第2話
《イエフォ・ヒスギカ 10歳》
一人の少女によって私の世界が一変しました。何故変わったのかを説明する言葉が上手く選べません。とにかく私の世界が色付いた事は確かな事実です。
▽▼▽
朝食の席はいつもより華やいでいた。
「おはよう、イエフォ」
「父上、おはようございます」
イエフォは食堂に入ると父であり当主のテツィー・ヒスギカ子爵に向かい頭を下げた。テツィーが挨拶をするとイエフォは頭を上げて挨拶を返した。
テツィーは、普段よりワンランク上の仕立ての良い生成り色のシャツに前ボタンの黄土色のベストを合わせ白茶のスラックスといった格好だ。首元には亜麻色のアスコットタイを覗かせている。衣紋掛けには黄土色のジャケットと白茶のハンチング帽が掛けられていた。普段よりは着飾っているが決して形式張ったものでは無い。
『父上と同等か目上でも気心が知れた人がお客様なのだろう』
それを見たイエフォはそう思ったのだった。
それからシアシェ・ヒスギカ子爵夫人と異母兄のカーノ・ヒスギカに向かって頭を下げる。
「おはよう」
「ふんっ、おはよう」
二人からは刺々しいが挨拶の言葉が掛けられる。
「母上、兄上、おはようございます」
イエフォが頭を上げると既に二人とも彼に視線は向けていなかったが、もう慣れた事なので平然と挨拶を返した。
シアシェとカーノはテツィーとは反対にキッチリとした正装で固めている。彼女がオロギリマー公爵の縁戚筋であるのも影響してか、最近では国王陛下に謁見する時以外にはすっかり見受けられなくなった最上級の正装をしていた。
シアシェはコルセットをきつく締め、ふんだんに宝石とレースが配われた紺色のドレス姿だった。木製であろうパニエによって腰元にはキッチリとした膨らみを形作っている。レースの襞襟が首回りで存在を主張していて、頭の上には宝石とレースをふんだんに盛って大きくなったヘッドドレスが鎮座していた。
紺を基調にしているのにけばけばしくなるという珍技に、イエフォは驚きを隠せなかった。
カーノは光沢のある白シャツに、これまた光沢のある黒のベストを合わせいた。そして黒地に白のストライプのスラックスを履いているのだった。頭は髪油で撫で付けてオールバックにしている。衣紋掛けにある共に黒のフロックコートとシルクハットを合わせれば、古式床しい貴族の写し絵の様であろう。
一方のイエフォはクアサナの見立てで、白シャツに若草色の棒タイを付けて白タイツに涅色の半ズボンを履きサスペンダーで留めている。年相応で、きちんとしている格好といったところである。
朝食を皆が取り終えると暫く談笑していた。
『コン、コン、コン、コン』
「失礼致します。旦那様」
「ああ、入ってくれ」
家令のキレアがやって来たのだった。
「先触れの者がやって参りました。後30分程でお客様方が到着するとの事です」
「ふむ、ご苦労。到着したら、西の応接間に通してくれ」
「畏まりました」
テツィーが指示を出すと恭しく一礼をしてキレアはその場を辞した。
皆が移動しようと席を立つとそれぞれの侍女達が身支度を整える為に側に寄っていく。イエフォの所にも当然クアサナがやって来て、テツィーとお揃いのハンチング帽をイエフォの頭に乗せたのだった。
西の応接間に移動したイエフォはソファーに腰掛ける。いい機会だと、彼は普段あまり接する事のない父親に沢山話掛けていた。テツィーは終始眉間に皺を寄せて、苦虫を噛み潰した様な表情をしていた。それでもイエフォの話をきちんと聞いて応えていた。彼はそれだけでとても嬉しそうで、更に話を続けるのであった。
『コン、コン、コン、コン』
キレアの人柄を表す様な、丁寧でそれでいてどこか優雅でもあるノックが響き渡る。
「旦那様、お客様方をお連れ致しました」
「ご苦労、お通ししてくれ」
テツィーはそう言うと席を立ちドアの方へ数歩進んだ。イエフォ達もそれに続く。
ドアよりもかなり手前に立った事で、イエフォはお客様はやはりテツィーの少し目上の親しい方だと判断した。これが同格か下の者ならばソファーの前に立つだけだし、格上の者ならばドアの近くで出迎えるのがマナーだからだ。その考えに至ると彼はシアシェとカーノの服装が場違いでは無いかと思ったのだった。
イエフォがカーノの隣で姿勢を正して待っているとキレアが扉を開けてその脇に控える。そして恰幅の良いテツィーよりも少し年上であろう紳士が少女を連れて入室して来た。
テツィーが挨拶を交わしイエフォ達を紹介した。それが済むとお客様の自己紹介が始まった。
「私はウターソン・シオラと申す」
ウターソンは銀髪に空色の瞳で、深緑のジャケットとスラックスに生成色のシャツで若菜色のニットのベストはお腹部分がこれでもかというくらい伸びてしまっている。檸檬色のアスコットタイで襟元を飾り中央に大粒のガーネットが鎮座したブローチで留めている。頭の上には白いベレー帽を載せていた。
彼はイエフォ達を一瞥すると眉を顰めた。
「てぃ……んっ、うぉっほん。ヒスギカ卿、中々に豪奢なお出迎えご苦労」
刺々しい口調にイエフォでも皮肉だと理解出来た。
シアシェが怒気を含んだ瞳でイエフォを睨んでくる。イエフォは俯く事しか出来ない。テツィーの服装や行動から目上の親しい人だと思われた客人は、何とウターソン・シオラ伯爵だった。
目上どころか爵位が上なのである。明らかに場違いな姿のイエフォが焦らずにいられようか。
シアシェやカーノの格好は些か大袈裟だが、テツィーやイエフォの格好ではラフ過ぎるのだ。特に強い信頼関係のある者同士なら爵位の上下を無視する事も有る話だけれども、ヒスギカ家とシオラ家の間にその様なものがあるとは聞いた事もない。
これではウターソンは自分を低く見られたと怒って帰ってしまうかもしれないと慌てたイエフォはテツィーを伺うが、にこやかに微笑んで対応しているだけだった。
「これは次女のフィアナだ。5月で12歳になる」
ウターソンもまるで何事も無かったかのように話を進め、隣にいる少女の肩に手を乗せて紹介をした。
「フィアナ・シオラで御座います。以後お見知り置きを」
フィアナは軽く膝を曲げて一礼した。彼女は乙女色ベースでサイドには花柄の生地が使われているワンピース姿だ。各所にレースが配われ上品に可愛らしく纏められている。下にはペチコートを着用しているようで腰元は優しい膨らみを保っているが動くたびにふわふわと柔らかく揺れ、少女の魅力を引き立てるのだった。銀色の髪は後ろに流され、服に合わせた乙女色の大きなつばの帽子を深く被っていた。
お互いの挨拶が済むとイエフォは被っていたハンチング帽を側に寄って来たクアサナに渡した。
他のヒスギカ家の面々も側付きの者に上着や帽子などを渡している。
それを待ってウターソンとフィアナも同様に上着や帽子を従者に渡していた。これはウィグカナ流の礼儀作法で、元は戦場の作法であった。和平交渉の時に名乗り合いの後に受け入れる側が先に武器などを外し、話し合いを受け入れる事を示す。その状態で申し入れた側だけが武器を所持している事で害意の無い事を示し、その後に武器などを外す事で話し合いに応じてくれた事に対する謝意を示す事になる。これが転じて来客を迎える時の作法になったのだ。
「シオラ卿、フィアナ嬢、御足運び痛み入ります。どうぞお掛け下さい。さあ、皆も席に着きなさい」
ホスト側の主人のティツィーが頃合いを見計らって着席を促す。席に着こうとしたイエフォの視界にフィアナ嬢が入った。先程までは帽子に隠れて分からなかったが、銀色の髪はサイドが綺麗に編み込まれハーフアップになっていた。そして彼女の群青色の瞳と視線が重なった瞬間、イエフォの時が止まった。
目の前の少女は夢の中の婚約者をそのまま幼くしたような容姿をしていたのだ。思考停止していたイエフォにフィアナが両頬に笑窪を浮かべて微笑み掛けた。その時に彼は運命の恋に落ちたのだった。
「さて、今回の婚約についてだが……」
『婚約』という言葉にイエフォの全神経が集中して、その後のウターソンの言葉は彼の耳に入らなかったのだった。