百目~後編~
夕暮れの繁華街の路地裏で、ヒロコは昼間までは自分の取り巻きをしていた同級生の女子三人に押さえ込まれていた。路地のすぐ先にはスモーク貼りのワンボックスカーが停まり、腕にタトゥーを入れた男とむやみに多数のピアスを付けた男がその前にニヤついて立っていた。赤い髪のアヤメは箱ごと奪ったヒロコの煙草を吸いながら腕を組んで既に号泣しているヒロコを見下ろし、その傍に立つタカヤマは落ち着かない様子で目を泳がせていた。洗いざらしの髪を適当に後ろで結び、学校指定の体操服を着たシズカもその場にいた。
アヤメはヒロコの傍にしゃがんだ。
「ヒロコさぁ、手癖、悪いよね?」
「違いますっ! アヤメ先輩! 違いますぅっ!! タカヤマ先輩から言ってきたんですっ! タカヤマ先っ、あっ」
アヤメはヒロコの取り巻きだった女子の中でも背の高い一人が路地に押さえ付けたヒロコの手の甲に吸っていた煙草をゆっくりと押し付けた。肉が焦げる音がした。シズカは吹き出しそうになるのを必死で堪え、『悲壮』な顔を何とかキープした。
「ああああああああああッ!!!」
絶叫するヒロコ。アヤメはヒロコの手の甲で煙草を消し終えると、立ち上がり、ヒロコから奪ったまだ7~8本残っている煙草の箱を握り潰し、あまりの痛みによだれと鼻水を流して泣きながら軽く痙攣しているヒロコの顔面に投げ付け、血の気の引いた顔で硬直しているタカヤマを振り返った。
「お前っ! いいよねぇっ?!」
「あ、ああっ。俺は、別に」
鋭く聞かれ、激しく動揺するタカヤマ。弾かれたように顔を上げ、タカヤマを見るヒロコ。タカヤマは素早く顔を背けた。
「二人っ! この子に仕事紹介してあげてよっ、儲かるヤツをさぁっ!!」
ワンボックスカーの前の二人に促すアヤメ。
「OKぇ、アヤメっ!」
「アイアイサ~っ、なんつって! へっへっ」
男達はニヤつきながら震え上がるヒロコに近付き、やはり怯えた様子の元取り巻き達に代わってヒロコの腕や肩を取った。
「待って! 助けてっ! タカヤマ先輩っ! タカヤマ先輩が大丈夫って言ったじゃんかよぉっ?!」
ワンボックスカーに連れ込まれそうになるヒロコ。
「いや、言ってる意味わかんないから。ごめん、ヒロコ、ごめんっ」
タカヤマはヒロコを見れずにいた。ワンボックスカーに押し込まれる寸前、ヒロコはシズカを血走った目で睨んだ。
「シズカぁっ!! このままで済むと思うなよぉっ?!」
「ハイハイ。ドア締めるから、顔、危ないよぉ?」
ピアスだらけの男が茶化して言い、ワンボックスカーのドアは閉じられ、ヒロコは男達に連れ去られていった。
無駄な足掻き、とシズカは思った。シズカは連れ去られる前のヒロコの頭の中の脳を『見て』いた。ヒロコはシズカのトイレの写真を使い、具体的な復讐方法を考えていた。だが、シズカにはクラウドから取り出した動画があった。何よりこの『ヒャクメ』の力があればヒロコでは自分に絶対に勝てないと、シズカは確信していた。
「行くよっ」
「お、おう」
アヤメは未練がましくワンボックスカーを見送っていたタカヤマに短く言い、立ち去りかけた。
「お、お疲れ様でーすっ」
「お疲れでーすっ」
「あざっしたぁっ」
呆けたようにやはりワンボックスカーを見送っていた元取り巻きの三人は慌ててアヤメに頭を下げた。アヤメはシズカの傍を通り過ぎようとして、ふと足を止めた。シズカの『目』を見て、何やら怪訝な表情をした。マズい、とシズカは思い姿勢を正した。ヒャクメの力はアヤメには上手く通らず、アヤメの脳は見通せなかった。その上『様子が変わった』ことまで知られるのはいかにも危険だと思った。シズカはアヤメから視線を逸らしつつ、早口で言った。
「お疲れですっ!」
「お前、探偵雇って盗撮したんだって?」
そう説明していた。
「はいっ! そうですっ! お金は掛かりましたけどっ、ヒロコにずっと絡まれるより安く上がると思いましたっ! お騒がせしましたっ。すいませんっ!!」
シズカは全力で深く頭を下げた。これで『目』を見られず済む。
「ま、いいけどさぁ」
アヤマはシズカを疎ましそうに見下ろすタカヤマを連れて、繁華街に去って行った。元取り巻きの三人を背にしたシズカは顔を上げ、世の中にはヒャクメの力が通じない者がいることと、場合によってはアヤメを『始末』しなければならないことを強く思っていた。本人に力は通らなくてもやり方はいくらでもある、とも思い、シズカは高揚していたが、自分の頬や額にいくつもの『目』が一瞬浮き出てすぐに消えた事には気付かずにいた。
気まずそうな元取り巻きの三人とはその場で別れ、シズカは美容院に向かった。百目の粘液はトイレの洗面台で簡単に流れ落ちたが髪のゴワつきや生臭さは少し残り、何より眼鏡が取れた。髪型を変えたかった。ヒロコが潰れれは元取り巻きの三人も何も言わないだろうと思う。あの三人はコントロールしやすいという理由だけでヒロコに選ばれ、それぞれヒロコに弱味を握られていた本来はクラスでも目立たない種類の女子生徒達だった。その『弱味』が何なのか? シズカは既に『見て』知っていた。今となっては何の脅威でもなかった。
「どうされます?」
中性的な男の美容師が柔らかく聞いてきた。お気に入りの店員だった。だが頭の中を『見て』みると酷いヤリチンな上にサディストである事がわかった。このサロンは今日で最後にしようと思ったが今日は許す事にした。シズカは機嫌が良かった。ただし、自分を失望させた罰として帰宅後、ヒロコをハメたのと同じやり方でこの美容師の破廉恥動画をネットに拡散してやることも決めていた。
「軽くして下さい」
無敵だな、と思いつつ、シズカは微笑んでオーダーした。
髪をすっきりと短くしたシズカは帰宅すると炭酸飲料と箸とポテトチップスを持ってすぐに自分の部屋に向かい、手が汚れないように箸でポテトチップスを食べ炭酸飲料も飲みながら、もはや手慣れた様子で百目の力を使って美容師のスマートフォンやPCやコレクションしていたメモリやBDを『見て』それを自分のPCに移し、件の美容師を『動画拡散刑』に処し、それからさらにPCを使ってこの力で出来ることを探り始めた。
株は情報量が多過ぎ、変動も速く対応できそうになかった。競馬等は馬のコンディションは『一目』でわかったが、競技は体調や能力通りの結果にはならなかった。未来予知が出来るワケではない。やはり『目視』と結果がシンプルに合致するものでなければならなかった。宝くじのようにどの券が当たりか『見えて』も意図的にそれを獲得するのが困難なものも向かない。
「やっぱ今できるのは電子スロットとかかぁ、ちょっと目立っちゃうなぁ」
画面上でゲームのスロットを当てるのは造作もなかった。レアアイテムの転売で小遣いは稼げるかもしれないが、足がつかないようにするのは多く売れば売るほど面倒そうだった。電子スロットの類いには手続きは面倒だが直接商品券等を獲得できるものもあったが、勝ち続けると確実に運営会社に怪しまれるように思えた。
「小遣いは稼げそうだけど、案外難しいなぁ。二十歳になったら色々やれそうだけど、取り敢えず明日ゲーセンの景品荒らしてみるかなぁ~っ。それよりもっ!」
シズカは棚の教科書を手に取った。開くまでもない。『見る』だけで内容を一瞬でほぼ把握できた。
「試験、余裕じゃん。これでもわかんなかったら答えを『見れば』いいんだし、どんな大学も入れるっ。刑事とかなったら犯人すぐわかるよね? いや、探偵だっ。美少女探偵シズカっ! 難事件を鮮やかに解決っ!! いいじゃんかっ! ふふっ」
シズカは上機嫌で座っている回転椅子を回して鏡に自分を映してみた。眼鏡が取れ、髪もすっきりとした自分。控え目に考えてもそれなりの容姿であるように思えた。何より自信に満ちていた。小学生の頃はスポーツ、勉強、いずれも出来てクラスの女子のリーダー的存在だった。ヒロコをイジメていたのもほんの暇潰しに過ぎなかった。中学に入り体育部に入らなかった為、体育の授業で目立たなくなり、勉強も並みになった。それでもヒロコ他数名を取り巻きとして一応クラス内ポジションは守っていた。しかしヒロコよりランク下の高校にゆくワケにはゆかず無理をしてヒロコと同じ高校を選んだ結果落ちこぼれ、ずっと何も鍛えていなかったツケで体育ではクラスの足手まといになり、視力が落ちてコンタクトレンズでは追い付かなくなって眼鏡を掛け、さらにアヤメの後ろ楯を得たヒロコに目をつけられ地味な格好を強いられイジメられ続けた。
「でもっ! 私は、勝った。ヒャクメの力がある」
満面の笑みを浮かべるシズカ。また気持ちの高揚したシズカは既にPCに入れておいたヒロコと犬の動画を再生させた。子供のヒロコが子供のシズカ達が囃し立てられる中、泣きながら行った行為で散歩用のリードと子供の縄跳び用の縄できつく縛られたヒロコの家の犬は奇妙な鳴き声を上げながら簡単に射精した。即座に激しく嘔吐する子供のヒロコ。子供のシズカ達は手を叩き跳び跳ねるようにして爆笑していた。
「あははははははははっ!!!」
現在のシズカも机を思わず打って、涙を流して爆笑していた。
「プシシシっ! 何度見てもウケる。ヤバいっ。この発想っ! こんなに笑ったのどれくらいぶりだろう? 5月の軽井沢に吹くそよ風みたいに爽やかだよ。行ったことないけどっ、アハハっ! お腹痛いわっ、オイっ!」
シズカは身を捩って笑い続けた。子供の頃の純粋な、欠けるところの無い、あの懐かしい勝ち続けることしか知らない眩しい精神が戻ってきた気がしていた。ようやく本来の、正当な、約束された位置に自分は戻ってきたとシズカは思った。
だが、シズカは不意に笑うことをやめ、動画のリピートも止め、PC自体を適当に閉じた。傍に置いていたスクールバッグからカッターナイフを取り出し、真顔で刃を出す。
「一番問題なのはアイツだ。『ヒャクメ』、信用出来る要素が一つも無い」
シズカは前触れ無く後方にカッターナイフを振るった。刃は空を切る。回転椅子に座ったままカッターナイフを構え、四方を警戒するシズカ。一応、ヒャクメの力で周囲の探知を試みたが百目の姿を捉える事は出来なかった。
「・・・・まあ、いい」
シズカは刃を戻した。
「アイツ、大して強そうじゃなかった。あの素早い尻尾も、今の私なら簡単に『見切る』事ができる。いざとなったら、ブッ殺してやるっ!」
シズカは不敵な笑みを浮かべ、カッターナイフを机の上に置くと目を閉じ、片手の指で瞼を触って気にするような素振りを見せた。
「うーん。力、使い過ぎたかな? ちょっと、寝よ」
シズカはまだ着ていた高校指定の体操服のまま、ベッドに倒れ込み、大きく息を吐き、掛け布団も掛けず、部屋の灯りも消さず、仰向けの姿勢でまた目を閉じると吸い込まれるように深い眠りに落ちていった。
すると、部屋の電灯が明滅し始め、一度完全に灯りが消え、それからもう一度灯りが点くと、シズカの枕元に醜い百目の肉の柱がそそり立っていた。百目はやや透けた体を少し傾け、無数の目で眠るシズカを『見詰め』た。それに呼応して、シズカの顔全面、喉元袖から出ている腕の先と手に無数の大小の目玉がまばらに現れた。体操服の下でも全身で目玉達は蠢いていた。その蠢き共にシズカの体は明滅するように薄らぎ透け始めた。
「ん~っ、まだ目の数が足りないよねぇええ。もうちょっと待とうかなぁああ?」
思案顔で呟き、短い手を蛇のように伸ばして眠るシズカの上を払う仕草をする百目。その仕草に従いシズカの全身に浮き出た目は鎮まり、シズカの体の中に消えてゆき、目が消えるとシズカの体の薄らぎも無くなり、元の実体の『濃さ』に戻った。
「でもさぁ、『いざとなったら、ブッ殺してやる』とか言ってたけどさぁああ。お前、言うよねぇええっ?!」
肉の柱の体を折り曲げ、シズカに近い側の目玉を多数肥大させて睨む百目。シズカは気付かず眠り続けている。
「ブフェフェフェフェフェファっ!! 面白いヤツっ!」
百目は愉快そうに笑いながら掻き消えて行った。シズカは安らかに、満ち足りた顔で眠り続けた。
翌日、ヒロコは登校して来なかった。昼休み、ずっと様子を伺っているようだった。ヒロコの元取り巻きの三人が一人でスマートフォンに繋いだイヤホンで音楽を聴いていると、近寄ってきた。和解すべく、話し掛ける相談をしていたのは『見て』知っていた。三人は今度はシズカがアヤメの後ろ楯を得られる可能性を恐れているようでもあった。
「シズカぁ、何聴いてんの?」
元取り巻きの内、化粧の濃い女が恐る恐る聞いてきた。シズカはイヤホンを片方取り、振り向いた。失笑してしまうのを何とか堪える。
「デスメタル。アイドルじゃない方のヤツ」
「あ、そういうの好き何だぁ。ねぇ?」
化粧の濃い取り巻きは愛想笑いを浮かべながら他の二人を振り返った。他の二人もぎこちなく笑い返した。シズカは内心、愚鈍。と呟きながらもう片方のイヤホンも取り、死ね死ね死ね死ね死ね、と繰り返す音楽の再生も止めた。
「ヒロコ、入院したらしいよ? 知ってる? たぶんそのまま転校するっぽい」
「知ってる。アヤメ先輩なら、ヒロコの『仕事』でだいぶ稼げたからしばらくタカヤマ先輩とグァムかどっかに行くらしいよ。メールあった。だから、当分面倒な仕事は無いと思う。これまでの仕事もヒロコが間に入ってたから変になってたけど、アヤメ先輩から直の仕事って実際は半分も無かったらしいよ。アイツ、中抜きしてたし」
「だよねぇ! アイツ、ホント、ウザかったよねぇ?!」
化粧の濃い女はそう言って、元取り巻き同士で安堵して喜び合い出した。シズカの言ったこと等、元取り巻き達もわかっていたことだったが、アヤメにパイプができた、と、少なくとも三人は思い込んでいるシズカの口から改めて、ヒロコがもう終わったという事を知らせて安心させてほしいと三人の気弱な脳が考えている事が『見えた』ので、その通りにしてやっただけの事だった。
「ウチらヒロコの言われて仕方無くシズカの事イジメてたけど、これからは上手くやっていこうねっ?!」
「うんっ、よろしくね」
必死で媚びる化粧の濃い女にシズカは明るく答えながら、元取り巻きの三人が三人ともシズカのイジメ動画や画像を未だ多数所持しており、いざとなったら交渉の材料にするつもりでいることも『見抜いて』いた。卒業までに、疑われないように、時間をかけて、一匹ずつ、必ず潰すっ! シズカは微笑み返し、「髪切ったんだよ」「眼鏡もやめたんだ、その方が似合うねっ」等と陽気に三人と話しながらそう心に決めていた。
下校前、シズカはトイレを済ませ。手を洗っていた。シズカ以外には誰もいなかった。目が、酷く疲れていた。今日一日、授業でもそれ以外でも、様々な場面で百目の力を使ってみたが、やはり出来る事と出来ない事、『見て』わかっても対応しかねる事が明確にあった。そして『目』が酷く疲れる。普段は持ち歩かない家から持ってきた目薬を差す。一日で7~8回は差していた。
「あーっ、沁みる。ヒャクメの力の加減を覚えないとダメだね。案外普通に過ごすだけならあんま意味無いし。でもまあ、上手くやれば、私、無敵だよねっ?」
シズカは自信に満ちた顔で洗面台の前の鏡に笑顔を映した。と、その顔の片頬と額に五つ程度の目玉はギョロリと出現した。
「えっ?」
咄嗟に両手で片頬と額を押さえるシズカ。呼吸が荒くなる。
「嘘っ」
手を離すと額と片頬の目玉は消えたが、代わりに左の掌に目玉が多数表れた。素早く右手でそれを押さえるシズカ。すると、左の掌どころか全身に目玉が浮き出た。同時にシズカ姿も透け始める。自分の体と鏡に映った自分を見て呆然とするシズカ。
「何だよっ、これ? 透けてるっ」
震え出す透けたシズカ。蠢く全身の目玉。
「鎮まれ、鎮まれっ、鎮まれっ! 鎮まれよぉっ!!」
シズカが叫び、強く念じると目玉達は大人しくなり体の中に引っ込んでいった。それ共にシズカの実体の『濃さ』は戻った。呼吸は荒いままのシズカ。自分の体を確認し、鏡に映る自分も確認した。
「アイツっっ、ふざんけんなッ!!!」
洗面台を強く打つようにして両掌を置くシズカ。
「話が上手過ぎると思ったんだよっ、副作用か何かだな? 畜生っ! ヒャクメぇっ! いるのか?!」
振り返ってトイレの中を見回すシズカ。誰もいない。思わず百目の力を使いかけるが、すぐに目に力を込めるのをやめるシズカ。
「ダメだっ! もう使えないっ。クソッ!」
シズカは傍のトイレの個室の壁を蹴り、何とか気持ちを落ち着け、百目に力を与えられた時の事を思い出そうとした。
「・・・・高架下っ!」
シズカは女子トイレから飛び出して行った。
校舎から駆け出ると、桜の木の近くのベンチ元取り巻きの三人が座ってチョコ菓子等を食べながら憑き物が落ちたように気楽そうに話していたが、血相を変えてシズカが走り過ぎるとギョッとして、化粧の濃い女が立ち上がって呼び掛けてきた。
「どうしたんだよっ、シズカっ?!」
不安げだった。シズカは舌打ちしたくなるのをどうにか堪え、立ち止まって振り返った。
「ちょっとアヤメ先輩の用事だよ。皆は大丈夫だからっ」
「マジで?」
「マジ、マジっ!」
付き合い切れないとシズカが再び走り出すと、その背中にさらに呼び掛けてきた。
「ウチらっ、ヒロコがいなくてもアヤメ先輩リスペクトしてっからぁっ! 伝えといてぇっ!! シズカぁっ!」
「ウチもぉっ!」
「ウチもだよぉっ!」
他の二人も化粧の濃い女に続けて叫んできた。ヒャクメの力を使うまでもないと思った。愚鈍っ! 走り去りながら、シズカは内心で毒づいていた。
高校から件の高架下まではそれなりに距離があった。見た目が多少垢抜けてもシズカの体力が貧弱であることには代わり無く、『百目の高架下行き』のバス等も無く、走ったり歩いたりしながら30分程で高架下にたどり着いた。人気は不自然な程に無かった。疲れてへたり込みそうになるのを堪え、呼吸を整え顔を上げて力を使わず見回すシズカ。
「ヒャクメっ! 出てこい! いるんだろ?! お前騙したなっ?! 何がいい妖怪だ! オイっ!」
返事は無かった。何も現れない。シズカは高架下の隅にある崩れかけた木製の祠に気が付いた。そこへ猛然と駆けてゆくシズカ。
「オラァッ!」
シズカは躊躇無く祠を蹴り潰した。途端、潰された祠から赤い血生臭い無数の目玉が浮き出た霧のようなモノが爆発するように発生し、シズカの周囲を旋回し始めた。
「びっくりしたぁあああっ! お前ぇっ、この200年で一番罰当たりぃいいいっ!!」
そう唸りながら、赤い目の霧は一ヶ所に集まり、やや透けた百目の肉柱に姿を変えた。
「出たなっ、ヒャクメっ!
お前、力を使ってたら体中にお前と同じような目玉が出て体も透けてきたぞ?! あれ何だ?! 説明しろっ!!」
「鬼太郎呼ぶ?」
「うっさいっ! 説明しろっつってんだよっ、クソ肉目玉野郎がぁあああっ!!!」
激昂するシズカ。百目は笑い出した。
「ブフェフェフェフェフェファっ!! お前、思った通りのヤツ。まだ俺の力、惜しいんだ?! ブフェフェっ」
「うっさいって言ってんだろ?!」
声を低くしてポケットから出したカッターナイフの刃を伸ばすシズカ。百目はシズカをよく『見た』が、もう少しだけ早いと思った。
「俺を捕まえられたら教えてあげるよぉおおっ?!」
百目は短い足からは想像出来ない程の素早さで駆け出し、土手を上り始めた。
「ちょっ? 待てよっ!」
シズカは慌てて追い出した。
土手の上の道を時々完全に姿を消して少しだけ先へ瞬間的に移動する百目を走って追うシズカ。まるで追い付けない上に、時折すれ違う、ジョギングする者や下校する学生や子供、散歩する犬は百目の姿に驚いていたがその飼い主等は全く百目の姿が『見えて』いなかった。一方で、刃の出たカッターナイフを持って走るシズカの姿は思い切り人目につき、警戒されてしまった為、シズカはカッターナイフの刃を戻し、ポケットにしまうより他無かった。
「畜生っ!」
シズカは唸って、下品に笑いながら現れては消える百目を走って追い続けた。
百目が街中に入ると完全にお手上げだった。距離を無視して離脱と出現を繰り返す百目をシズカの貧弱な脚力と並の人間の『目』で追う事は不可能だった。やむを得ず、シズカは見失う度に百目の力を使い、追ったが、捕まえる寸前で百目は空間を越えて逃げ、どうしても捕まえる事は出来なかった。
追い続ける内に、辺りは夜になっていた。疲れ果てたシズカは追う最中に買った柑橘飲料を飲みながら、歩道脇の植え込みの縁に座り込んでいた。もう百目を捕まえるのは無理だと思っていた。そもそも力を使わなければいいのだ。もうこれで最後にしようと思った。だが、柑橘飲料を持つ右手に、無数の目玉が現れ始めた。飲料の缶を取り落とすシズカ。左手で右手で押さえ、鎮めようとしたが、鎮まらず、目玉は全身に出現し始めた。またシズカの姿が薄らぎ出す。
「クッソっ!」
屈み込むシズカ。
「おーいっ! もう降参なのぉおおっ!!」
呼び掛けられ、振り返るシズカ。歩道橋の上に百目がいた。
「アイツっ!」
シズカはポケットからカッターナイフを取り出し、立ち上がった。カッターナイフまで透けて見えた。刃を伸ばし、ゆっくりと百目がおどけた様子で待つ歩道橋へ近付いてゆくシズカ。途中で速足で歩いてきた会社員にぶつかったが、
「すいませんっ、えっ? あれ?」
会社員にシズカの姿は見えておらず、シズカを苦笑させた。
「ヒャクメっ!!」
歩道橋を上りきったシズカは待ちかねたような百目と対峙した。
「もう悪ふざけは満足したか? これはどういう事だよっ?! 説明しろっ!」
百目は薄らぎ目玉まみれになったシズカを満足そうに眺めてから話し出した。
「んーとねぇっ、ただの人間がさぁ、この世ならず力でこの世の万事を『盗み見』し続けたってことは、そりゃあ自分の『姿』も盗まれ続けるよなぁああっ? お前は消えたよっ! 俺達と同じぃ! お化けにゃ学校も試験も何にも無ぁあいいっ!! ブフェフェフェフェファっ!!!」
シズカは無言で百目をカッターナイフで切り付けた。ブヨブヨとした体といくつかの眼球は容易く切断され、生臭い体液が飛び出た。
「痛ぁあああぃいいいっ!!!」
もがき苦しむ百目。シズカは本来の両目と全身の目を光らせた。
「もう加減しない。逃げられないよ? 百目、私を元に戻せっ!! 戻せっ! 戻せっ!!」
何度も百目を切り付け、百目の体と目玉をズタズタにするシズカ。自身も飛び出した百目の体液を全身に浴びていた。
「ぎゃあああああっ!! 痛いぃいいいっ! これっ痛いよぉおおおっ!!!」
絶叫して苦しむ百目。シズカは歩道橋の柵まで百目を追い込んだ。その後ろをシズカと百目がまるで見えず、声も聴こえていない通行人達が平然と通り過ぎてゆく。シズカはカッターナイフの刃を百目の卑小な口のすぐ近くの目玉にズブリっ、と突き刺しながら迫った。
「戻せっ! 百目っ!!」
「お、女ぁっ、多く盗みてぇ、百々目鬼と化しやぁああっ! ブフェフェフェフェフェファッ!!!」
シズカは百目に刺したカッターナイフをさらに押し込み、手首まで潰れた眼球中に抉り入れた。
「あっふぅぁっ?! そんなにぃ入れちゃうぅっ?! で、でもぉお、もう、元には戻りましぇーんっ! ちょ、鳥目返さぬ女ぁあっ! ブフェフェフェフェフェファッ!!!」
「うわぁあああああああッ!!!」
シズカは叫んで嘲笑い続ける百目を歩道橋から突き落とした。落下した百目は通り掛かったトラックに跳ね飛ばされ、近く電柱に激突して大量の体液と汚物のごとき臓物と全ての眼球を千切れ撒き散らしながら掻き消えていった。
「畜生ぉおおおっ! 畜生ぉおおおおおっ!! 他のヤツもっ、他のヤツも私と同じにしてやるぅうううッ!!!」
シズカは絶叫しながら完全なる変異を始め、無数の目を持つヌメる軟体生物のような姿と化し、制服は脱げ落ち、まだ持っていた百目の体液と肉片まみれのカッターナイフを取り落とした。
それから小一時間もした頃、夜の繁華街を一匹の新たな『百目』がさ迷い歩いていた。行き交う人々は誰も百目には気付かない。さすがの百目も気付かぬ者には手が出せなかった。時折、通行人にぶつかって当惑させつつ、百目は探し、求め、呟き続けていた。
「見ろ見ろ見ろ見ろ見ろ見ろ見ろ見ろ見ろ見ろ見ろ見ろ見ろ見ろ、見ろっ、見ろっ! 見ろっ!!」
百目は呟き、さ迷い、やがて自分が何の為にさ迷っていたか、忘れた。