プロローグ【綺麗な華が、ぶん殴る】
――ここは、地獄だ。
至る所から湧く怒号と銃声、砲火の旋律によって心胆すら震わせる戦場の只中で、先週よりここの監視塔に新兵として着任したばかりの青年は体を丸めて体を震わせていた。
「撃て撃て! 何としてもここで食い止めろぉ!」
「畜生! 援軍はまだかよぉ!」
傍では必死の形相で重火器を撃つ先任の兵士が居るが、彼らの顔に浮かぶ表情も、蹲る青年が浮かべているものと全く同じであった。
それは絶望。
どんなに足掻いても無駄でしかない現実を理解して、彼らの誰もが自分達はここで死ぬのだと理解していた。
青年と彼らの違いは、兵士としての練度の違い、あるいは絶望に屈するほうが怖いことを知っているためか。
「■■■■ッッッ!」
それでも、弾幕と砲撃の中から現れて咆哮するそれらを見た瞬間、兵士の誰もが青ざめた顔で言葉すら失った。
彼らに迫りくるのは、人間でも機械でもなかった。そのどれもが、かつては漫画やアニメでしか見たことも無かったような異形の怪物だった。
人に近い形をしていながら、顔に存在すべきパーツを全て喪失し、縦に真っ直ぐ走った亀裂から無数の触手を覗かせる金色に輝く異形の怪物。
この怪物こそ今より100年以上昔、突如として空に浮かぶ月に穿たれた巨大な穴より漏れだした光より現れた者、『月光獣』。かつて、僅か数年で人類の数を半分も削った化け物の群れの尖兵が、魂すら凍りつかせる咆哮をあげながら、徐々に兵士達へと近づいていた。
「撃てぇぇぇぇぇぇ!」
悲鳴のような号令に我を取り戻した兵士達の手元にある銃が唸る。放たれる弾丸豪雨には虎の子である戦車による砲撃すらも混ざっている。その集中砲火は、彼らの拠点である監視塔すらも数分もせずに破壊しつくすことが出来るだろう。
だがそのいずれもが、月光獣の肉体はおろか、皮膚を裂くことすら叶わない。そのビニールの中に肉を詰め込んだようにツルツルとした見た目に反して、弾丸は甲高い音をたてて弾かれ、砲撃は弾頭が先にひしゃげ、発生した爆発も表皮すら焼くこともできない。
彼らの持つ武装では、月光獣を倒すことはおろか、足止めさせることすら出来ていないことは明白であった。そんな怪物が兵士の人数に匹敵、あるいは凌駕する程の群れとなって迫りくるのは絶望という言葉ですら言い表すことも出来ない程の最悪。
モデル・ヒューマ。人型を模したこの月光獣の脅威としてのランクは、最底辺より3番目の戦闘力しかない雑兵。
だが、その程度の雑兵の足止めすら出来ないのが、百年前より成長したはずの現行兵器の限界であった。
「怯むな! 近づかれたら終わりなんだぞ⁉」
それでも抵抗しなければならない。無駄と知っていても、それを止めた瞬間、まるで舌なめずりするように蠢く触手に貫かれ、生きたままあの化け物の腹の中に収まるのだと分かっているから。
「あぁぁぁぁ! もう嫌だぁぁぁぁ!」
「おい待て!」
「ひやぁぁぁぁ!」
直後、先程まで蹲っていた青年が、背後に忍び寄る死神の吐息に耐えきれず、悲鳴をあげながら逃げ出した。
本来なら敵前逃亡によってその場で処罰されてもおかしくないのだが、彼にとって幸運、あるいは不運なことに、月光獣に対する弾幕を展開する兵士達は彼を追う余裕すらない。
だから青年はその場を逃れて走り出す。それが現実逃避でしかないことは頭の冷静な部分で分かっている。しかし、この現実にじりじりと押し潰されるくらいなら、発狂して逃げ惑った方がはるかにマシだった。
「死にたくない! 死にたくない死にたくない死にたくないぃぃぃぃ!」
涙と鼻水を流し、股間すらも濡らす醜態を晒しながら青年は逃げる。
だがそんな彼の歩みは、突如として止まることとなった。
「■■■■ッッ……」
静かな唸り声と共に、初めからそこに居たかのように、モデル・ヒューマが現れる。
「あ……」
人型を模しているとはいえ、全長2メートルを超すモデル・ヒューマを見上げた青年は、先程までの狂騒が嘘だったかのように言葉を失って愕然とした。
さらに青年を取り囲むようにモデル・ヒューマが次々に現れる。
監視塔の裏から逃げだしながら、背後より月光獣が現れた。それが意味する事実はつまり、監視塔は完全に月光獣によって包囲されたということに他ならない。
だがそんな事実など青年には最早関係なかった。周囲を取り囲む絶望。手にしたアサルトライフルは豆鉄砲よりも頼りなく、どうしようもない終わりに銃を落として膝をついた。
真の絶望に陥った時、人は一切の思考を手放す。生きるという当然の本能すら霧散し、そこにあるだけの肉と骨の塊と成り果て、果てて、死ぬ。
モデル・ヒューマの口が開く。その口で轟く無数の触手と、口内にぎっしりと生えた鋭い歯の数々。
アレに掴まり、アレの中で咀嚼され、ゴミのように貪られるのだ。
青年はもう何も考えようとはしなかった。先程まで響き渡っていた銃声と砲撃の音も一切聞こえなくなったこともどうでもよかった。
どうせみんなここで死ぬ。
その絶望を最期の思考として、月光獣の触手が青年に向かって――。
「うるぁぁぁぁぁぁぁ!」
瞬間、月光獣の雄叫びすら食らい尽くす野性の猛りと共に、轟、と世界が震撼した。
そして青年の命を終わらせるはずだったモデル・ヒューマの脳天から股までが一直線に切り裂かれる。
それでも勢いを落とさずに地面に着弾した何かが、世界を震撼させた一撃の正体。あまりの破壊力に地面が割れ、隆起し、発生した風圧が青年を吹き飛ばそうとした瞬間、その背中を受け止めた何かがその場を一瞬にして離脱した。
「テメェはクソなだけにウンが良いぜぇ。なんせハデなショーのトクトーセキだ。汚ぇケツついてしっかり見てな」
モデル・ヒューマの群れより離れた場所で降ろされたところで、青年は自分を救った誰かが呟くのを聞く。それはまるで天使の歌声のように清らかな声だというのに、出てきた言葉は品性を疑う程に下品なものだった。
「あ、え……あ」
――君は一体誰なんだ。
その正体を知ろうと振り返ると、長い黒髪が視界の片隅を流れていった。
黒い流星となったソレがモデル・ヒューマの群れの中へと埋もれていく。直後、先程よりも苛烈な衝撃と共に、弾丸も砲撃も通じなかったモデル・ヒューマ達が、腹を大きく抉られて虚空へと飛ぶのを見た。
地鳴りと轟音に合わせて月光獣が次々に打ち上げられていく。いずれも絶命の一撃を受けて散っていくが、月光獣も座して死を待つわけではない。突如として現れた脅威に対して触手はおろか四肢を使って殺到するが、いずれも音に合わせて散っていくのみ。
まるでダンスだ。人の天敵を打楽器にして、踊るように奴らを駆逐している。
知らず、青年は両手を力強く握っていた。力を失ったはずの足で立ち上がり、絶望で満たされた心の底からこみ上げる激情のままに目を輝かせる。
そして散っていくモデル・ヒューマの群れの隙間から、ついに青年は自分を救った者の正体を知る。
黒のタンクトップと膝丈のハーフデニムというラフな格好から覗く健康的に焼けた小麦色の四肢に纏うのは、昂る感情を表すように燃焼する真紅の帯。その両手足をもってして月光獣を悉く一撃で薙ぎ払っている。
その鬼神の如き戦いぶりは鮮烈にして激烈。だが何よりも、青年はそのあまりにも美しい姿に目を奪われた。
一纏めにした長い黒髪を月光獣がぶちまける汚物で染め上げ、鋭くも大きく愛嬌のある目を苛烈な殺意で輝かせ、犬歯を剥いて下劣な哄笑をあげている。
だが、そんな姿にすら心臓が高鳴る。
それ程までにその少女は、完膚なきまでの美麗だった。
この世に存在するありとあらゆる宝石ですら足下にも及ばない珠玉の美。女神がそのまま降臨したかのような神々しさと、人を誘惑する魔性の妖艶が合わさった究極の造形。
そんな美少女が、醜悪の極みに一歩も引くことなくその拳で殲滅していく姿に、興奮しないわけがない。繰り出される豪打の砲撃。殺到する怪物を破砕しつくして哄笑する美少女を見ていた青年は、ふとその姿を何処かで見たような気がして、思い出す。
監視塔に着任する少し前、極東の地である大和を、いや、世界中を騒然とさせるニュースが発表された。その内容は人類の約半分が不可能と知りながらも望み続けた――。
「彼女、い、いや、彼は……」
――100年前の登場より現代に至るまで、既存のあらゆる兵器では有効打を殆ど与えられなかった月光獣。その脅威に追い立てられる人類だったが、月光獣の出現から数年後、とある兵器の誕生によって反撃が始まった。
その名を、『美麗装飾』。
名の通りに、美しさより抽出される『乙女力』という物理法則すら意のままに改変させる力を発生させる兵器を操る者達が、月光獣を圧倒したのだ。
これにより大物の月光獣への有効手段が核弾頭クラスしか存在しなかった人類は、美麗装飾の開発に成功した極東の島国、大和皇国を中心として反撃し、現在は6つの国家群と大和皇国による自治に落ち着くまで復興に成功した。
だがその復興の影で、一つの問題が発生する。それは、美麗装飾という兵器が、美女、美少女と呼ばれる見目麗しい者達――つまりは、女性のみしか扱えないことからくる、女尊男卑の価値観の形成だった。
ただでさえ月光獣との戦争で数を減らした男達は、人類救済の矛と盾の役割を文字通り根こそぎ奪われたことで、かつて男らしいと言われた全ての要素を失っていた。
しかし現代、ここに、一つの異常事態が発生する――。
「とどめぇぇぇぇ!」
一際気合いの入った咆哮を乗せた拳が、最後のモデル・ヒューマを、空を飛ぶ流星へと変える。
ここまでものの1分弱。たったそれだけの時間でモデル・ヒューマの群れを殲滅した美少女は疲れなど微塵も見せずに、興奮して目を輝かせる青年に近づく。
その月光獣の返り血で汚れながらも微塵も損なわれない少女を前にして、あまりの緊張に青年は言葉を詰まらせた。
「サイコーだろ? クソッタレはもれなくお空の星さ」
だが少女は気楽な感じに不敵な笑みを浮かべると、労うように青年の胸を軽く小突く。戦車の砲撃すら効かない肉体を容易に貫いた拳だというのに、胸を叩いた拳は、自分なんかよりも小さな拳だった。
「じゃあな。アンタのツレはダイジョーブだから気にすんなよ」
言って、少女は青年に背を向けるとそのまま去ろうとする。
「ま、待ってくれ!」
その背中に思わず声をかけていた。振り返った少女は不思議そうにこちらを見ている。その綺麗な黒曜の瞳に見惚れそうになって、唾を飲み込んでグッと自分を保つと、「ありがとう、君のおかげで助かったよ」と絞り出すように呟き、頭を振る。
いや、違う。そうじゃないんだ。青年は頭を振る。言いたいことはそれだけではなかった。
感謝だけではない。この胸の衝動は、人類の敵を屠ったことへの興奮だけではない。
「君は、お、俺の、いや、俺達の!」
希望、と叫ぼうとして、それも違うと言葉を飲み込んだ。
それでは変わらない。月光獣より逃げ出した哀れな自分はいつまでたっても変わらないと知ったから。
だから、告げる言葉は違うのだ。
本当は今だって信じてはいない。その見た目はあまりにも美しく、あまりにも可憐で、美麗を纏うに相応しい絢爛豪華な乙女である。
だがこの胸を叩いた拳の熱は嘘ではない。
伝わった衝撃が、自分が生まれるはるか前に自分の――男から失われた熱だと、体でも頭でもなく、魂で理解したから。
だから、青年は叫ぶ。
自分より小さな、だがこの世界で誰よりも気高き者へと。
「俺も、君みたいに強くなってみせる!」
魂を絞り出すような青年の言葉に美麗の担い手は数回瞬きをすると、すぐに向日葵のように眩しい笑顔を見せた。
その笑顔に鼓動が跳ねる。
太陽よりも輝き、灼熱よりも燃え上がる猛き強さに、憧憬する。
だからこそ力強く告げた誓いに嘘はない。
無理は承知だ。
不可能は知っている。
だが、その不可能を体現した者がここに居るから、青年に迷いはない。
強くなると。
他でもない、誰よりも強い者へ向けた言葉に対して、返ってきたのは嘲笑でも軽蔑でもない。
こんな自分を、まるで好敵手でも見るかのように、その瞳を歓喜に濡らして真っ直ぐと。
「言うねぇ……だが、そいつぁムリな話ってもんだ」
弱者の戯言と切って捨てない。同じ熱を抱いた同士として、だからこそ紅蓮の帯を纏った拳を力強く掲げると――。
――1999年7月18日、恐怖の大王である月光獣の出現と共に、世界の常識は砕かれ、美しさと悍ましさが既存の兵器を過去の物とする。
人々を脅かす恐るべき怪物、月光獣。その脅威に唯一対抗できるのは、最新にして最強、そして唯一無二の存在。美しき女性にのみ操ることが出来る謎の兵器『美麗装飾』。その奇怪極まりない不可思議な兵器を纏う乙女達。
人々は彼女達を羨望と畏怖を込めて――『絢爛美姫』と呼んだ。
そんな世界で、たった一人の例外はあるがままに己を主張する。
「なんせ最強は、この俺ってキまってんからよ」
迷いなく告げる言葉に偽りなどは存在しない。
時は現代、2101年。
これは、美麗の乙女達が魑魅魍魎の跋扈する世界を守る新たなる矛と盾となった世界に殴りこんだ――たった一人の『漢』の物語である。