04 カイエンプレリュード・上
「ねぇ、あの噂聞いた?」
「十六夜奇譚でしょ? 気味悪いよね」
「あんた達あんなの信じてるの? バッカみたい」
「……って、あ! あそこにいるの白澤君じゃない? 今日も超カッコいい〜」
放課後。主にエミルが女子達の黄色い声を浴びながらオレ達二人は旧校舎へ向かっていた。
「きゃああぁあエミル様ぁああ! こっち向いてぇぇええええ!」
「ちょっとあんた何抜け駆けしてんのよ、見つけたのは私よ!?」
「あんたこそ何よ! 私はエミル君と同じ委員会なんだから!」
「だから何よ!」
女子って怖い。
猪の如く突進してくる女子達を撒いて辿り着いた先に立つありがちな木造建築の建物は、元々翠ヶ崎学園が出来ると同時に廃校になった中学校の校舎を初等部の特別教室棟として再利用していたらしいのだが、老朽化が進み新校舎の完成と共にお役御免となった場所だ。
原則として生徒の立ち入りは禁止だが、その辺りは学園長の孫であるかなるんが上手いこと取り持ってくれている。
鍵が開いたままの昇降口から一歩中に入った途端に、むわりと嫌な空気に包まれる。
熱気とも冷気ともつかぬ、遣る瀬無さと寂しさを凝縮して出来たような、そんな空っぽな空気。
――頭が痛い。ストレスは胃よりも脳に行きやすい体質だから慢性的に偏頭痛を抱えているけれど、それがより酷くなるような。
あまり長く立ち止まっていてはエミルに不審がられるので、緊張を解すように軽く息を吐いてから足を進めた。
こまめに掃除はされていないのか床や窓枠には埃が溜まっていて、建物全体の雰囲気も暗く重苦しい。たったの七年間使われてなかっただけで、ここまで生気を失ってしまうものなのか。
必要とされないものが亡くなろうとする速度は速い。それは物であろうと、人であろうと同じだ。
「キンタロー? ぼーっとしてどうしたの?」
「何でもねーよ。さっさと行くぞ」
「あっ、待ってよキンタロー!」
半ば誤魔化すように階段を上って第二図書室と書かれたプレートのかかった教室の戸に手を掛けると、それはぎぎぎっと不吉な音を立てて開いた。
「你好……」
「Guten Tag!」
「あんた達っ……せめて日本語で挨拶しなさいよ!?」
真っ先に反応を示したのはかなるんだった。
朝と変わらず複雑に編み込まれた栗色の髪は毛の一本足りとも解れが無く、それでいてガッチリ固めているという訳ではなく、ふんわりとした出来栄えになっているのが凄い。これが女子力とかいうやつなのか。
「にゃんたろす君っ、いらっしゃーい……っと、おや? おやおやぁ?」
オレ達が所定の席に着くと、まるでそのタイミングを待ち構えていたかのように瑠奈はわざとらしくエミルを見て素っ頓狂な声を上げる。
「これはこれは。我らが邪神エーミール様じゃないですかー! なーんかお久しぶりな気がするね!」
「邪神? その呼び方は初めてだなぁ。ふふ、面白いね。……で、何かな?」
やはりオレがエミルを連れてくることは予測されていたのか、瑠奈に驚いている様子は見られない。
一方出会い頭に邪神呼ばわりされたエミルは笑顔で首を傾げている。それが何処か拗ねているような声色に聞こえたのは気のせいだろうか。
「もー、ノリ悪いな! エーミールって言ったら普通『そうか、そうか、つまり君はそんな奴なんだな』って返す所でしょ!」
「おう中一現代文ネタはやめーや。お前の運動靴の靴紐が走ってる最中に切れるよう細工してやろうか」
「はいはいっ、エミルモンペ怖い怖いっ」
反省しているのかしていないのかよく分からない返事と共に、瑠奈は自分の席に座り直した。
つくづく何を考えてるか分からない奴だ。エーミールはともかく、エミルの何処に邪神要素があるんだよ。むしろこの中では一番天使に近い存在だろ。他の面子が酷過ぎて比較対象にもならないってだけかもしれないけどさ。
まぁとりあえずエミルの天使さはギルティってことで。
「……で、これで全員か」
第二図書室にはいつものメンバーが集まっている。
オレ達が最後か……瑠奈はともかく、かなるんまでもがこんな早くに来ているのは珍しい。今日は部活が休みなんだろうか? 帰宅部のオレにはそういった情報が一切回ってこないので、そこは不便に感じる。
「いいえ。後二人来るらしいわ」
「そっかそっか……は?」
真正面に向き直ると、かなるんは平然とスマホを弄っていて。いやいやいや……お前、今なんて言った?
「二人? どういうことだ、もう四人全員揃って……」
「――すみません、遅れました!」
オレの声は甲高い女性の声に掻き消される。それとほぼ同時に戸が引かれる音が聴こえて、オレはほぼ反射で入口へ振り返った。
「あっカノンパイセン! よっちゃん! いらっさーい!」
「本日はお招き頂きありがとうございます、瑠奈ちゃん。ほら、夜桜も挨拶なさい」
「…………邪魔するぞ」
「にゃははっ! そんな堅苦しくならなくてもいいんだよ〜、ボクの方が年下なんだからさ!」
入口には男女二人組が立っていた。瑠奈が彼らの方へ駆け寄って何やら親しげに話しかけていることからしても、もしかしなくても残り二人とは彼らのことだろう。何というタイミングだ。
「そうだ、パイセン達にも紹介するね。左手に見えます巨乳の美少女がかなるんるん、黒髪の小さい子がにゃんたろす君、あそこの一瞬CGと見間違えるような白髪美青年は邪神エーミール……」
無関心な顔で瑠奈の説明を聞き流していた男子生徒の切れ長な青い瞳が不意にこちらを向いた。
そしてオレと目が合ったと思った瞬間、彼は血相を変える。
え、何?
「むっ……貴様ァ!」
「のわぁっ!?」
彼は徐に腰に提げていた竹刀を抜き、目にも留まらぬスピードで飛び掛かってきた。
それはあまりに唐突過ぎて。
オレは迫ってきた竹刀を顔に触れるギリギリの所で避けたものの、椅子の上で無理に激しい動きを取ったせいでバランスを崩し、床に転げ落ちる。
「ッ……」
更に転んだ時に思いっきり体を打ち付けてしまい、こちらが痛みに動けずにいる間にも青年は素早く体勢を切り替え、追撃の構えを持った。
一瞬本気で死を覚悟したが、飛んできた竹刀がオレには届くことはなかった。
真横から飛び出したエミルが青年の手首を掴み、竹刀の軌道を上手く逸らしてくれたからだ。
「……キンタローを虐めちゃ駄目だよ?」
幼子に語りかけるような柔らかい口調で窘めつつも、掴んだ手首の関節をあらぬ方向へと捻り上げるエミル。
狂犬病にかかった犬のように暴れていた青年も流石に関節に走る痛みに表情を歪め、竹刀を取り落とす。
そして青年が再び竹刀に手を伸ばすよりも早く、かなるんが竹刀を遠くへと蹴り飛ばした。
「キンタロー、怪我はない?」
「全く、ボサッとすんのは髪だけにしときなさいよね」
翠ヶ崎学園スポーツテスト男女総合トップによる捕縛劇を呆然と眺めていたオレは、二人に声をかけられて漸く我を取り戻す。
「ボサッとって……誰が上手いこと言えと。てかいきなり何すんだお前!?」
「問答無用! 此処で会ったが百年目、貴様は我が刀で斬り伏せてくれる! えぇい貴様ら放せ、放せぇぇえええええ!」
「お前はいつの時代の人間だ!? そもそも竹刀で人は斬れないから!」
青年は我武者羅に暴れてエミルを振り解こうとするが、流石は翠ヶ崎学園最強の男なだけあってエミルの拘束はそう簡単には解けない。
……というかエミル、さっきからさり気なく絞め技掛けてるけど、ちゃんと手加減してるよな? 殺しちゃ駄目だからな?
「エミルも程々にしとけよ……?」
「……キンタローが言うなら善処するよ。ただ今は上手く力加減出来るか分からないけれどね」
エミルはこの上無く冷え切った視線を男に注ぎ、無表情にそう唾棄する。
駄目だ、天使がマジギレしてらっしゃる。あの男もエミルを怒らせるなんて馬鹿な真似を……
ああもう、エミルから滲み出る澱んだ空気に後ろの女の子が怯えて涙目になってるし……
ふと、オレは今初めて正面から直視した少女のその顔に言い知れぬ既視感を覚えた。
「あれ、あんた……今朝の?」
「え?」
生まれたての子鹿の如く震えていた小柄な少女は、ゆっくりとオレに振り向いた。
互いの視線が交錯する。
此方を向いた黒曜石の瞳はやはり、今朝見たそれと寸分違わない無垢な澄んだ色をしていた。
少女の方もオレに気付いたのか、黒曜石の瞳が段々大きく見開かれてゆく。
「ぼっ……ぼぼボタンの人っ!?」
他に呼び方はなかったのか。
* * *
「すみません、取り乱してしまって……」
数分後。カノン先輩はやっと落ち着きを取り戻したらしく、おずおずと話しかけてくる。
さっき大声を上げてしまったことが今になって恥ずかしくなってきたのか、頬を朱色に染め、ただでさえ小柄な身体を更に縮こまらせている。
「にゃははっ、カノンパイセンはほんっと落ち着きないよね〜」
「あぅう、すみません……」
瑠奈がいつもの調子で絡みに行くが、カノン先輩はとうとう俯いてしまった。
な、何だこの乙女な反応は……何処かの厚かましいおっぱいとはまるで違うじゃないか。まさに天使……いや、それはエミルの称号だから彼女の場合は天から舞い降りし女神って所が妥当だろうか。うん、これで決まりだ。彼女は今日から心の中で女神と呼ばせてもらおう。
そしていつまでも俯いている女神が可哀想に思えて来た。此処はオレが上手くフォローしてやらないとな。
「いや、あんなのまだ可愛い方っすよ。かなるんなんて常時あの十倍は煩えですし」
「悪かったわね、落ち着きなくて……!」
「うむ全くだな」
「死・ね!」
うんうんと頷いていると机の下で足を蹴られた。だからそういう所が可愛げないんだっつの。
不意にかなるんは本当は少年漫画の世界の人間なのではないだろうかなどという下らない考えが過ぎり、雑念を振り払うかのように頭を振った。
しかし翠ヶ崎奏流、白澤エミリオーシュに続き黒瀬カノン先輩と来たか……オレの周りに集まる人はなんでこう揃いも揃って名前がキラキラしてるんだろう。ま、オレも大概人のことは言えないのだけど。
緋咲だけならまだ変わった苗字で済まされるものを、下の名前も漢字が……
「ところで、緋咲君? でしたよね」
鈴を転がしたような凛と透き通った声に、雑念が波打ち際の水のようにすぅっと引いてゆく。
オレを思考の渦から引き戻した張本人は幼さが残る顔に無垢な色を浮かべて、きょとんと首を傾げていた。
「あ、はい。何すか?」
「……えっと、一つ気になってることがあるんですけど……」
「はい?」
カノン先輩は余程慎重に言葉を選んでいるのか、俯き加減にもごもごと呟いている。一体何を訊かれるのだろうか。いや、実はもう大体は推測が付いているのだが。
やがて先輩は腹を括ったのか、決意に満ちた表情で顔を上げる。
「あの……! ど、どうして緋咲君は頭の上にお人形を乗せているんです?」
だらり、とオレのものではない長い髪が視界にかかる。
頭にずっしりとのし掛かる重みに精神的な疲弊を感じながら、オレは苦笑を浮かべた。
「やっと触れて貰えて何よりだよ」
「あ、やっぱそれ幻覚じゃなかったのね。あたしの目と頭がおかしくなったのかと思ってたわ」
「瑠奈さんは初めから気付いてたよ? にゃんたろす君なりのファッションなのかと思って触れなかったけど」
「なわけねーだろ……」
――何がどうしてこうなってしまったのか、事の顛末を説明しよう。
まず、オレは昼休みエミルが落とした本を拾っていた。その際自宅に仕舞っていた筈のこの人形を何故か図書館内で見つけ、不審に思いながらも確認の為に近付いて行った。……その時だった。
『キンタロー? 急にどうし……うわぁあ!?』
――後はお察しの通りである。
「つまり……にゃんたろす君の異変に気付いて此方に来ようとしていたエミル君がドジっ子スキルを発動して何も無い場所で躓いて転び、前に居たにゃんたろす君達もドミノ倒しの法則で倒れ、その結果にゃんたろす君の髪に人形が絡まったと?」
「凄いぞ瑠奈、パーフェクトアンサーだ」
「そんな漫画みたいなこと現実にあるんだ!?」
瑠奈ですら顔を引きつらせている。オレも信じたくないよ。けどこれが現実なのだ。そしてエミルはギルティなのだ。
「てかよく見ると薄汚れてるわね、早く取ったら?」
かなるんの指摘通り着物には埃やら土やらが絡み付いているし、だらりと足元まで伸び切った髪もボサボサで、昔親に無理矢理見させられたホラー映画に出てきそうなおどろおどろしい雰囲気だ。
「貞子の上に貞子か。ははっ、こいつは驚きだねぇ」
「いや驚いてる場合じゃねえよルナティック」
「というかいつまで乗せてるの? いい加減取ったら?」
「……」
そっと目線を外したオレに、瑠奈が少したじろぐ。
「……え? まさか外れないの? 昼休みからずっとそのまま?」
「…………」
……剥がせるものならオレも剥がしたい。
けど余程酷く髪に絡まってしまっているのか、エミルと二人がかりで引っ張ってもびくともしない。
こんな有様で授業を受けられる筈もなく、午後は丸々保健室で過ごす羽目になった。元々皆勤賞目指してた訳でもないし、別に構わないんだが。
ただオレを視界に収めた瞬間コーヒーを吹き出しやがったあの保健医だけは許さない。絶対に許さない。
「あんたねぇ、そんなワサワサしたヘアスタイルしてるからそんなことになんのよ! 切りなさいよこのケサランパサラン太郎!」
「ケサッ……?!」
オレの髪はギリギリ肩には着かない程度と、少々長めだ。
前髪も伸び過ぎて右目が完全に隠れてしまっているし、中学時代のあだ名なんて「男版貞子」だった。
更には元々が癖っ毛が酷い上に寝癖も直すのが面倒だからと放置してるので、毎年梅雨辺りは大爆発している。その時の姿は確かにかなるんの言う通りケサランパサランに見えなくもないが……未確認生物扱い……
「……もう切ろうかな……」
惰性で放置していただけであって、特にヘアスタイルに拘りがある訳でもないしな。この際切ってしまおうか、と毛先を指で弄びながら考えていた。
「駄目だよ!」
すると突然隣に座っていたエミルがバン! と勢い良く机に手を着きながら立ち上がった。
「ケサランパサランだか何だか知らないけど、キンタローはキンタローだよ! 他人の一言で自分のアイデンティティーを曲げるなんてそんなのキンタローらしくない! 今のままが一番可愛いんだから今のままでいいんだよ!」
「お、おう……?」
ついさっき図書館で見たそれと同じ、やけに熱の籠った説得力のある力強い目にオレは深く考えずに頷いていた。昔からエミルのこの目には逆らえない。
そんなオレを何処からか嘲笑するような気配を感じて振り向くと、不遜な態度でオレの席から一番離れている席に座っているエセ侍、もとい蒼井夜桜とまたも目が合ってしまった。
夜桜は目が合った途端、露骨に嫌そうな顔をして視線を逸らす。
エミル達の私的制裁のお陰で手は出してはこなくなったものの、オレがお前に何をしたというんだ。原因も分からず敵意だけ向けられ続けてたら流石のキンタローさんも傷ついちゃうよ?
……ん? というか夜桜の服装、何処かで見たことあるような気がする。
そんなに昔じゃない。ごく最近――
「……あ。今朝オレのこと睨んでた巫女コスのイケメン?」
――思い出した。この青い巫女服は、間違いなく今朝通学路でオレを睨みつけてきていた青年の纏っていたものと丸っきり同じものだ。
閊えていた疑問がストンと落ち、スッキリするが一方の夜桜は眉間に刻んだ縦皺を一層深くする。
「……これはコスなどではない、列記とした正装だ。後俺の名はさっきも言った通り蒼井夜桜。学年は貴様と同じ二年で、剣道部に所属している」
「え、同級生?」
てっきり年上だとばかり思っていたのにまさかの同級生と訊いて驚いた。
同学年なら例えクラスが違っても廊下や合同授業などで何度か顔を突き合わせていてもおかしくはない訳だし、夜桜の容姿と服装ならば間違い無く集団の中に居ても目を引くことだろう。むしろ何故今まで気づかなかったオレ。
「……同級生で何か悪いか?」
思わずまじまじと見つめていると、オレの不躾な視線が気に障ったのか一層鋭く睨みつけられる。
「別に。竹刀なんか装備してるからてっきり頭が可哀想な奴なんだと思ってたけど、単に剣道部だったからなんだなって……」
「張っ倒されたいのか毬藻頭」
「まりっ……!? いや、別に悪い意味じゃないぞ!? ほら、最近はゲームやメディアの影響で専ら刀剣ブームだし、夜桜もそういうのが趣味なのかなって思ってたんだよ!」
夜桜が殺気を濃くしながら立ち上がったので、慌てて釈明する。しまった、話題選びを間違えたか。余計に怒らせてどうする。
もう竹刀は取り上げてあるとはいえ、オレに襲いかかってきた時の動きを見るに夜桜は相当運動神経が良いし力も強い。ただでさえゴリラ女に日頃から殴る蹴るの暴力を受けているのに、これ以上はオレの身が持たない。
「チッ……まぁ日本刀は嫌いでもないが」
オレの必死な釈明が効いたのか、夜桜は舌打ちしながらも腰を下ろしてくれた。
否定はしないんだな。
しかし、剣道部か。
じゃあその服も部活勧誘のアピール衣装とかなのだろうか? 確かに夜桜は見栄えが良いし、女子からの人気票を獲得できそうだもんな。
「イケメンなんて皆爆発すればいい……」
「キンタロー、心の声が漏れてるよ」
エミルに小突かれて慌てて口を押さえる。
また怒られると恐る恐る夜桜を見上げると、不幸中の幸いとやらか彼の意識は既にオレに向いてはいなかった。
夜桜は机に突っ伏してゲラゲラと笑い転げている瑠奈を絶対零度に凍てつく瞳で一瞥すると、無愛想に口を開く。
「おい、俺はこんな犬も食わんような雑談をしに来た訳じゃない。それよりも、近頃噂されている十六夜奇譚とは何なのか洗いざらい吐いてもらおうか?」
端的かつ直球な問いかけに対し、笑い過ぎて過呼吸を起こしかけていた瑠奈がぴたりと止まる。
螺子の切れたオルゴールの如く、あるいは糸を切られたマリオネットさながらに何の前触れもなく唐突に止まったものだから、何だか薄気味悪い。
瑠奈は伏していた上体を起こすと、口角を釣り上げて破顔する。
破顔。顔を綻ばせて笑うという意味の言葉だけど、オレは敢えて別の意味を込めてこの表現を使った。
オレが破顔という表現を選んだのは、この時の瑠奈の顔が――文字通り破れているように歪に見えたからに他ならない。
「ああ、そうだったね。今日は十六夜奇譚についてお話しをする約束だったっけ」
大きく裂けた三日月形の口からは歯列が覗くでもなく、ただぽっかりと闇が広がっていて、空洞から吐き出された声に、オレは蛇が目の前で舌舐めずりをしているかのような悪寒を覚える。
これは何か良からぬことを企んでいる顔だ。この表情をオレは過去に何度も見たことがある。そして、その後は大抵ロクなことが起きないというのも。
「何だ、つい数時間前のこともロクに思い出せないのか? よもやその年で認知症を患っているのではなかろうな」
夜桜は不穏な気配を物ともせずに悪態を吐いている。肝が据わっているのか、それともただの馬鹿なのか。
こんな性格でもイケメンとか……爆発すればいいのに……
「まぁ貴様の事情など心底どうでもいい。この俺がわざわざ部活を抜けてまで来てやっているのだぞ。待たせるとはどういう了見だ黄月瑠奈」
「にゃははっ、メンゴメンゴ〜」
……やっぱりただのお馬鹿さんかな?
少なくとも初対面から今この瞬間まで夜桜が頭良さそうと思えたことは一度も無い。
しかし、ただでさえ夜桜に嫌われているらしいオレが余計な口を挟めば無駄に事を荒立ててしまうだけというのは重々承知しているので半眼で睨むだけに留めておくが。
「それじゃあ、閑話休題と行こうか」
ふっ、と蝋燭の火を吹き消すように瑠奈の声色が変わった。口調も何も変わっていない筈なのに、一瞬でその場が緊張感に包まれる。
出た、とオレは既視感を覚えながらも意識は自然と彼女の話に向いていた。
瑠奈の語りには人の関心を惹きつけ、焚きつける不思議な力がある。それこそ、魔法のような。
魔法もサンタクロースもとっくに信じなくなったけれど、どんなに有り得ない話にも真実味を帯びさせ、周りを意のままに操る彼女の話術はある意味一種の魔法だと思う。
瑠奈は鞄からやたらと分厚いファイルを取り出すと、それを机の上に広げた。
「……スクラップ帳?」
「そ。まずは七年前の事件の概要から順を追って説明しようか。既に知っている人も確認の為に一応耳に入れておいてね」
瑠奈の話をまとめると、大体こうだ。
二〇〇八年九月十五日。翠ヶ崎学園初等部に通う生徒四名が夜になっても帰ってこないと子供達の両親が通報したのがそもそもの始まりだった。
そのことはすぐに町中に知れ渡り、町民総出で捜索が始まる。
翌十六日の深夜、行方不明になった生徒の一人が血塗れの状態で山中を彷徨っていた所を保護される。
彼は大怪我を負っていた。更に丸一日もの間何処で何をしていたかの記憶が綺麗さっぱり抜け落ちていた。これは事件性があると見て警察も本格的に捜査を始める。
翌十七日、残る三人も当校の敷地内で揃って発見されることとなる。……物言わぬ骸となって。
発見された遺体は死因も性別もバラバラだったが、体の一部が持ち去られていたり、致命傷以外にも無数に不審な傷があったりと、遺体の状態からしても犯人は被害者の体に異常なまでに興味を示しているということが伺える。
犯人は大人だ。男だ。複数人だ。そんな憶測ばかりが世間には飛び交い、小さな町を震撼させた。
七年経った今でも結局残りの体のパーツは愚か犯人の尻尾さえ掴めていない。
「……気味が悪い話ね」
一通り話し終えた後で、かなるんが眉をひそめる。……いや、かなるんだけではないか。カノン先輩やエミルも狼狽えている。
オレだって驚きはしている。
けれど突然昔この十六夜町で猟奇事件があったと言われても、この長閑な田舎町とその話がどうしても結びつかなくて、テレビの画面越しに眺めている出来事のように実感が湧かなかった。
だが、これは紛れもない現実。こんな平和な町で起こった一大事件だから、皆事件に関連しているかも知れないなんていう曖昧な情報だけで十六夜奇譚なんていう胡散臭い噂に飛び付いたんだろう。
「遺体の一部を持ち去る……海外のシリアルキラーではそう珍しくもないけど、現代日本では稀だね……」
「ああいうのって、何故わざわざ人間を切り刻んだりするんだろうな」
殺した記念の品として凶器を取っておくという殺人犯の話をミステリー小説で読んだことはあるが、何故死体なんて持ち去ったんだろうか。
そのまま持ち去ろうにも、例え子供でも人体は結構な大きさがあるから隠すのは難しいし、小学生でも体重は最低二十キロから三十キロ程度はある。非力な女性には運ぶのも一苦労の筈だ。
一部だけ切り取って持ち去ろうにも、切断するのにも時間と力が要る。鋸? 鉈? チェーンソー?
何を使ったかは知らないが、相当な手間がかかるだろう。そして時間がかかればかかる程捕まるリスクも高まる。それに腐ると異臭がするし、臭いで不信感を抱かれるだろう。
犯人は何故そんなリスクを犯してまで遺体の一部を持ち去らなければならなかったのか。
どうしてもその理由が見えなくて悶々としていたが、瑠奈は何だそんなことかとばかりに笑った。
「にゃははっ、そこまで悩むことでもないんじゃなーい? ボクはもしにゃんたろす君やかなるんるんがお人形さんだったらずっと側に置いて眺めていたいと思うし〜、多分犯人も似たようなものなんじゃないかな?」
「…………」
オレは即座に聞かなかったことにした。
「にんぎょ……えっ……?」
「言うなかなるん。オレ達は何も聞かなかった。いや、瑠奈は初めから何も言わなかったんだ。いいな?」
「え、ええ」
かなるんの記憶からも会話の履歴を抹消するように言いつけると、吹き出すのを必死に堪えている瑠奈を睨みつける。
「……で? まだ話は終わってないだろ、続けろ」
「そう、だね。実はボク、聞き込みの段階で遺体の第一発見者と接触することに成功したんだ」
凍っていた教室内の空気が弾ける。
複数の人間が集まった時特有のザワザワとした、黒板を引っ掻いた音と同じくらい耳障りな不協和音。
六人も人がいれば仕方ないんだけど、どうにもこの音は好きになれそうにない。
瑠奈は笑いの発作が収まるのを待ってから、お得意の人を焚きつける語り口で淡々と捲し立てる。
「第一発見者の話によれば各遺体の側には花が描かれた本が置かれていたそう。しかし、警察が現場に到着する頃にはその本は忽然と姿を消していた」
「それって、何かの見間違いだったって可能性もあるんじゃ……」
「でも彼はその時の状況を今尚ハッキリと覚えていて、供述に不審な点も無い。警察は相手にしなかったようだけど、ボクはどうも引っかかるんだよね。……何せ、噂によればこの本こそが奇譚総集だって言われているのだから」
……所在不明の何が書かれているかすら謎の本か。様々な憶測が飛び交うのも頷ける。
この町の住人は随分と噂好きらしいしな。
かなるんは怖がりながらも気になるのか、熱心に話を聞いている。
第一発見者と接触、ね……よくもまぁ一人でここまでやれたものだと感心していると、瑠奈は唐突に話の流れを変えた。
「そうそう、それからこれまで十六夜奇譚に関わった可能性が高いと思われる人物は全員既に亡くなっているか、または連絡が取れなくなっているかのどっちかなんだよね」
「……お前一人でよくそこまで調べられたな」
「一人じゃないよぉ? ね、先輩方?」
心の準備を整える間もなく、唐突に話題の矛先を向けられた二人は全く正反対の反応を見せた。
夜桜は相変わらずの無関心、カノン先輩はその夜桜の背中に隠れて縮こまっている。主にオレの方を見て恐がっているように見えるが、オレはそんなに怖い顔をしているだろうか。……しているんだろうな。
「にゃはは、皆急にマジになってどーしたの〜? じゃなきゃ二人をここに呼ぶ訳ないじゃーん!」
瑠奈が二人を招いた理由。
それは自分の協力者だから、か。
……まぁ、このくらい少し考えれば分かる。
いつもの集まりとは無縁の二人がやってきた時点で薄々勘付いてはいた。
勘付いてはいたけど、気に留めなかった。
それだけだ。
……ふと、先輩達は何故瑠奈に協力しているのか気になった。
未解決事件への好奇心? いや、夜桜はともかくカノン先輩の人柄的にそれは無い。まだ出会って数時間も経っていないけれど、どうも彼女はそういう軽々しい気持ちで過去を掘り返したりはしなそうだ。
……というより、人前ですぐに泣き出すあの気弱な女の子が好奇心だけで十六夜町のタブーだろう事件に手を出す姿が想像出来ないだけだけど。
じゃあ、瑠奈と仲が良いから? これまでのやりとりを見ても大分親しそうな印象を受けたし、親しい友人の為に一肌脱いだとか……あるいは、瑠奈に騙されているとか。
自分の好奇心を満たす為なら手段を選ばない瑠奈が、素直なカノン先輩を上手く言い包めて無理矢理此方側に引き込んだ……
…………奴ならやりかねないな。
オレも瑠奈と出会って間もない頃に同じ手を使われた経験がある。だから断言しよう、瑠奈ならやる。
オレは無言で立ち上がると、つかつかと大股で瑠奈の方へ向かう。
そして右手でフードを掴んで引き寄せると、左手の親指と中指で円を作って瑠奈の額に狙いを定める。
「あ、あれぇ……にゃんたろす君? 顔が怖いよ〜?」
さしもの瑠奈も不穏な空気を感じてか、軽口を叩きながらもその声はか細い。
それにオレはこの上ない笑顔で答えた。
「ああ、少し昔の恨みを思い出してな。くらえ緋色の波動! 灼熱列弾ッッ!!!!」
「アイエェェェエエエエエエエエエ!!?」
実に奇妙な断末魔を上げ、瑠奈は椅子ごと横向きに倒れた。金糸の髪が払われたことで覗いた白い額には真っ赤な痣が残っている。
「あ、相変わらず衰えないね、キンタロレッドよ……ゴフッ……」
そう言い残して瑠奈は死んだ。
「る、瑠奈ちゃあああぁん!?」
「――こうして悪はキンタロレッドによって滅された。地球に平和が戻った瞬間である」
「やったねタロさん! ダークヒーローなタロさんもかっこいいよ! タロさん!」
悲鳴を上げて瑠奈に駆け寄るカノン先輩を横目に、オレが最後のナレーションを告げるとエミルもといエーミールホワイトが囃し立てる。
「フッ、強くてかっこいいオレにかかればこのくらい他愛も無いぜ」
「ちょっと! 瑠奈さん生きてるからね!? 勝手に殺さないでもらえるかなっ!?」
「知っとるわ。ほら席に戻った戻った〜」
カノン先輩の必死の介抱の賜物か、目を覚ました瑠奈がガバッと起き上がって文句を垂れるけど、オレは何事もなかったかのように元の位置へ戻った。
残された瑠奈は若干潤んだ目でオレを睨めつけ、訳がわからないと言いたげに唸る。
「うぅ、どうしてボク急にデコピンされたの……?」
「デコピンじゃない。灼熱列弾だ。ここ大事。テストに出るからな。間違えたらかびるんがカビキラーしに行くからな」
「あたしを茶番に巻き込むなッ! 後かびるん言うな死ねぇッ!」
「うぉおおおおお!?」
で、出たー! 一秒間に百八発パンチを繰り出せると噂のかなるんにしかできない、一切の痕跡を残さない超音速パンチー!
今回も動きは速すぎて全然見切れなかったが、読みは当たったぜ! パンチが来るだろうタイミングに合わせて屈んだから無傷! 流石オレ、殴られ続けて十年の勘が冴え渡るぜ! あれ? なんか目から汗が出てきたぞ!
……しかし、このままではいつものノリが延々と続いてしまうので、無意味なヒーローごっこはここまでにしよう。
決してこれ以上余計な言動をして恐怖の暗黒クソ魔界女帝カナメリア・カナールンの怒りに触れたくないとかじゃないからな? 違うからな?
「で、そもそも奇譚総集って何なんだよ?」
「この町に隠されている五色の本の噺さ」
未だぶつくさと恨み言を垂れていた瑠奈だが、一応疑問に答えてくれた。心なしか答えが雑なのは拗ねているつもりなのだろうか。分かりづらい奴。
「十六夜町の何処かに、表紙にチューリップ、白詰草、薊、紫苑、菖蒲の花の紋様がそれぞれ描かれた五冊の本・奇譚総集が隠されている。これら全てを解放すると、願いが叶うとも云われている。……けれど、十六夜の夜が明けるまでに見つけられなかった場合、死ぬ」
「随分重いデメリットですね……」
「にゃははっ、願い事を何でも叶えてくれるっていうならこれくらいは当然じゃない? ちなみにこの話が広まり始めたのは事件の一年くらい前かな」
「ふぅん……」
何もせずに勝手に願いを叶えてくれるだなんて虫の良い話、胡散臭くて誰も信じないだろうからな。チートの代償はこれくらい高く付いて然るべきなのだろう。
「ともかく、十六夜奇譚と例の事件は繋がってる……ってことで良いんだよね?」
「ああ。いくつか引っかかる箇所はあるが、少なくとも二つの話には共通点がある」
確認するように耳打ちしてきたエミルに小声で返す。すると彼は驚いたように目を丸くする。
「……信じるの?」
「ああ、瑠奈が言うなら信憑性は確かだろうよ」
手に入れた情報はすぐ誰かに喋りたくなる、そんな秘密事が守れない系女子の典型とも言える瑠奈が「放課後まで」って勿体ぶったんだ。
つまり、瑠奈はそれだけこの情報に自信を持っているということに他ならない。
「瑠奈が言うんだから、例の事件の被害者が十六夜奇譚に関わっていたってのは信じるさ。けど、飽くまでも二つの話が共通している可能性が出てきたってだけ。十六夜奇譚が彼らの死に直接関連があるという証拠にはならない」
七年前の事件は現実に起きた出来事。それは間違いない。
だが、十六夜奇譚はどうだろうな。その奇譚総集が本当にあったとしても、噂通りの効果を持っているかなんて分からない。
内容自体が酷くあやふやだし、ネットや井戸端で顔も知らない誰かによって伝播していたものを偶然瑠奈が拾ったというだけで、信憑性に欠ける。
「直接、ね……じゃあ、間接的には関連があるかもしれないってこと?」
鋭い所をついてきたかなるんに一瞬言葉が詰まる。……本当、お前は昔から変な所で勘が鋭いな。お兄ちゃん将来が怖いわ。
「さぁ、そこまではな。どっかの酔狂なオカルトマニアが巷で噂の怪談を再現したってだけかもしれないし」
不謹慎とは分かりつつも戯けてみせる。というか、オレは十中八九そうだと思っている。
これはただのオレの偏見だが、ドラマなんかでは普通呪いによる死因は似た寄ったものになっていると思う。だが、瑠奈は被害者の死因はバラバラだと言っていた。
それに二つの話の共通点たる「遺体の側の本」だって、実物が存在しない。凄惨な子供達の遺体を目にし、気が動転していた第一発見者が見た幻かもしれないじゃないか。
「第一、呪いなんて非科学的なものが現実にある訳ない」
「……何故そう思うんですか?」
前方から飛んできた厳しい声に、いつの間にか自分が声に出して言っていたことに気がつく。
「何故そう思うんですか?」
カノン先輩は尚も同じ言葉を繰り返す。
まるで彼女の周りの空気が、急にそこだけ変わってしまったかのような。そんな拭い切れない違和感。
「何故って……呪いだの都市伝説だの、そんなものは全部暇な奴らが作ったネタ話だからに決まってるだろ?」
「……確かに都市伝説の中にはデマも多く紛れていますが、全部が全部そうとは限りませんよ?」
強気な反論が返ってきて、ただただ気圧される。
奥の奥まで透けて見えそうな綺麗な黒の虹彩に、逆にこちらが深くまで見透かされているような錯覚を覚える。
「先程非科学的とも仰いましたけど、科学方面での捜査は警察が既にしているでしょう? それで未だに凶器は愚か犯人すら見つけられていないのですから、私達はありとあらゆる可能性を受け入れての捜査をしてみるべきだと思いますけどね」
……唖然とするしかなかった。
まさかあのひ弱で大人しそうな少女がここまで強気に物を言えるなんて、というのもそうだが、何より彼女が怒っているという事実に。
……いや、いくら温厚そうに見えても彼女だって人間だ。怒らない人間なんていない。でも、彼女は一体何に対して憤っているんだ?
「カノン先輩は……犯人は人間以外だと言うんですか?」
「私はただ、可能性を初めから除外して考えるのはあまり賢明とは言えないと指摘しているだけですよ」
……意味変わんないじゃん。
遠回しに言ってるけど、結局人間以外の犯行を疑えってことなんだろ……
冗談じゃない。第一オレはオカルト的なものは信じていないし、信じたくもない。
だって幽霊とか、あんなこの世のありとあらゆる法則を無視しまくった奴らがマジで居たらどうするんだよ。万が一奴らと遭遇した場合、科学の通用しない奴相手にどうやって戦えって言うんだよ。無理だろ。ケツ毛燃えるわ。
議論が白熱しそうだったオレ達を諌めたのは、困ったように笑う瑠奈だった。
「まぁまぁ、落ち着いてよ二人共〜。にゃんたろす君の言い分も分かるけど、カノン先輩の意見にも一理あるかもよ? 人間は先入観に惑わされる生き物だから、色んな側面から物事を見るというのは大事だし。それに魔術っていうのは単なる不思議現象じゃなく、一つの学問として確立されるくらいには結構論理的な考えが求められるんだしさ」
何にせよ、議論するには判断材料が余りにも少な過ぎる。
だからこそ、否定も肯定もできてしまう。
瑠奈が言いたいのは、つまりはそういうことなのだろう。……随分と遠回しな言い方だけど、何とも彼女らしい諌め方だ。
「やれやれ、まるでシュレディンガーの猫みたいな言い方だな」
「しゅれ……? 何よそれ」
皮肉を込めて呟くと、エミルやかなるんが心底不思議そうに首を傾けた。
ん? 此奴ら、聞いたことないのか?
「シュレディンガーの猫な。えーと、細かいことを言えば量子学の話になるんだが……」
「箱の中に閉じ込めた猫が生きているか死んでいるかは箱を開けるまで分からないでしょう? 要するに箱を開けて観測するまでは猫が生きている世界と死んでいる世界の二つの世界が存在している、という話ですね」
どこから説明すべきか悩んでいると、斜め前から割り入ったカノン先輩が簡潔にまとめてくれた。
「……うん、まぁそういうことだ。分かったか?」
「ああ、それなら僕も似たような話を耳にしたことがあるよ。確かバタフライエフェクト、だったっけ?」
「それも面白いですよね。小さな蝶の羽ばたきが起こす微風が諸々の事象に干渉した結果、地球を一周する頃には大きな嵐になるなんて」
エミルとカノン先輩はすっかり意気投合して、常人には理解できない高度な会話を繰り広げ始める。あれ、初めにシュレディンガーの猫とか持ち出したのってオレだよな? 何だこの疎外感は?
助けを求めるように周囲に視線を彷徨わせていると、ぐるぐると目を回している奴がもう一人いたので、オレはそっと其奴に耳打ちした。
「……今の話理解できたか?」
「いいえ、全く頭に入ってこなかったわ……あれは宇宙語……? あの子達はエイリアンなの……?」
特進クラスコンビだよ。
「……おい、盛り上がるのは良いんだけどそろそろ話戻して貰っていいか? バタフライエフェクトとか最早哲学の領域だろ」
「ああ、そうだね。それじゃあ今度こそ本題に移ろうか」
「今までのは前置きだったのか」
でも、もう話すことは大体話したよな? 事件の概要に、奇譚総集。誰かのお陰で話が逸れてしまった分時間が長く感じていたけど、時計を見るとまだ此処に来て三十分も経っていない。
「まず、ボクが今回この場所を指定した理由。それは単に此処がボク達の溜まり場だったのと――件の事件の遺体発見現場だったからだよ」
光の速さでかなるんが飛び退いた。
「ちょ……な、なんてことを言うのよ……!?」
「ナイス反射神経! あれあれ、その反応だと知らなかった?」
わなわなと震えるかなるんに瑠奈はファイルから新聞の切り抜きらしきものを取り出すと、それを見せつける。
わざわざ好き好んでそんな物騒な事件の起きた現場に集まる馬鹿がいるかよ。
「つーか……そのファイル、中身全部切り抜きか?」
「うん。まぁこれは全部コピーだけどね。当時の新聞や週刊誌から漁るの地味に大変だったんだよ?」
地味に、というかかなり大変だったろ。
パンパンを通り越して最早はち切れる寸前まで無理矢理詰め込まれたファイルに視線を移す。
瑠奈が情報収集好きなのは知っていたけど、七年前当時からの新聞や週刊誌って相当な量の筈じゃ……
「お陰で成績が少し下がったよ」
「馬鹿だろお前」
オレは今の成績を維持するだけでもギリギリだというのに、その気になれば学年十位以内も夢じゃない奴が何やってるんだよ。その無駄な頭脳を馬鹿なるんに分けて差し上げろ。
「なんか今失礼なこと言われた気がするんだけど……」
早速野生の勘が働いたのか、かなるんは胡乱気に辺りを見回している。くわばらくわばら。
「さて、粗方の説明も済んだ所でもう一つ大きなお知らせがあります」
「……まるで嫌な予感しかしないが、何だよ」
瑠奈はファイルをぞんざいにその辺に放り投げると、再び鞄を弄り始めた。
鞄から出てきたのは、表紙に大きく黄色いチューリップが描かれた本。
「奇譚総集、一個見つけたんだよね」
今日は一段と偏頭痛が酷くなりそうだった。