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セルティムⅤ  作者: Uma
五番目の覚醒
7/20

5話

 翌日、優人は無事に退院した。

 宮岸と久我に見送られ、真紀恵が運転する車で星野家へと向かう。

 ロクスソルス都市は西側が軍事施設や研究施設が建つ軍事区域、東側が民間人の住む居住区域となっている。東へ車が進むにつれて、ロクスソルスは街としての姿を見せ始める。

 そして真紀恵が車を止めたのは一棟の高層マンション。二五階あるというマンションの十五階の一室が星野家の住居のようだ。

「まずはお茶にしましょう。座って」

 部屋は3LDKで、なかなか広い。家族三人が住むには十分な部屋だ。

 ダイニングの椅子に座ると、すぐにキッチンからマグカップを二つ乗せたトレーを持って真紀恵が出て来る。

「コーヒーで大丈夫?」

「うん、ありがとう」

 マグカップを受け取り、そのまま一口。

 すでにミルクが入っており、マイルドでありながら砂糖が入っていないため苦みが口に広がる。

 いつもの優人の飲み方だ。

 真紀恵はそれを覚えていてくれたのだろう。

 そんな小さなことに幸せを感じる。

「そういえばミナは?」

 家に行けば会えると思っていたが、姿を見ない。部屋に籠っているのか、と思ったが人の気配がしない。

「美奈々は中学生よ。まだ学校に決まってるでしょ」

 そこでようやく今日が平日だと気付く。

 今までが今までだったので、平日は学校へ行く、という日常を忘れてしまっていた。

「そうだった」

 少しの気まずさをコーヒーの苦みで誤魔化す。

 コーヒーがマグカップの半分まで減ったところで真紀恵が改まって話を切り出した。

「ねぇ、優人はこれからのことを考えてる?」

 これから、というのは優人の身の振り方だろう。

「まぁ働こうかなとは思ってる。まずはバイトでもしながら就職できそうなところを探そうかなぁと」

 優人なりに今の自分でできることをいろいろ考えた結果だ。

 だが、真紀恵はどうも納得がいかないようで「うーん」と不満そうな声を出す。

「今の優人の頭で就職できると思う?」

「……」

 遠回しにバカと言われて絶句する優人。

(母さんにまでバカって言われる僕って……)

「それでね、優人。一年間勉強して大学に行かない?」

「え、大学?」

 バカ呼ばわりされてまさか大学に行くことを勧められるとは思わなかった。

「でも、僕の頭じゃ行けないし」

 バカ呼ばわりされたことにふてくされる優人。

「だから勉強するの。それに優人、夢があるでしょ」

「……」

 真紀恵の言葉で思い出す。

 天文学者になること。そしていつか宇宙に行くこと。

 十年前に優人が思い描いていた夢だ。

 その夢をすっかり忘れていた。自分の進みたい道を自分で閉ざしていた。

 こんな状況だから無意識に夢を諦めていたんだろう。

 それを改めて真紀恵に気付かされて、優人の心を揺れ動く。

(大学か。行きたいけど)

 それでいいのだろうか、という気持ちがある。家族のために生きる道を選んだ自分が自分の道を進んでいいのか。

「でも、大学ってお金もかかるし」

「お金のことは心配しないで。こんないいマンションに住めるくらいにはお母さん稼いでるんだから」

「でも……」

 渋る優人に「でもじゃない」と真紀恵が言う。

「優人が働きたいと思う理由、お母さんにはわかるわ。私や美奈々を気にしてくれてるんでしょ。でもね、私は優人がやりたいことをやってほしいの。だから正直になって。お母さんは優人にやりたいことをやってほしいわ」

「やりたいことを……」

 家族のために生きたいと思う優人。

 優人のやりたいことをやってほしいと思う真紀恵。

 二人の思いが重なる道はどこだろうか?

 それは結局、優人の考え方次第なのかもしれない。

 やりたいことをやることが真紀恵のためになると考えれば、優人と真紀恵の思いは重なる。

(それなら僕が選ぶ道も決まってる)

 俯いた顔を上げ、真紀恵と視線がぶつかる。

「母さん、僕大学に行くよ。いや、僕を大学に行かせてください」

 机に額がぶつかるんじゃないかと思う勢いで、優人は真紀恵に頭を下げた。

「うん。わかった」

 真紀恵は満足そうに頷くと、「じゃこれね」と数十冊にもなる本を机に置いた。

「……母さん、これって」

「参考書。勉強する時に使うでしょ。しっかり勉強するのよ」

「う、うん」

 積み重なった本の厚みに圧倒されながらも、優人はその一冊に手を伸ばした。

 パラパラと参考書をめくり、一言。

「母さん……これ中学受験の参考書なんだけど……」

「うん、まずは基礎からしっかりね!」

 と満面の笑みで答える真紀恵。

「……」

 母親の評価が小学生レベルなことに言葉がでなかった。

「そうそう、それから天智の部屋も用意したの。見て見て」

 真紀恵に引っ張られて、部屋のドアを開く。そこはベッドと机が置かれた部屋。

「二人暮らしだったらこの部屋は物置だったんだけど、この前綺麗にして天智の部屋にしたの。最低限のものは揃えてあるから何かほしいものがあったら言って」

 部屋六畳ほどの広さで一人部屋にしては広い。

 部屋の真ん中でグルッと見回すと、そこにはあるはずのないものを見つける。

「母さん、これ……」

 使い古された天体望遠鏡。

 一瞬見てすぐに気付いた。これは天智が使っていた天体望遠鏡だ。

「オルティムの襲撃の時にあの子が持ってきたのよ」

 あの子が誰かは決まっている。

 美奈々だ。

「美奈々、優人がこれを大切にしていたこと覚えててね。絶対に持って行くって言うこと聞かなかったのよ」

「ミナが……」

 この望遠鏡は天智がバイトをして買ったものだ。

 天体観測に興味が出てすぐに天智は望遠鏡がほしくなったが、それを言い出せず高校一年生になり、バイトが許させる歳になってすぐにバイトして購入した。

 それから二年間ずっとこの望遠鏡で天体観測をしてきた。

 天智にとって高校生活を共に過ごしてきたものと言ってもいい。

 天智はまるで古い知人に再会したような気分で、その望遠鏡に触れた。

「……?」

 そこで違和感を覚える。

 望遠鏡にまったくホコリがかぶってない。そもそも組み立ててあるということは誰かが使っているということだ。その証拠に調整したあともある。

「美奈々が使ってるの」

 天智の心を読んだように、真紀恵が言う。

「ミナが?」

「ええ、居住区域は電気の制限をされていて、午前十二時を回ると全ての電力配給がなくなるから、街に灯りがなくなって綺麗に星が見えるの。週に一度はベランダから望遠鏡を使って星を見てるわ」

 胸が熱くなった。

 妹が自分と同じことに興味を持ってくれることがこんなにも嬉しいとは思わなかった。

「今度、天体観測に誘ってみたら?」

 是非そうしたいところだが、あの時のことを思い出すと断られるだろうな、と溜息を吐いた。

 そんな様子の天智に「言ってみないとわからないわよ」とまた心を読んだように真紀恵が微笑むと部屋から出て行った。


 その夜、美奈々が帰ってきて十年振りに家族三人で食事を取った。

 真紀恵は終始笑顔で嬉しさが滲みでていたが、美奈々はムスッとした顔で食べていた。食卓は真紀恵が一方的に何かを話して、それに天智が相槌をうって、美奈々は黙るという状態だった。

 結局今日は美奈々と会話らしい会話はできず、学校から帰ってきた美奈々に「おかえり」、風呂からあがって自室に行く美奈々に「おやすみ」と声をかけただけだ。もちろん、美奈々から返事はなく無視された。

 十二時を回ると、真紀恵の言う通り全ての電力供給がなくなった。

 とはいっても本当に電力がなくなると、冷蔵庫や冷暖房類が使えなくなるので、このマンションでは部屋ごとに蓄電器が備え付けられて、ある程度の電力は供給されるようだ。

 十五階のベランダでは都市から灯が一瞬で消える様子が見られた。

 あれだけ都市を照らしていた灯はなく、地上は闇に包まれた。

 そして人工的な輝きによって押し殺されていた空の輝く自然の輝きが地上の闇を照らし出す。

「――」

 今まで感じたことのない夜空の眩しさが天智を襲う。

 空を埋め尽くす星。灯など必要ないと思うほどの眩しさ。

 これが本当の星空。

 地上に灯がなかった地球の星空。

 技術が進んだ未来で、こんな星空が見られる日が来るとは思わなかった。

 天智はさっそく望遠鏡の調整を始める。流石に十年も経っているだけあっていろいろとガタがきているが、ちゃんと手入れがされているようで問題なく使える。

 ガタン――と窓が開く音がした。

 調整する手を止めて音の方へと視線を向けると、そこにはタンクトップにショートパンツとラフな格好をした美奈々の姿があった。

「ミナ?」

 どうした、という意味も込めて名前を呼ぶと、冷たい視線が返ってくる。

 目で殺されて言葉が出ない。何か自分に用事があったからベランダに出てきたのだろうが、それを問う一言さえも出せない。

(き、気まずい……)

 何か喋ろうと話題を探すも、どんな話題でも美奈々を怒らせる気がする。

 思春期の妹の扱いに戸惑う優人。

「……」

「……」

 美奈々の様子を伺うだけで時間が過ぎる。

 気まずさに耐えかねて、怒らせる覚悟で何か喋ろう、と思ったところで美奈々が口を開いた。

「昨日――」

「……?」

 たった一言だけ発して美奈々の声が止まる。

 歯切れが悪い。何か迷っているみたいだ。

 だが、すぐに決断したようで言葉を続けた。

「軍の人と会ったんでしょ?」

「あー……会ったけど」

 真紀恵から聞いたのだろう。

 そのことを気にしているようで、美奈々はまた迷ったような顔をする。

「その……どうするの?」

「……えっと、何が?」

 察しの悪い優人に、美奈々の眉間にシワがよりあからさまに不機嫌になる。

「軍に入るの!? 入らないの!?」

 強い口調で言われてようやく質問の意味を理解する。

 意外だ。美奈々が優人の事情を気にしていることが。

 美奈々は自分のことを家族として認めていないとばかり思っていた。

 だが少しは家族として優人を気にかけてくれているようだ。

 それが嬉しくて優人は微笑みながら答える。

「入らないよ。僕は軍には入らない」

 はっきりと答えると、美奈々は「そう」とだけ答えて顔を背けてしまった。

 そしてまた二人の間に会話はなくなった。さっきまでの気まずさはない。

 優人は望遠鏡の調整を再開して、なぜか美奈々はベランダに置いていた折り畳み式の椅子を広げて座り、黙ってその様子を見つめている。

 優人は美奈々を盗み見た。

 用が済んだのに部屋に戻る様子はない。

(まぁいいか……)

 本人がそうするなら優人に止める理由はない。

 望遠鏡の調整を終えたところで、優人は一つ大事なことを思い出した。

 振り返ると美奈々と視線がぶつかる。

 ビクッと肩をゆらす美奈々。

「母さんから聞いたよ。この望遠鏡持って来てくれたって。ありがとう」

 お礼を言われたことが予想外だったのか、意外そうな顔をする美奈々。

 美奈々はすぐに顔をそらして、口を開く。

「べ、べつに、私も天体観測に興味あったし、私がなくなると困るから……」

「そっか。ミナはけっこう天体観測するの?」

「別に、普通」

「そ、そっか普通か……」

 その普通がどのくらいなのか聞いているんだが、優人には聞き返す勇気はなかった。

「あとさ、そのミナって呼び方やめて。なんだか子供っぽい」

「子供っぽいって、美奈々はまだ子供だろ」

 そう言った瞬間、美奈々に睨まれる。

(しまった……)

 思ったことが口に出てしまった。

「私、もう十五なんだけど」

「そ、そうだよね。十五っていったらほら義務教育も終わるし、高校生になるわけだからね。もう立派な大人だ。いやぁ、ミナも大きくなったもんだなぁ」

 とりつくろうように美奈々を持ち上げるが、美奈々の機嫌はなおらない。むしろどんどん眉間のシワは濃くなっている。

 これはもう誤魔化しきれない。

「あーごめん。どうしても五歳だった時のミナが頭をちらついて。これから気をつけるよ」

 素直にそう謝ると、ようやく美奈々は許してくれる気になったのか、「別にいいけど」と顔を背けた。

「で、なんて呼べばいい? ナナ?」

「普通に美奈々でいいでしょ! あだ名にこだわる意味がわからんない!」

「了解、美奈々さん」

「さんはいらない!」

 ぷりぷりと怒る美奈々。そんな姿がおかしくて思わず笑ってしまう。

 美奈々は「ホント意味わかんない」と悪態をつくが、不機嫌ではなさそうだ。むしろどことなく楽しそうにも見える。

 なんとなく美奈々とわかりあえた気がして嬉しくなる。

 今まで美奈々だとわかっていてもどことなく美奈々じゃないように思えていた。優人にかかっていたフィルターがとれて、ようやく美奈々を美奈々と感じられる。

 美奈々は優人が愛した美奈々だ。

 それからまた無言の時間が続いた。

 優人は天体観測を続けて、その様子を美奈々が観察する。気まずいことはなかったが、美奈々は明日も学校があるはずだ。そろそろ寝るように言うか迷った時、美奈々が立ち上がる。

「もう眠いから寝る」

「そっか……」

 それはそれで少し残念だ。

「おやすみ、美奈々」

 ベランダを出ていく背中に呟く。返事はなかった。

 美奈々は部屋へと戻り、バタンと窓が閉まる。

 そのまま自室へと戻ると思ったら、一回だけ振り返った。

 口が動いたので、何かを喋ってることはわかったが、窓越しだったせいで何を言っているかまでは聞き取れなかった。

 美奈々が自室に入っていくのを見送ると、それとは入れ違いで真紀恵が自室から出て来た。

 真紀恵はまっすぐ優人のもとへ。そしてベランダへと出て来る。

「ベランダで喋ってたらご近所迷惑よ、優人」

「ごめん」

 真紀恵は来ていたケープを肩までかけると、「少し寒いわね」と呟く。優人は上着を脱いで真紀恵に差し出す。「ありがとう」と真紀恵は優人の上着を羽織る。

「でもよかった。あの子ったらなかなか優人と話そうとしないから心配してたのよ」

「そりゃ十年前に会ったきりの兄がいきなり出てきたらそうなるって」

 そう言う優人に真紀恵は「わかってないわね」と呆れ顔をする。

「えっと、何が?」

「たぶん私より美奈々は優人と会いたがってたわ」

「はい? いやいや、そんなわけないよ。再会して最初の一言が触らないでだよ。すごく嫌われてるじゃん。それに最後に会ったのは美奈々が五歳の時だ。会いたがるどころか、覚えてるわけないよ」

 五歳の時の記憶なんて曖昧だ。

 優人だって五歳の時の記憶なんておぼろげにしか覚えていない。

「何言ってるよ。あの時美奈々と一番近くにいたのは誰? 優人よ。私は仕事で帰ってくるのは夜で、美奈々の世話はいつも優人が見てたわ。美奈々にとって優人は兄でもあり、お父さんでもあったの。美奈々はちゃんと覚えてるわ。あの時誰が一番自分を愛していてくれたのか。優人が死んだってことになって一番悲しんだのは美奈々なのよ」

「え……」

「あの時美奈々は小学生で、すごく泣いてたんだから。しばらく学校にも行かないで、昼間なのに望遠鏡をベランダに出してずっと泣いてて。見ていられなかったわ」

 今の美奈々から想像できない姿だ。

「今は少し素直になれない時期だからそんな風には見えないでしょうね。でもどれだけ成長してもあの子は変わっていないわ。お兄ちゃんのことが大好きな美奈々よ」

 胸に熱がこもる。泣きそうだった。

(よかった……目が覚めて本当によかった……)

 また家族に会うことができてよかった、家族を悲しませずにすんで本当によかった。

 十年経って何もかもが変わってしまったと思った。自分の居場所はどこにもないと本気で思った。

 でも変わらないものもあった。

 人の想いは変わっていない。

 それが何よりも優人には嬉しかった。

 そして改めて優人は決意する。

「僕、二人のそばにいるよ。この十年間、母さんと美奈々が辛い時にそばにいられなかった分を返していくよ」

 そう口にする優人に真紀恵は優しく微笑んだ。

「お昼の時も言ったけど、あんまり私たちのことばかり考えないでいいのよ。優人には優人の人生があるんだから。だから自分の好きなように生きないさい」

「母さんは本当にいい親だな」と呟くと「茶化さないの」と真紀恵に叱られる。

「でも僕が今やりたいことはこれなんだ。だからそばにいさせてくれない?」

 深いため息をつく真紀恵。

「まったく貴方って子は本当に昔から自分のことより他人のことなのね」

「他人じゃなくて、家族だからね」

「そうね。貴方はいつも私や美奈々に優しかったわ。――それに友達にもね」

 真紀恵の表情がかげる。

 何事かと優人が尋ねようとすると、「そろそろ寝るわ」と言って上着を優人に返す。タイミングを失って優人は何も言わずに上着を受け取った。

「貴方がそういうならそれでいいわ。でも、他にやりたいことができたら何も気にせず言っていいのよ。その時は私が美奈々を説得してあげるから」

 そんな状況になったら美奈々は大激怒してもう一生口を利いてくれなさそうだ。

「それじゃあまり夜更かししないように」

「うん、おやすみ」

「ええ、おやすみ、“お兄ちゃん”」

 なぜかやたらとお兄ちゃんを強調して真紀恵は自室へと戻った。

 その意味がわからず、優人は首を傾げた。


 早朝、家族三人で朝食をとっていると真紀恵が楽しそうに言った。

「買い物に行きましょう」

「いきなりどうしたの?」

「いきなりじゃないわ。二人暮らしが三人暮らしになるんだから、これから物入りでしょう? 優人の服だって私が急いで買ったものしかないし、今日中に優人のものをいろいろと買い揃えておかないと」

 まぁ当然と言えば当然だ。優人も着た切り雀は嫌だ。

「ああ! でも私、今日仕事だったわ! どうしましょう、これじゃ優人を一人で行かせることになる! でも優人はまだここの地理に疎いし一人に行かせるわけには……」

 真紀恵はあからさまに黙って食べている美奈々にチラチラ視線を送っている。

(なんだこの茶番)と黙って真紀恵を見つめる。

 真紀恵の歳を改めて数える。優人が目覚める前は四十四歳で、誕生日は六月十八日なので、真紀恵は今年で五十五歳になる。

 昔から茶目っ気がある振る舞いが多かった真紀恵だが、優人はそれを幼い美奈々に合わせているのだとばかり思っていた。

 だが、美奈々は十五歳だ。自称大人だし、真紀恵が茶目っ気を出す必要はないはず。

 まぁようするにこれが真紀恵の素なのだ。十七年経って知った母親の素顔。

(歳を考えてよ……)

 美奈々は黙ってはいるが真紀恵の視線は感じているようで、不機嫌そうに齧ったパンを咀嚼している。

 美奈々が不機嫌になるとこっちにまで被害がおよびそうなので、優人は真紀恵を止めに入る。

「母さん、今日は平日で美奈々は――」

「別にいいよ」

 優人の声を遮ったのは意外にも美奈々だった。

「いいよって、学校は?」

「三年生は午前で終わり。その後だったら別に予定もないし」

 中学生で、午前で学校が終わるというのにも驚いたが、今はそこじゃない。

「でも受験勉強とかもあるんじゃ……」

「なに? 私と出かけるの嫌なの?」

 ギロリと睨まれる。

「ぜひお願いします」

 即座に答える優人には兄の威厳がまったくなかった。

「そう、じゃあ一時に出るから。お昼は外で食べるから食べないでね」

 と牛乳を一口飲むと「行ってきます」と言って学校へと向かってしまう。

 緊張の糸が切れてため息が漏れる。

「よかったわね、優人。美奈々とお出かけなんて」

「母さん、美奈々やっぱり僕のこと嫌ってない?」

 あの態度を見れば見るほど、優人には真紀恵の昨日の言葉が嘘にしか聞こえない。

「あのぐらいの歳の女の子はいろいろ複雑なの」

「僕には複雑すぎて理解できないよ」

 ぼやく優人に真紀恵は微笑むだけで何も言わなかった。


 そしてお昼。

 優人は真紀恵からもらった参考書にとりかかりながら、美奈々の帰りを待っていた。

 流石に中学受験の参考書だ。高校三年生だった優人には簡単過ぎてすぐに終わる――はずだった。

 リビングのテーブルで、参考書と睨みあう優人が呟く。

「……これはやばい」

 表情には焦りの色がある。

 そう、優人は中学受験の参考書に苦戦しているのだ。

 高校三年生が中学受験の参考書に苦戦しているのだ。

 十七歳の男が中学受験の参考書に苦戦しているのだ。

 額から流れた汗が頬を伝い、テーブルにしたたり落ちた。

 そしてゆっくりと音を立てずに優人は参考書をそっと閉じた。

「ふぅ」

 これで全てが解決だ、と言わんばかりの顔をして息をはく。

 その安心感のせいで後ろから近づく人影に優人は気付かなかった。

「何してんの?」

「うわぁ!!」

 後ろからの声に驚き椅子から立ち上がる優人。

 振り向けばそこには美奈々の姿。

「み、美奈々、お、おかえり」

 優人の言葉を無視し、美奈々は机の上の参考書に視線を向ける。

「中学受験の参考書……」

 見たものをそのまま口にする美奈々。そして視線は優人へと移る。これまで以上に蔑んだ冷たい視線だった。

「バカ」

 そう一言だけ言い残し美奈々は自室へと入って行った。

 優人は妹にまでバカ呼ばわりされたことにショックを隠しきれず、その場に固まってしまう。

 優人はゆっくりと椅子に座り机に向かい合うと、再び参考書を開いた。

 妹にバカ呼ばわりされたことがよほどショックだったようだ。

 しばらくすると、美奈々が自室から出てくる。

 その姿を見た瞬間、クルクル回していたペンを落としてしまう。

 灰色のストライプのシャツに薄く黒いカーディガンを着こみ、スリムなジーンズを履いた美奈々が「何見てんの?」と不機嫌そうに言う。

「いや、なんというか……」

 美奈々がお洒落をしてて驚いた、というと反感を買いそうだ。こんな言い方だと、子供が背伸びしているみたいに聞こえる。

 それに似合ってないわけじゃない。正直に言えば似合っている。ボーイッシュな感じが凛としている美奈々にピッタリだ。

 どう伝えようと考えて、素直な感想を言う。

「すごく似合ってるよ――イデェ!!」

 美奈々は肩にかけていたカバンを優人に投げつけた。カバンが顔面にヒットした優人は顔面を押さえて唸る。

「なんでカバンを投げるの!?」

「なんとなくムカついた」

「理不尽だ!!」

 心なしか顔の赤い美奈々は「フンッ」と鼻を鳴らすとカバンを拾って玄関へと向かってしまった。

(美奈々さん怖ぇ)と戦々恐々としていると「早く行くよ!」と怒声が響いてきたので急いで後を追う。

 美奈々との買い物が始まると、まず向かったのが服屋だった。というか服屋しか行かなかった。服屋自体はいろんなメーカーの専門店を回ったのだが、美奈々は服以外を買う気がないようで、日が傾くまで店を巡った。

 そして歩き疲れたのか美奈々は喫茶店に入り、優雅にコーヒーを飲んでいる。

 真紀恵が机の上に置いておいてくれた軍資金四万は全て空いた椅子に置かれた紙袋の中の服に変わってしまい、結局日用品やらは何一つとして買えていない。

「あー美奈々さん?」

「なに?」

 コーヒーを一口飲んで渋い顔をして、砂糖を追加している美奈々に声をかける。

「いや母さんはいろいろ足りない物を買いそろえるために金をくれたのに、結局買ったのって服だけだよ?」

 そういうと心底呆れたように美奈々が溜息を吐いた。

「あのさ。それじゃあ優人は何かほしいものでもあったの?」

 少し考えるが、すぐに結論は出た。

「いや別に」

「それってつまり一日家にいて物に不自由しなかったってことでしょ」

「確かに」と優人は納得する。

 物入りだからと言って真紀恵は金をくれたが、家にいて何かほしいと思っていない。それはつまりある程度は真紀恵が買い揃えてくれたということだ。

「ホント、お母さんって優人に甘い。たぶんそう言わないとアンタがお金を受け取ってくれないとでも思ったんでしょ。本当は自分が好きなものを買わせるつもりだったから」

「そうだったのか」

 と頭の中でウィンクしている真紀恵が思いついた。

 優人の想像の中でも歳を考えていない。

 そこでふと気付く。

「うん? でも今日僕、自分がほしいもの何一つ買ってないよ」

「どうせ欲しいものなんてないんでしょ」

 まったくもってその通りなのだが、自由にしていいと渡されたお金が不本意に消えていくのは納得がいかない。

 文句の一つでも言ってやろうか、と思ったが、今日の購入品を見てやめた。

 なんだかんで言っても、唯一足りてなかったのは服だし、何より美奈々は真剣に服を選んでくれたのだ。そのことに関して感謝してないわけじゃない。ただ一つの店で十回も二十回も試着させられたのは勘弁したほしかったが。

 妹が買い物に付き合ってくれたことに感謝ししつ、コーヒーを一口。

 ふとテーブルに影が差す。

 見上げると、灰色のスーツを着込んだ初老の男と黒いサングラスと黒いスーツ姿の二人の男が立っていた。

 初老の男と優人の視線がぶつかると、初老の男は口を開いた。

「初めまして。星野優人君ですね?」

 優しそうな笑みを浮かべる初老の男。

 いきなり知らない男三人に囲まれて困惑する優人。

「はい、そうですが……」

 警戒しつつそう答えると、喫茶店内の客が騒然となっていることに気付く。

 客はみんな初老の男を見つめて驚いた顔をして、ざわざわと騒がしい。美奈々も初老の男を見て険しい表情を浮かべている。

 優人だけがこの事態を正しく認識できていないようだ。

 だがそれも初老の男の言葉で全てが解決した。

「私は国連軍ロクスソルス基地の総司令官、上林義久です。今日は君に話があって、失礼ながら歓談中に声をかけさせてもらいました」

 基地の総司令官。つまり、基地のトップ、一番偉い人。

 なるほど。周りがここまで騒ぐわけだ。

 美奈々が優人の手を握った。

 険しい表情は不安の表情へと変わっており、ジッと優人を見ている。

 大丈夫だよ、と視線で返すが不安は拭えないようだ。

「星野優人です。それでその話っていうのはなんですか?」

 面倒事をさっさとすませてしまおう、と話を急かす。しかし、上林は騒然とした店内を見回すと「ここでは落ち着いて話せませんので場所を変えませんか?」と店の外にある黒い車に視線を送った。

 ギュッと優人の手が強く握られる。行かないでほしい、という意思が伝わってくる。

 できるなら美奈々の気持ちをくんであげたい。

 だが、ここで逃げたとしても、上林は必ずまた来るだろう。このロクスソルスで暮らしている以上、上林から逃げることなんて不可能だ。

 だったら早いうちに全てをすませてしまおう。

 優人は美奈々の手を優しく手を重ねた。

「美奈々は先に帰ってて」

「ま、待って――」

「大丈夫。すぐ帰るから」

 美奈々の声を振り切り、そのまま上林のもとへ。

「お兄ちゃん!!」

 懐かしい響きが聞こえたが、優人は振り向かずに上林と共に店から出た。


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