些事
目が見えてないとは思え無い程のしっかりとした足取りで、男は村の中を歩いていたが、何を思ったのか歩みをピタリ、と止めると、顔をとある方向へと向けた。
「――ふむ」
短く呟いた後、顔を向けた方へと足を踏み出し、その先に有る扉の中へと消えて行く。
扉の上には、樽の絵が描かれた看板が、有るか無しかの風に揺れていた。
店内に入った男は迷う事無く店の隅へと向かい腰を下ろすと、カウンターの中から男を胡散臭そうに眺めていた店主に、注文を告げた。
「――ワイン」
声からは、一切の愛想が感じられ無い、と言うのも男は客なのだから可笑しいが、兎も角、彼の声には、人にものを頼む時の謙虚さが、殆ど感じられなかった。
「……へい」
当然、店主の受け答えもそれ相応の物となり、運ばれてきたジョッキはお待ちどう様の声の代わりに、ダン! と乱暴にテーブルの上へと置かれ、中身が少しだけ飛び散った。
接客マナーの欠片も無い行為を目の前で見せた店主に対して、男は特に気分を害した様にも見えず、ジョッキに手を伸ばして中身を口に含む。
途端、口元が僅かに不満そうに歪むが、声には出さずゆっくりと飲み始めた。
ゆっくりと味わう様に男が三口目を飲み込んだところで、軋んだ音と共に店の扉が開き、新たな客を迎え入れると、店内の視線が一斉に集中する。
その姿は、先ほど男を助けたローブを纏った女性だった。
彼女はローブを被ったままの頭を動かして素早く店内を確認すると、酒場の中で最も暗い場所に在る四人掛けのテーブルを一人で陣取り、ジョッキを傾けている男の所で止まった。
そこへ近付き足を止めると、彼女は親しげに声を掛ける。
「ねえ、相席してもいい?」
その声に男の動きは微かに止まったものの、
「――他にも席は空いている」
顔も上げずに拒絶の意を示す。
だが彼女はそれを無視して対面の椅子を引くと座り、フードを取り素顔を晒した。
緩くウェーブした黄金色の髪は肩口で切り揃えられ、暗がりにも関わらずそれ自体が光を発する様な煌きを発している。そして、秋の空を髣髴とさせる可愛らしい大きな瞳と、形良くスッキリと伸びた鼻梁の先には、若さを象徴する様に、薄桜色をした瑞々くふっくらとした唇があった。
僅かにあどけなさを残す彼女の面立ちは、美女、と言うよりは、美少女と言った方が遥かにしっくりと嵌る。だが男へと向ける顔は呆れ果て、唇から零れ出た声にも同じ色が混じっていた。
「今になってこんな事は言いたく無いんだけど、少しくらいは恩義を感じてくれてもいいんじゃない?」
それ聞いた男の頬が微かにピクリ、と動く。
「俺は、座るな、と言った筈だぞ」
微かに声を荒げて、不快を露にしていた。
男のそんな態度に彼女は小さく肩を竦めるも、直ぐに気を取り直したのか、少し困った様な表情で小首を傾げながら問い掛けた。
「あたしはあなたから少し聞きたい事があるのだけど、それも駄目?」
美少女のドキリ、とする様な仕草も生憎と目の前の男にはまったく効果は無いが、何かを狙った様な素振りも無い事から、彼女にしてみれば普段通りなのかもしれない。
「おまえに話す事など、俺には無い」
短く告げた後、男はジョッキを口につけて中身を一気に煽り始める。その態度からは、さっさと酒場を出ようとする気配が、ありありと伝わって来た。
ジョッキの角度が増す度に上下する男の喉を、困った様な表情で暫く彼女は眺めていた。
だが、ここまで男の事を追い掛けて来た彼女が、こんな事で諦める筈も無かった。
「うん、これなら……」と小さく呟き、その顔に笑みが広がり始めると、彼女の愛らしい唇から、とんでもない台詞が放たれていた。
「決めた! あたし、あなたと一緒に居る!」
途端、水平近くまで傾けられていたジョッキから、ゴフッ、という音が聞こえた。と同時に、男は手にしたジョッキを素早くテーブルに戻すと、下に潜り込めそうなほど背中を丸めながら、盛大に咳き込み始めた。
どうやら余りにも唐突過ぎる彼女の台詞に男は、相当激しく咽てしまった様だった。
「どうしたの?」
男の気持ちも知らずに彼女は、首を傾げて不思議そうに声を掛ける。
そんな彼女に男は、ちょっと待て、言わんばかりに手の平を向けていた。
漸く咳が収まると男は居住まいを正し、眼帯の奥に在る瞳で彼女を見詰めながら、数瞬の間を空けてから口を開いた。
「――何故、そんな結論に達する」
確かに男からすれば、飛躍し過ぎているのだがら、こうなっても仕方が無い。
しかし彼女にしてみれば何らおかしな所は無いのだから、男の問いは驚き以外の何ものでも無かったようで、目を見開いていた。
尤も、男の言葉の中には、見ず知らずの男と行動を共にする理由が分からない、という意味も含まれているのだが、些か言葉足らずもいい所である。
「え? だって、目が見えないと何かと不便でしょ?」
純粋な親切心。
彼女はその気持ちだけで、男と共に居ると言ったに過ぎなかった。
無論、それ以外の目的も有るだろうが、彼女にしてみれば、これが一番の理由だった。
そんな彼女の言葉を素直に受け取れる心の持ち主ならば、何も問題は無い。だが少数ではあるが、穿った見方をする者も居る筈で、そんな見方をする者に取ってこの台詞は、これ以上無い蔑みに聞こえてしまう。
即ち「目が見えないんだから、大人しく世話されてなさい」と変な脳内変換をしてしまうのだ。
そして、彼女の目の前に居る男はどうやら後者で有るらしく、体から滲み出す雰囲気は、怒りのそれに変わっていた。
「――お前は俺を、侮蔑する心算か?」
突然向けられる怒りの篭った言葉に彼女は狼狽し、一瞬にして表情を曇らせる。
「そ、そんな事は……」
男は言葉を詰まらせ項垂れた彼女の姿を見て、それを頃合と踏んだのか、杖を手に椅子から立ち上がり、店主が陣取るカウンター前までさっさと行ってしまった。
二人の遣り取りを興味深げに眺めていた店主だったが、突然席を立ち上がり自分に近付いて来る男に、面倒臭い、と言わんばかりの渋い表情を向ける。
だがその直後、何かを思い付いたのか店主の口元には、一瞬だけ邪な笑みが浮かび上がっていた。
男はカウンター前まで来ると、
「勘定を頼む」
会計を願い出る。
「六百テソになりやす!」
店主はそれに満面の笑顔で金額を告げた。
入店時とは打って変わった対応を見せた店主に、訝しむ事無く男は頷き、ポケットから無造作に取り出した紙幣の束から一枚を抜き取り、渡そうと手を出した瞬間、店主の目がスッと細められた。
「お客さん。それ、百テソ紙幣ですよ」
呆れた声で違う、と指摘をする。
「す、済まん……。ならば、これか?」
男は少し慌てながら束の中から別の紙幣を抜き取ると、再び店主へと見せた。
「まいどありっ!」
男は紙幣の取り違えを良くするのだろう。弾んだ声を響かせた店主に頷き返すと、手にした紙幣をカウンターに置いた。
途端、店主の表情はニンマリとした嫌らしい笑みに変わった。
「ええと、お預かりするのが千テソですから、四百テソの――」
釣り、そう店主が告げようとした時だった。
「待ちなさい!」
凛とした声と床を踏みしめるブーツの音が店内に響き渡り、全ての視線が声を発した者へと集中した。
「それ、一万テソ紙幣ですよね? 何でお釣りが四百テソなんですか? 九千四百テソでしょう? まさかと思いますけど、もしかしてあなたは、相手の目が見えないのをいい事に騙す心算じゃないでしょうね?」
カウンターから僅かに距離を置いて少女は足を止めて、疑いの目を向ける。
「な、何を根拠に……」
店主は動揺しながらも否定し様と呟くが、目の見えない男を騙す事は出来ても、目が見えている彼女を騙す事など出来はしない。
「根拠も何も、あたしにはその人がカウンターに置いた紙幣が、良ーく見えてるんですけど、これって幻覚なのかしら?」
事実を事実として彼女の指摘された店主は最早、反論する事も出来なかった。
「それともう一つあるのだけど?」
やめてくれ、と言わんばかりに店主の顔は更に歪むが、彼女の追及は止まらない。
「確か六百テソって、この酒場で二番目に良いワインの値段でしょ? でも彼の飲んでいたのは最低のワインだったと思うのだけど、違う?」
射抜く様な彼女の視線が向けられると、店主は直ぐに視線を逸らして、口篭りながらも言い訳を呟いていた。
「こ、この旦那が飲んでた物は、あんたにゃ関係ねえだろうが……」
余りにもあからさまな態度を見せる店主に対して、彼女は呆れを通り越して怒りを覚えたのか、その表情から一切の感情が消え去る。
そして――。
「今すぐに正規の料金を提示するならば、見逃します。ですが、それが嫌なら、この村の保安隊詰め所までご同行願いますよ?」
彼女の手には何時の間にか拳銃が握られ、店主の頭には銃口が押し付けられていた。
「――ヒッ!!」
引き攣った悲鳴を上げて店主は硬直するが、店内の客達は違っていた。
驚愕に目を見開いていたのだ。
こんな可愛らしい少女が武装している事にも驚きだが、客達の驚きはそこではなかった。
少女はカウンターから約二メートル程、離れた位置に立って、店主を追及していた。それが何時の間にか一瞬で詰め寄り、しかも、彼女の動きは誰一人として、視認出来なかったのだ。
それだけならば他にも出来る者は居る。
だが、最大の問題はそこではなかった。
通常であれば身に纏ったローブの裾が微かに揺れ動く、踏み込む際の足音がする、風が巻き起こる等、動作に対する何らかの影響が見られる筈だが、冷たい表情で店主に拳銃を突き付ける少女は、それら一切の兆候を見せずに移動したのだ。
どうすればこんな事が出来るのか分からない客達は、店主の運命よりも、目の前の少女に対しての畏怖の念しか、沸きあがらなかった。
静まり返った店内に、誰かが唾を飲み込む音がやけに大きく響き渡る。
「それとも、第三の選択でもしますか?」
ゴリ、っと音がしそうなほど更に銃口が強く押し付けられ彼女の指に力が篭ると、店主の額からは大量の汗と、きつく瞑られた瞼の隙間からは涙が流れ始める。
そして、店主が何かを言おうと口を開き掛けた時。
「――止せ」
男から横合いから手を出して彼女の銃に下げさせ、店主は開放された安堵からか、カウンターに体を突っ伏して盛大に息を吐いていた。
安堵する店主を尻目に男は彼女へと向き直り、静かに問い掛ける。
「おまえは何故、そこまでする」
もしも男の眼帯を取ったのならば、眉間に皺を寄せて困惑した表情を見る事が出来たに違いない。だが、生憎と目の周囲は眼帯に覆われて、まったくと言って良いほど見えない為、表情を伺う事は出来なかった。
但し、声色を除いて。
「何故って、さっき言ったじゃないのよ。お世話するって」
先ほど彼女が言った言葉を理解したのか、男は小さく「なるほど」と呟いて一つ大きく息を吐いた。
「一緒に居る、と言った理由は分かった。だが、繰り返しになるが、話す事は無いと、俺も言った筈だぞ?」
「あるじゃない。外での事が」
それを聞いた瞬間男は、また溜息を吐いていた。
「――何よ? その態度」
彼女は男にジトっとした目を向けるが、向けられた本人は彼女の顔など見る事は出来ない。
筈なのだが、僅かばかり頬の筋肉が動いた事から、声音で察した様ではある。
だからと言って男がそこで怯んだのか、といえば答えは否であった。
更に大きな溜息を吐き、やれやれ、といった感じで肩を竦めながら首を振っていたのだから。
「何よっ! 何なのよっ! 言いたい事あるなら、言いなさいよねっ!」
彼女は彼女で馬鹿にされたとでも思ったのか、男の態度に激高していた。
そんな彼女を無視して男は店主に向き直ると、先ほどからカウンターに載ったままの一万テソ札を店主の方へと押し出す。
「え? あ? あの、これは……」
困惑した表情の店主が、カウンターの上に置かれた一万テソ札と男の顔を交互に見ると、分かっている、と言わんばかりの声音で男が告げた。
「この女があんたにした迷惑料込みだ」
「し、しかし……」
それでも手を伸ばさない店主に対して男は微かに笑みを零しながら、
「また来た時に、何か旨い物でも食わせてくれれば、それでいい」
男の一言で許された事を悟った店主は、不安そうな表情から一変して、喜びを満面に上らせていた。
「そ、そういう事でしたら、喜んでっ!」
安心した店主は、笑顔でカウンターの上の札に手を伸ばし前掛けの中へ仕舞い込む。
ただ、男と店主がそんな遣り取りをしている間中、彼の後ろでは彼女が「こらっ! 何無視してるのよ!」とか「あ! ちょっとあんた! 何てことしてんのよ! あたしがせっかく取り返してやったのにっ!」などと叫びながら、男の服を引っ張っていた。
尤も、彼女が何故そんな事をしているのかというと、男に上手く抑えられ前へと出られないからなのだが、男は微塵も動かなかった。
「それではな」
軽く片手を上げて去る旨を告げると店主に背を向けて、扉へと足を向け大股で歩き出していた。
「あ! こら! ちょっと待ちなさい! 待ってってばっ! あたしを置いていかないでよっ!」
彼女も慌ててその背を追い掛けて行く。
そんな彼女を引き攣れて店を出て行く男の背中を眺めながら、
「流石と言うか何と言うか……。見えないってのはある意味、凄えんだなあ。俺にはあんな真似、出来ねえわ」
客の一人はそう呟き、男の態度に微妙な感心を見せていた。