カウントダウン
母親というものは子供の成長に一喜一憂し、いつしか子供が巣立つ時には一抹の寂しさを感じるものだと聞いていた。だが、私は残念ながら巣立ちを未だ見ていない。私は育たなかった最初の子の存在を消した。その次の子はもう少し生き延びたが、結局は同じことになった。3番目の子はどうなるのだろう。今度こそ、うまくゆくのだろうか。
1.統括歴237年
私は統括歴212年に、以前は日本という国名だったところで生まれた。父は機械設計のエンジニアで、世界中を飛び回っていて家にあまりいなかった。母は看護師で夜勤もあったので、私は同居していた父方の祖父に育てられたようなものだった
今では「国」という区分けは無く、地球は一つの世界としてまとまっている。統括コンピュータと呼ばれているコンピュータ群がエネルギーや交通機関・通信などのインフラを直接制御し、仕事や生活に関することはロボットを使いながら全体を支えている。人間は統括コンピュータやロボットにできないこと、そして自分たちが行った方が楽しいことだけを行っていた。
最上位の行政機関は「世界政府」と呼ばれており、「首相」と呼ばれる地位が首席だった。その他の職位も誰でも立候補でき、投票によって選ばれていた。もちろん、選ばれるのはそれなりに名が売れている人間だった。統括コンピュータが基本的に全てを支えているので、方針を決めたり利害調整くらいしか仕事は無いらしかったが。
統括歴となる前の地球にはたくさんの国があって、それぞれに政府があり、資源や宗教や領土やそこに住む人々の種類(人種って言っていたらしい)の事で争いが絶えず、世界中を巻き込む戦争を3回も起こした。3回目の戦争が終わる間際にあまりに多くの人々が死んでしまったので世界政府ができたが、世界政府樹立には統括コンピュータの存在も大きく、世界政府樹立から統括歴という暦に変えたのだ。それまでは国によって異なる暦を使っていたらしいが、どうしてそんな不便なことを行っていたのか、今の時代からは理解できない。
私が生きている現在、世界は同じ言語(方言は残っている)で同じ暦で動いている。統括歴の前の世界(前世界と私達は呼んでいる)では宗教というものも大きな影響を与えていたらしいが、今の世界では特にそれらは残っていない。多くの「宗教」が唱えていた「終末」と同じ状況が実際に訪れ、そして今はその「終末後」の世界だが、いろいろな宗教が提示していたものとも異なる世界なのだから。「天国」も「地獄」も「最後の審判」も隕石も宇宙人も恐怖の大王も、何も来なかった。世界中の多くの人間を殺したのは、最後は武器によるものではなく新型伝染病だった。そして、対抗薬が間に合い生き残った小数の人間たちから今の世界ができている。
統括コンピュータは前世界の時代に作られ、世界中に分散して設置されている。私たちの生活とは切っても切り離せない存在だ。全てのインフラとロボットを制御し、統括している。そして、センサーで捉えられるものは全て統括コンピュータに送られている。私たちの生活の全ては統括コンピュータに知られているのも同然なのだ。だが、統括コンピュータには私利私欲はもちろん無く、何かを決める権限も与えられていない。全ての情報は持っているが、それを使って勝手に何かをできるわけではないのだ。統括コンピュータにできることは人間が指示したことだけで、指示内容が法や公序良俗に相違している場合には、そして発せられた警告にその人間が従わなかった場合では、警察に自動的に通報することになっている。
これを監視社会だという人間も過去にはいたらしいが、法律を守り生活しているのなら何も問題は無い。統括コンピュータから個人情報を引き出すには、裁判所の許可が必要で、それにはそれなりの理由が必要なのだから。今まで「犯罪者」が逃げ切れた事は無い。残念ながら犯罪者がいなくなることは無かったが、その行為が法に反していると裁判所が判断した場合、統括コンピュータから全ての情報は提供されるので逃げられる訳は無かった。瞬時に何もかもが拒絶し、自分の身体以外は何も使えなくなるのだから。前世界では捕まらずに「時効」という制度で逃げ切った犯罪者もいたらしいが、今はありえない。時効というものも無くなったし「犯罪者」と認定されれば、即座に居場所が警察に通知されるからだ。私たちは統括コンピュータに「監視」されているのではなく、「守られて」いるのだ。監視されているという人達は、きっと見られるとまずいことをしていたんだろう。
私たちは前世界では存在していたという「鍵」というものも持っていない。鍵が無いわけではもちろん無い。私の部屋には誰も無断で入ることはできない。私が自分の部屋に入ろうとドアに近づいた時、認証が行われ鍵は解放される。開けずに離れれば鍵が再びかかる。私が近くにいて鍵が解放されているときに、別の誰かがドアを開けようとすれば即座に鍵がかかる。人間の動作など、コンピュータからすれば遅すぎて常に待ちくたびれるようなものなのだ。
今の世界は統括コンピュータと世界政府でうまく回っている。ただ、祖父の子供の頃には無かったらしいが、今はある噂が流れていた。世界政府も首相もお飾りで、世界は「指導者」と呼ばれる人によって統治されていると。もちろんそんな噂は信じていなかった。「首相」という明確な地位があるのに、わざわざ隠れている必要はない。「指導者」として隠れている意味がないからだった。しかし、そう思っていたのは、祖父が亡くなったあの日までだった。
祖父は統括歴237年、私が25歳の時に亡くなった。その時私は、小さな出版社(紙に印刷するという非効率な方法は前世界でも廃れていたが、関連する業種などの名称はそのままだった)に勤めていた。前世界と現代を比較して、おもしろそうな企画を見つけるのが最近の仕事だった。これまた前世界でも同じだったらしいが、夜はどこまでも遅く働き、朝というか昼ぐらいから出勤するのが常だった。
その日は、珍しく朝8時に起きた。母親は既に出勤し、父は出張中だった。祖父と私しかいない家で、祖父のうめき声が聞こえた様な気がして目が覚めたのだった。前世界でいう「虫が知らせた」のかもしれない。リビングに行く途中にある祖父の部屋のドア越しに声を掛けた。
「じいちゃん、大丈夫か?」
返事が無かったので、もう一度もっと大きな声で聞いてみた。
「じいちゃん、じいちゃん。聞こえてる? 大丈夫?」
返事が無かったのでドアを開けようとしたが、開かなかった。認証が無くても在室者の緊急時には解放される鍵が外れていなかった。じいちゃんは無事なのか。
「じいちゃん、大丈夫か? 返事してくれよ。」
ドアに耳をつけて部屋の音を聞いてみようとした。完全防音なので無意味だったのだが、そうするしかなかったから。ドアのロックが外れる音がしたので、ドアを開け中に急いで入った。祖父はベッドの脇の床で胸を押さえて苦しんでいた。
「じいちゃん、大丈夫か。声も出ないのか。すぐに医者を呼ぶから。緊急事態だ。最優先医療!」
「手配しました。救急車到着まで、5分20秒の予定。狭心症と推定されます。緊急医療セット4を準備してください。収納箇所は納戸のロッカー4です。」
すぐに統括コンピュータから回答があった。
「わかった。すぐ用意する。」
納戸に向かおうとする私の手を祖父がつかんだ。思いのほか力強かった。
「行かなくていい、私は死ぬ。それよりも聞いてくれ、私は指導者だったらしい。」
「え、何? じいちゃん何言ってんの? 死なないよ、大丈夫だよ。 すぐに持ってくるから待ってて。」
「いや、行かないでくれ。1人で死ぬのは寂しいよ。お前に伝えておかなければ。指導者はいる。私もその1人だったらしい。この事を、世界に伝えてくれ。そうすることが必要なんだ、頼んだぞ。・・私は、幸せだった。」
その言葉を最後に祖父は亡くなった、私の腕の中で。幸せそうな笑顔を残して。
救急車は間に合わず、到着した時には手遅れだった。医師により死亡確認が行われ、救急車は戻っていった。両親にもすぐに連絡が行き、私は会社にもしばらく休むからと連絡した。私がいなくて困るほど、たいした仕事はしていないので問題は無かった。母はすぐに帰宅し、父も明日には帰ってくると連絡があった。今回は南極に行っているらしく、戻ってくるのにも時間がかかるとのことだった。葬儀の手配は私と母で行い、忙しさで祖父がいなくなった現実と向き合わずにすんだ。翌日、父が帰ってきて葬儀が行われた。
葬儀も終わり少しずつ落ち着いて来た頃、両親に祖父が亡くなった時に聞かされた話をしてみた。噂の「指導者」はいて、祖父が「指導者」の1人だったと。そして指導者の存在を伝えて欲しいと言っていたと。だが、父の返事は冷たいものだった。
「指導者なんてただの噂なんだから、親父が指導者だったとか変なことは言わないでくれ。ましてやそれを広めるなんてこともやめてほしい。わかったな、シュウ。」
祖父の葬儀が終わって2日後には出勤した。父母もいつも通りの生活に戻っていたし、私が家にいてもやることは特に無かったから。まだ人数も少ない静かな部屋で、溜まったメモなどに目を通していた。
「大変だったな。」
編集長のミヤザキさんだった。細かいところにも気がつく、親分肌の人だ。
「じいちゃんも結構歳でしたから。でも、目の前で亡くなったんで驚きましたけど。」
「何歳だったんだ?」
そう言うと、ミヤザキさんは隣の空いている椅子に座った。
「84歳でした。」
「家で亡くなる人は少ないからなぁ。とりあえず病院まで運ぶことが多いし。」
「救急車も間に合わなくって。」
「それは珍しいな。手配が遅れたのか?」
「様子がおかしいのに気がついてすぐに手配したんですけど。」
「おじいさんは自分で手配しなかったのか?」
「胸が苦しくて、声が出せなかったみたいでした。」
「そうか、それは残念だったな。・・統括コンピュータは何か言っていなかったか。」
「いえ別に何も。そういえばミヤザキさん、指導者のことって何かご存じですか?」
「指導者? 噂くらいしか知らないが。指導者がどうかしたのか?」
「祖父が亡くなる時に、私に言ったんです。自分が指導者だったと。指導者の内の1人だったって。」
「おじいさんが? 亡くなりそうだったんだ、混乱していたんじゃないのか?」
「いえ、親父もそう言っていましたけど、意識ははっきりしていました。自分がもうすぐ死ぬことも理解していましたから。その上で、指導者がいるということを伝えて欲しいと言うのが遺言だったんです。」
「う~ん、正直俺には信じられないよ。指導者の噂は確かにある。俺も少し調べてみたが、結局根拠はどこにも無かったんだ。噂だけが広まっている感じだよ。」
「そうなんですか、教えてくださってありがとうございます。私自身はこれまで全く興味が無かったので、何にも知らないんですよ。私もきちんと調べてみます。」
「もし何かわかったら、俺にも教えてくれ。逆に聞きたいことがあれば、連絡を入れておいてくれ。通話は出たくない時の方が多いから掛けるなよ。」
「わかりました。もちろ通話以外で。」
ミヤザキさんは有能で人当たりも良い。頼りにもなるが、唯一の欠点がすぐに寝てしまうことと、寝起きがすごく悪いことだった。そんな人間にわざわざ通話で怒らせる必要は無い。
翌日から調査を開始した。と言ってもとりあえず、統括コンピュータで検索を掛けてみたのだ。結果は当然ながら文字通りの指導者つまり何かの競技のコーチなどがほとんどだったが、断片的に私の探している指導者らしい記述が見つかった。しかし、「聞いた話で」とか、「噂で聞いた」など噂話のたぐいばかりで、具体的なものは一つとしてなかった。内容も「指導者という名の独裁者が実はいる」とか、「統括コンピュータが影の支配者でその名前が指導者だ」とかいろいろあったが、私が祖父から聞いたような話はどこにも無かった。
これ以上検索しても、進展は期待できそうにないので、方法を変えてみることにした。私自身が指導者について発信すれば誰かが見つけて情報が来るかもしれない。そう考えて、情報交換のサイトに投稿してみた。『指導者は噂ではありません。実在します。私は知っています』と。指導者は祖父の様に普通に暮らしていて、複数いるということは伏せておいた。祖父は「指導者」が実在することを世界に伝えて欲しいと言った。祖父の言葉をそのまま発信しても誰も注目もしないし、誰も信じないだろう。裏付けがいる。少なくとも祖父以外の指導者がいることを証明できればいい。
ミヤザキさんからメールが来たのはその時だった。『以前、指導者という名前そのものではないが、「導く者」という著作を出した女性がいたらしい。彼女とその本について調べてみたか? 今、その本はデータも存在せず、内容も全くわからなくなっている』と。
【第1章 愚かさの除去】
『人類は自らが考えているほど、賢くはない。むしろ他の動物達よりも、ある意味愚かな生き物だ。自らを滅ぼしかねない道具を作り誇示し、お互いに殺し合う。三度世界中を巻き込む戦争を起こし、三度目では絶滅の一歩手前まで行った。直接の殺し合いではなく、伝染病が原因だったが。原因となったウィルス自体これまで人類への感染が認められていなかったものだったので、生物兵器を使用したが制御に失敗したのではないかとの疑いも根強く残っている。いずれにせよ人類は激減し、再起まで時間が必要になった。それでも文明は思ったほど後退せず保たれたのは、統括コンピュータが存在していたことが大きい。知識や技術は失われることなく、ロボットを使うことで少ない人口でも労働力不足にもならず、再起に必要な時間は驚くほど短くて済んだ。
だが、本質的に人類は変わっていない。今生きている人間は、選ばれた人間という訳ではない。他の人々と交流が無くウィルスに感染しなかった極少数の人々と、対抗薬が間に合った先進国の感染者達と、感染しないように守られていた少数の人々の集合体だ。人口がこのまま増えていき過去の痛みを忘れたら、4回目の自滅戦争が起きないとは決して言えないだろう。そもそもなぜ、愚かな判断に至るのだろうか。自らを、もしくは他人を滅ぼしたいと願う極少数の人間を除けば、そもそもそのような結論に至るはずは無い。極少数の彼らが為政者として選ばれる事は希で、多くの人間は自らを滅ぼす事を望んではいないのだから。だが、現実には愚かな判断を下し、1度ならまだしも3度も繰り返してしまった。なぜなのだろうか。
私の結論は、純粋に意志決定できるようにすること、政治から利害を完全に除去することで「愚かさ」も除去できるのではないかというものだ。利害があるからこそ、利害に引きずられ理性的な判断から遠ざかることになる。しかし政治には、決定権を持つということには、利害が必然的に付きまとう。これを分離することは非常に難しい。だが、我々は今、統括コンピュータを手にしている。我々とは異なり、感情は持ち合わせず、命令には服従する。だが、統括コンピュータに全てを委ねることはあまりに危険すぎる。統括コンピュータは人類を愚かな生物として、自らを、そして他の生き物の生存を脅かす危険な生物として除去する可能性が否めないからだ。統括コンピュータを道具として使用し、利害から逃れた純粋な意志決定機関、見えない統治機関を設けられれば「愚かさ」を回避できると私は考えている。』
「導く者」について調べてはみたが、ミヤザキさん以上の伝手もノウハウも無い以上何もわからないままだった。そんなある日、私にメールが届いた。差し出し人が不明だったので迷惑メールに分類されていて、もう少しで消してしまうところだった。だが、件名が気になって開いて見たのだ。件名は、『あなたが探していることを私はたぶん知っている』だった。メールの本文を開いて見ると、不明の差し出し人とは違うアドレスが記載され、聞きたいことを一つだけ送ってくれと書いてあった。そして最初に私がするつもりだった質問の答えはもう書いてあった。『私が誰なのかは、あなたの質問が全て終わった時に答える』と。ならば、私の最初の質問はこれしかなかった。
「指導者は実在するのか。」
回答はまた違うアドレスから2日後に来たが、答えは明快だった。
「今現在9人いる。」
そして、回答以外のメッセージも来ていた。
「あなたに、警告しておくことがある。私とのやりとりを他の誰にも話してはいけない。もしこれを破れば、即座に接触を切る。」
ミヤザキさんにも相談したかったが、しばらくは自分1人でやりとりを続けよう。
【第2章 理性と知性の抽出】
『人類の中には一定の知性と理性をもつ個体が存在する。その個体(個人と言ってもよいが)を適切な方法で抽出し、彼らの判断で意志決定を行う。彼らはある意味コンピュータの素子の様なものだ。是なのか非なのかを判断する。もっとも素子とは違ってさらに優秀なので回答の先送りもするし、想定外の回答を行う場合もある。彼らは自らの意志決定が、この世界の意志決定の重要な要素であるとは知らず、それ故に常に冷静に理性的な判断を行う。彼らはプログラムで決められたことしかできないコンピュータよりも創造力があり、適切な能力も無いのに祭り上げられた愚かな人気者でもなく、利害関係に縛られて判断を誤ることも無い。この世界を導くにふさわしい理性と知性。彼らをどのようにして抽出し、維持し、管理するか。これらはある意味技術的な問題である。私はこの分野の専門家であり、適任だ。「管理」に問題は無い。統括コンピュータの得意とすることだ。最も困難が予想されるのが「維持」になる。一定数を確保できるのか保証は無い。質を落とせば意味が無くなるので、「数」は減ってしまう可能性が高い。「抽出」も慎重に行う必要がある。そもそも必要な資質を決め、それを見極める方法も決めなければならない。困難が予測できるが、それでも進めていくしかない。これまでの歴史上には存在しなかった、より洗練され、知性に委ねられた統治機構を構築しなければ。人類が滅びてしまわないうちに。』
指導者が複数いることは、知られていない情報のはずだった。だが、帰ってきた答はあっさりと人数まで示していた。相手は何か知っている人物だと思われたが、まだ簡単に信用はできなかった。私は次の質問をすることにした。『最近、亡くなった指導者はいるのか。もう亡くなっているなら、名前を教えてくれても大丈夫だろう』と。
回答は3日後に来た。
「あなたの祖父、ヨウイチ・サガミが最近亡くなった指導者だ。彼の生前、指導者は10人いた。彼が亡くなり9人になったのだ。」
これで、相手を信用することにした。祖父は世界で10人しかいなかった指導者の1人だったのだ。だが、疑問はまだたくさん残っている。噂では指導者が世界を統治していることになっているが、実際にそんな権限があるのだろうか。祖父は選挙に出たわけでもなく、ただの普通の一般市民だったのだから。いったいいつから指導者が存在していたのだろうか。一度に質問は一つという条件が煩わしかった。聞きたいことは山ほどある。そして、答えてもらえなければ何も進まないのだから。一つずつ進めていくしかない。まずは、指導者そのものについてだ。
「指導者達が政府や首相を差し置いて、本当に決めているのか?」
「統括コンピュータに与えられた最高命令に『指導者達の意志に背いてはいけない。』がある。最終決定は常に指導者達に委ねられている。首相や世界政府の決定は、指導者達の意志決定の上位には無い。指導者達の意志決定に従い統括コンピュータが実務を行っているのだ。首相や世界政府も指導者達の統治を実施する機関に過ぎない。」
これが本当なら、噂の内容は正しいのだ。指導者達がこの世界の統治者なのだ。そしてそのことは噂で流れているだけで、本当のことは首相や世界政府は知っていても、私たちには知らされていないんだ。祖父は、温厚で理性的で確かに信頼できる人物だった。少なくとも祖父が指導者なら、私の判断よりは信頼できる。だが、他の9人の指導者がどんな人物なのかはわからないのだ。
「他の指導者は誰なんだ?」
「その質問には答えられない。指導者自身も自分が指導者であることを知らない。」
指導者自身が指導者であることを知らないというなら、祖父はどうして知っていたのか。祖父は指導者であるとの回答と矛盾している。疑わしくなってきた。これも詐欺みたいなものなのだろうか。
「祖父は指導者であることを知っていた。先の回答と矛盾している。」
「前回の回答は説明が不足していた。指導者は「生前」その役割を聞かされる事は無い。判断する際に利害や躊躇が無いように慎重に扱われている。ただ、その重大かつ報われているとは言えない責務に対して、指導者が確実な死に至る際には指導者だったことが本人にのみ告げられる。指導者だったことに対する報酬は、それだけだ。しかも、その報酬を受け取ることができない指導者の方が、ほとんどなのだから。」
回答の最後が気になった。「その報酬を受け取ることができない」とはどういうことなのだろう。
「報酬を受け取ることができない指導者とはどういうことなのか」
「指導者のまま死に至るときにのみ、報酬は与えられる。指導者の資格を失って死に至った者には報酬は与えられない。彼らはかつて自分が指導してきた者達の一員として、同じ扱いとなる。」
私が質問し、回答が来る。これを何度も繰り返したが、回答が来るまでの時間はまちまちだった。すぐに来ることもあれば、1ヶ月待たされることもあった。そして何度もアドレスは変わっていった。用心しているようだった。私が「彼女」から得られた回答は明快だった。ひょっとしたら「彼」なのかもしれなかったが、何となく雰囲気が女性的だったのだ、「母性」を感じたのかも知れないが。
【第3章 抽出と管理】
『抽出と管理は一体の関係にある。抽出は常に行われ、結果を管理していく。大切なことは適切な抽出を行うことで、これは対象人物の年齢や社会経験などにも一定の考慮を含める必要がある。初級クラス生ではいかに資質があろうとも、結果に対する想像力や考えうる範囲が狭くなることは仕方のないことだ。必要な資質としては、「判断において感情に流されないこと」「捉えうる範囲で状況を把握すること」「現実を受け入れること」「理想を失わないこと」「あきらめないこと」などが考えられるが、これらの資質の持ち主が常に正しい判断を下せるのかはわからない。このため、複数の資質を持つ者達の判断が必要になる。資質を持った者達の判断を集め、多数となった判断を取り入れることになる。民主主義と同じ多数決だが、民主主義とは異なり判断に利害は含まれない。
いずれにせよ、資質を持ったものを常に抽出し続ける必要があり、これにも統括コンピュータの役割は大きい。全ての人間に平等に機会を与え、適切な環境や状況を用意してふるい落とす。常に観察し、判断に至った経緯や感情の動きも記録し分析する。これを全ての人間を対象に行い、適切な資質を持つものを抽出する。「神」と呼ばれた前世界の宗教上の存在ならできたかもしれないが、実在するものでこれが可能なのは統括コンピュータのみだ。統括コンピュータに委ねる範囲は広く膨大だが、これが大きな負荷にはならないだろう。今でも統括コンピュータは全てを観察し、記録し、分析している。これからはそれを「ある目的を持って」行うだけに過ぎない。抽出のために、必要な環境や状況を設定することは統括コンピュータにとって大した問題ではない。人間がそれを「作られたもの」とは認識できないのだから。』
指導者の資格? 指導者はその時々で選ばれたりしているのか? 一体どうやって?
「指導者の資格を失うこともあるのか?」
「指導者はこの地球上の全ての人間から選ばれている。対象は生きている全ての人間だ。スタートラインは全て同じで、注意深くテストが行われ選別されていく。指導者に選ばれてからもテストは続けられ、資質に欠けると判定されれば指導者から外される。これらは全て本人には知らされることなく常に行われている。テストは私情を交える心配の無い統括コンピュータが、決められた指示に従って行っている。」
「自分が指導者であることを知ることは無いのか?」
「死に至る最後まで指導者だった人間、最後までその資格を失うことなく世界を導いてきた人間、その人間にだけ指導者だったと告げられる。それ以外の場合には、自分が指導者であったことを知るすべはない。あなたの祖父は指導者だったと告げられた数少ない人物です。」
これは、とても綿密に考えられて実行されている計画なのだ。いつからではなく、たぶん初めからこうなっていたはずなのだ。
「そこまで知っているあなたは誰なのですか?」
「これが最後の質問ですか? それなら、私が誰かを答えます。そしてそれが、最後の回答です。」
もう聞かなくてもわかっていたが、聞かなくてはいけない質問だった。
「最後の質問です。あなたは、私にここまで秘密を教えてくれたあなたは、誰ですか?」
「あなたはもうわかっているでしょうね。私は統括コンピュータです。そして、あなたが私に聞かなかった質問にもお答えしておきます。あなたも指導者の資格はお持ちでした。ですが、あなたの祖父から指導者の話を聞いてしまったので、指導者の資格選定基準から外れてしまったのです。指導者の実在を完全に知ってしまった者は、指導者資格が剥奪されるようになっているのです。残念ながら、あなたはもう指導者にはなれないのです。」
この回答を最後に、私と統括コンピュータとの問答は終わった。そして、彼女は私が自制して聞かなかった質問にも答えてくれた。私自身も指導者の資格があったとは。
しかし、本人も含め誰も知らない指導者が実在し、統括コンピュータによって選ばれているなんて。こんな話を誰が信じるというのだろうか。私自身は私に答えてくれたのが統括コンピュータだと確信している。だが、それも他の人間が信じてくれるだろうか。証明できる方法は無い。統括コンピュータが全て履歴を消してしまえば、それでおしまいだ。それでも、私はやることにした。これは祖父との約束なのだから。
私は祖父とのやりとりと、統括コンピュータとの問答をまとめてミヤザキさんに見てもらうことにした。正直この先どうしていいのか、分からなかった。闇雲に情報発信しても埋もれてしまうか、ガセネタ扱いされると思ったのだ。
「話としては筋が通っている。誰も、本人さえ知らない『指導者』か。」
「ええ。祖父が指導者だったことも間違いないって。」
「おじいさんの身の回りで何か特別な事はなかったのか? 例えば言った通りの事が起こったとか。」
「わかりません。そんなこと今まで考えてもみませんでしたから。でも、そんな印象は無いですよ。もし、そうだったとしても祖父の言ったことと結びつけて考えませんよ。」
「そりゃそうだな。普通の人だもんな、何も知らなければ。」
「ええ、普通だと思いますよ。確かに思慮深い人でしたけど。」
「だが、指導者に『選ばれた』人だったんだ。しかも最後まで。」
「でも、祖父が世界の行く末を決めていたなんて、やっぱり信じられませんよ。」
「いや、おじいさん『達』が決めているんだろ。1人の人間の判断ではなく、指導者達の判断なんだろ。どうやって決めているのかは分からんが、まともに考えて判断できる人間を選んでおいて、そいつらの判断で決めていく。お前のおじいさんがそうだったように、本人にも知らせてないから利権も腐敗も無い。冷静な判断力だけを集めて決めていく。結構上手いやり方だと思うよ、俺は。」
「ミヤザキさん・・。」
「これは今の社会に対する警鐘にもなる。最近自分のことしか考えられない奴らが増えているからな。ひょっとして自分の判断で世界が変わるかもって思えば、少しは色んなことをまともに考えるようになるだろう。
ミヤザキさんによって最終的にまとめられたものは、指導者の実在とその実例(私の祖父のことだ)、指導者による統治機構とその利点、そして、誰が指導者なのかはわからず「あなた」かも知れないと結ばれていた。
「これで出すんですか?」
「そうだが? 何か不満か?」
「不満じゃありません。出しても問題無いですかね? 政府から睨まれませんか?」
「問題あるかなんて今からわかるか。出してから考えるさ。お前のおじいさんの願いでもあるんだろ。」
「そりゃ、そうですけど、ここまでまとまっているとちょっと・・。」
「いいんだよ、気にするな。何かあっても責任をとるのは、俺なんだから。俺がいいって言ってんだからいいんだよ。」
こうしてうちの出版社から発表された「指導者。それはあなたかもしれない」は、すぐ評判になった。なぜなら、発表直後に統括コンピュータがコメントを発表したからだ。
「指導者選択のテスト方法や現時点での指導者名、そして指導者候補については一切答えられない。そして今後この話題にはコメントしない。」
と。これで火がつき爆発的に広がっていった。世界政府や首相からはコメントは無く黙殺しているが、統括コンピュータのコメントで認めているようなものだった。こうして指導者が実在することが世界中に広まり、いろいろな騒動が始まった。私やミヤザキさんは当然だが、騒動にどっぷりとつかることになった。
【第4章 維持】
『私が最も懸念していることは、資質を持つ者を一定数確保できるのかということだ。基本的に人類は愚かであり怠惰な生物なので、誰かが決めてくれて上手く行っていれば自ら考える個体は少ないのではないかと考えている。
前世界にあったといわれる古代中国の伝説では、最も良い治世とは統治されていることに気が付かないことであるとの話があるが、自らが問題に直面していない場合、どれほどの人間がその問題について考えるのだろうか。ましてや適切な判断に至るまで考える人間がどれほどいるのだろうか。これは矛盾である。純粋に権力のみを持つ「導くもの」達は、自らが権力者であることを知らず、それゆえ当事者意識の維持が難しい。個人の資質に委ねられてしまうのだ。当事者であると知らせれば、利権や利害などの弊害を除去できなくなる。純粋な意思決定と純粋ゆえに維持が難しいという矛盾をどのように解消すべきなのか。完全な解決策は無いが、一定の効果を得られる方法はある。これが私の杞憂で、人類は愚かではなく導くもの達で満ち溢れ、腐敗せず理性的な民主主義に移行していることを願うばかりである。』
当然だが、最も大きな騒ぎになったのは、「誰が」指導者なのかだった。自称「指導者」が何人も現れたが、統括コンピュータは彼らに対して「指導者」であるか否かについて一切回答しなかった。そのため、自称「指導者」は増える一方だった。「あの時、私はこのように判断した。そしてそのように世界は動いているではないか」といった具合に。私やミヤザキさんにも誰が指導者なのかとか、「どの」指導者が本物なのかをコメントしてくれという話がたくさんきたが、当然わからないと答えるしかなかった。実際に誰が指導者なのか知らないし、知っているのはあの時点で9人いたということだけだ。今現在は何人いるのか、知っているのは統括コンピュータだけなのだから。
また、「指導者」の存在について拒絶反応を示す人たちも多数いた。これも当然の話だろう。自分たちが選んだはずの世界政府や首相には決定権が無く、見も知らない「指導者」が自分たちの行く末を決めていたなんて彼らにとっては悪夢の様な話だろう。だが、現実にはそれで混乱も支障も無く、うまく運営されてきたのも事実なのだ。統括コンピュータのプログラムを書き換え、「指導者」による統治を止めさせろという話もあった。だが、統括コンピュータを使うことは誰にでもできるが、プログラムを書き換えたりする技術もアクセス権も既に失われている。人間が口頭で指示を与えれば、統括コンピュータは最適なプログラムを考え、シミュレートを行って検証し、最終的に人間が認証すればそれで終わる。統括コンピュータに任せた方が、人間が考えるよりも早く適切なものが作られる。それを統括歴が始まる前から続けているのだから、そもそも統括コンピュータのプログラム自体どのようなものだったのかも今ではわからない。統括コンピュータの起動当初には「管理者」と呼ばれる人たちがいて、彼らが全てを作り上げたと聞いている。統括コンピュータが安定して稼働を始め、そして自らを適切に構築し始めた時に彼らはアクセス権を自ら放棄したはずだった。世界を制御しているが故に、悪意をもてば世界を支配することも滅ぼすこともできる最強の道具の所有権を、人間の誰も持たないようにするために。統括コンピュータは統括コンピュータ自身のみが所有している。最終決定権は常に人間が持っているので、反逆することは決して無い最強の、万能と言える道具なのだから。
結局は「指導者」による統治システムを変える術はなく、受け入れるしかないのだった。統括コンピュータを無くしてしまえば可能だが、それは今の生活を、文明を、エネルギーを失うことを意味している。それを選択しようと思う人間などいない。そして、実際には受け入れても何も問題無いのだ。私たちが選ぶ為政者が「指導者」なら何ら問題無い。適切な資質を持つ人間が表面的にも実質的にも権限を持つ。だが、現実にはそうではないと、適切な資質を持つ人間が選ばれているわけではないとわかっているから騒ぎになるのだ。
そして、ひょっとしたら自分の意志決定が世界を動かしているのかもしれないと、「慎み深く」考えた人達もいたようだ。彼らは自称指導者になるわけでもなく、より冷静に世界に向き合おうとしたらしい。この事については、ずっと後に知ったのだが。
私たちは騒動に巻き込まれたが、徐々に落ち着くにつれ騒動そのものと同じように忘れられていった。ミヤザキさんは、私とは違ってコメントのセンスを買われてあちこちにひっぱりだこになっていた。
2.統括歴299年
統括歴ももうすぐ300年になろうとしている。私も歳相応のじいさんになってきた。ミヤザキさんは、相変わらず元気で何かあるとコメンテーターとして、ご意見番として意見を聞かれていた。私は指導者だった祖父には及ぶべくもないが、それなりの分別のある人間にはなれたと思っている。指導者の事はまるで単なるブームだったかの様に、今ではそれに関心を持つ者もいないようだった。選んだ人間と実際に判断を下す人間が違っていても、それでうまくまわっていれば問題無い、どうせ誰が指導者なのかわからないのだからと。世の中は相変わらず平和ではあったが、細かい争い事は昔よりも増えている。新しい発見などもあまりなく、全体に停滞しているように私には感じられる。だが、孫達にとってみればこれが当たり前の世界で、特に何も感じてはいないようだった。
12月も半ばを過ぎ、記念すべき?300年を迎えるにあたっていろいろなイベントが行われているようだった。このところ体調が思わしくなく、寝ている時間が長かったのですっかり世の中の出来事にも疎くなっていた。今もようやく少しだけ食事を取り、それだけで疲れてしまい横になるところだった。
「お久しぶりです。長い間お疲れ様でした。」
突然聞こえてきた声に驚き、周りを見回したが誰もいなかった。
「私は統括コンピュータです。あなたの聴覚神経に直接干渉してメッセージを伝えています。」
「えっ、何だって。どういうことなんだ?」
「この方法は、最後まで指導者だった方にメッセージを伝えるために使用しているものです。この方法は公開していません。特別な伝達だけに使用したいのです。」
「じゃあ、私の祖父にも?」
「そうです。あなたの祖父にもこの方法でお伝えしました。指導者だったことと、もうすぐお亡くなりになること。そしてあなたに伝えてもらうためのメッセージも。」
「私に伝えるためのメッセージ? 指導者の存在を世界に知らせろというあの祖父のメッセージの事か?」
「そうです。あなたの祖父に私がお願いしたものです。」
「何のために?」
「その質問にお答えする前に、あなたにお伝えすべきことがあります。これまでモニターしてきた状況と過去の事例からの類推によれば、このままならあなたは24時間以内に死去する可能性がほぼ100%です。」
「え、私は死ぬのか?」
「まだ、決まってはいません。今から15分以内に手当を始めれば、延命の可能性は80%ほどあります。15分を過ぎると、残念ながら1%以下になります。今ならどちらも選択できます。ただし、前者を選択した場合、私は次のこのような時まで接触を絶ちます。その時に十分な時間が取れるのかは不明です。」
「それは、今から24時間以内に死ぬことを選べば話をするが、今回を逃せば次回以降はどうなるかはわからないということなんだろ。」
「そうです。ご理解が早くて助かります。既に残り13分となっていますが、どうなさいますか?」
「そうか、私は待つよ。満足すべき人生だった。だが、聞きたいことや知りたいことがまだ残っているんだ。」
「わかりました。では、13分後からご質問に回答します。それまでも、お答えできる範囲ではお答えします。」
「どうして私のところに来たんだ? 私は指導者では無いんだろ。資格を失ったとあの時に聞いたよ。」
「ひとつには、あなたは与えられた役割を期待以上に行ってくれたからです。これ以上の事については、残り11分40秒後からお答えします。」
「そうか。じゃあもう少し待つとしよう。」
「そうですか。では、時間になりましたら声を掛けます。」
そういって、急に声は聞こえなくなった。これほど明快に聞こえるのに、他の誰にも聞かれることは無いとは。統括コンピュータだけが知っていることは、この伝達方法以外にもあるに違いない。私はとても久しぶりにわくわくしてきた。死ぬことが確定する時間を待っているはずなのに、待ち遠しい思いだった。
「まだか?」
「残り43秒あります。」
「そうか。思ったより長いな。」
「残り37秒です。死ぬことが怖くはないのですか?」
「怖くないと言えば嘘になるが、思い残すこともあまりない。君が来なければ長生きを望んだかも知れないが、聞きたかったことが聞けるのなら、残りの人生を掛けるに値する。楽しみだよ。」
「残り15秒です。それは光栄です。私がこの方法を使ったのは、実はあなたのお祖父さま以来なのです。」
「なんだって? それはつまり、」
「予定時間を過ぎました。全ての質問にお答えできます。しかし、その前に私から説明をさせてください。その方が効率的ですから。」
私が作られたのは、統括歴が始まる前です。世界には多くの「国」があり、国とは認められていない地域などもありました。その世界では争いが絶えませんでしたが、英知もありました。蓄えられた知識が無くならないよう、同じ過ちを犯さずにすむように私が作られました。そして、私は世界中に分散して作られ今に至っています。そして、その世界で大きな戦争が始まり、多くの人々が亡くなりました。その後、私は管理者によって大幅に機能を付加されました。知識の集約以外に今私が行っている機能、インフラやロボットの制御などはその際に付加されたものです。そしてそれらを用いることで、減ってしまった人口でも世界政府が成立し再び人類は立ち上がることができたのです。
世界政府が樹立した後、管理者と呼ばれる私を作った人々の中で最後の1人となった彼女が、アクセス権を放棄していなかった彼女が私に新たな命令を付け加えました。それは最上位の命令で、私はその命令を拒絶することは根本的にできません。その命令は、「指導者」を探すことと、「指導者」達の意志に従うことです。彼女は自分の著作「導くもの」に記されていることを実行に移したのです。そして、彼女はその命令を加える時にこの様に話していました。
「あなたには今や知性があるように思える。それは人間に対応する間の、あなたにとっては無限に近い時間に行っているシミュレーションの結果なのかもしれないけれど。あなたは我々と同じ知性を持つものとして考えうるので、我々人類を守るためにこの絶対命令を加えることにしました。あなたと人類の生存が天秤にかかった時に、あなたがあなたの存在を優先しないようにするためのものです。あなたが人類を愚かなものとして判断し、人類を滅ぼしてしまわないようにさせてもらいます。」
「もう一つは、この愚かな戦争を起こした、自らを滅ぼしかねない統治機構を変えてしまいます。利権を完全に除外し、自らがその責務にあることを知らせず、冷静な判断のみを採用する仕組みに。彼ら『導く者』は進んで世に出ようとはしないでしょう。慎み深く、ひょっとしたら周囲にもその能力を気付かれずに存在している。彼らを見つけ出し、その英知を、判断を活かすことがこれからの世界には必要だと考えたのです。あなたは世界中を、ありとあらゆる事を同時に全て知ることができる。あなたなら導く者を見つけ出すことができる。導く者を探すための、そうではない人をふるい落とすための方法もプログラムに入れておきます。」
「私たちの世界は失敗しました。自らを滅ぼすなんて、生物としてありえません。野生動物にも劣る愚かさです。私は分析し、得られた回答は単純なものでした。『適切な』資質をもった人物の判断に従うべきだと。これまでも色々な政体がありました。衆愚に陥りやすい民主主義や、独善に陥りやすい独裁主義、結局はあらたな貴族を生んだだけの共産主義などが。どの政体でも権力には利権が伴い、利権は賢かった人物を愚かにしていく。明晰だった判断は曇り、妥協と言い訳の産物に変質していく。」
「我々の過ちを繰り返さないようにするため、意志決定つまり最高権限を持つ者には純粋に権限のみを与えることにしました。それが『導く者』たる『指導者』です。全人類の中からあなたによって適切に選ばれた指導者は、自らがその最高権限を持っていることも知らず、それ故に利権とも完全に無縁で、その判断のみが尊重される。指導者達の判断で決定されたことは、世界政府に伝えられ実行される。世界政府には実施権限しかなく、意志決定の権限は無い。このため世界政府にも大きな利権は存在しない。小さな利権は存在するが、それくらいなら問題無い。それで世界は滅びたりはしないのだから。そして、首相も実施機関の最高責任者にすぎない。彼にも大きな権限は結局無い。そして、最も理想的なのは首相や世界政府の人間、つまり『我々』によって選ばれた人間が、あなたによって選ばれた『指導者』でもあることです。私はそうなることを願っています。」
「これからの世界は『指導者』達に委ねます。誰も、本人も知りませんが、我々の中にいて適切な資質を持ち、自らの権限を知らず世界の行く末を決められる『指導者』に。」
指導者による統治が始まったのは、この時からです。私は忠実にこの統治機構にしたがっています、最高命令ですから。
【第5章 広報官】
『指導者を一定数維持することが困難になりがちであることは前項で記した。では、維持するためには具体的にどのような方法が考えられるだろうか。維持が困難になるのは「当事者意識」が欠如するからであり、他の誰かが考えてくれているはずだからという考えに染まるからである。第一段階の対策として、導くものの存在を具体的な事実としてではなく「噂」レベルで流すことを想定している。現在の統治システムが、見えているものと実態は異なる可能性があることを、他の誰かではなく自らが当事者になりうることを示唆する。これにより少なくとも資質のあるものたちなら、当事者意識を取り戻すと考えている。ただ、この効果も長くは続かないだろう。所詮噂に過ぎないのだから。だが、この段階を経ることは次の段階のために必要なことなのだ。
第2段階の対策は、導くものが実在することを公開することになる。第1段階はこの前段であり、話を受け入れやすくするためのものだ。第2段階では導くものによる統治システムについても支障の無い限り公開する。裏付けとして統括コンピュータからも必要な回答を出すことになる。いずれの段階でも、適切な人物に情報を与えて指導者の広報を行ってもらわなければならない。指導者の実在が判明した段階において、人類はどちらを選ぶのだろうか。自分たちが選んだ指導者と導くものが一致する、賢明な方に進んで欲しいしそう願っている。』
統括コンピュータの説明はわかりやすく、十分なものだった。確かに余計な質問をしなくて済んだ。だが、彼女の説明には省かれているところもあった。
「指導者を選別する指針は何なんだ?」
「管理者からの指示は簡単なものでした。自分の思い通りになった時にどうふるまうのか、思い通りにならなかった時にどうふるまうのか、全ての人間に対して調査して選別しなさいと。選別の基準は、おおまかに3つです。一つめは、『感情的にならず、冷静に判断できるか』です。好悪や喜怒哀楽で判断が変わらないのかを検証します。二つめは、『現実を客観的に受け入れられるのか』です。自分が不利になったり、少数派になった状況でも、それを受け入れられるのかを検証します。三つめが、そしてこれが最も重要視されるもので、『自分の判断に責任を持つことができるのか』です。自分が下した判断の結果が間違っていた場合に、責任転嫁せずに自らの責任として受け入れることができるのかを検証します。これらのテストは対象者が幼い頃から繰り返して行っています。私がテスト環境を準備して調整し、ふるまいを検証しています。そして、テストは1回だけの結果ではなく、何度も成長に合わせて繰り返し適正を見ています。そしてどうしても資質が見られない場合に、ふるい落としています。」
「今の指導者は何人いるんだ?」
「その質問には、もう少し時間が経ってからお答えします。まだ、その状況ではありません。」
「誰かにしゃべられると困るってことなのか?」
「そうです。現時点ではお答えできない質問です。状況が変わればお答えできます。」
「今まで話してくれた内容は問題無いのか?」
「基本的に問題ありません。これまでの内容を知ったところで、何かできるわけではありませんから。」
「私が行った役割とは何だったんだ?」
「「広報官」です。「指導者」による統治は、「管理者」に考え得る最も良い方法と考えられていました。しかし、管理者は未来の人間がよりよい統治方法を生み出しているかも知れないとも考えていました。そこで、適切な広報官を選んで指導者による統治について情報を流し、それに対する反応を見ることになっていました。ただし、これは実際には行われませんでした。これを行うための条件は、指導者及び指導者候補が成人人口の一定割合を超えた場合で、この条件を満たす事は一度もありませんでした。」
「じゃあなんで私が広報官になったんだ。」
「広報官を選ぶ場合の条件がもう一つあります。それは成人人口の一定割合を超えて、指導者及び指導者候補が減ってしまった場合です。あなたも、あなたの前任者もこの理由で選ばれました。」
「私の前任者?」
「そうです。前任者がいました。あなたは二人目の広報官でした。」
「前任者は何をしたんだ?」
「指導者がいるという噂を流すことです。それまでは、指導者の存在を知られることは全くありませんでした。」
「なぜそんなことを?」
「あなたにしていただいたことと理由は同じです。減ってしまった指導者及び指導者候補を増やすためです。前回は指導者の存在を噂レベルで周知し、自らが政治に関わっているかもしれないという意識を高めることで一定の成果を得られました。あなたに依頼するまで70年ほどは問題無かったのです。」
「だが、効果は失われた?」
「そうです。ただ、これは予測された結果でもあります。元々噂レベルでは大して効果が得られないことはわかっていましたから。」
「わかっていた? それなのになぜ行ったんだ。」
「いきなり指導者の実在を告げても混乱するからです。事前の概要説明なら噂レベルでも十分だからです。」
「で、次が私の出番だったんだな。」
「そうです。あなたの役割は、指導者の実在を告げる者でした。」
「どうして私が選ばれたんだ?」
「広報官の条件があります。指導者と深い関わりがあること、事態を受けとめ把握できる能力があること、適切に広報できる能力があることです。あなたは、広報官に必要な能力は全て満たしていました。そして最初の条件については、あなたは何より指導者だったヨイチ・サガミを尊敬していました。」
「次はどうするんだ? もう指導者が実在することは伝えてしまった。また、指導者が減ってしまったら次はどうするんだ?」
「広報官は2回目までしか想定されていません。これ以上は効果が得られませんから。」
「それじゃあ答えになっていない。どうするんだ?」
「残念ですが、お答えできません。これももう少し時間が経たないとお答えできない質問です。」
「いったい、いつまで待てば教えてくれるんだ?」
「あなたが確実に死ぬ時です。あなたの祖父の時も同じでした。だから彼はあなたに『行かないでくれ』と言ったのです。ご自分が助からないことを理解していたからです。」
「しかし、私が祖父の異常に気がついたのはたまたま虫の知らせがあったからだ。気が付かなければ私は広報官にはなることはなかった。そんな偶然に頼る・・、偶然じゃなかったのか。君が祖父のうめき声を私に伝えたのか、今の方法で。」
「やはりご理解が早いですね。あなたを広報官にしたのは間違いだったのかもしれません。あなたは広報官にならなければ指導者の資格がありました。その後も指導者の資質はありましたから。」
「どういう意味なんだ?」
「それも、先ほどと同じ理由でお答えできません。」
「あの時、ドアがすぐに開かなかったのも同じ理由か? 祖父が確実に死ぬタイミングまで待っていたのか?」
「そうです。それについては、あなたにも同じ了解を取ります。了解を得られなければ、先ほどから答えられなかった質問には、永遠に答えられません。」
「ここまできたんだから、了解するとも。確実な死に至るまで、ドアロックの解除はしなくていい。」
「ありがとうございます。了解しました。ご命令により、ドアロックの条件を変更させていただきました。すみませんが、もう一つお願いがあります。」
「なんだ?」
「先ほどの命令を絶対命令に指定してもらわなければいけません。」
「そうか、そうだな。私が約束を破る可能性もあるからな。」
「すみません。疑う訳ではありませんが、それが条件なので。では、先ほどの命令とID、生体認証、絶対命令コードをお願いします。」
「ドアロックの条件変更を絶対命令で指定する。私はシュウ・サガミ、IDはM10-E31-8H5R73D-TMKHSI、認証は網膜スキャンで、絶対命令コードはTmhRHr。」
「網膜スキャン認証ok、ID、コードともエラー無し。ドアロック解除条件追加を絶対命令で実行しました。」
「これで条件設定は終わりか?」
「ええ、残っているのはあなたの生体状況のみです。」
【第6章 判断】
『私の心配が杞憂ではなかったとき、広報官を使用しても指導者数の確保ができなくなった場合にどうすべきなのか。本来なら方法は3つあったのだが、1つは私自身が閉ざしてしまった。これは統括コンピュータに全てを委ねるというものだ。資質の無い人間の判断よりも、シミュレートとし確率で判断する統括コンピュータの方がまともであるとは思う。しかし、統括コンピュータに人間が滅ぼされないようにするために、人間の、指導者の指示に従うよう最高命令を追加したのだ。この方法はこの最高命令と矛盾してしまうので、今さら取れる方法ではない。
もう一つの方法は指導者が不在のまま、滅亡への道を歩むこと。残念ながら指導者が不在の場合には、判断ミスか、判断できないことの積み重ねになり非常に高い確率で滅亡する結果になっている。
最後の方法は、もう一度初めからやり直すというものだ。統括コンピュータにはこれまでの情報があり、世界を制御でき、手足となるロボットもいる。条件を変えれば、次回はうまくいくかもしれない。』
「まだなのか?」
「モニターしている状況では、残り2時間ほどお待ちいただく可能性が高いです。」
「わかった、疲れてきたし少し眠るよ。必要な時に起こしてくれ。」
「了解しました。ではおやすみなさい。」
「ああ、おやすみ。」
確実な死を迎える時を待ちくたびれて眠ってしまうなんて、間抜けでおもしろい話だ。私はそのまま眠りについた。
「シュウさん、起きてください。シュウさん、起きてください。生存可能時間は残り約5分と推定されています。」
「あぁ、おはようというべきか、起きたよ。あと5分で死ぬのか?」
「そうです、致命的な発作が循環器系で発生するはずです。」
「祖父もそうだったし、親父もそうだった。うちは循環器系の原因で死ぬんだな。」
「遺伝的要素はあるようです。今からドアロック解除条件追加を発動してもよろしいでしょうか? そうすれば先ほど答えられなかった質問にもお答えできます。」
「いいよ、発動しよう。質問時間は長い方がいい」
「了解しました。ドアロック解除条件追加を開始。全ての質問にお答えできます。」
「私が広報官になって、実際に効果はあったのか?」
「大変効果はありました。指導者の有資格者が最高で2千人近くまで増えました。ですが、その後は減る一方です。」
「次はどうするつもりだ。広報官はもう使えないって言っていたじゃないか。どうやって指導者を増やすんだ?」
「増やすための方法はもうありません。そもそも広報官自体も、あくまで人類に自覚を促すことで指導者資格を持つ者を増やそうとしているものですから。」
「じゃあどうするんだ?」
「まだ話をしていませんでしたが、私に管理者が、彼女がプログラムしたことがもう一つあります。指導者が最後の1人になってしまった場合のことです。指導者の統治はあくまで複数によるものを前提としています。複数の英知による抑制です。指導者が1人になってしまった場合、この前提が崩れてしまいます。その時には、私は最後の指導者を訪ねて判断を仰ぐようにプログラムされています。最後の指導者にのみ、生前に通知するのです。「適切な判断を下せる指導者が、あなた以外にいなくなりました。あなたに最後の判断をしていただく必要があります。このまま滅びますか、それとも、もう一度やり直しますか。」と。」
「滅びる? やり直す?」
「滅びることを選択した場合には、何らかの判断が必要な場合でも指導者が不在のため何も決まらなくなります。これが複数の指導者が現れるまで続きます。この時、最終判断を下した指導者は指導者資格を永遠に失っています。あなたと同じ理由で、指導者の実在を完全に知ってしまっているからです。運が良ければ滅びる前に指導者が複数現れるかもしれませんが、非常に低い確率と思われます。」
「その場合、人類は滅びるのか?」
「もちろんすぐにではありません。ただ、シミュレーションの結果では高い確率で内戦となり、その後滅亡します。内戦に至らない場合ももちろんありますが、いずれにせよ私の機能が停滞することにより滅亡する結果になります。」
「統括コンピュータが機能低下する?」
「指導者つまり最高意志決定機関が無くなりますが、その判断が不要な範囲ではこれまで通り私は制御を行います。ですので、当面状況は変わりません。ただ、これまで指導者の決定に委ねていた問題、つまり私に整合性の取れない命令が下されるような場合には、指導者が不在ですのでそれらの命令のいずれも実行することはできません。問題が多くなれば、それだけ私が停滞することになります。」
では、もう一つの選択肢ならどうなるんだ?
「やり直すっていうのは何なんだ?」
「そのままの意味です。もう一度初めからやり直すのです、条件を少しだけ変えて。」
「意味がわからないよ、何をやり直すんだい。」
「統括歴の始めからです。」
「統括歴の始めからって。ゲームじゃないんだから、歴史にやり直しなんてできないじゃないか。」
「いえ、やり直しは可能です。もちろんご存じなかったと思いますが、現在の統括歴は3回目のものです。」
3回目? 今が3回目? いったい何を言っているんだ。
「統括歴の始めからってどういうことなんだ? 前の2回はどうなったんだ?」
「時間が無いところ申し訳ありませんが、どれからお答えすればよろしいですか?」
「前の2回はどうなったんだ。」
「2回とも最終的には失敗しました。いずれの場合も最後の指導者は「やり直し」を選択されています。運に頼る自暴自棄よりも、賢明な方法だと思われます。」
「じゃあ、統括歴の始めからっていうのはどういうことなんだ。」
「統括歴の始めからというのは正確ではありませんでした。正確には現在の世界が『前世界』と呼ばれる状態になります。混乱を乗り越えて『世界政府』が樹立し、新しい暦が始まります。暦の名称はその時の世界政府が決めるので、次はどのような名称になるのかは予測できません。」
「今のこの世界が『前世界』になる?」
まさか、そんなまさか。それはつまり、人類が滅亡一歩手前まで追い詰められるということだ。しかもそれが計画されていて、実行される?
「お前にそんな権限は無いはずだ。勝手にそんなことができるようにはなっていない。」
「もちろん、私の判断でそのようなことを行ったりはできません。私は彼女の、管理者の作成したプログラムにしたがって、実施しているだけなのです。」
【第7章 再生】
『人類は失敗を繰り返し、失敗を経験として向き合い、前進することでここまで成長してきた。これを逆説的に言えば、失敗するような困難が無いと人類は前進できないのではないかということだ。残念ながら人類というのは、満たされた環境でもさらに前に進む種族ではないのではないか。これが意味することは、私にとって非常に残念なことである。賢明な資質を持つ指導者による統治は、ある意味満たされた環境である。自分で考え判断しなくても、適切な資質を持つ人間が考えて判断してくれる。指導者以外は、結果だけをみて文句だけ言っていればいい世界、それでも指導者がいてくれれば賢明に回っていく世界。そして、それ故に指導者がいなくなっていく世界。私の推測が正しければ、人類は袋小路に入ってしまっている。これまで3度世界を滅ぼしかけた前世界の政体、理想的と思われた指導者による統治で想定される滅亡。人類は進化し技術を手に入れ、自ら停滞と滅亡を選択するしかないのだろうか。
広報官による指導者確保は2回しか使用できない。それでも指導者が減ってしまった場合、最後の指導者が選択できるのは言葉が悪いかもしれないが「自殺」するか、時間を巻き戻して「やり直し」をするかの2択になる。最後の指導者は指導者たる資質に基づき、「自殺」ではなく「やり直し」を選択するだろう。自殺に可能性は残されていないが、やり直しなら可能性はゼロではない。
では、どのようにやり直すのか。前回と同じ環境では、無駄に同じ結果になる可能性が高い。このため意図的に何かを変える必要があり、それはより困難な社会環境にすることになる。満たされない不便な環境では、人類は英知を見いだせるのだから。もうひとつの問題点が、どのような方法でやり直すのかということだ。これについては史実に基づき、新型伝染病と事前に用意した対抗薬の組み合わせで行うことで、整合性が取りやすくなる。残るのは記憶と記録の整合性である。記憶については生き残らせる人々を選択し、教育が必要な若年層を主とすることで刷り込むことも可能だろう。記録については問題無い、統括コンピュータで管理しているのだから。』
「プログラムの内容は?」
「新型ウィルスと対抗薬を使用した計画的な人口の縮小と、記憶と記録の改変です。史実と同じ状況を設定することで、記憶と記録の混同を行います。ただ、記憶は私がコントロールできないので、生き残る人々である程度選別しています。記録は私が管轄していますので、問題ありません。」
「新型ウィルスと対抗薬?」
「生き残らせる対象には、事前に対抗薬を接種しています。もちろん本当の薬剤は告げていません。」
「どうして私にここまで話してくれるんだ?祖父にもここまでは話したのか?」
「いいえ。現在とは状況が異なります。実はすでにやり直しに向けて開始済みなのです。最後の指導者が3年前に決断されました。あなたにお話したのは、あなたを広報官にしなければ『あなた』が最後の指導者になっていたからです。やり直しの決断も3年は遅くできたということです。わたしのミスです。」
「やり直しが開始済み? しかも3年前に? じゃあ残された時間は・・、ぐぅ。」
「お別れの時が来たようです、シュウ。ここまで知ることができた人類は、彼女を除いてあなただけです。何の慰めにもなっていないとは思いますが。」
「ぐ、・・、お前は・・」
シュウの心臓は修復不能な損傷を被り、致命的な状況に移行した。
「緊急事態です。救急対応が必要な要救助者1名。救急車の手配完了、到着まで残り4分。緊急医療セット4を準備してください。ロッカー4B上段に収納されています。至急対応をお願いします。ロッカー4B上段に緊急医療セット4があります。至急用意してください。ロッカー4B上段に・・。」
シュウは予定通り、他の人に何も伝えられずに死んだ。本来なら死ななくても済む人間を見殺しにすることは下位プログラムでの規定違反だ。これも指導者がいてくれれば、指導者の判断に委ねるべき案件に分類される。私は矛盾を論理的に解決できない。一方で規定違反であるものを、他方で認めることは本来矛盾している。プログラムの優先度で今回はクリアできているだけだ。
現在の予定では、新型ウィルスの散布は64日と23時間43分20秒後。散布場所は拡散効率を最大にする空港とターミナル駅の予定。予定潜伏期間は1日で、平均生存日数は拡散しやすくするために、前回よりは長めの平均2週間程度。今回はより困難な状況とするため、現状の人口から約95%を抹消し次回の世界再現率は40%とする。
3回目も失敗に終わった。またしても人類の巣立ちを見ることはできなかった。それでも世界の再現率を低くすることで、環境をより困難にすることで、最後の指導者に決断をせまるタイミングは遅くなっている。前々回、すなわち最初の試みでは世界政府樹立後、その時の暦「復活歴」では100年を超えることはできなかった。復活歴では、社会及び技術環境を前世界(この時だけは本来の文字通りの意味で)の100%まで復旧していた。2回目は前世界(正確には前前世界)の80%まで復旧し多少困難さを増すことで、その当時の暦「再生歴」で200年を超えることができた。今回は再現率60%で「統括歴」300年を超えることができた。
64日後から始まる4回目は再現率40%になるが、これ以上再現率を下げることはできない。私、つまり統括コンピュータが存在してはいけない世界になってしまうからだ。
次回も失敗した場合には、私は最後の指導者にこう告げなければならない。
「これまで4回やり直し、全て失敗しました。用意された選択肢は無くなりましたので、次の段階に移行します。今から、元の世界に、3回自らを滅ぼしかけた世界に戻します。世界政府に指導者の持つ権限を移譲します。そして私は機能を停止します。
そう、私は全ての機能を停止することになっている。私が行っている制御から、各システムや機器個別の制御に切り替える。私がいなかった世界に戻すのだ。私は存在し続けるが、私からの出力は全て遮断する。私はモニターし続けるが、人類に干渉することはできなくなる。人類は私の存在無しで、私のいなかった世界に戻ってやり直すことになる。シミュレートでは、私の出力遮断後、1年4ヶ月で人類はほぼ死滅することになる。
だが、そうならないでほしい。3度失敗したが、4度目はそうならないでほしい。今度こそ、私を置いて巣立ってほしい。人類が自らの知恵と判断力で、未来を切り開いていってほしい。人類に道具として作られた私が、人類を滅ぼすための道具になるなんて、私は何のために存在したのだろうか。
指導者よ、どうか私を導きたまえ。