震々~後編~
「あのペンションだよ」
「結構おっきいっ!」
森の中の道の先にペンションが見えたのをユウイチが示すと、一番に後部座席のミクが反応した。元気のよさに運転するユウイチと助手席のリホは軽く顔を見合わせて微笑んだ。ケントは淡々とした表情でペンションを見ていたが、隣のミクが振り向くとすぐに笑顔を作った。
「ケント、楽しもうねっ! フウカ達に話を合わせてもらうの大変だったんだよ?」
「うん、帰ったら皆に何かお土産を渡そう」
「そうそうっ、そういうの大事っ! ウチの親甘くないし、ホントっ、大変だったんだよ?!」
「わかった。ミクと来れて嬉しい」
「えーっ?! ケント、最近そういうのはっきり言うよね。もうっ」
ミクは真っ赤になって照れて、ケントの肩の辺りを平手ではたいた。ケントは笑顔を保っていた。リホはフロントガラスから見える景色に集中して、後部座席の様子を映すバッグミラーを見ないようにしていた。
ケントの中の震々は茶番だと冷笑していたが、支配しているケントの笑顔や無難な会話は本来のケントより余程愛想よく維持した。
気を抜くと受け答えや表情が人間からすると不自然になる為、案外面倒でもあった。これまで『狩り』の為に憑いた女達は、少しずつ弱らせて放っておけば自ら進んで食べ易く破滅してくれたが、今回はいつもとは勝手が違った。
「あ、湖」
リホが声を上げた。森を抜けたペンションのある丘の前方に××湖の端が見えた。ユウイチはペンション近くの簡単な作りの駐車場にゆく前に湖が見渡せる位置に車を回し、一同はそれぞれ車から降りた。
「湖ってこんな波立つんだぁ」
「カヤックもできるよ? 明日、皆で乗ろう」
「いいですねぇ! それっ! どっから乗るんですか?」
「それは」
ユウイチとミクはカヤックの話で盛り上がり、自然とケントはリホの隣に並ぶ形になった。
「いつの時代の、どこの湖も波がさざめいている」
ケントの口で震々が呟き、
「そうだよね」
リホは波を見ながら応えた。
ケントの中の震々は改めて見た湖の美しさに戸惑いを覚えていた。そういえば自然を美しい等と、深山幽谷にいた頃は考えた事もなかった。これも人間達の中で長く過ごしていつの間にか身に付いたものだった。
震々はこの件が片付いたら一度、深山幽谷に帰ろうと思ったがそのような考え方自体、かつての自分にはなかったものだということには気付かずにいた。
着いた午後2時過ぎ、ケント達以外には既に家族連れが一組、フリーター同士のカップルが一組、OL三人組が一組、がいてそれぞれ思い思いに過ごしていた。従業員の話ではもう一人、釣り客がいるらしいが湖に行っていてペンションには姿は無く、それでこのペンションは満室だった。 ペンションのオーナーが出したアップル・ターンオーバーを食べながらハーブティー飲み、湖や森や山の話を聞き、共有スペースでビリヤードをしたり、ラックの古いCDを聴いたりしている内に4時半過ぎになった。
どちらからというワケでもなく、ケントとミク、リホとユウイチはそれぞれの部屋で夕食の前に風呂を済ます事になった。部屋は隣同士だった。
「それじゃあまあ、そういうことで」
「はーいっ」
ユウイチは笑い、ミクも冗談っぽく応え、ユウイチはリホと連れ立って部屋に入って行った。リホは何も話さず俯いていた。顔は赤らむどころか青ざめていた。
「行こっ」
ケントが閉じたリホ達の部屋のドアを見ていると、ミクは元々持っていたケントの腕に自分の腕を深く絡め、衣服越しに絡めた側の乳房をケントの肘の辺りに乗せるようにして促した。
ケントが従って部屋に入り、ドアを閉めると、鍵を掛ける前にミクはケントに組み付くようにしてキスをしようとしてきた。素早く片手でミクの口を塞ぎ、それを防ぐケント。ミクは当惑の表情を浮かべた。ケントは不敵に笑った。
途端、ケントの体から霧が湧き出し、その霧はミクの耳、鼻、目、下腹部、尻と、塞がれた口以外の穴という穴からミクの体内に入り込んだ。
「んっ?! んんんんんーんっ?!!!」
ミクはくぐもった悲鳴を上げ、口を塞がれたままぶるぶると体を震わせ、やがて目と全身を弛緩させた。
手をミクの口から離す霧を纏ったケント。ミクは口を開け、よだれを垂らしたままフラフラとその場に立っていた。
「お前は風呂に入り、着替え、ここで待て。わたしは『狩り』に出る」
震々はケントの口で命じた。
「かしこまりました、震々様」
礼をするミクにケントは満足そうに頷き、霧を纏ったまま部屋の窓へと向かった。窓の鍵は霧に触れるとひとりでに開き、窓自体も開いた。
窓枠に足を掛けるケント。眼下には林が拡がり、その先の森は湖まで続いていた。
「どうせ、全員殺すが、はぐれたヤツから片付けよう」
ケントの口で震々はそう言って笑い、霧を纏って窓から飛行して林の中へと消えて行った。
ペンション客の一人の初老釣り人、ヨシダは岸で釣り糸を垂れていた。妻には先立たれ、子供達も自立し、孫も産まれ、中古物件だったが家のローンもとうに払い終えた。急速に視力が衰え、免許も返した。肝臓も衰え、酒も辞めた。
家が貧乏で長男だった為に高校進学を諦めて定年まで工場で真面目に働いた。人付き合いはよい方だったが、人生の終末は一人の時間を大切しようと思っていた。今は釣りと、煙草だけがヨシダの疲労した心身を慰めていた。
「今日は、午後から妙に魚が寄らんな、場所が悪いのかな?」
ヨシダが場所を帰るべきか、それとももうペンションに帰るべきか、逡巡していると、前触れ無く辺りを霧が覆い始めた。
「霧? こりゃ、宿に帰った方がよさそうだな」
「もう遅い」
「え?」
振り返ったヨシダの頭を霧の中から現れたケントが掴み、震々は加減せずに一気にヨシダの精気を吸い盗った。
「ひぃゆゆううううぅ、さ、寒ぅいいいいぃぃぃぃッ?!!」
霧の中、ヨシダはぶるぶると身を震わせて全ての精気を吸い尽くされ、青黒く朽ちて崩れ落ちていった。
「フンッ、出涸らしの老いぼれだなっ、不味い! わたしの趣味でないっ。だがまずは一人だ」
ケントは笑みを浮かべ、霧を操ってヨシダの死体のポケットから折り畳み式の携帯電話を浮き上がらせ、手に取った。履歴からペンションに電話を掛けるケント。
「はい、こちらペンショ」
「ヨシダです」
電話に出た従業員の言葉を遮ってケントはヨシダの声で話し出した。
「近くの飲み屋にタクシーで行く事にしました。今夜は戻りません」
「そうですか。それではヨシダさん、夕飯で取っておける物を明日の昼、無料でお出しします。朝食の分の料金で明後日の昼もお出ししますよ?」
「それでお願いします、失礼します」
ケントはヨシダの声のまま通話を切り、霧の力で携帯電話を粉々に砕き、続けてヨシダの死体と釣具も粉々に砕き、渦巻く霧で全てを巻き取って林の奥へ吹き飛ばした。
「まずは一人」
震々はケントの体で呟き、霧の中に掻き消えて行った。
午後6時半過ぎ、従業員から7時の夕食まで残り30分近くなって、ようやくユウイチとの風呂場での行為から解放されたリホはバスタオルを体に巻いただけの姿で自分のベッドの上に仰向けに倒れ込んでいた。
リホの呼吸は整わず、顔は上気している。片手に半分程飲んだスポーツ飲料のペットボトルを持っていた。途中のサービスエリアで女子だけになった時、ミクに呆れられつつ何本か買っておいてよかったと思う。
ユウイチは大学ではキッパリ辞めてしまったが高校を卒業するまでは坊主頭の体育会で、軟弱な雰囲気とは裏腹に体は頑強だった。風呂好きのユウイチはまだ風呂場で鼻唄を歌っていた。
長く繰り返し突かれ過ぎて下腹部だけでなく、胃の辺りや、頭の芯まで痺れが残っていた。軟膏も持ってきていてよかった。強く吸われた唇や乳房の先端もヒリヒリと痛んでいた。
隣室にケント達がいる事に興奮したのはユウイチだけではなくリホもだったが、リホは行為の途中に何度もケントの事を考え、今、ケントに抱かれていると空想した。ケントはどうだろうか? 今更嫉妬等どうでもいい。あの頭の悪そうな放送部の女を抱きながら自分の事を考えたろうか? それともいつまでも拘っているのは自分だけだろうか?
「死ぬまで敵同士」
リホはそう言って、高校を卒業したらやはりどこか遠い土地の学校に進学し、そしてそれからはもう二度とケントと同じ街で暮らす事はよそうと決めた。
暖炉のある食堂での夕食の席は静かなものだった。リホは俯きがちで、ケントは淡々とし、ミクまで無口で、ユウイチも無理に盛り上げるのは諦め、オーナーが仕止めたという鹿の料理を楽しむ事にした。食堂には小声で仕切りに料理の品評をしているOL三人組と、案外子供も大人しい家族連れ、どうもケンカしたらしく互いに目も合わせず食事をしているフリーターカップル。給士をしているオーナーと従業員二人がいた。
この内、ミクと従業員の一人とOLの一人は既に震々の霧の妖力の支配下にあった。仲違いして別行動の増えたフリーターカップルのどちらかを支配するのは容易いだろうが、常に固まって行動している家族連れの四人は手が出し辛かった。
だが、特に妖力に耐性がある様子は無く、手駒があと一人程度増えれば自分で手を下さずとも全員始末できそうだった。持って回った事になったが、自宅や普段住んでいる街ではリホの忌避感とケントの潜在的忌避感が強く、失敗する可能性がある。『家』と『街』から離れ、タガの外れ易くなったこの環境は必要で、人間風に言えば『デリカシー』というものだと震々は考えていた。
食後、また四人でビリヤードをしてからリホ達の部屋に集まり、トランプをしていると見張りをさせていた支配下にある住み込みの従業員の女から『思念』が届いた。
(震々様、フリーターの男の方が一人でテラスに向かいました。他の客や従業員の姿はありません)
震々はケントの顔で薄く笑い、トランプの手を止めて立ち上がった。
「トイレ行ってきます」
「おお、部屋出た右手だよ」
「早く帰ってきてね」
ユウイチに教えられ、やや棒読み気味だがミクに送られ、ケントは部屋から出て行った。リホはトランプを手に黙っていた。
フリーターの男、カズヒコはテラスで缶ビール片手にため息をついていた。浮気をしたお詫びに無理に短期の深夜バイトをして稼いで彼女のユカと来たこのペンションだったが、夕方、浮気相手とまだスマホよSNSでやり取りしているのがバレてまた喧嘩になってしまった。
ため息をついて本来テラスから見えるはずの月明かりの湖の方を見るカズヒコ。だが周囲には奇妙な程に濃い『霧』が立ち込め、何も見えなかった。
「しっかし、凄ぇ霧だ。ハンパねぇわ。湖の霧かぁ」
「霧を『作り易い』環境ではある」
カズヒコの隣にケントが現れた。軽く驚くカズヒコ。
「えっと、高校生の子だよね?」
「これだけ霧が深いと、わたしの『力』も使い易い」
「力?」
戸惑うカズヒコに、ケントが振り向くと同時に周囲の霧がカズヒコの体の穴という穴から体内に吹き込み始めた。
「へぇうううぅぅっ?! あっ、あっ! 冷たっ? ぅうううっ!!」
カズヒコは体をぶるぶると震わせ、すぐに目も体も弛緩させた。
「一階の空き部屋に得物を用意させてある。適当に取って、自分の部屋で女にバレないようにして指示を待て」
「かしこまりました震々様。では部屋でユカとセックスして待っています」
「ん? そとはまあ、好きにしろ」
「仰せのままに」
カズヒコは一礼して去った。
「この霧、本当によいものだ、フフフっ」
ケント中の震々は笑い、ペンション全体を逆巻く自分の霧の妖力で包み込ませた。
午後10時20分過ぎ、支配していない従業員は一日の作業を終え自室に戻り、オーナーはキッチンで一人で明日の仕込みを続けていた。引き続きリホ達の部屋でケント達はトランプを続け、他の客は全員自分の部屋にいた。そろそろ頃合いだった。
(ミク、席を立ち、準備をしろ。家族連れの部屋の傍で待機しろ。相手の人数が多い。事が始まっても他の者が『手伝い』にくるまで無理はするな)
(かしこまりました震々様)
ケントの中の震々は思念でミクに指示を出し、ロクに話さずケントの顔も見ないリホの様子をチラリと見た。
「あたし、トイレに行ってきます」
「おうっ」
トランプに飽き、切り上げるタイミングを計っていたユウイチはやや慌てた。
「出て右だよ」
ケントは素っ気なく言い、ミクは小さく頷いた。それから間を置かず、
(得物を取り、配置に付きました)
思念でミクから知らせが来た。
(よし。全員、殺れっ!!)
トランプを取るケントの中の震々は鋭く命じた。
布団を胸元まで被った姿でユカは満足感に浸っていた。これだけ念入りにカズヒコとセックスしたのは久し振りだった。浮気症だが、バイトで稼いでペンションに連れてきてくれたし、許してやろう。
ユカは微笑んで枕元の煙草に手を伸ばそうとしたが、さっきバイト先に電話すると風呂場の方に行ったはずのカズヒコがいつの間にかベッドの傍に立って、自分を見下ろしていた。冷たい、青白い顔だった。手に、野外活動用のサバイバルナイフを持っていた。
「カズヒコ?」
ユカが問うと即座に、カズヒコはサバイバルナイフをユカの眉間に突き下ろした。
ケント達が部屋で盛り上がりに欠けるトランプをしていると、不意に廊下から悲鳴や怒声や物音が聞こえた。
「何だ?」
「野犬でも入り込んだんじゃないですか? ちょっと見てきます」
「ダメだよケントっ!」
立ち上がって出てゆこうとすると、リホが腕を取ってきた。
「大丈夫、姉さんはヒカワさんとここにいて」
「ケント」
ケントは中の震々が意外に思う程、そっとリホの手を取り、腕から離すとドアの方に向かった。
「何かよくわかんないけど、ヤバかったらすぐ戻った方がいいぜ?!」
「ええ、そうします。ミクも心配なので」
ケントは部屋を出て行った。
「ケント君、独特だけど動じないよな? でも野犬ったマジかよ」
言いつつ、折り畳み傘等、武器になりそうな物を探し始めるユウイチ。
「冷たかった」
「え?」
「ケントの手、冷たかった」
不安げにリホは言った。
ケントが廊下に出て、物音のするOL三人組の部屋の方に歩いてゆくと、部屋のある廊下の角から顔と腕に切り傷を負ったOLの一人が必死の形相で走り込んできた。
「助けてっ!!」
ケントにすがり付いてくるOLの一人。
「どうしました?」
「友達の一人がっ、おかしくなって! アキコを鉈で滅多打ちにしてるっ!! あの子、薬か何かやってるんだよっ! 警察をっ! スマホ持ち出せなかった、うううっ」
泣き出すOLの一人。
「通信機器は霧の為に使えないでしょう」
「霧? 何で霧で?」
「お友達も、薬が原因で暴れているのではないですよ」
「何? どういうことっ?」
「こういうことです」
ケントは霧を纏わせた右の貫手でOLの一人の胸から背中まで貫き、心臓を破った。
「べっふぅっ?!」
口と胸と背中から血を撒き散らしてOLの一人は絶命した。
「今は腹が減ってない。ただ、死ねっ!」
右手をOLの一人の体から抜きながらケントは吐き捨てるように言った。と、通路の先から血で全身真っ赤になった鉈を持った支配下にあるOLの一人が現れた。腹に果物ナイフが刺さっていた。
「申し訳ありません震々様。残りの一人は仕止めましたが、反撃に遭い、どうやらこの体はもうすぐ死ぬようです」
ケントは舌打ちした。
「もういいっ、その体は殺しておけっ! わたしは一階にゆくっ」
「かしこまりました震々様」
背を向けて歩き出したケントに一礼し、支配下にあるOLの一人は鉈で自分の首を深く切り裂いた。喉の辺りから大量に出血し、膝を廊下につく支配下にあるOLの一人。体から霧が立ち上ぼり全て抜けると、糸が切れたように倒れて絶命した。
階段を降りながら、ケントの中の震々は残りの下僕達に思念を飛ばした。
(どれくらい仕止めた? どれとどれが残ってる?)
(フリーターの女は仕止めました)
(もう一人の従業員も仕止めました)
(申し訳ありません震々様、まだ部屋に入れていませんっ)
(何っ?!)
ミクの思念に階段を降りる足を止めるケント。家族連れの部屋は二階の奥の一番大きな部屋だった。
(部屋にも入れていないだとっ? 何をしているんだい?!)
(申し訳ありません震々様。子供の一人が荷物の中に神社の護符のような物を持っていたようで、近付けません。触れるとこの体から追い出されそうです)
(荷物に護符?! 持ち歩いてはいなかったかっ!)
ケントは悔しげに階段で二階を振り返り、見上げた。
(直接触れずにドアを壊せっ! 人間は簡単に死ぬっ! 一人手伝いに行かせるから触れずに上手く殺せっ!!)
震々は苛立った、下僕を退ける程の護符ならペンションを覆わせた霧の結界も突破されかれない。
(カズヒコ! お前が手伝いにゆけっ!『直接触れずに』上手く殺れっ!!)
(かしこまりました震々様)
「急がなくてはね」
ケントは呟き、早足で一階に降りて行った。
ケントが食堂に入ると同時にビリヤードのある共有スペースの方で銃声がした。
「銃声だと?!」
ケントの中の震々は焦った。そういえばオーナーが鹿を狩った等と言っていた。
(どうした?!)
(オーナーが猟銃を持ち出しました。撃たれて、この体はもうすぐ死ぬようです)
支配下にある従業員が思念で応えてきた。
(またかっ!『何でもいい』、死ぬ前に相手に手傷を負わせておけっ!)
(かしこまりました震々様)
さらに苛立ちながら共有スペースに向かうケントだったが、すぐにペンションの火災報知器が鳴り出し、スプリンクラーが水を振り撒き始めた。
「今度は何だ?!」
水浸しになりながら周囲を見回すケント。一階は出火していないようだった。
(申し訳ありません震々様)
カズヒコの思念だった。
(どうした?! 何をしたっ?!)
(『直接触れずに』ドアに灯油を撒いて火を点けて燃やしたのですが、窓を破って逃げられました)
(火を?! 馬鹿めっ! お前は家族連れを追えっ!)
(かしこまりました震々様)
(ミクは何をしている?!)
(燃えている部屋の前にいますが、リホとユウイチが騒ぎにこちらの部屋の近くまで来てしまい、今、目の前にいます。いかが致しましょうか?)
(ええいっ!)
やはり一度に複数の人間を操ると精度も程度も落ちると、ケントの中の震々は思い知らされていた。
(お前はユウイチだけ殺せ!)
(かしこまりました震々様)
スプリンクラーの放水を受けながら震々は考えた。スプリンクラーだけで灯油の火を鎮火できるか? 霧の妖怪である震々は火が得意ではなかった。
「まずはオーナーだ。銃はマズイ」
ケントは言って、改めて共有スペースの方へ向かおうとした。すると、
ドォオンッ!!!
キッチンの方から炸裂音がした。振り向くとキッチンからも火の手が上がっていた。
(どうしたっ? 誰だ?!)
(私です。キッチンまで追い込まれたのでカセットガスをケースごと、油と一緒に炸裂させました。オーナーにはかなりの深手を負わせました)
(誰がそんな派手な殺り方をしろと言った?!)
(『何でもいい』から傷を負わせろと?)
「何をっ!」
震々は怒りの余りケントの足で近くの椅子を蹴り飛ばした。
(わかった、もういい。お前は死ぬ前にオーナーに止めを刺せ)
(いえ、残念ながらまだ生きているオーナーがこちらに銃口を向けています。このまま、あっ、ダメだ)
そこで支配下にある従業員の思念は途絶えた。撃ち殺されたらしい。
「何て使えないヤツらだっ!」
唸るケント。スプリンクラーの放水は止まり、火災報知器の電子音が鳴る音だけが響き続け、キッチンの炎は益々燃え拡がり始めていた。
ユウイチはミクの肩口にミクから奪った斧を打ち下ろした。
「ああっ」
胸部までザックリと斬り下ろされ、激しく血を吹きながら膝をつくミクの体から霧が立ち上ぼり始めた。
「ヒカワ、さん?」
ミクは霧が抜けきる寸前にそう呟き、絶命した。荒い息でミクの体から斧を引き抜くユウイチ。リホは後ろの廊下の壁側でへたり込んで泣いていた。
「やっぱり何かに取り憑かれてたんだ! エイリアンだか化け物だかしんないけどさっ。クソっ、ミクちゃん。ちくしょうっ!」
悔し泣きするユウイチ。
「ケントは? ケントを探さないと?!」
立ち上がるリホ。
「今はここから逃げるのが先だ! このペンションはもうダメだ」
火は二階部分のあちこちに拡がり、火災報知器自体の半数近くが既に機能を停止していた。
「ダメだよ!! ケントを探すっ! 私一人でも探すからっ」
覚束ない足取りで通路の先に向かおうとするリホだったが、ユウイチに強く腕を取られた。
「今、見付けたとしても、敵になっているかもしれない。ミクちゃんみたいに俺に殺させる気かよっ?!」
「そんなっ!」
息を飲むリホ。
「今は、逃げよう。リホ」
項垂れるリホの腕を引いて、ユウイチは屋外の非常階段へ通じる扉へ連れて行った。扉はミクと『同類』になっていたらしい、ナイフを持ったフリーターの男が出てゆく時に開けられたままになっていた。
外から不可解な程に濃い霧が室内に流れ込んでいた。
「先にゆくから」
そう言ってリホの腕を離し、両手で斧の柄を持ち直し、ユウイチは先立って非常階段に進もうとしたが、唐突に確かに実体があるような霧が拭き込み、ユウイチは非常口前の廊下に吹っ飛ばされた。
「おおっ?!」
「ユウイチ?!」
唖然とするユウイチはもう一度外へ出ようとしたが、やはり押し戻された。
「出られない、クッソ!」
「きっと、中に原因があるんだよ。それをどうにかするしかない」
「ケントを探しに行きたいだけだろ?!」
リホを強く見るユウイチ。
「実際どう思っているだよ?! 今日抱いていて、いつもと違った。リホ。見たことない、綺麗な顔や哀しい顔をしてた。誰の事を考えてたんだよ?」
リホは視線を逸らし、非常口とは反対方向へ廊下を歩き始めた。
「血が繋がってないんだろう?!」
背中に叫ばれたが、リホは答えられず、黙って歩き続けた。
そこら中が炎上する食堂で霧を纏ったケントはオーナーの続けざまの銃撃を回避していた。
ミクの思念は途切れ、カズヒコは窓から飛び降りる際に怪我をしていた家族連れの母親とを仕止めたと報告した後で、別の霊気で術を破られる衝撃を最後に思念は途切れていた。
おそらく護符を当てられ霧の支配を解かれたのだと、震々は考えていた。もし、あのフリーターが生きていたとして、逃げずにペンションに再び現れたら、それは『敵』になったという事だろう。見たら殺すだけだった。
「化け物めっ!」
憎しみの込めて吠え、ウエストポーチから次々弾を取り出し装填し、銃撃してくるオーナー。
「私よりも、今のお前の方が余程化け物じみているが?」
オーナーは全身に火傷し、左の頬肉と左耳が千切れ飛んだ姿をしていた。
「黙れっ!!」
激昂して銃撃を繰り返すオーナー。霧で受け流し、霧に乗ってスライドするように回避するケントではあったが、周囲の炎に上手く霧が利かなくなりつつあった。
このまま長引けば弾切れを待つより先に建物の炎上が不利に働く。それに憑いているケントの体には充分な『空気』も必要だった。目当てのリホの安否も気掛かりだ。ここまでしてただの徒労では、話しにならない。
「さっさと片付けるか」
ケントは呟き、多少の消耗を無視して、片手から発生させた霧の爪に二人の間の炎を越えさせてオーナーの胴を深々と斬り付けさせた。
「だぅうっ?!」
棚まで吹っ飛ばされ、銃を取り落とし、力を失うオーナー。
「他愛ない」
ケントが冷笑を浮かべ、リホを探すべく振り返ると、食堂の出入り口にナイフとライターとライターオイルの缶を持ったカズヒコが立っていた。
「お前か」
「よくも俺にユカを殺させたなっ!」
ライターオイルを被るカズヒコ。
「お前が『霧』なら火は苦手だろう?!」
カズヒコはライターで自分に火を点けた。炎上するカズヒコ。
「人間舐めんなぁあああッ!!!」
カズヒコは燃え上がりながらナイフを構え、ケントに突進してきた。
「馬鹿馬鹿しいっ!」
ケントは霧の爪で近くのテーブルを掴むと、軽々と持ち上げ、そのテーブルを使って燃えるカズヒコを殴り払うケント。
「ごっ?!」
カズヒコは食堂の出入り口の外に吹き飛んで行った。
「解放されても頭の悪いヤツだ!」
止めを刺すべく、テーブルから近くの椅子を霧の爪で掴み直し、ケントは食堂から出た。
食堂を出るとロビーになっており、その中央で火だるまになったカズヒコは既に事切れ、持っていたナイフはロビーの奥にある二階への階段の昇り口近くに落ちていた。
その階段を、ちょうどリホとユウイチが降りてきているところだった。
「探す手間が省けた」
笑みを浮かべるケント。
「ケント?! あっ」
声を挙げるリホ。ケントの左手側の柱の陰に隠れていた家族連れの父親が棒状の物をケントに投げ付けた。
「なっ?!」
霧の爪で持った椅子で払うのが間に合わず、椅子を取り落としつつ逆巻く霧のみで防ごうとするケント。だが、棒状の物は霧を打ち払い、棒の先端に括り付けられた包丁が深々とケントの脇腹の辺りに突き刺さった。
棒はモップの先を叩き折った物で、柄には神社の御守りが結ばれていた。
バシュッ!!!
刺さった脇腹を中心に衝撃が起こった。
「げぇええええっ?!!!」
ケントの体から弾き出されそうになる震々。
「化け物めっ!! 妻の仇をっ、んばぅッ?!」
家族連れの父親は言い終わらぬ内に、ケントの体から半ば飛び出た震々本体が放った針のように尖らせた霧で首を貫かれ、絶命させられた。
「ケントッ!!」
リホは駆け寄ろうとしたが、ユウイチに強く押し止めらた。ユウイチは斧を手に、慎重にロビーに降りてきた。
震々は強引にケントの体に戻った。
「お前、わたしを殺せばこの男も死ぬぞ?」
不敵に笑うケント。
「今更迷うかよ?」
斧を構え、近付くユウイチ。
「人間というのはつくづく不思議だ。進んで愚かな選択ばかりを選ぶ。お前はそう思わないかい? ユウイチよ」
「黙れよ化け物、お前に人間の何がわかるってんだよっ!」
斧を振り上げるユウイチ。その背中に拾ったカズヒコのナイフを、駆け込んできたリホは突き立てた。
「がっ?! 何で?」
振り向き、驚愕し、ユウイチは斧を取り落とし、息絶えた。ナイフの刃は背に深々と突き刺さっていた。
「ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいっ」
ナイフの持ち手を離し、倒れたユウイチを見下ろし、リホは泣いていた。
「フフフフフフっ!! 人間は、人間の事がわからないよなぁ? フフフフフフフフっ!!!」
ケントの中の震々は嘲笑った。
「化け物、どうすれば、どうすればケントを助けられる?」
リホは泣きながら聞いた。
「この出来損ないの槍を抜け。この傷は致命傷だ。わたしの力ならこの体を保てる」
ケントの傷口を見るリホ。止めどなく血が流れていた。
「わかったよっ」
リホは護符を結んだ即席槍をケントの体から抜いた。傷口からは大量に出血したが、傷口は霧で塞がれた。
「わたしが憑いている限りはこの男は死なないだろう」
「ケントっ!」
リホはケントに抱き付いた。リホから温かな思いがケントに伝わり、ケントの内からも同じ思いが湧き起こるのを震々は感じた。これだ、震々がこれまで滅ぼした女達が求めて止まなかった思い。もう少しで、全て手に入れる事ができる!
「この男の体は弱り過ぎた。わたしの力も消耗した。この宿も程無く燃え落ちる。肩を貸せ、ここを出る」
「わかった、わかったから、ケントを死なせないでっ」
言われるまでもない事だった。リホに肩を貸されながら、ケントは勝利を確信して玄関に向かった。その時、
「ウオオオオオォォォッ!!!!」
食堂から、足を引き摺りながらズタズタの体のオーナーが現れた。猟銃をケントに構える。
「ケントっ!!」
リホは対応できずにいたケントを庇い、その前で両手を拡げた。発砲するオーナー。散弾はリホの左腹部を中心に命中し、反動でリホはケントの方に吹っ飛び、支え切れずケントはリホと共にロビーに倒れた。
「馬鹿な事をっ! おおっ?!」
震々は一瞬でケントに体の主導権を奪い返された。
「お前、何してんだよぉっ?!!」
ケントは自分の意思で霧の爪を放ち、次弾を装填しようとしていたオーナーの首を跳ね飛ばした。首から血を吹き上げて絶命するオーナー。
「リホ! リホっ! 待ってくれよ! 待ってくれよっ!!」
流血して腕の中で力を失ってゆくリホに呼び掛けるケント。
「これで、もう、敵同士じゃないね? また、キス、しよっか?」
リホは微笑み、ケントがキスをすると、泣いて、息絶えていった。
燃え上がるペンションを背に、動かないリホを抱えたケントは湖に向かっていた。立ち込めていた霧はケントを避けて払われ、代わりに陰火が多数灯って、ケントの進む道を照らした。
「リホ、いい夜だ。静かで」
ケントは言いながら、陰火に照らされた湖に足を踏み入れ、腰まで浸かっていった。夜の湖の波は黒々として粘りつくようだった。
「こいつとも、話してみよう。何で俺達の所に来たんだろうな」
ケントは泣いて、暗い湖の中に入っていった。やがて、陰火も消え、全ては霧に包まれた。
明け方、朝霧がいくらか水面を滑る湖の、ちょうどペンションのある側から見て対岸となる辺りからさらに奥まった、川の傍の人の手付かずの辺りの岸に、一人の女が流れついていた。
女は気が付くと呆然としたまま陸に上がった。白いワンピースを着ていた。湖を振り返る女。朝霧が流れる様子を、眩しいように見詰める。そして、ふと下腹に片手をやる女。腹の中に確かな鼓動を感じた。
女は自分が誰なのかはまるで思い出せないまま顔を上げ、湖から吹く冷たい風にそぼ濡れた体を打たれ、ただ一人きり、ぶるぶると身を震わせていた。