勇者宣誓
前述のようにファトム砦とシャバル市の連絡は良好だった。フィッツジェラルド卿の突然の訃報で離脱した一派は小一時間で市中に至り、城主の不幸と部外者の狼藉をあちこちで吹聴した。同市の世論は騒然として、義勇軍が結成された。さらに王都へ知らせが走り、オルディアの雲行きが急速に怪しくなった。
その日の内に三百の兵士が砦を取り囲んだ。しかしながら、守りを固めたファトム城は難攻不落だった。そもそも今朝方まで友好的だった両者はなかなか積極的になれなかった。たまさかに矢がぱらぱらと行き交ったが、ことごとく命中しなかった。
数日間、にらみ合いの膠着が続いた。そして、ついに王都からの援軍がやって来た。その数は何と三千人の大部隊だった。速やかに砦の周囲に無数の野営が出来た。
「おれたちはもう逃げられない」マーヴィは大部隊に心細くつぶやいた。
「私は余裕で逃げられるけど」リタは宝物庫から拝借した魔法の指輪と魔法の腕輪と魔法の首飾りをうっとり堪能しながら答えた。「今の私は百人力だわ」
「そんなこそ泥みたいな真似はだめだ。勇者的ではない」勇者マーヴィは怒った。
「じゃあ、正面から力業で行く? フルパワーの爆発魔法をぶっ放すのはさぞや爽快でしょうねえ」魔女は怪しい呪印を切り始めた。
「それは呪いの指輪じゃないか?」
「安心して。私は誰かみたいにばっさりやらないわ」リタは皮肉を言って、コップを魔法で浮かせて、机の端から端へゆっくり移動させた。「あんたもサボらずに練習して」
「灯りの魔法か? あれが何の役に立つ?」
「初心者は文句を言わずに回数をこなせ。せっせ、せっせ」
「はいはい」マーヴィは前に洞窟で見た灯りの魔法を練習した。
「ぼくもやる」アルは言った。
「無理ね。あんたには魔力の才能が金輪際にないわ。アルはお茶を飲んで、おやつを食べて、お昼寝をする」リタはそう言って、コップを再び浮遊させ、取っ手をアルの一指し指にすぽっとはめた。
小柄な伝令がやって来た。彼はマーヴィには不審を、リタには敬意を、アルにはおやつを与えた。
「アルさん、これはうちの庭で獲れた桃です。後で食べてください」
「はい、食べます」
次にやって来たのはハテムだった。彼は主人と勇者に会釈して、アルの手前に包みを置いた。
「アルくん、これはシャバル名物の落花生のバター炒めだ。食べてくれ」
「はい、食べます」
と、ものの数分で平凡な若者の前にはお茶とおやつの一式が揃った。
「この差は何だ」勇者は憮然と言った。
「母性本能をくすぐるというやつだね」アルはけろっと言って、バターピーナツをぽりぽり食べた。
「この子だけはそのまましれっと門から出られそうよね」リタは言って、ピーナッツをふわっと浮かして、自分の口元へ放り込んだ。
その日、オルディナの風が珍しく止んだ。無論、天気は快晴だった。からっとした空気にはビールと演説がよく合った。
午前十時、伝説の勇者がバルコニーに現れた。宝物庫の豪華な兜と胸当てで着飾った大男の正体はマーヴィス・ボルトンだった。怒号と歓声が四方から飛び交ったが、矢じりや投石や火の玉は起こらなかった。伝説の勇者の噂と光の剣の威光は絶大だった。もっとも、そのぴかぴかの武器は適当な棒にマーヴィの拙い灯りの魔法をまとわせたはりぼてだったが。数千の注目を一身に集めた彼の精神はそぞろに乱れて、魔法の灯りも湿気た花火みたいに不安定に明滅した。
「静粛に」勇者のかたわらでリタがそっと言った。その声は魔法の神器を通じて、盛大に拡散して、数百メートル四方に響き渡った。また、男どもはその美貌に素直に見とれて、息をのんだ。しかし、最後尾のローブ姿の怪しい一隊だけは隙を見せなかった。それは魔術師と魔法使いの集団だった。リタはその怪しい一隊から注意をそらさずに続けた。「これより勇者さまのお言葉を皆さまにお伝えいたします」
「私の名前はマーヴィス・ボルトン、伝説の勇者、光の剣の主……」マーヴィはがちがちに緊張した声でぎこちなく述べて、前方の斜め下をちらちら盗み見た。神聖な文様と文字で装飾された大きな角笛みたいな魔法の拡声器の陰、下からの死角の配置にはアルがいた。その手にはリタ原案、ハテム監修の素晴らしき演説のカンニングペーパーがあった。
と、この一息の瞬間、どこかできゅいんという甲高い音がした。群衆の頭の上を何かがひゅっと通り過ぎて、高台の勇者の胸元に迫った。しかしながら、それは間一髪でマーヴィの手に受け止められた。矢だった。この超人的な早業に兵士たちは唸った。
「どこのアホウのちょっかいだ?」リタは瞳を怪しく輝かせて、騒然の群衆を流し見ると、二百メートル先の木陰に弓兵を発見した。魔女の一睨みで弦がばつんと弾け飛んで、持ち主の顔にぐるぐる絡まった。
「この城の主、フィッツジェラルド卿は魔族であったが、表向きには人間に友好的な紳士であった」勇者は矢を握りしめながら言った。「しかし、その真意は狡猾だった。卿の真の目的、それはこの城に魔法の武器をかき集めて、人間に貸し与え、魔王と争わせて、双方の力を削ぐことだ。これがもたらすのは平和でない。混乱の長期化である。私はその野望を見抜き、勇者の名のもとに彼を討ち取った。私欲でなく、正義のためである。私はこの城を人間の手に取り戻し、オルディアに返還することをここに誓う」
そして、オルディアの横断幕と旗が高所に掲げられた。一同は静まり返って、たがいの顔を見た。皆が半信半疑だった。離反組の一派だけは積極的にやいやい反論して、後方から「殺人鬼」とか「偽勇者」とかの野次を飛ばした。
マーヴィは追加の文章をちら見した。ところが、その直後に一陣の風が吹き、アルの鼻先に数粒の砂埃を誘い込み、大きなくしゃみを吐き出させた。そして、その反動でカンニングペーパーが流れに乗り、砦の上に舞い上がり、お堀にぽしゃんと沈んだ。そのいたずらな風はフィッツジェラルド卿の名残であったか、なかったか。
その瞬間、マーヴィの頭の中は真っ白になって、光の剣が壊れたランプみたいにちかちか明滅した。
「そして、私は皆さまと一緒に新たな一歩を踏み出します」リタは小声で耳打ちした。しかし、勇者はかちこちの茫然自失から復活しなかった。
失態をやらかした当人は鼻をぐずぐずさせながら、カンペの行方を追うように立ち上がり、悠然と空を見上げて、次のように言った。
「ああ、今日はいい天気だなあ」
たまさかにこの一言は魔法の角笛に拾われて、魔法の力でほわんほわんと拡大し、三千の聴衆の全てに深々と行き渡った。途端、やかましい罵声や野次がすっと止んで、ほんわかした空気が流れた。いたずらな風すらもやれやれと吹き去り、太陽がさんさんと輝いた。
「今よ」リタはマーヴィのケツを叩いて、追加の締めを言わせた。この結果、全軍は拍手喝采して、伝説の勇者を称えた。
「人生で一番緊張した……」マーヴィは屋内に戻って、堅い顔で嘆息した。
「あなたはよくやったよ」ハテムは認めた。「本物の勇者のようだった。これで今後の交渉がうまく行く」
「アル殿が珍しくやらかしたが……」勇者はカンペ係を見つめた。
「鼻がむずむずする」平凡な農民は鼻腔をすんすん鳴らした。
「鼻うがいをなさい」
「えー、鼻がじゃぶじゃぶになるよ」
「あはは」リタはほがらかに笑いながら、急に神妙な顔をして、ぼそぼそとつぶやいた。「でも、今のは何か異様じゃない? あんたはなにかした?」
「くしゃみしたけど」アルは上の空で答えて、鼻の頭を掻いた
「ふーん、たまたまかな」魔法使いはそんな風に言って、ドジな子にハンカチを手渡した。
「また甘やかしだ」マーヴィは冷ややかに言った。
「嫉妬は勇者的ではないわ」
「むう」
「勇者殿、私は貴君にしばしの女断ちをお勧めします。色事にかまける勇者は大衆には不人気です。勇者は禁欲的なものです。あなたの身はあなた一人の者ではない」ハテムは秘書みたいに助言した。
「むう、さっさと魔王を倒しに行こう」勇者は決意を改めて、はりぼての光の剣をぴかぴかさせた。




