにうるさい。
フェンリル様とウルフガルムは別ものだ。代わりなんかじゃない。だいいち、ウルフガルムはリアルケモノ。私の目の前に存在しているんだもん。今や、彼に代わるものはないって思ってる。だけど。
チューされるかと思って、即答できなかった……!!
「……いやいやいや、落ち着こう!!」
深呼吸、深呼吸。顔を両手でパタパタ仰いで、なんとか冷静になろうとする。
壁一枚隔てたリビングからは、ソファーをばすばす叩く音が聞こえてくる。たぶん、ウルフガルムがひとりで爆発してるんだろう。いや、それは私も同じなんだけど。
さっきのやり取りを思い出したら、またドキドキしてきた。今度は期待じゃなくて、不安のドキドキだ。
きっと、ウルフガルムは勘違いしてる。私は、今もフェンリル様を推しているのは確かだけれど、それとこれとは別なんだって、ちゃんと彼に伝えなくちゃ。
このまま放置しちゃったら、きっと誤解されたままだ。
「……よし」
私はベッドから飛び降り、深呼吸をひとつして、ドアを開けた。
「ウルフガルム、」
声を掛けると、彼が勢いよく振り返った。
きっと、『何でもねぇって言っただろ!』って、怒るんだろうな。