秘匿
高さを感じさせる空は、どこまでも蒼く澄み渡り、風に運ばれて来た綿雲が、遥か彼方をゆっくりと漂う。草原を覆う草花は太陽の光を受けて黄金色の輝きを見せ、森の木々の葉は目にも鮮やかな赤や黄色に色付いていた。
地面には枝から離れた葉が敷き詰められ、天然の絨毯を形作り、頬を撫でる風からは、つい先日まで感じられた温みが薄れ、代わりに微かな冷えを含み始めていた。
爽やかさの中にもの悲しさを隠す、そんな季節の節目に、小太郎とナミヴィアは木漏れ日が射し込む森の中を、落ち葉を踏み締めながら進んでいた。
二人が何故、森の中を歩いているのか、と言うと、小太郎が受けた依頼を果たす為でもある。
小太郎が受けた依頼は、早朝に受注をしたので、本来であれば遅くとも翌日には完了の報告が出来た筈なのだが、あの日はナミヴィアが小太郎の傍を離れず、彼としても落ち着くまでは、との思いから、請け負った依頼の事を言い出せず居た所為で、今日まで延び延びになってしまっていた。
尤も、依頼完了日の期限など存在しない為、数日間の放置は全く問題無い。
とは言うものの、限度は存在する。
組織に連絡を入れずに二週間以上放置すると失敗と見做され、違約金が発生する仕組みとなっているからだ。
これは過去に、請け負った依頼を一ヶ月以上経ってから報告に来た事例や、極端な例としては、一年以上も経ってから報告に来た事例など、枚挙に暇がない所為でもあった。
なので、継続して出される討伐依頼は、基本的に二週間を限度とする様になったのである。
勿論、期日指定の依頼もあるにはあるが、そういった物は大抵の場合、高ランクの討伐者限定――Aランク以上――となっている事が多く、ある程度の規模の町ならいざ知らず、フィグ村の様に小さな村では滅多に出る事はなかった。
そして、小太郎が請け負った討伐依頼には期日が設けられておらず、ランクもC以上であれば受注可能な物。
その事をナミヴィアに話したのが昨晩であり、その際、心配だから着いて行く、と言われた小太郎は、彼女の心情が分かっていただけに、断る事が出来なかった。
そう言った理由で、今日は二人で依頼を処理する羽目になったのであった。
こうなった経緯を今更ながらに思い出しながらも、ナミヴィアの前を行く小太郎は、今だ己を気遣う彼女の視線に気が付いていなかった。
青杖を突きながら前を行く小太郎に向かってナミヴィアは、昨晩から数えて何度目になるのかも分からない言葉を投げ掛けた。
「ねえ、本当にだいじょうぶなの?」
「問題無い」
彼女の心配も空しく、当の本人から返って来た言葉は、昨晩と同じで短い。
尤も、短いながらもその声には自信と、力強さに溢れてはいる。
だからと言って、彼女から漏れ出す憂いを消す事等、出来よう筈もなかった。
彼女――ナミヴィアが憂いているのは、討伐対象が跳蛇の所為だ。
跳蛇自体のサイズは然程大きくはなく、最大でも体長は一メートル程にしかならないし、毒を持っている訳でもない。体色もどちらかと言えば地味な緑色で、外見の特徴だけで言えば危険な蛇には見えない。
だが、そんな外見とは裏腹に性格は獰猛で、自身の数百倍もの体重を有する動物にすら襲い掛かり、首に巻き付き仕留めてしまう。その力は強靭極まりなく、大の大人数人掛かりでも引き剥がせず、人間が巻き付かれた場合など、ものの数秒で首の骨が粉砕されてしまうほどだ。
そして名前の由来となった跳躍力は、遮る物さえ無ければ優に二十メートルにも達する。
だが跳蛇の恐ろしい所はこの跳躍力では無く、この跳躍距離を可能にする驚異的な瞬発力にあった。
跳び出した瞬間にそれは実に、約四十キロメートルを誇る。
秒速に直せは、約十二メートルにもなるのだ。
その速さで二、三メートルの距離から襲い来るのだから、襲われる方にしてみれば堪ったものではない。
こんなにも危険極まりない生物ではあるが、新緑の季節は刺激さえしなければ、襲っては来ないと言う意外な一面もある。
なので、餌が豊富にあり温暖な季節の時は、討伐依頼も出て来ない。
依頼が出るのは決まってこの季節だけに限定されている。
要するに、冬眠前の食い溜め時期は、狂暴化して無差別な狩りをするので依頼が出る、云わば風物詩みたいなものであった。
故に、跳蛇のランクは攻撃力の高さに見合わない、Cランクに落ち着いていた。
それに加えて、跳蛇は一年を通じて体色が全く変化しない事と、単独での行動しかしない為、この時期が最も狩り易い事もあった。
だがこれは、目が見えている事が前提条件であり、目の見えない小太郎の場合、危険極まりないの前に、見付ける事すら困難極まりないと言わざるを得ない。
しかも、遭遇しても跳蛇が動かずにジッとしていれば、小太郎など、ただの鴨葱状態でしかない。
それが分って居るからこそナミヴィアは、心配で仕方がなかったのだ。
「ねえ、本当にやる心算なの?」
前の問い掛けから数分後、ナミヴィアは心配そうな表情で再度声を掛けた。
直後、小太郎は歩みを止めると振り向き、微かな笑みを零す。
「――ナミが心配なのは分かる。だがな、あまり俺の事を見縊らないでもらいたいものだな」
小太郎はそう告げた後、直ぐに前を向いてまた、歩を進めた。
何時も見ていた小太郎との違いに驚き、ナミヴィアは僅かな間だけ動きを止めたが、直ぐに我に返ると若干の急ぎ足で彼の背中を追い掛けた。
追い付いて五分ほども経った頃、ナミヴィアは前を行く小太郎に違和感を覚えた。
その違和感は何だかは分からない。
でも、先程とは何かが違う。
気配、と呼ぶべきか、それとも存在感、とでも言えばいいのか、兎も角、小太郎の背中が何時もと違って見えたのだ。
その答えを探すべく、ナミヴィアは少し目を細めて小太郎の姿を注視する。
すると、直ぐに違和感の正体に気が付いた。
何時も有る物が、無い。
いや、正確には、手にしていない、と言うべきであろう。
本来ならば、青杖無しで森の中を歩くなど、小太郎の様な全盲の者には出来る筈がない。
しかし、ナミヴィアの目の前では出来る筈のない者が、まるで全てが見えているかの様に、危なげない足取りで歩いている。しかも、落ち葉の下に隠された木の根すらも避けて、足を運んでいた。
何時から?
ナミヴィアはここに至って、初めて疑問を抱いた。
小太郎は森に入る前は、確かに青杖を手にしていた。
それは森に入ってからも手にしていた筈。
そして先程声を掛けた時の事を思い出すと、その時は既に青杖は無く、腰のベルトに挟まれていた様な気がした。
どんなに思い返して見ても、何時青杖を腰に差したのか、まったく覚えが無い。
余りにも真剣に悩み過ぎて、木の根に足を取られかけたその時、不意に小太郎の足が止まった。と同時に、ナミヴィアに向かって掌を向けて止まる様に合図を出し、緊張感を漂わせ始めた。
ナミヴィアも出された意味と小太郎の気配を感じ取り、動きを止め腰に吊るした拳銃へと手を伸ばした。
小太郎はやや腰を落とし顔を微かに俯けゆっくりと動かして、周囲の音を探る様に耳を澄ませる。
同時にナミヴィアも、周囲を素早く見回して目視による索敵を始めた。
「……居た」
暫くして小太郎の呟く声がナミヴィアに届くと、
「――ええ」
彼女も時を同じくして発見したのか、声音に緊張を乗せた。
二人が足を止めた場所から十メートルほど先の左斜め上の樹上から、一匹の跳蛇がこちらを窺っている。その姿自体も紅葉した枝葉の隙間から漸く見える程度なのだが、小太郎は微風に揺らされ擦れ合う枝葉の僅かな音の違いから、ナミヴィアは特徴ある体色から潜んで居る場所を特定していた。
尤も、小太郎が微かな違和感に気付いてナミヴィアの足を止めなければ、彼女は餌食となっていた可能性があり、その点では小太郎の索敵能力に助けられたとも言える。
だが次の瞬間、二人に驚愕が襲い掛かった。
「なっ?!」
「そん、な……」
二人を半円状に取り囲む様にして落ち葉の中から十数匹にも及ぶ跳蛇が、落ち葉を掻き分ける音と共に、鎌首を擡げて威嚇して来たのだ。
通常、跳蛇は単独で狩りに及ぶ。
それは群れる事を嫌う、と言う事ではなく、共食いをして個体数を減らさない為の、本能から来る行動でもあった。
故に跳蛇は、組織によりCランクの討伐者でも狩る事が可能な対象、とされたのだ。
しかし今二人の眼前に広がる光景は、それを覆すものだった。
跳蛇の瞬く事の無い冷たい瞳に、徐々に殺気が満ち始める。
それは獲物を狩る捕食者の殺気とは違っていた。
小太郎は鋭敏な感覚でそれを察知し、眼前に展開する跳蛇達が通常とは違う事を、瞬時に理解した。
「ナミ、俺が合図したら、全力で逃げろ」
「え? でも――」
焦りを含んだ小太郎の声にナミヴィアは戸惑いを見せ、そんな彼女を尻目に小太郎は静かにゆっくりと深呼吸をして緊張した筋肉をリラックスさせると、何時でも戦闘状態へと移行出来る様に身構える。
そして――、
「行けっ!」
徐に小太郎が背後のナミヴィアを突き飛ばした瞬間、跳蛇達の殺気が爆発的に膨れ上がった。
余りにも強い力で突き飛ばされたナミヴィアは一気に十メトール程も後方へと転がった。
勢いが緩むとナミヴィアは、文句の一つでも言おうと小太郎に方に顔を向け身を起こし掛けた瞬間、彼の姿を見て、絶句した。
締め付けられる首。
食い込む程の圧迫を受ける胸部。
腹部に至っては完全にめり込み、更に締め付けられている気配すらある。
しかも、手足の関節も完全に決められ、一ミリたりとも動かせる状態になかった。
だが本来であれば、その様な状態で居る事自体が有り得ない程の奇跡であり、驚異的な、と言う言葉すら霞むほどの強度を誇る肉体の頑健さ、としか表現しようがなかった。
ナミヴィアの耳には、ミチミチという無理やりに肉を圧し潰す音や、今すぐにでも骨が折れてしまいそうな、ギシギシという響きが届く。
そんな音が静かに響く中で、彼女は驚愕の表情を浮かべた。
「こ――!」
肉体が破壊されそうな音の中、微に――、本当に微かだが小太郎の呟きがはっきりと聞えたのだ。
しかもナミヴィアの驚愕はまだ続いた。
声が聞えたと同時に、小太郎の足が動き始めたのだ。
それも、彼女から離れる様に。
その様を瞳に映したナミヴィアは瞬時に我に返る。と同時に、彼女の中に有る、とある一つの事柄を曝け出す決心をさせる。
そこからの行動は早かった。
「今、助けるからっ!」
素早く片膝立ちになって小太郎に向けて右手を掲げて叫ぶと同時に、ナミヴィアの秋空の如き色を持つ瞳の蒼が、ラピラズリの一種であるアウィンナイトと呼ばれる宝石の様な、綺麗なネオンブルーの強烈な光を放ち始める。
しかも掲げた右手の直前の空気が急激に揺らめき景色を歪めていく。
そこに集うのは風が、と言うよりも空気が凝縮された超高密度化した途轍もない力の塊。
有り得ない程の密度を持ったそれに触れた落ち葉は一瞬のうちに塵と化し、その刹那、爆発的に膨れ上がった。
瞬間、ナミヴィアの叫びが森の空気を震わせた。
「神より授けられし我が身に宿る力! 不可視の刃と化して彼の者を苛む敵を切り刻めっ!」
同時に小太郎を包み込んでいた跳蛇達は全てが細切れにされた。
しかも、小太郎には傷一つ、血糊の一滴も付けずに。
それは瞬きする間もない刹那の出来事だった。
圧迫から突如として開放された小太郎は、込めていた力の勢いでつんのめり転び掛け、ナミヴィアは極度の緊張から解放されて安堵の溜息を吐いていた。
小太郎の足元に細切れとなって散らばる跳蛇の残骸が広がり、その感触を足裏に感じ取った後、彼はゆっくりとナミヴィアに体ごと向き直る。
「ナミ、まさか君は――」
驚きで言葉に詰まる小太郎に向けて、ナミヴィアは悲しそうな笑顔で頷いた。
「今まで黙っててごめんね。あたし、選ばれし者なの」
選ばれし者。
それは、神より力を授けられ、人には成し得ない奇跡を起こす者達の総称。
そしてある意味、神の存在を示す信仰の対象でもあり、また別の意味では、恐怖の代名詞でもあった。
「そしてあたしは――」
そこで一旦言葉を区切ると、逡巡する自分を鼓舞するように大きく深呼吸をした後、思い切って言葉を吐き出す。
「――チャスナット村、最後の生き残りでもあるの」
悲しげな笑顔を、一層悲しく彩る言葉。
この事実を知った者は、その殆どが彼女の前から去った。
しかし小太郎の取った態度は、同情や慰めの言葉を掛けるのではなく、内心での動揺だった。
何故、小太郎がそんな心情を抱え込んでいるのかは、分からないし、態度にも出していないので彼女にも伝わらない。
ただ、チャスナット村、という名詞は、小太郎に取っても特別な何か、なのかも知れなかった。
「まあ、それはこの際、置いて於くとして――」
内心の動揺を隠すように、小太郎は足裏で確認した周囲の惨状から、彼女に告げられた事を半ば無視する台詞を吐き出した。
何かの罵りか、忌避される様な言葉を覚悟していたナミヴィアに取って、小太郎の口から出た言葉はある意味、安堵と怒りという、相反する感情を齎した。
しかも小太郎は彼女の心情を知ってか知らずか「これでは討伐証明部位を持ち帰れないな」などと嘆息している始末。
そんな彼に向かって、ナミヴィアは声を荒げた。
「マキはあたしの事、恐ろしくないの?! 呪われた村、唯一の生き残りなのよ?! 一緒に居れば、あなたにも災いが降り掛かるかもしれないのよ?! ううん、現に降り掛かったじゃない! それとも、そんな事は恐れるに値しないとでも思ってるの?!」
悲しさを秘めた怒りを見せる彼女の顔を、小太郎は見えない瞳でジッと見続ける。
「さっきのあれ、見たでしょう? あたしは簡単にマキの事を殺せるのよ?! 怖いでしょ?! 気持ち悪いでしょ! 人間じゃないのよ、あたしはっ!」
半分自棄を起こして自虐気味に吠える様にも見えるナミヴィアに、小太郎は溜息を吐くと同時に呆れた態度を見せた。
勿論、小太郎のその姿勢は、ナミヴィアの神経を逆撫で、更なる怒りを誘う。
「あんたは――!」
だが勢い込んだナミヴィアの眼前に、小太郎の掌が翳され台詞が遮られた。
「ナミはナミ、だろう? それとも、違うのか?」
突然の問い掛けにナミヴィアは戸惑い、怒りを消される。
「ち、違わない、けど……」
況してや、俺の目の前に居るお前は別人なのか? と問われてしまえば、否定する事しか出来なかった。
「なら俺には、それだけで十分だ」
今現在の自分を形作ったのは、過去の自分。
それこそ誰もが逃れ得ない、厳然たる事実。
小太郎は今の一言に、暗にそれを込めた。
それは不器用で言葉足らずな小太郎が贈る、遠回しな精一杯の励ましでもあった。
普通ならば絶対に伝わらない気持ちも、今まで小太郎と接して来たナミヴィアには、何となくではあったが、云いたい事が分った。
しかも、短くも力強いこの一言は、今まで彼女が耳にして来た、どんな慰めの言葉よりも、どれ程言葉を尽くした同情の声よりも、素直に受け入れられるものだった。
「そう、だよね。あたしはあたし、だよね。だったら――」
今まで自分の過去を否定し続けたナミヴィアの顔に、本当の意味での笑顔が浮かんだ。
それを感じ取った小太郎は頷き、
「過去の自分を、誇ればいい」
彼女が言おうとした言葉の続きを口にした。
晩秋迫る森の中で、舞い落ちる木の葉だけが、微笑みを浮かべた二人の姿を見詰めていたのだった。
11/19、戦闘シーン? を大幅改稿。