6話:誘惑の香り
投獄されてから迎える、初めての朝。
「おい、起きているか?」
「·····?」
高い位置に付けられた小さな格子窓。そこから射し込む光に覚醒を促された所で、重ねて男の声が意識を現実へと引き戻す。
「··········お前、名前が無いのか? 呼びにくいな」
「·····俺を捕らえたやつは、俺の事を”名無しのゴンベエ”と呼んでいた」
「··········」
俺をこの閉所に入れた時、ベルが残していった名前。唯一俺が俺であると分かる言葉は、それだけだった。
それを伝えられた看守はしばらく俺の顔を見つめたあと、一度大きく目を逸らし。
「では、”名無しのゴンベエ”。お前を、現時刻を持って釈放する」
言った。
「··········」
「その名前の”言い難さ”も、大概だったな」
「言うな。·····この職に就いてから初めての経験だ」
「·····それは、すまないことをした」
牢の鍵を空けながら、男はため息混じりに言う。
「金輪際、ここには縁のない生活を送ることだ」
「·····ああ。もちろんだとも」
「こっちだ。付いてこい」
言われるがままに、看守に連れられた俺は冷たい監獄からの脱出に成功した。
·····特に、出るための努力など何もしていないが。
··········。
そう言えば·····
「··········」
·····俺は、なぜ捕まったのだろうか?
深いことは考えずに、俺は暗い通路を明るい方へ、明るい方へと歩いていった。
*****
「··········」
·····と言っても、俺には行くところも、帰るところもない。
(さて·····どうしたものか·····)
牢から出されてしばらく、いつの間にか陽は高くまで昇っていた。
行くところも帰るところもない俺は(2回目)、街をひたすら闊歩していた。
·····闊歩していた(2回目)。
(この匂いは·····肉か)
牢は、街の北東に位置していた。水路の張り巡らされた道をひたすら人の気配がする方へと進み、都市の中央に近付くにつれて活気づく人々の流れに、文字通り流され。
朝食を食べていないことに、気が付いた。
(どおりで腹が減るわけだ。昨晩の夕食以来、何も口にしていないな·····)
そんな俺を嘲笑うかのごとく、昼時の街は食べ物の匂いで溢れかえっている。
”食材”が並ぶ市場を通り過ぎると、今度は”食事”が並ぶ屋台や飲食店が目立ち始め、数歩あるくごとに変わる芳香に徐々に腹部がジリジリと熱くなる感覚を覚える。
焼ける・煮える・揚がる匂いが俺の身を包み―――――
「·····っ!」
その匂いの中に、一際俺の胸と腹を熱くする芳香が鼻腔に流れ込む。
「··········」
その先には、木組みの看板が掲げられたレンガ造りの外壁が特徴的な店。
ガラスケースに収められているのは、様々な形状をした ”パン” だった。
(さながら·····市場だ)
芳ばしい匂いの先には、パンの間にぎっしりと肉が詰め込まれたもの、果物がどっさりと散りばめられたものなど、様々な食べ物とパンを掛け合わせた―――言わば芸術品の数々が並んでいた。
所狭しと並べられたパンは、並んだその瞬間に売れて行く。
忙しなく動き回る店員と、立ち代り入れ替わる客たち。そんな彼らから、この店が如何に支持を得ているかが伺えた。
(買うことが出来ないのが·····歯痒い·····)
焼き立てホヤホヤのパンたちと対照的に、俺の懐は極寒の地と化している。
·····身一つで目覚めた男が、パンを買うほどの貨幣を持ち合わせているわけが無いのだ。
(まずは職探し、か·····)
目の前のご馳走を泣く泣く諦め、ため息混じりに歩きだそうとした·····その時。
「あのー·····」
「ッ!?」
すぐ側で、声がした。
「こんにちは。ええと·····”名無しのゴンベエ”さん。·····どうしたの? そんなに驚いて」
「き·····君は·····!」
そこには立派な耳を生やしたあの少女―――俺を連行し投獄した、ベル・ファルガバートの姿があった。
「その名前は勘弁してくれ。··········看守がいたたまれない」
「·····?」
俺の言葉に耳をぴょこぴょこと動かし答えたベルは、僅かに口元を綻ばせる。
それを見て、俺は―――
「·····俺はまた、何か法を犯したのか?」
「えっ?」
その笑みに、”いたずらっぽさ”を感じたのか。俺は自らの額に脂汗が滲むのを感じた。
「うふふ·····面白いこと言うね”名無しのゴンベエ”さんは。·····あ、この名前は嫌なんだっけ?」
「特に·····嫌というわけではないが·····」
「·····?」
”名無しのゴンベエ”などと言う、ゴンベエという名があるにもかかわらず名無しという名がつく矛盾の王。
不可抗力とは言え、そんな名前を口に出して呼ぶ羽目になった看守の顔が目に浮かび、思い出し笑いで頬が緩む。
「·····それで、用件はなんだ? 俺は忙しくはないが、暇でもないぞ」
「ん·····別に用事って訳でも無いんだけど―――」
今のところ職がない俺にとって、急務でやるようなことは無い。
·····だが、空腹との格闘で忙しい俺にはこの場に長く留まること自体、寿命を縮めているような気がして仕方がなかった。
つまり、用件がなんであれ早くこの場から離脱したい。その一心だった。
·····彼女の口から、この言葉が出るまでは。
「ゴンベエさん、お腹減ってないかな〜·····と思って」
遂に呼称を省略し始めたベルの言葉に、ゴンベエの心は大いに揺らぎ。
「·····減っている、と言ったら?」
まるで合わせたかのように鳴く腹の虫も加わり。
「連行します!」
彼女は尻尾を小さく振りながら、いたずらっぽく微笑むのだった。
to be continued·····
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