小さな同居人 ー近未来小噺ー
AR、すなわち拡張現実と云うものを皆さまはご存知であろうか。
有名なVR、すなわち仮想現実が架空の世界を作り上げ、私達がその中の入っていくようなものだとすれば、ARは現実世界に架空の物質が存在するかのように見せる最新技術のことであります(2017年1月現在)。
例えば実際に存在する石油ストーブの上にARソフトでやかんが乗っているかのように見せることが出来るのです。そのやかんがピーッとけたたましく鳴り響いているように見せることも、もくもくと湯気が出ているように見せることもプログラムを組めば可能でしょう。
しかし実際に取っ手を掴もうとしてもそれは出来ません。当然です。そのやかんは本当は存在していないのですから。触れてもこれっぽっちも熱くありません。あまりにリアルに再現してあれば脳が熱いと思い込んで本当に火傷の症状を負うことはあるかもしれませんけどね。
そんなAR技術が今よりほんの少しだけ発展した世界が、このお話しの舞台であります。
***
照明のスイッチを入れると、先程まで真っ暗だった部屋に色が戻ってきた。本堂芽衣子が黒のパンプスを脱いで、玄関で「ただいま~」と小さく呟く。その言葉に返事を寄越す者がこの部屋に居たことはない。
アパートの一階にある中華料理屋で買ってきた弁当を電子レンジに突っ込み、適当に加熱時間を決めると手早く着替え、化粧を落とす。
ジャージ姿になり、缶チューハイ片手に弁当をつつくこの生活も思えば随分慣れてきた。
20代を仕事に費やし、責任あるポストに付き、一人で生きていくのに困らないだけでなく、たまに贅沢が出来るだけの収入を得た。田舎の両親にはまだ遅くないからと結婚をせっつかれているが、本人はとうに生涯独身の覚悟を決めている。
(来年には四捨五入したら40になるのに、もう遅いっての)
つまらなそうな顔でエビチリを摘まみながら、テレビのチャンネルを次々に変えていく。ドラマもバラエティもニュース番組も少しだけ眺めては切り替える。一周したことに気付くと電源を落とした。
食後にしばらくぼーっとしてから机の上に放置したままにしていたゴミを捨てると、「よし!」と言って今までの無気力が嘘のように楽しげに鼻歌を口ずさみながら、大切そうにごてごてとした眼鏡を取り出した。
このAR眼鏡こそ、芽衣子にとってここ最近の生き甲斐と言ってもよいものであった。仕事の帰りにふらりと立ち寄ったレンタルビデオ店で型落ち品として叩き売りされていた物だ。
ゲームなど実家で今は結婚して子供と共に両親と暮らしている兄が時たま遊んでいるのを傍目で見ていたことがあるくらいだったから、どうしてこれを買おうと思ったのかは芽衣子自身にもなぞであった。入れ物に書かれていた『新しい現実』という奇妙な売り文句に惹かれたのかもしれない。考えてみればなるほど、自分は確かに古い現実に生きる人間のような気がする。
AR眼鏡はいわゆるハードウェアであり、付属のケーブルをパソコンに接続することでソフトウェアをダウンロードして遊ぶ。型落ち品だけあって対応していないゲームがほとんどであったが、旧作の中に芽衣子の目を惹くものがあった。
『ARペットフレンズ』というそのソフトは名前の通り、架空の愛玩動物を映し出し、飼い主として触れ合うことが出来るというゲームだった。紹介画面に映るウエルッシュ・コーギーのつぶらな瞳にくらりとやられて購入した。
起動してみると最初にペットの種類を選ぶことが出来た。犬、猫の他に兎や爬虫類まで揃っている。なるほどこれは自分のようにペット禁止アパートの住人以外に、普通では飼うことの出来ないペットのブリーダー経験をさせてくれるゲームなのだなと考えつつ、お目当てのウエルッシュ・コーギーを選択しようとしてはたと気が付いた。
独身女性が犬を飼うと結婚出来ない可能性がぐんと高くなると様々な雑誌やウェブサイトで見た覚えがある。それは癒しを犬に求めるからだとか、犬を飼育する上でかかる時間や費用が婚活との両立が厳しいというような理由からであったと思う。
だから現実に存在せず、食事も散歩も必要ない、ARソフトを起動した時のみ現れる架空の犬であればそんな心配は必要ないはずなのだが……。
(この子を見るたびに『犬を飼っていると結婚出来ない』というジンクスを思い出すのは嫌だなぁ……)
今は覚悟を決めているが、疲れて帰ってきたときにそのことを思い出して、映像だとはいえ子犬に当たり散らすような真似はしたくない。結局芽衣子がARペットとして選んだのはジャンガリアンハムスターだった。ハムスターなら不愉快なジンクスは聞かないと思ってのことだ。
最初は「やっぱり犬の方が……」と思っていたが、始めてみるとこれがなかなか愛らしい。特に身体を伸ばして寝そべっている様子はいつまでも見ていられる。
この日もいつものようにAR眼鏡をコンセントに繋ぎ、電源を入れる。この眼鏡がそこそこの重量があることと起動まで数分かかることが数少ない不満点だった。最新機種について調べたらどちらも改善されているらしく、芽衣子は真剣に購入を検討している。
ソフトウェアのオープニング映像を飛ばして、セーブデータのひとつを選択するとしばらくしてから自室の床にハムスターが現れた。後ろ足で立ち、周囲をキョロキョロと見回している。
芽衣子は思わず口元が緩む。眼鏡の視界内に映るように右手を差し出すと、ハムスターがそれに気付いた動作をしてすり寄ってくる。手のひらの上に飛び移ってけづくろいを始めた。AR眼鏡のつる部分に内蔵されたスピーカーからシュッシュッと音がする。本当にそこにいるような気がして、思わず撫でようとすると左手がハムスターをすり抜けた。
分かっていたはずのことなのにがっかりした。ハムスターは左手を伝い、その上でこちらを向いて首をかしげている。その可愛らしい仕草を見て、芽衣子は苦笑した。がっかりしているはずなのに確かに癒されている自分がいた。
仕事の帰り、電車の中でふと思い立って『ARペットフレンズ』について検索してみた。公式サイトの次に攻略wikiなるウェブサイトがあった。ペットと戯れるだけのゲームに攻略もなにもないだろうと思いつつ、そのページへと移る。
調べてみるとどうやら隠し要素が動物の種類ごとに用意されているらしく、ハムスターの場合は何か円形の物を回すとその中を回し車に見立てて走って遊ぶらしい。
駅のそばにあるペットショップでハムスター用の回し車を500円で購入し、試してみると本当に遊び始めた。カラカラカラカラッと言う音がする。回転が弱まってくると身体をべろーんと伸ばして車輪と一緒に回っている。その様子が可笑しくて笑ってしまったが、あんなにぐるぐるしておいて目が回らないのだろうか?
先の攻略サイトには他にも様々な情報が載っていた。
例えば藁のような寝床を用意してあげると眠ったり、あくびのような動きをするようになる。また餌入れや水のみ場を用意してあげると飲食の動作をするようになるのだ。
勿論それらの動きはゲームの機能として用意されているのでAR眼鏡の操作ボタンからいつでも見ることが出来るのだが、リアリティを求めるユーザーのために本物の飼育セットを用意するとそれに即した動作をするように作成されていた。
芽衣子はいつしかハムスターに自分と同じ時間に食事をさせ、床につかせるようになっていた。チェリーという名前を与え、本物のケージセットを用意し、この小さな同居人が消えてしまわないようにAR眼鏡の電源は外出中もつけっぱなしにしておくようになった。眠るときも身に付けている。一日の終わりに照明を落として布団に入るとチェリーもカサカサと音を立てて藁の寝床に潜り込む。
「おやすみ」
そう声をかけると、答えるように藁の擦れる音がした。芽衣子は満足したように微笑んで眠りについた。
***
ある日も同じようにチェリーと遊んでいると、突然ぶつっと音がして部屋が真っ暗になった。
停電だ。ゆっくりと立ち上がってブレーカーの元へと歩いていく。
「ごめんね、チェリー。怖くないからね」
そう声をかけるとケージの中で藁が擦れる音がした。怯えているに違いない。可愛いやつめ、と思いながらブレーカーを上げると眼鏡が再起動して『ARペットフレンズ』のオープニング映像が流れ始めた。
眼鏡を外し、恐る恐るケージを退かすとちょうど隠れるように壁に数センチの穴が空いていた。そこから毎晩聞いていたのと同じ音がする。
カサカサ。
カサカサ。
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