震々~前編~
後、一時間もすれば夜明けだろうか? 繁華街の場末のゴミ捨て場で一体の女の震々(ぶるぶる)が消え滅びようとしていた。本来死装束を来た霧のごとき人の姿をとる妖怪だが。今は破れかけた手拭い程度の長さの白い布を一本巻いた霧に包まれた女の髪の塊の姿を取っていた。
ゴミとゴミの狭間で、震々はその名の通り震えていた。自分の『悪寒』の妖力に自分が掛かってしまったようだった。夜が明け、このゴミ捨て場に日の光が差し込めば、自分は消えるだろう。震々はそう確信していた。
安堵すら感じる。これでもう苦しまなくて済む。苦しむ? 何について? 何度も考えたことだが、自分が何を、なぜ苦しむのか? 震々にはわからなかった。ただその『苦しみ』が自分を蝕み、滅ぼし殺そうとしている。その事実ははっきりと認識していた。
獲物を求め、深山幽谷から人里に降りて来たのは室町の頃だったが、その長い旅もようやく終わる。結局人間の世界で確かに手に入れ、最後に残ったのは自分を滅する程のこの正体もわからない苦しみだけだった。奇妙なもので、そのことそのものが誇らしかった。
自分は一体何を誇っているのか? それもわからなかったが、ともかくこの女の震々は夜明けと共に訪れる確実な死を、震えながらも受け入れるつもりで待っていた。
そこへ、また別の小さな妖怪がふらり、とどこからともなく現れた。大きさはさつま芋を縦に一つ置いた程度。卑小な、勃起した肉の柱のような体を持ち、全身には目玉があった。妖怪百目である。百目は捕まえた、逃げようともがく一匹のゴキブリの頭の辺りをかじり取りながら、震々に歩み寄った。
「何だぁ、どこの間抜けな妖怪が滅びかけているのかと思ったら雌の震々かぁ」
「百目か、去れっ! わたしの最後の時を邪魔するな。わたしはわたしの死に満足している」
百目はそう言う震々を妖力で『見て』みた。途端、吹き出す百目。
「ブフェフェフェファっ! 震々、お前きったない、きったないっ、未練と後悔で一杯じゃん?! 何、格好つけてんのぉおおっ?」
「未練と後悔だと?」
「そうだよぉ? お前は自分好みの不幸な女ばかりに取り憑いて、その精気をこれまで散々喰らってきたんだろうぅ?」
「わたしはわたしの獲物を狩った。お前もそうだろう? それが何だというのだっ?」
動揺する震々に、百目は冷笑を浮かべた。
「お前は『人間病』だよぉ」
「何っ? 人間病? 何だそれは?」
「人間に近付き過ぎた妖怪がかかる病気だよぉ。特に同じ種類の人間にばかり憑いたり、一人の人間に長く憑き過ぎると掛かり易いねぇ。症状は様々だけど代表的なモノは二つ、一つは『うっかり人間の心を手に入れてしまう』だよっ」
震々は戸惑った。
「心?! わたしがっ?」
「お前はクソまみれの不幸な女達の命を喰らいながら、知らず知らずの内に滅びてゆく女達の心を身に付けちゃったのさぁっ! 積み重なったその『痛み』は毒になってお前を今、殺そうとしているってワケぇ」
『見破った』事を得意気に話す百目。
「女達の、痛み・・・・」
震々は呟き、これまで取り憑き殺してきた幸い無き女達を思い出した。誰もが、誰もが、形は違えど同じ事を『求めて』惨めに死に滅びていった。震々の『震え』は止まり、代わりに笑い出した。
「フフフフフっ! 何だっ! そんな事だったか?! 馬鹿馬鹿しいっ。あの愚かな女達ッ! 滑稽なっ! 汚ならしい、醜い女達っ。あの者供が求めていた事等はたった一つだ。下らないっ! 簡単な事だ」
嘲笑った震々は急激に力を増し、ゴミを吹き飛ばして霧を逆巻いて宙に浮かび上がった。
「およよっ」
飛ばされたゴミを慌てて避ける百目。
「百目っ! 礼を言うよっ! 危うく下らない事で滅びるところだった! わたしは女供が求めた、『アレ』を手に入れて生き延びる。どうでもいいモノだと思っていたが、アレさえ手に入れればわたしはこの痛みに殺されずに済むっ!」
「何だか知らんけど、上手いことやればいいんじゃなぁい?」
「そうするよっ! フフフフフッ!!」
霧を逆巻き、震々は飛び去って行った。
「さっきまで死にかけていたクセに、元気だなぁああ」
百目はゴキブリの残りを全て口に入れ、クチャクチャと噛み砕き、呑み込んでゲップをした。
「俺、やっぱこういうの向いてるなぁ。また始めてみよっかなぁああ?『メメメの百目クリニック』。何てねっ、ブフェフェフェファッ!!!」
百目はけたたましく笑い、ゴミの散乱したゴミ捨て場を白染め始めた朝陽から逃れるように、闇の中に掻き消えていった。
トキワケントはわざと朝の支度を少し送らせて義姉のリホより遅く家を出る。家から近くのバス停までは長い緩やかな坂道になっている所があり、自然とその道を歩いている間はリホの後ろ姿を見詰める事ができた。
互いの親が再婚し、ケントとリホが義理の姉た弟になったのはケントが小学四年生、リホが小学六年生の時だった。初対面はレストランでピアノの発表会のような格好をしたリホは、自分の父の再婚に反対していて終始不機嫌だった。レストランの帰りの支払いの際、二人だけになると、
「私とお前は死ぬまで敵同士だから」
リホはそうケントに耳打ちしてきた。幼いケントは突然自分の前に現れた『生涯の敵』に驚き、そして嬉しかった。
その日からケントはリホの子分になり、一度もリホの無茶な『指令』に逆らった事は無い。例えばケントが中学一年の時、失恋したリホに命じられるままケントはリホにキスをしたし、同じ高校に進学する事を禁じられると別の高校に進学したし、高校に入って自分以外に彼女を作るように命じられるとすぐに適当な彼女を作ったし、三ヶ月程前からは朝の通学で自分と並んでバス停にゆく事を禁じてきたのでこうして後をつけるように登校していた。
ケントは決してリホに逆らわず、今後も全て、結婚相手さえリホに決めてもらって構わないと思っていた。自分の為にリホが時折苦しんでいるのも知っていたが、何しろ自分達は生涯敵同士なのだ。ケントは自分にはリホを苦しめる動かし難い確かな権利があるとさえ思っていた。
繁華街のゴミ捨て場から飛び去ってから、震々は街を飛び回りながらの勝手の違いに戸惑っていた。いつもはただ獲物になる、不幸な、しかし人を惹き付ける魂の美味な女を探せばいいだけだ。
そういった女に毎回都合よく取り憑けていたワケでもないが、そんな女はどこの繁華街にでもいくらでもいた。数をこなせばどうということはなかった。
しかし『アレ』を手に入れるとなると話は別だ。そもそも不幸な女はアレを手に入れる事ができない。
「いつもとはやり方を変えないといけないね」
呟いて並みの人間にはただの一筋の霧靄か、風に舞う白い布きれにしか見えない姿で上空と飛んでいると、不意に強く惹き寄せられた。
自分がアレを欲していると気付くまでは眼中に入れていなかった。過去の自分の獲物達とは無縁の、強烈な人間の心の『衝動』。今、直接感じて知った。
「何と甘美な魂の気配っ!」
まだ口にしたワケでもないのに、震々は戦慄した。この衝動に比ぶれば、これまで自分が餌としてきた欲望に敗れ去った女達の情動等、搾りカスもいいところだった。
「欲しいっ! この人間の心が求める魂の全てっ、欲しいっ! 欲しいっ! 欲しいっ!!」
震々は自分がこれ程までに飢えていた事に驚きながら、感じた衝動の方へ、高速で飛び始めた。
瞬く間に十数キロは軽く飛んだ先の坂道に一人の男子高校生がいた。
「男かっ」
震々は性に合わず、もう100年は男に憑いた事がなかった。
「まあ、いい。いつもと違うことをするのだ。たまには男にも憑こうさねっ!」
そう言って震々は体を完全に霧に変えると、その霧を紙縒のようにして細くなり、その坂道を下る男子高校生トキワケントの右耳からケントの体の中に入り込んだ。
「ふぅあっ?! ううぅっ!!」
ケントは一瞬体をぶるぶると激しく震わせ、震々に体と意識を乗っ取られた。ケントの視線が震々の視線となる。ケントが見ていたリホの後ろ姿が震々にも見えた。
「女っ!」
震々はケントの口で言って、笑みを浮かべたが元々弱っていた上に、慣れない男の体に入った事でどうも上手く体に力が入らなかった。この男の願いを叶えるにも力は必要になる。目的を遂げる前に、まずは『腹拵え』をする事を決めた。
これまで人間の事情等一度も省みる事はなかったが、この男とあの女についてら少し知る必要があるとも、震々は始めて考えていた。
その坂道の下でリホはふと、背後に違和感を感じていた。『悪寒』といってもいい。後ろから来ているはずのケントに関わることだと思ったが、この下り坂では決して振り返らないのが二人のルールだった。
リホは不安に駆られながらも振り返れないままバス停に着き、やや遅れて来たケントにいつものようにこっそりと片手を腰の辺りで上げて合図したが、ケントはいつものようにこっそりやはり腰の辺りで片手を上げて合図を返すことはなく、ただ黙って見たこともない冷たい顔でリホを暫く見て、顔を逸らした。
リホはワケがわからなかったが、ケントが時々不機嫌になったり、挑発するような行動をとってくるのは珍しい事ではない。
「死ぬまで敵同士」
リホは小声で呟き、酷い疲労感と、焼けつくような欲求を感じていた。
それから一週間ケントとリホの住む街の病院や養老院で、突然体調を崩す患者や入所者が続出し、急変前から体力の低かった八名が亡くなった。原因は不明だったが、感染症の類いではない様子で、それ以上拡大する事もなかった。
単に震々がさほど大喰いではなく、また案外早くケントの体に馴染んだというだけの事だったが、関連の人々はたまたま凶事が重なっただけだと考えていた。院内で霧の中に立つ青年らしき人影を見たという噂もあったが、よくある怪談だと、誰も真面目に相手をする事はなかった。
放課後、リホが大学生の彼氏ユウイチが美術館に行こうと急に言い出したので、ユウイチの運転する中古車の助手席に乗っていると、ちょうど街の病院からケントが出てくるところに通り掛かった。
「停めてっ!」
「えっ?」
ユウイチは慌てて車を停めた。リホは車窓を開けて顔を出した。ケントの方は車が近付いた時点で気が付いており、最近よくする『冷たい顔』てリホを見ていた。
「ケントっ! どうしたの? どっか悪いの?」
「いや、知り合いの見舞いで来ただけ」
「そう」
妙な間ができてリホはバツの悪い顔をした。ケントと直接面識の無い、ユウイチは困惑していたが、意を決したように、
「おしっ」
と言うと、エンジンを切り、軽く後続車を確認してから中古車から出た。
「ユウイチ?」
戸惑うリホ。ユウイチは歩道側に早足で回り、ケントの前に出た。年齢に不釣り合いな冷然とした顔で自分を見てくるケントにたじろぎつつ、ユウイチは話し出した。
「どうもっ、ケント君だよね? 俺、お姉さんのリホさんとお付き合いさせてもらってるヒカワユウイチって言います! ××大学の史学部です。平安とか平城とかその辺の時代の勉強、まあ、あんまり就職と関係無いから卒業までに大学とは別に資格取らなきゃいけなくて金と時間の遣り繰りが大変何だけどっ、ハハハっ、あの車も伯父さんが乗ってたのもらったんだけど結構ボロボロで、ハハっ」
冷たく見返すばかりのケント。冷や汗をかき出したユウイチは悪寒まで感じ始めた。
「えっと、平安とか平城の頃とか、好き? 文系? 理系?」
「その時代はまだ自分は『発生』していないからわからない」
「発生っ?! ハツに生じるの発生?」
「そうだ」
「えーっ?! な、中々、個性的な弟さんだね、リホっ」
ギブアップの顔で助手席で様子を伺っていたリホを振り返るユウイチ。リホはため息をついた。
「ケント、どうしたの? あんまりユウイチをイジメるなよ? ルール違反だよ?」
自分の連れる男に嫉妬しない、邪魔もしない、というルールもリホはケントに課していた。もちろん把握している震々は憑いているケントから沸き上がる暗い思いと『ルール』とやらの幼稚さに失笑したくなったが、堪えた。
「ごめん、そんなつもり、なかった。ヒカワさん、失礼しました」
ケントは礼儀正しく頭を下げ、ユウイチを帰って恐縮させた。
「いや、俺の方こそっ、いきなり馴れ馴れしくしちゃってっ。あっ、そうだ!!」
ユウイチは急に大声を出した。
「ケント君、彼女いるよね?!」
「はい、マツシタミクという同じクラスの放送部の女子と交際しているようです」
「あ、放送部なんだ。そのっ、あれだ! その子も一緒に今度の連休俺達と××湖のペンションに行かないか?」
「ちょっとユウイチ!」
突然の話にリホは慌てた。
「いいんじゃん。知り合いがバイトしてるから、客を紹介したら皆割引きしてもらえる。ちょっと遠いけど車で行けば案外安く上がるよ?」
「そういう事じゃなくてっ!」
自分が男と『泊まる』場面にケントがいて、そのケントと自分も『外泊』する形になるのは急過ぎると思った。ケントとはまだギリギリだが一線は越えていなかった。リホは自分が即座に『期待し始めた』事に混乱した。
「いいですよ? 蓄えはいくらかあるようです」
ケントは元からあまり金を使わない質である上に、中学時代の郵便局のアルバイトと、入学前の三月に行った回転寿司屋の給料がリホが高いプレゼントを望まなかった事もありほぼそのまま残っていた。わざわざ貯金を下ろすまでもなかった。
リホに言われるまま交際し出したミクは単純な女で、特に耐性も無いので都合が悪ければ妖力で何とでもなる。
何より絶好の機会だ。直接取り憑かずに不特定多数の獲物から精気を奪うのは久し振りな上に、既に人に憑いた状態で別の多数の獲物に手を出すのは初めてだったが、全て近場で支障無く事足りて、力も戻った。
人気の無い山奥なら多少は無茶も利く。たまたま弱らせた獲物の経過を後学の為に見に来てこんなにも都合よく事が運ぶとは、震々は大笑いしたい気分だった。
「なら、決まりだね! よっしょあ、ペンション台安くなる分、途中のサービスエリアでプチ贅沢しようぜぇっ!!」
ユウイチは一人盛り上がった。リホは助手席からケントを見ていたを見詰め返すケント。
体と意識を乗っ取ってもなお、ケントの魂の奥底に強い思いが灯り、たぎってくるのを震々は感じた。
コレだ、『悪寒』の妖力も通らない、この焼け焦げる思い。自分が取り憑き殺してきた幸無き女達がどれ程望んでも、血涙する程に欲しても決して手にする事のできなかった人の思い。この男は、この女に容易く与えるだろう。
全てが充たされた時、二人共纏めて喰い殺してやろう。たまには精気だけではなく血肉を喰らうのも悪くない。その時初めて自分を殺しかねない程のこの『苦しみ』は癒えるはずだ。そうに違いない。
震々はケントの瞳越しにケントを見るリホの目を見ていた。間違いない、この愚かな二人は最初から『アレ』を持っている。震々はそう確信していた。




