4話
篠江とアウラとの面会の翌日。
結局、一晩悩んだがどうするかは決まらなかった。
気付いたら朝日が昇って、徹夜してしまったと思うと急激な眠気に襲われた。目覚ましに顔を洗いに行くと目の下にはクマができていた。
朝の検診に来た久瀬は優人の顔を見てため息をついた。
「星野君、そんな顔で家族と会うの?」
「……うん?」
何か重要なことを言われた気がする。
頭の中でもう一度久瀬の言葉を繰り返す。
「ああッ!」
今日家族と面会があることを思い出す。
今日、十年振りに家族と再会するというのにそのことが抜け落ちていた。
(最悪だ。家族との再会を忘れるなんて最悪だ)と自己嫌悪。
「久瀬さん、家族はいつ来るんですか?」
「今日の午前十時だよ」
「午前十時……」
時計を確認すると、すでに九時五十三分。もう来てもおかしくない時間だ。
十年振りに家族に会うと思うと緊張する。
(まずなんて声をかければいいだ?)
久しぶり? また会えて嬉しい? 心配かけてごめんなさい?
ダメだ。わからない。
というか二人とも十年経ってかなり変わっているはずだ。
妹なんて記憶では五歳の時の姿のままだ。それが今では十五歳。もうあの時の面影も残っていないだろう。
それに妹だって十年間会っていない兄なんて存在を忘れているかもしれない。
(美奈々にアンタ誰、なんて言われたら僕は死ぬぞ!)
そんな想像をしていると、緊張は恐怖に変わる。
「久瀬さん、少し外出てきます」
「え?」
ベッドを下りてスリッパを履くと病室を出ようとする。
優人の腕を久瀬が掴んで引き止める。
「だ、ダメです! もう家族が来ますよ!」
「無理です! 妹にあんなこと言われた僕、生きていけない!」
「何を言ってるんですか!?」
そんな会話をしてるうちに病室のドアがノックされる。
「ほら、来ましたよ。――どうぞ」
部屋の主じゃないのに招くな、と抗議したかったがもう遅い。
引き戸が開いて、廊下から二人の女性が入って来る。
一人は初老の女性、もう一人は中学生くらいの女の子だ。
初老の女性が優人の顔を見た瞬間、呟く。
「優人……」
優人の記憶よりもシワが増えて痩せているが、その姿は優人の母、真紀恵だ。
「優人!」
真紀恵はもう一度名前を呼ぶと、駆け寄って来て抱き締められる。
「母さん……」
非力だ。
自分を抱き締める母の力は驚くほど弱い。全身から伝わる母の体には肉つきがない。
これが十年後の母。本当に十年なのか、と思うほど母は老いていた。
父が死に、一人で自分と妹を育ててきた母。十年前優人が昏睡状態となり、四年前には住んでいた街さえも追われた。
その苦労は優人にはわからない。
そう思うと優人の口から自然と言葉が溢れた。
「ごめん。心配かけて、苦労をかけて本当にごめん……」
十年前より小さく感じる母の体を抱きしめる。
「謝るのは私の方だわ。四年前、病院で寝ていた優人を置いて私は逃げてしまった。優人を見殺しにして私は逃げたの」
真紀恵の体が小刻みに震えだす。
母をこんな体にしたのは自分を見殺しにして逃げた罪の意識。
母は四年間ずっと罪の意識に苛まれて生きていた。
ならばそれから解放させてあげられるのは優人だけだ。
真紀恵の肩を優しく掴む。
「母さん、顔を上げて」
しかし、真紀恵は顔を上げようとしない。
罪の意識が優人の顔を見ることを許していないのだろう。
「母さん、僕はまた家族に会えて嬉しいよ。目が覚めたら十年後だって言われて本当に怖かったんだ。僕にはもう居場所がないと思った。でも母さんは生きててくれた。それは母さんが四年前に生き残っててくれたからだ。当時のことはわからないけど、僕にかまっていられないほどだったことはわかるよ。もしそこで母さんが僕を助けに行ってたら、母さんは死んでいたかもしれない。ここで僕とまた会うことはできなかったかもしれない。だから僕は本当に感謝してるんだ。その時、僕を置いて行ってくれて、またここで僕に会いに来てくれて本当にありがとう」
心の底から溢れた言葉を伝える。
真紀恵はゆっくりと顔を上げた。その目尻には大粒の涙が溜り、一滴、また一滴と頬を流れていく。
「うぅうう――」
そして優人の体に寄りそいながら崩れ落ち、声を殺して泣いた。
真紀恵の手を取る。自分がここにいることを伝えるために。
ずっとドア付近で黙って優人と真紀恵を見つめていた女の子も真紀恵に寄りそって背中を撫でた。
彼女を見た時から気になっていた。この子はミナなのだろうか、と。
いや美奈々だ。彼女以外考えられない。
小さかった美奈々が今では優人の肩に届くまで大きくなっている。わかっていたことだが彼女が美奈々であることが少し信じられない。
数分して落ち着きを取り戻した真紀恵は「ありがとう、二人とも」と立ち上がった。
「ごめんなさいね。私だけ感傷に浸って。美奈々とも話したかったでしょう」
と言って真紀恵は一歩優人から離れた。
必然的に優人と美奈々が向き合う形になる。
五歳の時の美奈々は、黒髪を伸ばしてしたが、今は肩に届くくらいまで短くになっている。顔立ちはどことなく当時の面影を残しているが、幼さは消え歳の割に大人びた雰囲気を感じる。
「ほら、美奈々」
十年前と変わらない呼び方で真紀恵は美奈々の両肩に手を置いた。
「……」
「……」
向き合うだけで両者無言。
美奈々の視線はまっすぐ優人に向けられているのに、美奈々は一向に何も言ってこない。
ここは兄として自分から何か言うべきだろう。
「ミナ、大きくなったね」
昔のくせで、美奈々の頭の撫でようとする。
「触らないで」
冷たく言い放たれた声。
伸ばされた右手が止まる。
「うん?」
(今喋ったのは美奈々?)
間違いなく美奈々だ。そして彼女は今「触らないで」と言った。
(誰に?)
優人に決まっている。
頭を撫でられることを察して美奈々が拒絶したのだ。
(それはつまり、つまりだ。僕に触られるのを嫌がったってこと?)
そうなるのか、と考え、そうなるな、と結論付けた。
泣きそうだった。
「何か勘違いしてるみたいだから言うけど。私、別にアンタに会いに来たわけじゃないから。お母さんがどうしても行くっていうから付いて来ただけ。それなのに感動の再会みたいにされても迷惑なんだよね。こっちは最後の会ったのが十年前だから覚えてるわけないのに、頭撫でるとかやめて。知らない人に頭撫でられるとかマジでキモい」
「……」
嵐のように浴びせかけられる暴言。心底呆れたような美奈々の表情。
昔は優人の後ろに付きまとって離れようとせず、どこかにでかけようとすると絶対に付いて来ようとした美奈々。
甘いものが好きで、二人でオヤツを分けると、すぐに食べてしまって優人の分を物欲しそうに見ていた。優人が自分の分をあげると喜んで「私、お兄ちゃん好き!」と言って食べていた美奈々。
そんな美奈々が今では優人に向かって「マジでキモい」だ。
「それじゃ私、勉強しないといけないから帰る」
美奈々は会話らしい会話もなく、優人の病室から出て行った。
病室に沈黙が訪れる。
真紀恵との対面の時は涙ぐんでいた久瀬だが、今はどうしたらいいんだろう、という感じで優人を見つめている。
真紀恵は困った顔をしているが、どこか嬉しそうだ。
そして優人は――
「……」
呆然と美奈々が出て行った病室のドアを見つめている。
美奈々は今受験勉強で忙しい。彼女はロクスソルスの中でも名門高等学校への進学を目指しているから、彼女は毎日必死で勉強をしている、と真紀恵は言う。
それは帰る理由にはなっても暴言をはく理由にはならないわけで、暴言をはくのは優人が嫌いだからなわけで。
結局、優人は落ち込むしかなかった。
優人がこの時代で見つかって二週間が経った。
十年後の世界に目覚めた戸惑いは一旦落ち着き、家族がいて何気ない会話をする日常を送れるようになった。
だが、それは決して非日常が去って行ったわけではない。
世界は十年後の未来で、人類はオルティムと戦争の真っ最中、優人はセルティムだ。
日常を取り戻したとしても、十年という時間は巻き戻せない。
変わってしまったもの、失ってしまったもの、家族との会話の中にある喪失感。これだけは日常の中にいてもどうしようもなかった。
そして優人には一つ知らなければならないことがある。
今まで優人の中で燻って、今まで誰にも聞けなかった。優人の友人、近藤純介と清水凛子のことだ。
(二人は今どこで何してんだろ……?)
気にならないわけがない。優人にとって彼らは友人だ。たとえ十年経って姿が変わってしまったとしても、会えるなら会いたい、話せるなら話したい。
だがもしも純介か凛子のどちらかが、すでにこの世にいないと思うとどうしても優人は一歩前へと踏み出せなかった。
そんな葛藤を一週間続けてようやく優人は真紀恵に彼らのことを聞くと決めた。
何度か二人に会っている真紀恵なら何か知っているかもしれない。
優人はすでに明日退院の許可が下りている。真紀恵は病室に訪れて、退院の準備を進めていた。さっきから花瓶に活けた花を捨てるかどうかで迷っているようだ。
「母さん」
「うん? なに?」
優人に呼びかけに反応したのは声だけで、真紀恵の視線は花に向けられている。
「純介と凛子は覚えてる?」
持って行ってもしょうがないと判断したのか、花をゴミ箱へと捨てようとした手が止まった。
数秒の沈黙。
何か気不味そうな雰囲気が真紀恵から漂う。
しかし次の瞬間には、ビデオが一時停止から再生になったように、花をゴミ箱へと捨て、いつも通りの口調で喋り出した。
「純介くんと凛子さん? ええもちろん覚えているわ。それがどうかしたの?」
「いや、二人は今どうしてるのかと思って。母さん何か知らない?」
「ごめんなさい。高校を卒業して街を離れてから二人のことは知らないの」
それはそうだ。たとえ息子と仲が良かった友人とはいえ、高校卒業して純介と凛子はそれぞれアメリカと東京に進学しているはずだ。距離が離れればそれだけ二人の話を聞く機会も減る。
だが、優人は見逃さなかった。真紀恵がそう答える瞬間、表情が曇ったことを。
母は何かを隠していることは一瞬でわかった。なら母が自分に隠したいこととはいったい何か?
母は自己保身や見栄で隠し事をする人ではない。おそらく、母は優人を気遣って隠し事をしている。母が隠している事実は、優人にとって都合が悪いことだ。
凛子と純介に何かあったことだけはわかる。
(最悪だ。本当に最悪だ)
だが、そんなことはすでに知ったはずだ。この時代は最悪なのだと、優人はすでに知った。だから嘆いてはいられない。優人には家族がいる。十年間も待たせ続けた家族がいるんだ。
優人はもう進む道を決めていた。
これからは家族のために生きて行く。
それが優人のこれからの生き方だ。
会話のない無言の病室に、病室のドアがノックされる音が響く。
真紀恵は手を止めて、「はい、どうぞ」と来客を迎える。
やって来たのは軍服姿の篠江とアウラ。
真紀恵の表情が固まる。
一般人の病室に軍人が来るだけで驚くだろうが、それだけではない。真紀恵もまた優人の体の事情は把握している。この時代を生きて来た真紀恵にとってそれがどういうことなのかも知っているだろう。
だからこそ真紀恵は二人に対して、厳しい表情を見せたのだ。
「軍の方が突然、何の御用ですか?」
睨まれても怯まずに篠江が答える。
「優人さんに用があって来ました。優人さんと少しお話をさせていただけないでしょうか?」
「優人は貴女と話すことなんてありません。お引き取りください」
初めて見る母の厳しい態度に優人は驚いた。
「お気持ちはわかります。ですが、少しだけ優人さんと――」
「お引き取りください!」
取りつく島もない。今の真紀恵はまさにそんな感じだ。
篠江もそう判断したのか「失礼しました」と言ってアウラと共に退室した。
張り詰めた空気が病室を流れる。
「さて、明日にでも退院できるように準備をしないとね」
さっきまでの険悪な雰囲気を打ち消すように真紀恵は明るく振る舞う。いや、どちらかといえば自分の不安を打ち消すために明るく振る舞っているように見える。
母の気持ちをくみ取るなら自分は何事もなかったかのように振る舞うべきだ。だが、この問題は曖昧なままにしておくわけにはいかない。見て見ぬフリをできることじゃない。
優人はベッドから下りてスリッパを履く。
「どこに行くの?」
「トイレだよ」と答えるが、真紀恵は優人の腕を掴んだ。
真紀恵の手は震えている。
優人はその手を取り、両手で包みこんだ。
「大丈夫。本当にトイレに行くだけだから、すぐ戻ってくるよ」
手を放すと、真紀恵はそれ以上何も言わず優人を病室から見送った。
もちろんトイレに行くわけじゃない。真紀恵は気付いていただろうし、優人も嘘が通るとは思っていない。だが、あの場では嘘を吐くべきだと思ったのだ。
廊下を早歩きで進む。すぐに病室を出たかいもあってすぐに篠江と京に追いついた。
優人の姿を見て篠江が少し驚いた表情をする。
「さっきは母が失礼しました」
「いいのよ。お母さんの気持ちもわからないわけじゃないから」
「ありがとうございます……」
一瞬の沈黙。そして優人は深く頭を下げた。
突然の行動に首をかしげる篠江。
「星野君?」
「すいません、篠江さん。僕は戦えません。今は家族と一緒にいたいんです」
優人は自分が進む道を篠江に伝えた。
それが返事を待ってくれていた篠江に対する礼儀だ。
糾弾されるか、説得されるか、優人はどちらかだと思っていた。
しかし篠江は黙って優人の肩に手を置いた。
「顔を上げて星野君。大丈夫、なんとなくだけど断られる気はしていたから」
返ってきた言葉は優人の予想しないものだった。
「え、どうして?」
「家族がいるなら家族と一緒に暮らしたいと思うのは当然でしょ。軍に入れば家族に会える時間は少なくなるし、命を落として一生会えなくなるかもしれない。それを嫌だと思うのはセルティムも同じ。私もその気持ちを押し殺して戦え、なんて言えないわ」
そう言って微笑む篠江からは姉のような暖かさを感じる。軍人としては失格なのだろう。だが、優人は人としては好ましく思えた。
「でも、貴方はこれからいろいろ苦労があると思う。何かあったら私に相談して」
と手帳を取り出してスラスラと何かを書くと、それを切り取り優人に手渡した。
そこには電話番号が書かれていた。
つまり、困ったことがあったら電話してきていい、ということだ。
「どうしてここまでしてくれるんですか?」
「性分なの」
そう答える篠江の表情は苦笑していた。
自分の性格を面倒だな、と思いながらも、どこか誇らしくも思っている。
そんな表情だ。
(本当にいい人だ)
まだ二回しか会ったことないが優人はそう思えた。
だからだろうか。つい優人は彼女を頼ってしまった。
「篠江さん、一つ聞いてもいいですか?」
「ええ、もちろん」
「篠江さんは僕の素性を調べてますよね?」
「ええ、貴方が生まれてから今までの素性はね」
「なら清水凛子と近藤純介について何か知っていることはないですか?」
「清水凛子……近藤純介……」
悩ましそうに篠江が腕を組む。
「ごめんなさい。確かに貴方の友人として名前は知ってるけど、彼らの情報は何も知らないわ」
「……そうですか」
当たり前だ。篠江は軍人であって、探偵はではない。
そんなことを聞く優人が間違っているのだ。
「変なことを聞いてすいません」
再び頭を下げる優人。
「……その人たちは貴方の友達なの?」
「はい。僕の一番親しい友達です」
「……そう」
(まただ)
また優人はその表情を見た。
母と同じく、篠江も一瞬表情が曇った。
(篠江さんが僕に嘘を……?)
と疑うがすぐに考えるのをやめた。
(考え過ぎた。篠江さんが僕に嘘をつく理由がない)
大方、友達の行方がわからない優人に同情してくれたのだろう。
「それじゃまた何かあったら連絡を頂戴」
「はい。いろいろとありがとうございます」
そう言い残して篠江は京と共に、今度こそ優人のもとから去って行った。