魔法少女の放火未遂
先述のようにルーメン地方の特徴は森と泉だ。霧に包まれ露に輝く明け方の風景はこの上なく幻想的である。しかし、土地勘のない余所者にはこの霊妙な様相が深刻な影響をおよぼす。方向感覚の狂いだ。ループ状に細かくつながる街道の複雑さもそれを助長する。「クリスタの南門から出発したらなぜか北門に到着した!」という失態は方向音痴だけのものはない。
で、当然のようにその失敗を過去にやらかしたマーヴィは道中の看板や道しるべの指さしチェックを欠かさなかった。依頼は第五ハレルヤ遺跡の調査であって、第四や第六ではない。しかも、第四の遺産は勇者の具足で、第六の宝物は勇者の小手だ。それはクエストの報酬にならないし、地下室の掃除の助けにならない。
この慎重な進みのおかげで一行はつつがなく第五ハレルヤ遺跡のふもとに辿り着いた。クリスタ市の指定では小山の全体が聖域だった。本殿は山の上にあるが、すでに廃墟である。他方、山中に点在する祠や堂のコンディションは比較的に良好だ。観光客の胸を打たずとも、敬虔な勇者信徒の心にはじんと響く。また、いくつかの脇道や洞穴が訪問者の好奇心を絶妙にくすぐる。
「強い怪物はそんなにいないな」マーヴィはゴブリンやスライムなどの雑魚を適度に蹴散らしながら言った。
「うまい獲物がそんなにいないなあ」アルは銀色狼や人喰い草を物干し竿で追い払いながら言った。「こういう他のやつの肉を食うやつの肉はおいしくない」
「きみの棒術は様になってきたな」剣士は返り血をぬぐいながら言った。「無駄な殺生をしないのもまた勇者だ」
「だって、かわいそうじゃない?」アルは凶暴な狼を棒の先で器用に引っかけて、ぽーんと投げ飛ばした。
「正論だね」マーヴィは顔をしかめた。「しかし、きみが情けを掛けるその獣がほかの弱き者を襲うとすれば?」
「それはその人の問題だ」
「悪を未然に防ぐのは善でないか?」
「はあ」アルは上の空で生返事した。
「これはきみの心には全く響かない?」年長者は聞き直した。
「ぼくがこの獣を見逃す。この獣が他の人の前に現れる。その人が獣を倒す。その人がこれをおいしく食べる。これは善じゃない?」
「それはおとぎばなしだ」
「マーヴィの発想は悲観論というやつだよ」アルは平然と言った。
「アルくん、その甘い考えではこの世知辛い世を生き抜けないぞ」マーヴィは渋い声で言った。
「ぼくは生きられるけど?」
「いや、人間は一人では生きられない」
「マーヴィはそれを試したの?」
「もちろんだ。しかし、人は孤独に耐えられない。おれたちは他人との関係性の中でこそ活き活きと生きられる」
「それはマーヴィの心の問題だよ。ぼくは一人で生きられるし、別に寂しくない。ほら、ここに木の実があるよ」アルはベリーをむしって、むしゃむしゃ食べた。
「生意気!」マーヴィは年少者の超然とした落ち着きぶりにいらっときて、うおおと叫びながら、雑魚モンスターに大人げなく八つ当たりした。
そんな風にちぐはぐなやり取りを繰り返しながら、二人の冒険者は遺跡の廃墟までやって来た。そこは小山の尾根の一角を平たく整形した高台で、山中の小さな砦のような広場だった。柱のような古い石材と瓦礫の山、立木と雑草が荒涼さともの悲しさを感じさせた。
「ここもひどく荒れたな」マーヴィは眼前の枝をかき分けながら悲しげに言った。「第一遺跡や第二遺跡にはトイレや売店もあるのに、ここは荒れ放題だ。光の剣の伝承が泣くぞ。せめて、この木がなければ、見晴らしが開けるのにな」
「なんか焦げ臭くない?」アルは鼻をすんすんさせた。
「うん? たしかに匂うな?」剣士はすっと身構えて、あたりをがそごそやった。と、草葉の陰から黒焦げのゴブリンがごろんと出てきた。
「うえー、焼き過ぎだ」農民は怪物の脇腹を棒でつんつん突いた。
「食うなよ」
「食わないよ。ゴブリンはおいしくないし。ここは生焼けだし」
「……それはどういう意味だ?」マーヴィは怪訝につぶやいた。
「ゴブリンとかオークとかトロルとかの人間型のモンスターはあんまおいしくないよ」恐ろしい食いしん坊は驚愕の事実を淡々と告げた。
「うえー! 止めろー!」ベテランの冒険者もこの告白には大いに怯んだ。
「ここはいい感じだ」アルはゴブリンの肩ロースのあたりを突いた。
「うーん、おれの考えは間違いだった。ほんとにこれを食えるなら、たしかに一人で生きられるよ……」マーヴィはそう言って、生焼けのモンスターを観察した。「しかし、この焼け方は自然じゃない。だれかの仕業だ」
「だれ?」
「分からん。ただし、そいつは山の中で火を放つようなドアホウだ。山火事になるぞ」
マーヴィがそんなふうに言った直後、奥の木影で何者かの気配が動いて、矢のようなものが飛んできた。しかし、それは守りを固めたマーヴィとアルから反れて、生焼けのゴブリンにざくざくと突き刺さった。
「氷だ」アルは冷たい矢の正体を見て言った。
「これは魔法だ」マーヴィは警戒を強めて、木陰に注意を向けた。
剣士のぴりっとした視線と農民ののんびりした視線の先にすっと出てきたのは年頃の少女だった。金色のポニーテールがふわふわ揺れて、木々の深緑の背景にきらきら映えた。背丈はアルより少し小柄で百七十センチぐらい、顔立ちは非常に端正だが、銀色の鋭い瞳と整い過ぎた鼻筋は勝気さを隠さない。近所の初心な町娘でないのは旅人風の軽装と腰のナイフで分かる。
「これは可愛らしいお嬢さんだ」剣士は目を丸くして、剣を収めた。
「消したぞ」可愛らしいお嬢さんは強気な口調で言った。
「はい?」
「こちらが山で火を放つドアホウでございます」娘はさきほどのマーヴィの呟きを丁重に繰り返して、右手で呪印を結び、追加の氷の雨をゴブリンに降らした。「これで山火事は起きませんね?」
「きみは魔法使いだな」マーヴィは驚いた。「しかも、相当な使い手だ」
「いいえ、私はただのドアホウです」魔法使いの少女は冷たく言い放った。「で、おじさんはどちらさまですか? ここの地主か管理人さんですか?」
「おじさん……おれはまだ二十八歳だ」
「そう? あなたは少し老けて見えるわね。でも、十個上をお兄さんとはお世辞にも言えないわよ、おじさん」マーヴィおじさんより十個下の勝気な娘は同年代のお兄さんを見た。「こっちのぼんやりしたお兄さんはお兄さんだわ」
「今日はいい天気ですね」ぼにゃりしたお兄さんはいつもの挨拶をした。
「え? うん、まあ、そうね」魔法使いはきょとんとして、空を見上げた。強気を辛口を忘れたその顔はものすごく可憐な美少女だった。
「おれはマーヴィス・ボルトン、旅の剣士だ」マーヴィはおじさん呼ばわりに耐えかねたように名乗った。
「ふーん? お兄さんは?」娘は聞き流して、若者にたずねた。
「アルバート・ハレルヤ・アスラン」
「へえ! ジョンとかジョージじゃないの?」魔法使いはきゃははと笑った。「伝説の勇者の名前はあなたには的外れだわ。ジョン・ジョンソンにしない? で、どっちがゴブリンを食べるの? あなた? おじさん?」
「食べないよ」アルは言った。
「おれはおじさんじゃない」マーヴィは女子の早口にたじろぎながら苦い顔をした。「マーヴィス・ボルトンだ。マーヴィと呼んでくれ」
「じゃあ、そうするわね、マーヴィ」美少女は年長者を気安く呼び捨てた。その毅然とした様子はまさにお嬢様だった。
「きみはだれだ? エリザベート・アントワネット・ヴィクトリア?」アルは無茶苦茶な名前を言った。
「あはは、それはいい名前だわ。この私の美貌と才能に見劣りしない響きと長さと厳かさよね」
「自分で言うか」平凡な名前の庶民の剣士はぼやいた。
「でも、あいにくと私の名前はあなたみたいに大げさじゃないのよ、アルおきくださいバート。私はリタ、リタ・ウィローと申します。愉快な貴公には特別に『リタ』と呼ぶことを許しましょう」魔法使いのリタはお嬢様風に淑やかに悠然と一礼した。