11. オオカミ怪人、尾行される
「行ってきまぁす」
玄関を開けながら言った衣奈に、俺は「おう」と適当に返事をしただけだった。女友達とカフェに行くんだと。女ってのは茶を飲みながら喋るってのが共通仕様なんだろうか。女怪人のやつらもよく基地のカフェテリアに集まって、心底どうでもいい話をしていた。
ドアが閉まる音を聞き、衣奈の気配が完全に消えたのを確認してから、俺はソファからゆっくりと身を起こした。
「……今日は何すっかな」
シャドウオーダーにいた頃なら、こんな風に予定を考える必要なんてなかった。命令があれば従い、あとはトレーニングや力比べで時間を潰すだけ。余計なことを考えず、ただ動いていればそれで良かった。
だが、今はどうだ? 命令されることもなければ、暴れることすら許されない。それどころか、朝から晩まで、衣奈という存在が常に付き纏ってくる。それは怪人であるこの俺にとって、窮屈で違和感だらけのはずなのに……なぜだか、心地いい。
そして、それがどうにも気色悪い。
俺は眉間に皺を寄せながら、壁際に置かれた自分の装甲――シャドウオーダーの紋章が刻まれた胸当てを睨んだ。
シャドウオーダーでの生活に文句はなかった。怪人として作られた俺にとって、モルガナ様の元で働くことは在るべき姿だと思っていたし、そう信じて疑わなかった。
だが、この部屋にいると、時々その信念が揺らぐ。揺らいでいる俺がいる。
衣奈のフレドルカが原因なのは分かってる。あの女からフレドルカの補給をするたび、じんわりと満たされる感覚が湧いてくる。俺が感じる必要のない、怪人としては余計な感覚。それが妙に心地よくて、離れがたいとすら思う自分がいる。
「……くそっ」
怪人が人間に安らぎを感じるなんて、ありえない。俺はシャドウオーダーの怪人だ。それが俺の本質であり、誇りだ。
けれど、衣奈の無防備な笑顔や、胸焼けしそうなほどの愛情表現、それに俺の毛並みを撫でる優しい手。それらが頭から離れない。
俺は怪人だ! オオカミ怪人の、ウルフガルム・シェイドランナーだッッ!! こんなモヤモヤした感情を抱えるなんて、どうかしている!!
「~~っ!」
苛立ちを紛らわすように、俺は乱暴にリビングのクローゼットを開けた。上下に仕切られた物置は、下半分に掃除用具などが押し込まれている。そして上半分には簡易棚が置かれ、男物の服がきちんと畳まれて並んでいた。どれも衣奈が勝手に揃えた人間用の服だ。
俺は適当にシャツとパンツを掴み取った。それらを身に着けてから大きく息を吸い、そして吐く。意識を集中させれば毛皮が滑らかに縮み込み、骨格が人間のそれへと変形していく。ベルトを乱暴に締め、ハンガーに掛けられた革のジャケットを羽織り、乱雑な着こなしのまま玄関へ向かう。
ふと、シューズラックの隣に並んだ姿見の前で足が止まった。黒髪に鋭い目。黒のレザージャケットに、濃いインディゴのデニムパンツ。悪くない。いかつい男を演出できている。問題は足元だ。選択肢は黒い革のストラップサンダルただ一択。厚いソールは無骨で良いが、やはりどこか締まらない。だが、仕方ない。スニーカーやらブーツやらを履くくらいなら、この違和感を選んだ方がマシだ。
最後に一度、黒い髪を撫でつけた。
「よし、これでいい」
玄関を開けて外に出る。ひんやりした空気が肌を撫でた。空は澄み切っているが、心のモヤモヤは晴れそうにない。こうして外を歩けば気分転換になるかと思ったが、そう簡単にはいかないらしい。
住宅街を抜け、いつものルートを歩いていると、背後に妙な気配を感じた。
振り返らず、耳を澄ます。軽いスニーカーの音が複数、一定の距離を保ちながら俺の背後を追ってきている。
「な? あのおっさん、絶対怪人だって」
「そうかなぁ?」
「たしかに、ヤバいオーラを感じるかも」
ガキが3人、コソコソと話している。憶測だろうが、俺が怪人であることを見抜いて尾行しているらしい。
「俺、この前見ちまったんだよ。2丁目のシェパードいるだろ?」
「あー、前を通ると吠えてくるやつな」
「あそこの道、苦手なんだよなぁ」
「そうそう。俺さ、あのおっさんのちょっと後ろ歩いてたんだけど、そのシェパードが急に大人しくなっちゃったんだよ。直前まで狂ったように吠えてたのにさ。目の前通り過ぎるときに見てみたら、小屋の隅でブルブル震えてんの! まるで、天敵にでも出会ったみたいに!!」
「マジかよ」「あのシェパードが?」
「マジなんだって! 俺、鳥肌立ったもん。で、おっさん、振り返りもせずにそのまま歩いていくんだよ。普通、犬が急に大人しくなったら、気になるだろ? でも、全然気にしてなかった。あれは絶対、普通の人間じゃない!!」
ガキのひとりが言ってるのは、先週の散歩中の出来事だろう。確かに、吠え散らかしてきたシェパードが少々鬱陶しかったんで、ちらりと睨んでやった。ただそれだけだ。
そもそも、縄張り争いに敏感な犬から吠えられるなんてのは、俺にとって日常の一コマに過ぎない。もちろん、威圧して黙らせるのまでがセットなわけだが。その一部始終を見られたせいで、こんな面倒なことになるとはな。
裏路地へ誘い込み、望み通り元の姿を晒して追い払うのは簡単だ。だが、厄介な事態を避けるためにも、そう簡単に正体を明かすわけにはいかない。ちょうど通りかかったパン屋のウィンドウを覗き込むふりをして、ヤツらの姿を確認することにした。
曲がり角の向こうに隠れているつもりなんだろうが、丸見えだった。顔立ちにはまだ幼さが残るが、声色は小学生ほど幼くない。揃いも揃って中坊男子だろう。
「いや、どう見ても普通の人間にしか……」
大人しそうな顔をした眼鏡のガキが言う。
「当たり前だろ。バレないように完ッ璧に化けてんだよっ」
先週、俺の行動を見ていたのは、金髪に赤いパーカーのガキのようだ。
「そうそう。専門チャンネルの最新動画でも、そろそろ人間の姿になれる怪人が現れるだろうって言ってたし」
少し背の高い、キャップを目深にかぶったガキが愉快そうに話している。
シャドウオーダーの怪人は、モルガナ様のおかげで全員が擬態能力を持っている。しかし、擬態はフレドルカの消費が激しいから、常時使うようなやつはなかなかいないだろう。俺だって、衣奈とのことが無ければ使う機会などなかった。好きで人間の姿でいるような奴は知らん。
「なぁ。俺、思うんだけど……あんなにパン屋に入りたそうにしてる怪人、いるかな?」
眼鏡が、遠慮がちに口を開いた。キャップが顎に手を当てて、真剣な顔で頷く。
「確かに。それにあのおっさん、ずっと菓子パンのところ見てるぜ? アンパンとかクリームパンとか、メロンパンとかの……はっ! まさか、甘党の怪人なのか!?」
そこで、金髪が「ありえねー!」と大声で笑った。
「甘党の怪人って何だよ!? めっちゃ弱そう! 必殺技、シュガースマッシュ! っつってな!!」
3人は何を想像したのか、もう隠れもせずに笑い転げている。
好き勝手言いやがって、あのガキども……やっぱり裏路地に連れ込んで、フレドルカを根こそぎ奪い取ってやろうか!?
低く唸りながら振り返った、その時だった。
「あらまぁ、どうしましょう」
声がした方に視線を向けると、近くを歩いていたばあさんが、よろけながら重そうな買い物袋を持ち直していた。
その顔には見覚えがある。間違いない、衣奈のアパートの大家だ。何度か顔を合わせたことがあるが、名前は……忘れた。もっとも、俺にはばあさんを助ける義理などないし、放っておいたところで困ることもない。このまま何事もなかったかのように、この場を離れるべきだ。それが最善の選択だと、頭では理解していた。
しかし、唐突に衣奈の平和ボケした顔が脳裡に浮かんだかと思うと、俺の足はばあさんの方へ向いていた。
「おい、ばあさん」
思いとは裏腹に、身体が動いて、言葉を紡ぐ。
「あら。あなた、衣奈ちゃんの……えぇと、」
「重てぇんだろ? よこせ。持ってやる」
「まぁ、いいの? 助かるわ」
ばあさんが差し出した買い物袋を受け取り、俺は小さく舌打ちをした。怪人の俺が人助けなんて、気まぐれも甚だしい。なんでこんなことしちまったんだ、俺は。
「ありがとうねぇ」
ばあさんの柔らかな笑顔に、俺は「別に」とそっけなく返した。袋には大根やら白菜やら、米の袋まで入っている。俺にとって大した重さではなかったが、弱々しいばあさんには骨が折れるような大荷物だ。筋トレでもしてんのか? と考えていると、ばあさんは聞いてもいないのに安かったから買いすぎてしまったなどと勝手に話し始めた。
ちらりと背後を振り返ると、尾行していた中坊どもが呆然としているのが見えた。
「あのさ……怪人って、人助けなんかする?」
「……しねぇだろ。普通に強面のおっさんなんじゃね?」
「え゛っ!? まじかぁ……すげぇネタ見つけたと思ったのに」
「怪人じゃなくて良かったじゃん」
「おっさん、普通にカッコよかったしな」
「まぁなー……」
3人はもう別の話題を始めると、俺らを追い抜き、去っていった。一難去ったと溜息を吐いた俺に、ばあさんが再び話しかけてくる。
「あなた、衣奈ちゃんと暮らしてるのよねぇ。いい人に出会えて、本当に良かったわ」
いい人……俺が? 自分でも笑いそうになったが、ばあさんの穏やかな声には悪意の欠片もない。衣奈のことを嬉しそうに話す彼女に、俺は何も返せない。それどころか、その優しげな横顔を見ていると、俺の苛立ちは少しずつ薄れていくようだった。
ばあさんが住む部屋まで袋を運び終えた俺は、外階段を昇り、衣奈の部屋まで戻ってから擬態を解いた。瞬間、全身を重い鉛でも押し付けられたかのような疲労に襲われた。
「はぁ……やっぱ擬態は燃費悪ぃな」
普段より気を遣ったせいか、フレドルカの消耗も激しい。全身の力が抜け、立っているのも億劫になるほどだ。ソファに倒れ込むように身体を預ける。
目を閉じると頭に浮かぶのは、あの女の顔。甘やかな柑橘系の匂い。手のひらの温もり。そして、俺の心の奥底まで満たしていくフレドルカ。
俺の身体が、無意識に衣奈のフレドルカを求めている。この倦怠感を、あの温かさで癒してほしいと、心底願ってしまっている。
時計の針は、まだ衣奈の帰宅時間には程遠いことを示していた。
「……クソッ、衣奈め。こんな時に限って……早く帰ってきやがれ……」
帰ってきたら、真っ先にフレドルカを寄越させる。絶対に、だ。